ジライヤの回想録

だんだん下に続きます。これも写真が次々に入るので重くなるかも…。


前書き

   ぼくが死んだ時は皆さんのお悔やみの言葉や俳句、DORAおばさんへの励まし、たくさんありがとう。
   三途の川の向こうで、ぼくは小慈郎母さんやパピやチビ、慈郎に出迎えてもらいました。
   ところが行った時が時だったので、「ジャムさんやトラ君、キョン母さんのお供で、DORAおばさんの所に行くぞ」とパピの親方に言われて、すぐにまた焼津に来ていたんです。ぼく達動物は人間みたいに閻魔様の裁判なんか無いからね。あっ、ととろ達オチビさんが居ないのは、とっくの昔にまた生まれ変わって行っちゃったからだよ。
   行ったばかりで戻って来たぼくは化け方が下手だったので、DORAおばさんに見つかって、「あんたはパソコンができるんだから『回想録』を書きなさい」って言われちゃったんだ。「今は親方のお供で修行中だから」って言ったんだけど、「どうせ8月も来るでしょ」と言われました。
   もちろん今月もパピの親方はミーさんのお供で焼津だからね。Oばあちゃんも初めて焼津に帰ってくるし。そんな訳で、すぐに全部は書けないけれど、ぼくの回想録を書こうと思っています。


   ぼくが生まれたのは1992年5月1日。養子に行った茶々丸とクーとクロン、ぼくの4匹兄弟で、小慈郎母さんの初めての子供達だったんだ。黒猫が2匹、茶トラ猫が2匹、茶々丸はぼくと違って足先や口の周りお腹が白かったけどね。

   生まれたのは茶の間の押入れにおばあちゃんが入れてくれたバスタオルの上。でも、小慈郎母さんはそこが気に入らなくって、2日後にはぼく達を順々に咥えて客間の押入れに引越しをさせたんだ。
   お休みで来ていた十勝のお兄さんは何も言わなかったけど、DORAおばさんが「そこはだめ」って言って、僕たちはすぐにDORAおばさんの部屋の押入れの1Fに、ビニールシートとダンボールとバスタオルを敷いた家に引っ越したんだ。

  しばらくはそこで僕たちは育った。じきに自分で歩けるようになると、押入れの前のDORAおばさんの鏡台の下も、ぼく達の部屋になった。
   家には小慈郎母さんだけでなくて、パピの親方やチビも居たけど、歩けるようになると皆が面倒を見てくれた。パピの親方にあまり五月蝿くすると怒られたけど、チビは狩を教えてくれた。はじめは小さかったから、その場でじゃれるだけだったけど、だんだん走り回ったり、カーテンによじ登ったり、揚句の果てに子猫同士で爪が絡まって、クーやクロンは目を怪我してしまったりもした。もちろんDORAおばさんは慌てて獣医さんに連れて行ったよ。実はぼくも煮干の骨が口の中で刺さって、同じ頃に獣医さんに連れて行かれたんだ。

   家の中を走り回れるようになった頃、茶々丸がTANUKIおじさんの教え子の女の子にもらわれて行った。始めはだれが行くか決まっていなかったんだけど、彼女とすぐ下の妹さんがぼく達を見に家に来たんだ。ぼくは家に居たかったからTANUKIおじさんの机の後ろに隠れちゃった。クーも愛想の良いやつなんだけど、顔が怖いから振られちゃった。彼女達の家は女の子の3姉妹。だからお父さんの味方に雄が欲しかったのでクロンは選外。という訳で茶々丸が行く事になったんだ。犬もいる家で仲良くやっていたようだよ。この家で茶々丸はランという名前をもらったんだって。

   そしてぼくらは庭にデビューした。始めは玄関の周りだけ。それでも家の中とは違う広い世界にぼくらは大ハシャギしたんだよ。だんだん庭の木の間でカクレンボをしたり、待ち伏せ遊びをしたり、ぼくらだけでも良く遊んだけど、チビが「これは猫の狩の基本なんだよ」って、遊びながら色々コツを教えてくれたんだ。小慈郎母さんだって、チビと比べればまだまだ若くて経験が少ないから、チビの生徒だったんだ。
   だけど、ぼく達はまだ土を引っかいたり木に爪を引っ掛けたりそんな事ばっかりやっていたなぁ…。

