井田久義(S34農卒)     故 橋本守先輩を送る別れの言葉

   梅雨が明けようとするこの19日、私どもが敬愛してやまない故・橋本守氏が83年の生涯を閉じ、静かに逝ってしまいました。誠に痛恨の極みであり、哀惜の情、禁じ得ません。謹んで哀悼の誠を捧げます。
   かえりみますと現在の初亀酒造(株)は、静岡市から岡部の里へ純粋な水を求め、『足名屋』の屋号で酒造を始めて150年余。代々特色のある酒造の技術を伝承し、第4代目の社長である故・守氏の時代に幻の大吟醸酒で名高い「亀」を世に送り出した事は万人の知る処であります。
   又、あなたは資性温厚にして篤実。社会奉仕精神と指導力は抜群。その為、地元の人々から懇われて町議会議員として1期、そして永年、町体育協会長並びに町教育委員や社会教育委員を歴任し、教育行政に多大な御功績を残されました。心から感謝申し上げます。
   又、あなたの周りには常に人が集まり呼名(呼び名)もさまざまでありました。「橋本さん」「社長」「守(まも)ちゃん」「初亀さん」とどめは「亀」…となりますが、どの呼び名でも「呼び名と身体」がぴったりする不思議な魅力を持った男でした。
   又、私事に亘り恐縮ですが、私には高校・大学の大先輩として20代の頃より目を掛けていただき御厚情にあずかりました。特に40代に入り地方自治発展に目覚め「地方がよくなる事が国も良くなる」と理想をかかげ県議会議員として、又、その後は岡部町長として勤め上げ、この度、藤枝市との合併を成就させ退任できましたのも故・橋本守氏、あなたのお力添えがあってこそと感謝いたしております。
   又、あなたは晩年、最愛のみちよ令夫人に先立たれ、私どもには知られない数々の苦痛もあったことと存じますが、ご家族さまや介護施設の手厚い介護を受けられて苦難を乗り越えて参りました。願わくは黄泉の旅がご安泰で、愛するみちよ夫人の元へ無事お着きになりますようお祈り申し上げます。
   ここに親しくあなたさまのご霊前に立てば万歳去来して胸に迫り多くを語るところを知りません。ただわずかに生前の御功徳をたたえ、ご冥福を祈りお別れの言葉と致します。  合掌     平成20年7月23日  (H22年 No.18)
   初代志太常磐松会会長・橋本守氏(S25化卒)は7月19日にご逝去されました。

北原哲郎(S49工卒)     景 観

   21世紀になり「美しい国」というコンセプトが打ち出され、景観に対して人々の目が向けられてきました。そのような中、平成16年に「景観法」が施行され、人々の生活に「うるおい」と「やすらぎ」をもたらす取り組みが進められてきています。景観は地域ごとに独自性がありますが、それらは自然や歴史、生活様式、産業などを反映した風土から見出されるものであり、地域の住民がその土地の個性ある風土をよく理解し、景観として形に表し遺す用に参加することが重要な要素となります。良好な景観はそこで暮らす人々の生活そのものの中から生まれるものです。
   景観には様々な取り組みがあり、歴史的町並みの保存、良好な眺望を確保するためのの建築物の高さ制限や色彩の制限などがあります。近傍では、宇津ノ谷宿の町並み保存、清水港の周辺では色彩計画を策定し、港というイメージとマッチするように取り組みを行っています。
   景観については、高層マンションの建築により眺望が阻害されるなどして、裁判にまで発展した例などがあります。美しい風景、わざわざ見に行きたいと思う景色、街並み、構造物などは新しい社会資本になると考えられ、単に美しい街並みをつくるという意義にとどまらず、ライフスタイルの転換、新たな産業が生まれる可能性を秘めています。
   また。街の景観の評価が地価に反映されるようになれば、自分の住む町に積極的に投資するようになり、金銭的な投資だけでなく、「ゴミを捨てない」「街をきれいに手入れする」といった時間や労力の取り組みも期待できます。景観は単に美醜や好き嫌いで評価するものでなく、地域の価値を高め、住民に利益をもたらす「財産」です。自治体の取り組みとしては、良好な景観を保全・創出するため景観計画を策定し、監督官庁の協議・同意がが整えば、「景観行政団体」となり、地域風土に合った個性ある景観計画や施策を独自で進めることができるようになります。志太地域にも残したい風景、保存した良構造物や街並みなどは各所にあり、地域に根付いた風土から生まれる景観や歴史文化から生まれる景観、また良好な自然環境など、それらを保全する事が地域に住む我々の責務ではないでしょうか。
   良好な景観形成は、魅力ある人づくりと魅力ある地域づくりの根幹をなすものです。(H21年 No.17)
   ※北原哲郎氏は平成22年11月28日に逝去されました。

