会員通信
この欄は過去の『志太常磐松会たより』の『会員通信』のコーナーに書かれたものです。 当時書かれた形のままで掲載させて頂きます。 古いものから順次掲載していく予定です。 |
農学科同期会で 押尾啓子(S51農)
大学を出てから35年、卒業以来初の農学科同期会を昨年の5月に東京のホテルアジュール竹芝で行いました。北は北海道から南は九州まで、季節外れの台風がやって来るという雨模様の中を36名が集まりました。当時200名以上いた学生の中で女子は20名足らずでしたが、そのうち10名がこの機会に集まりました。
気の利いた幹事さんが当時流行っていた音楽のCDを流してくれて、学生時代にタイムスリップ。すでにお孫さんの写真を携帯の待ち受けにしている人もあり、初めは手探りでお互いを確認しながら話していましたが、最後は和気藹藹の会になりました。
我々の学生時代には大学というところは、学科の同期生全体が集まる機会はあまりありませんでした。その中で、あんな事があったねという共通の思い出はそうそう出てきませんでした。その中でまず、富士農場で行われてオリエンテーション、そしてやはり1年生の時の厚木農場での1週間泊りがけの農業実習などの思い出がありました。
2年生の夏に行った八丈島は確か生物の1単位分だった気がします。これは単位を取るつもりの人だけなので、全員ではありませんが数泊の合宿だったので行った人にはインパクトがある記憶のようです。
そして卒業前に行った女子だけの1泊卒業旅行。最近の子供達のように海外ではなく、ごく近場でした。そして20周年で集まろうと企画してもらった女子会。
懐かしい話が色々と出たひと時でした。
そして、5年後にまた集まろうと盛り上がりました。女子はその前に「60歳になったら赤いドレスで集まろうよ」とこっそりと約束ができました。(No.20 平成24年3月号)
会員通信 白石圭美(H10農 旧姓 増田)
こんにちわ。お元気ですか?
6・7年前になるかと思いますが、志太常磐松会でお世話になりました。ご無沙汰しています。
2月27日に青島秀夫先輩の青島醸造にお伺いし、酒蔵を見学させていただきました。
主人と主人の職場仲間の家族、私の妹で富士朝霧高原の牧場に嫁いだ家族で訪問しました。大人数で子供連れにもかかわらず、とても親切な応対をしていただき感謝の思いでいっぱいです。
青島先輩とは志太常磐松会でお会いして以来のことで、まったくお付き合いがなかったのですが、突然の電話で無理なお願いにもかかわらず快諾していただきました。
志太常磐松会のご縁で今回の訪問が叶ったと思っております。このようなご縁を頂いたこと、志太常磐松会の事務局でご尽力いただいている事に対し感謝申し上げます。
なかなか志太常磐松会の活動に参加する事がかないませんが、機会があれば参加したいと思っていますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
最後ですが、会の更なる発展をお祈りしています。(No.19 平成23年3月号)
北原哲朗さんのこと 大塚善弘(S51化)
焼津市役所の土木下水道部の部長だった北原哲朗さんが11月28日亡くなりました。私より1年先輩で小学・中学・高校・大学と一緒でした。知り合ったのは大学受験の時、同級生が先輩の所に泊って受験に行こうというのでついて行ったところが、てっちゃんの下宿でした。当時は先輩を頼って受験に行ったもので、てっちゃんが中学の時、同級生と同じ体操部だったので行ったものでした。その時もいまさら勉強しても変わらないよとマージャンか花札をやらされたように思います。結果は合格したから良いようなものですが、ほんとええかなーと心配したものです。その後、大学キャンパスで測量の実習をしているのをよく見ましたが、卒業してからはご無沙汰でした。
それが市議会議員になったら役所でまた会うようになりました。役所では私の野党的立場もあり気遣いをかけたように思います。申し訳ないなと思っていました。気さくで優しくて日本酒が好きで…。
まだ50代、早すぎる死を残念に思います。ご冥福を祈ります…。(No.19 平成23年3月号)
会員通信 押尾豊治(S51経)
3月26日、焼津地酒倶楽部の地酒祭りへ鰹節会館まで小一時間かけての散歩。