   ぼく達はたいてい3匹一緒。庭の次は裏の畑に進出した。パピの親方お散歩のリードの廻りで、小慈郎母さんやチビも一緒に畑の野菜の間でカクレンボ。パピの親方も時々「DORAおばさんにナイショだよ」って出かける事があったけど、そういう時も付いて行ったりして、だんだん周りを覚えていったんだ。
   そうそう、おじいちゃんとおばあちゃんはクーとクロンの見分けが出来なくて、DORAおばさんが首につけた鈴で、クーは『青鈴』クロンは『赤鈴』って見分けていたっけ。でもクーは鈴が嫌いで、すぐに取っちゃった。その後は、もちろん鈴をつけているのがクロンだったわけさ。

   学校の校庭をずうっと行ったら新幹線の真下に出た。隣のチビの飼主さんに「遠くまで来てるね」って言われちゃった。
   行動半径が広くなると、「どこへ行っちゃったんだろうね」とDORAおばさんが、探しに来るし、お夕飯の時は「パピ、チビー、小慈郎、クー、クロン、ジライヤー」とDORAおばさんが大声で呼ぶので、ぼく達はその声のする方を目指して帰って来たのさ。
   だけど、翌年の2月、大人になる頃には順番に獣医さんで手術。ぼく達は大人の世界にデビューしそこなったんだ。

   ぼくは若い頃お腹が弱かったんだ。DORAおばさんはぼくが上手に香箱を組まないで、いつもライオン座りをしているので、肺も弱いんじゃないかと心配していたんだ。実はどっちだかぼくもよく分らないけれど、咳き込んじゃ吐いて、DORAおばさんが心配をして獣医さんへ連れて行かれた。注射と輸液をしてもらって、時にはお腹に優しい缶詰を買ってもらったりした。あまり美味しくなかったけどね。でも皆が手伝って食べてくれたから…。
   周りにたくさん家も建ちだしたけれど、まだまだ遊ぶ所はたくさんあったよ。でも、他所の猫も入って来るので、パピの親方はけっこう大変だったんだよ。ぼくらはまだ小僧っ子だから、あまり役に立たないし、DORAおばさんが気が付けば、パピの親方と一緒に行ったけど、そうでないとパピの親方が怪我をして帰ってくる事も多くなってきたんだ。
   そうそう、多分この位若い頃、ぼくは自分の頭からしっぽの先よりも長いアオダイショウをやっつけた事があるんだ。もちろん重かったけれど家まで引っ張ってきたよ。さすがに誰もさわらないで、庭で骨の標本ができた!あの夏も暑い夏だったなぁ…。

   そして次の年、94年の10月25日にはみゆがやって来た。1晩中家の周りでミーミー鳴いていて、ついにおじいちゃんに家に入れてもらったんだ。そして、パピの親方がOKを出したので家の一族に加わったんだよ。それまで小慈郎母さんとクロンがおじいちゃんの所の猫だったんだけど、みゆが入り込んだので、クロンはDORAおばさんの猫になったんだ。だから今でもクロンとみゆは仲が悪いのさ。そして、クーのやつは何時もぼくにくっ付いてくる。なんと言ってもDORAおばさんの一番近くにいるのはパピの親方だからね。そのパピの親方の側にチビとクロン、ぼく達は勝手にそのあたり、小慈郎母さんとみゆはおじいちゃんの所と住み分けていたんだよ。
   みゆが来た頃、ぼくは1泊の修行に出た。DORAおばさんは「溝で溺れたか、車に轢かれたか、はたまた迷子になったか」とさんざん心配したらしいけど、ちょっとその辺を見てまわって来ただけさ。

