私の農大予科時代     橋本 守( S24)

 

戦争の中での予科1年

   私が農大予科に入学したのは、昭和19年4月であった。東京は戦時体制一色、先輩学生はペンを捨て銃を取り出陣した。農大は渋谷の青山学院の隣、常磐松に本校があった。正門の左側に横井講堂とその奥、左右に木造二階、三階建ての校舎、研究室が上り坂に見上げるように林立していた。私達予科校舎は、池上線の雪ケ谷駅近くにあった。入学して間もなく渋谷駅周辺の民家を強制疎開のため、家の取り崩しの手伝いをさせられ、昼食は渋谷食堂の雑炊を食べた。
   二学期に入り、東京近辺の農家へ稲刈りの手伝いに行った。11月末に東京空襲が始まり、夜になると灯火管制、家の中の電燈の明かりが外へもれないよう黒い布でおおい、夜中の空襲警報のサイレンで防空壕へ駆け込んだ。当時私は中野の高台に下宿していた。空襲がはげしくなり、夜はB29が照明段を落下、昼間のように視界が明るくなりその後に、焼夷弾が雨のように投下され、またたく間に下町の夜空を赤く染めた。その後、東京は我が日本機の抵抗をものともせずb29の連日の爆撃にあい、戦局は益々激しく母校常磐松校舎は一夜の内に焼失した。

空襲の東京から岩手へ

   私達予科2年の6月に、その筋の指示に従い学徒動員にて岩手県東北種馬育成所で軍馬の飼育に従事した。連日の空襲で騒々しかった東京から逃れ広大な牧草畑や大豆、じゃがいも畑での作業、仕事を終え、岩手山を背に牧草を馬車に積み、西に沈む大きな太陽を眺めながら、馬をぎょし厩舎へ戻る気分は一瞬戦争を忘れさせた。雨天は寮でマージャン、大声で農大音頭、青山ほとり等を唄い青春をまぎらわした。

そして終戦、東京へもどる

   昭和20年8月15日正午、歴史的敗戦を森岡市民病院で迎え、ラジオで天皇陛下の「終戦の詔勅」を聞き、一瞬静まり、何とも異様な空気がただよい、張り詰めていた気持ちから解放され、複雑な気分になったのを覚えている。終戦となり、種馬育成牧場に別れを告げ、満員列車に乗り、一路帰郷、東京へ入ると一面焼け野原の町並みとバラックの家々、茫然と汽車の窓から眺めた。下宿に置いた机や本も全焼し、静岡の自宅へ帰り、両親共々元気にて再会を喜びあった。
   2学期も始まり、下宿は親戚の吉祥寺井の頭公園近くに落ち着いた。私達予科は馬事公園近くの機甲整備学校地の一部の(現農大第1高等学校)車庫を改造して机、椅子を持ち込み、吹きさらしの教室で授業を再開した。その後、大学本部は機甲学校本部跡の以前より膨大な土地への移転をした。自動車練習場のトラックを1周すると千メートル以上もあった。その内側は雑草と防空壕が各地に残っていた。現在は野球場等総合グランドが出来ていてる。収穫祭は全学の各科対抗の野外演劇が行われ、私達予科は「日本の夜明け」と題した出し物で優勝した。
   それから間もなく出征していた先輩が復員し学校に戻って来て授業を共にした。食糧や生活物資はほとんど配給制で、買出しやヤミの売り買いが横行し敗戦の苦しみを味わった。読書したくても本も少なく、神田の古本屋をあさり歩いた。
   戦時中の丸刈り頭から長髪に、マントほうば下駄、汚れた手拭を腰に下げ、哲学書片手に(当時予科生または旧高校生の出で立ち姿)渋谷、新宿街をカッポして歩いたものだった。
   こうして予科時代は本来一般教養を身につける年代であるが、授業は休講が多く、基礎的勉強はあまり出来なかった。しかし、勤労動員や下宿、寮生活、食料物資不足等、青年期に色々経験した事は、私の人生にとって大きな収穫であったと思う。

私の農大時代

   母校、東京農大は渋谷区常磐松(本校)と目黒区雪ケ谷(予科)にあった。昭和20年春、東京空襲と共に焼失し、私達予科2年は学徒勤労動員で岩手県小岩井農場と東北種馬育成所にて食糧増産に励んだ。そして忘れる事の出来ない昭和20年8月15日の終戦。帰京すると下宿は焼失してしまっていたので岡部の自宅に戻りしばらくの間待機した。
   戦後、新しい農大時代が各方面の努力によって現在の世田谷校舎に、翌年春、元機甲学校跡地に本校と予科が移転した。私の予科3年の時であった。しかし学校と云っても教室はバラックの車庫を改造し、机と椅子を運び込んでの授業でした。そして翌22年4月、学部(農芸化学科)に入学、当時はまだ都市ガスが無く、化学分析は電気コンロを使用したり、冬は電熱器で寒さをしのいだ。
   運動部は予科入学以来、蹴球部(サッカー部)に入部したが、当時のグランド内は雑草が茂り、防空壕の残骸で現グランドの中へは入れなかった。従って他校のグランドを借りて練習した事もあった。夏休みには先輩のお世話で長野市や伊丹市で合宿練習をした事もあった。農大サッカー部は当時関東大学サッカー連盟の二部であった。
   学部2年で卒業論文提出の為、当時醸造学会のオーソリティであった住江教授の研究室に入り指導を受けた。始めは先輩や助手の試験管洗い等をして、学部3年にて論文テーマを与えられ、夜遅くまで分析等をして、下宿へ戻ったことを思い出す。戦後の事にて遊ぶ処が少なく映画館は渋谷か新宿へ出かけた。マージャンは経堂駅近くで、学校が休講の時は、友人と朝から夜明かししてまで楽しんだ。
   卒論テーマ「糸状菌(かび類)の研究」で無事卒業が出来た。卒業後急に住江教授に呼び出され、東大の農芸化学教室にて各大学教授の前で論文発表をして冷や汗をかいた事を思い出す。
   50年前の学生生活を思い出しつつ。