北村正平(S44工卒)     初 夢

   「1年の計は元旦にあり」とはよくいったものである。思いを年の初めに凝縮し、自らを納得させて1年を抱負することは大変意義深い事である。その思いが初夢となって描かれれば本物である。
   江戸時代の中ごろまでは元旦の夜に見る夢を初夢といったが、すべての事始が正月の2日なので、やがて2日の晩の夢を初夢とするようになった。昔の人々は良い夢を運んできてもらうために、また反対に悪い夢を見た時それを運び去ってもらうために、宝船の絵を枕の下に入れて寝た。
   初夢といえば、「1富士、2鷹、3なすび」ということになっている。だがその理由についてはあまりはっきりしない。
   富士山は日本一の山、鷹は鳥の王、なすびは成すに通じるからという説もあれば、それは駿河の国の名物をいったもので、徳川家康が駿河で高いものは一に富士山、二に愛鷹山、三になすびと言ったからとも。また、富士は曽我兄弟の仇討ちの場所、鷹は浅野家の紋所で赤穂四十七士の仇討ち、なすの産地伊賀は荒木又右衛門の仇討ち場所の三大仇討ちを並べたものだという説もある。とにかく、昔から富士山が一なのである。
   さて、私の見た今年の初夢は、平成21年春開港の「富士山静岡空港」から1番機に乗って颯爽と離陸する姿であった。いかにも静岡県行政担当者のつくり話のような夢であった。(H19年 No.15)

大塚善弘(S51化卒)

   正月、家でテレビを見ていたら昨年NHK大河ドラマ「新撰組」の続編「土方歳三 最後の1日」が放送されていました。新撰組副長の土方歳三が近藤勇亡き後の生き様を描いたものでした。榎本武揚率いる旧幕府軍に参加した土方は榎本と共に箱館政府の独立を夢見て「生きるため」に戦い、そして、五稜郭近くで倒れる。そんなドラマでした。
   その後の榎本は獄中生活の後、農商務大臣などを歴任し、のちの東京農大の創始者となります。五稜郭の時代、榎本と土方は同じ夢を見て、立場と考えの違いを超え、共に戦いました。そして、結果的には二人とも江戸・明治という時代を大きく変えていく礎になっていきます。大臣になった榎本は足尾鉱毒事件のとき、あくまで被害農民の立場に立ってベストを尽くし、そして責任を取って去っていきます。
   そんな生き方をしてきた榎本が農大や農大生に何を期待し、関わっていたのだろう。夢・自立・責任、そんな言葉が思い浮かびます。明るい話題の少ない昨今、我々に果たされた役割は大きいのではないだろうか?一杯飲みながらテレビを見ていて「今年こそは…」と考えた次第です。単純すぎるかな〜。(H18年 No.14)

小沢寅男(S23土卒)

   志太平野には栃山川を始め小石・黒石・木屋など多くの川がありますが、雨の時以外に自流は無く、常に流れている水は大井川用水です。
   大井川用水は以前は大井川の7つの取り入れ口から取水していましたが、現在では中部電力川口発電所の放水口から取り込み下流に導き、先に挙げた各河川に分水しています。
   また、何れも用排水兼用の川ですから、川に多くの堰や取水口があって、さらにここから分水した水が志太平野全域を潤しているのです。
   大井川用水は昔から農業用水としてだけでなく、防火・生活等地域にとって欠くことのできない水でしたから、水をめぐって多くの逸話(水争いが一番多い)が残されていますがその中の1つを取り上げてみます。
   元禄2年(1689年)徳川5代将軍綱吉から江戸城本丸の修築材・上野寛永寺根本中堂造営材確保の命を受けた紀伊国屋文左衛門は、大井川上流の井川や千頭で材木を伐り出し筏を組んで大井川を流下させ、今の島田市高島地先の水門から水路を掘って栃山川に流し込み、更に下って現在の藤枝明誠高校の処で木屋川を分流して、和田浜に送り江戸に海上輸送しました。
   紀文といえば嵐をついて紀州から江戸にみかんを運んで大儲けをした商人ですが、本当のお大尽になったのは此の仕事に成功したからなんです。
   此の時、高島地先の水門(後の木屋水門)から大井川の水が栃山川に流しこまれたことによって、元禄の当時で穫れ高4035石(605250Kg)面積400町歩の水田が実現したのです。
   志太平野の発展の原点はここにあったと云えるのではないでしょうか。(H16年 No.13)