   実はこの頃、DORAおばさんは忙しかったんだよ。Oじいさんが肺ガンで入退院を繰り返していたし、家のおじいちゃんも前立腺の手術で入院したし、その後で看病疲れの家のおばあちゃんが帯状疱疹で入院するし。「自分が病気で通うより良いけどさ」と言いながら、1年間ほとんど毎日、市立病院へ行っていたんだ。
   その上この年の暮れあたりからチビが病気で痩せてしまった。クシャミと青っ洟。でも食べるのは大好きで、心配したDORAおばさんは、人間のおかずの中から食べられそうな物を、一生懸命チビに食べさせていたんだ。だから「さっき鹿のお刺身食べちゃった!」とかよく言っていたなぁ、チビは。獣医さんでお薬ももらっていたけど、蜂蜜やバターで薬をこねて口に入れられると「まず〜い」と逃げ回っていたよ。
   95年はお正月のすぐ後で阪神大震災。そして3月20日、東京で地下鉄サリン事件が起きた日にOじいさんも亡くなった。悪い事ばかり起こったこの年の7月、チビもとても具合が悪くなった。
   チビの額の真中に膿があふれて穴があいた。DORAおばさんはもう獣医さんには連れて行かないで、カモミールのドライフラワーを入れたお湯で布を絞って、毎日チビの傷を拭いていた。でもとうとう7月11日のお昼過ぎにチビは死んでしまい、ぼくらが遊びから帰ってきた時には、おじいちゃんがお墓に埋葬してしまっていた。

    秋にはクーのやつが血尿。パピの親方が長年FUSで苦しんでいるから、DORAおばさんはそのまま獣医さんへ連れて行った。しばらくはまた美味しくない治療食を皆で食べる事になる。クーが治るまでか、DORAおばさんが面倒になるまでね。
   年末には車がCR-Vに変わった。DORAおばさんはニコニコと試運転と称してはドライブ。それでも1月中にみゆの手術は忘れずにした。そのみゆは抜糸の後でハンスト。オチビさんのみゆのハンストはいささか気になったけど、残りものはみんな食べてやったさ。いまだに元気なんだから、大丈夫だったんだよ。
   夏にはDORAおばさん達は慈郎にお留守番を頼んで、東北へドライブ旅行に行っちゃった。だからぼく達も少し夜遊びをしたんだ。

   そして、ぼく達の遊び場だった裏の畑で工事が始まった。また家が建つんだって!それがすぐ裏の2件。奥っ側の家にはパルちゃんというよくほえる犬も来たんだ。ムクムクしていて今でも元気だよ。そのまた奥の家の犬がクッキー。筋向いのルナちゃんの息子さ。彼は時々家に遊びに来て、庭を走りまわっていく。「追いかけっこをしよう!」って誘わなければ良いやつなんだけどな。
    そう言えば、この頃みゆの兄弟分もこの工事現場によく来ていたなぁ…。そっくりの毛並みなんだけど、みゆの2倍はありそうなやつ。でもみゆと違って性格は遠慮深かったけどな。

   97年の春にパピの親方はこれが最後の予防注射に獣医さんへ行った。ぼく達だってもう5才、中年になったんだから、ずっと前から生きてきたパピの親方はもうかなりの年、獣医さんで興奮したり注射をしたりするデメリットの方が病気にならないメリットより大きくなったとDORAおばさんも獣医さんも思ったんだって。
   この夏休みに慈郎がお散歩で他所の犬にお尻を噛まれる事件も起きたんだ。ぼくらにとっては爺慈郎だからね。パピの親方はその慈郎の親方なのだから大したものさ。
   だけど、この年の秋にDORAおばさんがマタタビ香を見つけて買ってきた時に、喜んだのはこのぼくとパピの親方だったんだよ。あれは興奮する香なんだ!


   ところで、Oじいさんが亡くなってしばらくが過ぎ、この頃からOばあちゃんの身体があっちこっち悪くなってきた。夏前には胃潰瘍でしばらく入院、冬には、DORAおばさんがTOPPOさんの家に行っている時に、お風呂場で転んで立てなくなって、また入院したりした。それでDORAおばさんはマーミの結婚大作戦を敢行した。

   まず98年のお正月、ジュンちゃんも誘って横浜のお姉さんの所へ年始まわり。ゲン良くスタートを切った。しかし、正月が終った頃にみゆが口の中を腫らして、小慈郎母さんの予防注射の時に、一緒に獣医さんへ連れて行かれた。その代わり2/22の猫の日にはさかなセンターで大きな鮪の節を買ってもらった。良い事と悪い事は代わる代わる来るのさ。

   3月の末には喧嘩で噛まれた傷が膿んでしまった。しばらく誰も気がつかなかったけど、膿が毛皮を突き破って出てきたのでDORAおばさんはビックリ。獣医さんに通う羽目になってしまった。しかも、傷をなめないようにって、大きなエリザベスカラーを首につけられちゃった!猫用のじゃ窮屈で、小型犬用も苦しくて、結局普通の犬用だったんだよ。しばらく通った後は、薬をつけて滅菌ガーゼで傷を隠すように言われたんだけど、なかなか治らなかった。あんなへんてこな物をつけたんじゃ外にも出られないし…。時々DORAおばさんが気の毒がって、パピの親方のリードをつけて庭に出してくれたけど、クーのやつが面白そうについて来るし…。エリザベスカラーは無事に4月半ばに獣医さんに帰したけど、気になって傷をなめ剥がしちゃって、結局、新しい皮膚ができたのは5月になってから。それでも怪我をしたお尻の所だけなかなか毛が生え揃わなくて、TANUKIおじさんが嬉しそうに「まだはげてる」って失礼な事を言って喜んでいたんだよなぁ…。

    ぼくがこんな苦労をしている頃、十勝のお兄さんは結婚準備。彼女の故郷の岡山で式をあげる事になったので、6月の初めにDORAおばさんとTANUKIおじさんも結婚式に出かけた。この年の春は別の和賀家のいとこ2組も結婚したので、DORAおばさんはそのお祝いと取材も兼ねちゃって、皆に会って来た。
   帰って来てからは、本格的にマーミの世話焼き。まず仲人を引き受けて下さったマーミ達のテニスの先輩にご挨拶。先方からも出かけにくくなっているOばあちゃんに気を使って訪ねてきてくれて、DORAおばさんはおにぎやかしのお手伝い。さらにジュンちゃんの家にも皆で非公式のご挨拶に行って、7/28に無事に結納。11/21の結婚式を待つばかりのはずだったけれど、8/4にOばあちゃんが脳溢血で倒れた。この時もDORAおばさんはTOPPOさんの家。TOPPOさんや慈郎もおっとり刀で駆けつけた。
   幸いに命に別状はなく、しかもジュンちゃんも仲人さんも脳出血の体験者!しかもこの仲人さん福祉機器の会社にいる。アドバイザーに事欠かない。とりあえず救急で運ばれた市立病院で療養。症状の安定した10月の初めにはリハビリ病院に転院する事ができた。その頃に義兄さんまで入院しちゃったけど、DORAおばさんはマーミの尻たたきを怠らず、家の畳替えや障子や襖の張替えなんかもさせて、ジュンちゃんやジュンちゃんのお母さんも一緒に大掃除も済ませて、とりあえず格好がついてきたらしい。そう言えばこの年も10月の初めまで慈郎も居たんだよね。

   DORAおばさんが張り切ってマーミの世話を焼いている間にクーが足の怪我。足を引き摺って歩いているのを発見されて、獣医さんへ。何日か通って注射をしてもらう。喧嘩傷だもんな。
   11月に入ると披露宴をするホテルとの打ち合わせやら教会との打ち合わせやらで、DORAおばさんもおしゃれをして走りまわっていた。だけどこの頃からパピの親方の体調が悪くなってきて、DORAおばさんはパピの親方が食べるマグロや鰹のお刺身を、ちょっとだけずつ買って来ていた。もちろんぼく達にも平等におすそ分けがあるんだよ。
   とにかく、11/21めでたく結婚式を迎えることができた。
   Oばあちゃんは前の日にマーミの友達の美容師さんがわざわざリハビリ病院まで行って髪のカットとセットをしてくれ、TANUKIおじさんの親友のお迎えでリハビリ病院から車椅子で披露宴会場のホテルまで来て、TOPPOさんが着替えを手伝ってくれて、ジュンちゃんの美容師さんが髪をきれいに撫で付けてくれた。そして、義兄さんも何とか調子を落ち着けて退院。結婚式に間に合った。TANUKIおじさんにとってはホッとするニュースだったよね。
   一段落がついてから仲人さんのお宅へジュンちゃんのご両親と挨拶に行って、暮にはジュンちゃんの実家で忘年会。お正月にはOばあちゃんも外泊で家に帰ってきた。 

   マーミはめでたしのこの年末、パピの親方の体調はかなり悪くなっていた。でも頑張り屋のパピの親方は何にも言わない。暖かい日はどっこいしょと腰を上げて散歩に行く。クーが気を利かして付いていたりする。夜はDORAおばさんが買ってきたお刺身をおもむろに食べる。「あんなものはネコの食い物じゃないぞ」と言っていた塩鮭や鯖の麹漬まで「冥土の土産」とか言いながらDORAおばさんにもらっている。
   12/29は暖かい午後だった。おばあちゃんと散歩をした後で、「ちょっとな」とパピの親方はまた玄関をみゆに開けさせて出て行った。親方のテリトリーのある家の西の方へ、DORAおばさんもクーも気が付かない間にトコトコと歩いていく。近所の犬達が一斉に親方を見ている。その犬達よりもずっと昔からここは親方のテリトリーだったんだ。
   その翌日から親方は動けなくなった。おじいちゃんの縁側のパピの親方が寝ている所に、時々DORAおばさんが様子を見に行くけど、何にも言わないし何も食べない。「年末年始に死なないでよ」とDORAおばさんが言っていたら、律儀な親方は1/1の終った直後まで生きていた。1/2におじいちゃんがチビの隣にお墓を作ったんだ。

   この1月はインフルエンザの流行った年で、TANUKIおじさんも大風邪を引いて寝込んじゃった。そして、季節はずれの2月に誰かがお腹から虫を出して、皆で虫下しを飲まされた。Oばあちゃんも膝の手術をしたりして、お医者さんに縁のある時だったね。Oばあちゃんの飼い猫のミミは、家がきれいになり過ぎたのが不安で、そこいら中に署名をしてジュンちゃんに「もう中に入らないで!」と言われてしまった。でも大丈夫。マーミの事務所もあるし、義兄さんの離れもあるし、広い物置兼車庫もある。庭も広いからテリトリー十分で、悠々自適。このミミは手術をする時に家に1度泊まった事があるんだよね。
   夏休みにはDORAおばさん達は「日本縦断!」と言ってその頃富山に居た従妹の家まで遊びに行ったんだよ。焼津から新湊まで、太平洋から日本海までさ。
   ぼくは9月にしばらく外で遊び歩いていたら、耳の中がダニで真っ黒けになって痒くなって、家に帰ってきたんだ。DORAおばさんに耳掃除をしてもらったけど、なかなか治らなくて獣医さんに連れて行かれた。獣医さんも綿棒でグリグリ耳掃除をしてくれたけど、ちゃんと治らなくてね。ぼくは耳の白いから目立つんだよね。結局それからず〜っと「ジライヤ、耳掃除」とDORAおばさんに呼ばれるようになっちゃった。耳掃除はパピの親方以来だって。他の皆は何で大丈夫なんだろう?

   翌年は世紀末のac2000年。お正月前にリハビリ病院を退院したOばあちゃんは、市内の施設に入った。DORAおばさんはドライブの醍醐味がなくなったものの、近くなってヤレヤレ。これでほとんど毎日様子を見に行ける。
   ところで今度は慈郎が年を取って加減が悪くなった。心配になったDORAおばさんは慈郎が食べそうなお見舞いを持って横浜へ行った。「大丈夫、よく食べる」と安心して帰って来て、またよく食べたものを送ってあげたりした。
   そしてさ、この夏にようやくDORAおばさんがパソコンを買ってインターネットに繋げたんだよ。それまでTANUKIおじさんのWin95があったんだけど、日本語が上手じゃなくて、DORAおばさんは持て余していたんだよね。TOPPOさんの夏休み、「お互いに見納めかも」とDORAおばさんは慈郎とTOPPOさんを迎えに行った。でもさ、本当は1年早くパソコンをやりだしたTOPPOさんに色々教えてもらいたかったんだよ。
   でも、TOPPOさんもDORAおばさんもそれぞれに忙しくて「祭りも花火もこれからなのに…」という所で横浜へ帰ってしまった。この時にメールは実践練習とばかりにTOPPOさんから火星先生を紹介されたんだよ。「阪神と猫の話題で気が合うだろうから」ってさ。火星先生の所にも家猫が3匹、外猫が沢山居るんだよ。

   慈郎は暑い夏を無事に越せた。ところが9月にはTOPPOさんの出張が入っている。3日間、今までなら近所の方に餌だけ頼んでおけば良かったけど、弱っているのでそれも心配。結局DORAおばさんが迎えに行って焼津に来る事になった。でも、ちょっとだけ来るんじゃ、慈郎の体力が回復しない間に帰らなくちゃならないので、少しゆっくりしていく事になった。その間の話が『小慈郎通信』なんだよ。
   慈郎が無事に帰った後、クーとクロンとぼくの予防注射の日が来た。おばあちゃんは寝込んでいる時だったので、DORAおばさんはおじいちゃんに「掃除と洗濯が終ったら獣医さんに行くから、3匹を出さないで」って言っていたんだ。だからおじいちゃんにも「出ないの」って戸を閉められていたんだ。だけど、クロンがおばあちゃんに窓を開けてもらって逃げちゃった!獣医さんに「行きます」って電話をした後だったし、先生も注射の準備をして待っているのに、とうとうクロンは捕まらないで、ぼく達2匹で行ったんだ。もちろん夕方帰って来たクロンはそのまま獣医さんへ注射に行ったけどね。

    11/6の夜、小慈郎母さんは家に帰って来なかった。「小慈郎は要領が良いから」とDORAおばさんはあまり心配をしていなかったけれど、翌朝「行ってきます」とTANUKIおじさんが出て行ったとたんに「小慈郎が死んでいる」とケータイで電話を掛けてきた。「えっ、何処!」とDORAおばさんが電話に怒鳴っている間に、おじいちゃんが道路に出て行った。
   おじいちゃんが連れて来た小慈郎母さんは、頭をやられていたけれど、冷たく固まって他はきれいだった。DORAおばさんがバスタオルにくるんで、おじいちゃんがパピとチビのお墓の側にお墓を掘った。
   メールが使えるようになっていたDORAおばさんは、もちろん小慈郎母さんが死んだ事を知らせるメールを打ちまくったんだよ。

   暮にはTOPPOさんがネズミのおもちゃをくれた。本物の小ネズミみたいで面白いの。早速皆のお気に入りになって、投げ飛ばしたり捕まえたりしたので、あっという間に尻尾は千切れるし、皮は剥げるし…。でも皆が気にいったので、DORAおばさんもホームセンターでお年玉に同じのを買ってくれたんだ。時々火鉢の下とか冷蔵庫の下とかに隠れちゃうけれど、また誰かが探し出して遊ぶんだ。

   無事にお正月を越した慈郎も、3/8の午後、TOPPOさんが帰ってくるのを待って死んでしまった。ずっと前から「お墓は焼津のパピの隣」と言っていたけれど、急にそうもいかないので、ペットの葬儀屋さんで火葬にされた。ぼく達の爺慈郎らしく、猫がたくさん会葬に来てくれたんだって。ところで、3/13、TOPPOさんの妹さん家の飼い犬チビも老衰で死んだのだって。付き合いの良い連中だ。
   ちょうどこの頃って、家のペンキの塗り替えにペンキ屋さんが来ていたんだ。家の周りに足場を組んで、他が汚れないようにビニールを巻いて、何だか変な感じだったんだよね。 

   そして、4月からはTANUKIおじさんが総代を引き受けた。何だかんだと行事が入る中で、DORAおばさんはホームページを作ろうと何冊も参考書を買ってきた。さんざん苦労してこのホームページが出来ていくのは、ぼく達がDORAvsPCで実況したとおりさ。
   ホームページも無事にで来たところで、ぼくはちょっと修行に出た。7/10に出かけて、帰って来たのは7/16。どこに行ったかはナイショだけど、DORAおばさんはあまりぼくが帰って来ないので、近所を探し回っただけでなく、警察とか市役所とか保健所なんかにも聞き合わせた。うちに帰って来たらぼくの手配ポスターが家の前にあってビックリしたよ。DORAおばさんがさんざん苦労してパソコンで作ったんだって、クーが教えてくれた。
   とにかくぼくが帰って来たのに安心して、DORAおばさんは月末に北海道へ遊びに行ったんだ。
   この夏にはTOPPOさんもお祭りと花火の時に焼津に来た。でも慈郎のお骨は横浜でお留守番。今度はTOPPOさんのお母さんの体調が余り良くないので、花火が終るとTOPPOさんも急いで横浜へ帰って行った。

   そのTOPPOさんのお母さんも秋には元気を取り戻して、快気祝い方々一緒に食事をしようとDORAおばさんも誘われて横浜の町に出た。「町が歩けるほどお元気になって、良かった良かった」とDORAおばさんが帰ってきた次の日の晩、Oばあちゃんが亡くなった。お葬式や何かでTANUKIおじさんもDORAおばさんも忙しかった。もちろんTOPPOさんもお葬式には来てくれた。
   そして年の暮れ、DORAおばさんは忙しかった自分へのボーナスにデジタルカメラを買った。みんなDORAおばさんのカメラに追いかけられるようになったんだよね。
   年の暮れには、たまたま用事で来たTANUKIおじさんの知っている人が、「猫がたくさんいるなら」と猫缶をたくさんくれた。でもさ、同じのだけじゃつまんないから、他のも買ってよ。「いいお年玉じゃない」ってDORAおばさんに言われて、ぼくが一番たくさん食べたけどさ。

   そして年が開けて、森町のマラソン大会に焼津のみなとマラソンの宣伝に行った帰り、DORAおばさんは法多山でおみくじを引いた。出たのは『凶』。でもとりあえずは何も無くて、2/22の猫の日にはマグロを買ってもらった。春休みにはTOPPOさんが来て、慈郎は写真だけ付いて来た。
   春にはおばあちゃんも元気で天王寺へ行った。ところが途中でダウン。天王寺は叔母さん1人で迷惑になるので、岡山の叔父さんの所で療養。今年の4/29で金婚式だったのに、家に帰って来れなかった。結局、連休が終ってから日比の叔母さんに送ってもらって帰って来た。
   6月になって今年のノミ取りは首輪じゃなくて液にした。首の所に垂らすとノミが付かないんだって。でもクロンはかぶれて痒がっていた。

   そして、7/6。いつもの日だったんだよ。良い天気の日でぼくは夕方までテリトリーで遊んでいた。「ご飯だよー」ってDORAおばさんが呼んでいたけど、まあノンビリ帰るかなぁ…、なんて思っていた。とにかく1つ大きい道路を渡るんだよね。最近車が増えたんだ。今まで線路を越していなかったのが繋がったんだって。ちょうどその日は橋で工事をしていて、車の通り方がいつもと違っていたんだ。タイミングを見て渡ろうとした時に、橋の上から下ってきた車とぶつかっちゃった。近所の人が見ていて、すぐにDORAおばさんを呼んで来てくれたんだ。だからDORAおばさんが迎えに来た時、ぼくは厳密にはまだ生きていたんだよ。「今日お刺身があったのに、ばかだなぁ」がDORAおばさんの第一声だった。
   それからぼくを抱き上げて皆にお礼を行って家に帰った。玄関の上がり框でぼくをずっと抱いていてくれた。クーやみゆやクロンもお別れを言いに来た。そのうちにパピの親方が迎えに来てくれた。「毛皮から抜け出れば良いんだよ、身軽になるぞ」って言われた。そして、小慈郎母さんやチビや慈郎も来てくれた。その他のぼくの会った事の無い一族の猫達も会ったよ。
   そんな訳で、ぼくは2002年7月6日の夜に三途の川を渡ったんだ。


    お盆の特集だったのがお彼岸も過ぎちゃったじゃない!ぼくが編集長でいないとダメなのかなぁ…。
   でも、三途の川の向こうで皆と元気に暮らしているよ。誰かがぼく達の事を覚えていてくれれば、ぼく達はずっと生き続けるのさ。
   皆は慌ててこっちに来なくても良いからね。ぼく達はず〜うっと待っていられるんだから…。じゃあね。 by ジライヤ