酒屋さんの運営で志太地区の蔵元6軒(杉井酒造・大村屋酒造・青島酒造・磯自慢酒造・志太泉酒造・初亀酒造)が参加。各社ご自慢の今年の新酒数種類と、所によっては仕込み水も味を見させいくれた。
今回は予定よりもだいぶ多い180人ほどのお客さんが集まったという事で、大入り満員の大盛況だった。
5月22日は松風閣へ『志太平野美酒物語2003』というイベントに出かけた。この地域の酒造蔵が自慢の酒を披露する会で、もう10年以上も行われている。今年の参加蔵は先の酒造元に岡田酒造を加えた7社である。この内、初亀酒造・青島酒造・杉井酒造の3社が農大志太常磐松会のOBの蔵である。
広い会場に10名ずつのテーブルが40卓、熱気の中で主催者のあいさつ、乾杯、新種の大吟醸を楽しむ。各テーブルごとに利き酒クイズもあり、この日参加の蔵の2種類の酒の銘柄をサンプルと飲み比べて当てるのだが、たまたま同席したメンバーで、ああでもない、こうでもないと盛り上がる。会費5000円だが、程々のつまみも付き、各社の自慢の酒を飲み比べるのは楽しいものだった。
会場では志太常磐松会の先輩と後輩にそれぞれ偶然出会った。お互いこの日を楽しみにやって来たようであった。(No12 平成15年6月号)
会員通信 増田圭美(H10農)
連日シドニーオリンピックで盛り上がっている。日本では雲が高くなり、時々秋の風が少し肌寒く感じるこの頃。シドニーでは日本とは逆の季節。春の暖かな日差しの中で、世界中の人々がさまざまなスポーツで競い合っている。シドニーからのオリンピック中継を見ながら、さわやかな春を感じとても楽しんでいる。
日本女子マラソンの金メダリスト『Qちゃん』こと、高橋尚子選手。42.195キロ淡々と走り続けた。何を考えているのだろうか、苦しそうな表情、流れ落ちる汗。見ているほうまで、はらはらドキドキ、苦しくなってしまいそうだ。スタートから2時間23分。ゴールを目前に彼女はみるみる笑顔をみせた。みごとに金メダル獲得。その屈託のないさわやかな笑顔が印象的だ。決して飾ることなく、走ることを本当に愛している様子がうかがえる。スポーツってこんなにも美しいものだったのかと、あらためてスポーツの素晴らしさに感動する。
ふと、自分はいったいどんな笑顔をしているのだろうと気になる。Qちゃんをはじめとする、シドニーの世界中の人々の、春風のようなさわやかな笑顔は、素敵で心地よい。私も魅力的な素敵な笑顔をしていたい。何かスポーツでも始めようかなと体がうずいてくる。(No10 平成12年11月号)
自然資源、利益どちらが大切か 鈴木智也(H6経)
私は現在、縁あってか地元焼津の産業である水産業で働いています。農業も一次産業ですが、水産業もまたしかり、漁師の皆さんが遠洋鮪船に乗り込み半年から1年、日本を離れ、ケープタウンやアイルランドまで行き、脂の乗った本鮪、インド鮪を獲るために荒波の中で操業しています。我々日本人が脂の乗ったサシミ鮪をこよなく愛しているためです。私もいち消費者としてトロのサシミはとてもおいしく思っています。しかし近年乱獲のため資源問題となり操業を押さえるために農水省は今年3月に自主的に日本船660隻中2割に当たる130隻を減船廃業にしました。しかし日本に運び込まれる鮪は、日本船ばかりでなく、韓国・台湾船が獲った鮪も多くあり、日本全体消費量の約7割が外国船によってまかなわれています。しかし外国船にはまだ減船しようという動きがありません。これでは日本の減船は焼け石に水で日本の漁師さんの泣き寝入りで終ってしまいます。
資源問題を重点においてリスクを背負った日本、問題を無視して、利益に重点をおいた韓国・台湾、国によってそれぞれ台所事情があるでしょうけれど、それぞれ違う選択をしました。私自身企業で利益追求のために働き、また、家では鮪をおいしく食べて喜んでいる一人でもあります。資源も大切ですが、鮪が減るのもこまります。どっちも大切だなと思いつつ毎日仕事に追われています。(No9 平成11年12月号)
会員通信 片山真一(H2栄)
自分は、平成2年に栄養学科栄養学専攻を卒業しました。学生時代の思い出といえば、4年間農友会に所属し、部を中心に活動していた事です。今ふりかえれば自分は、少林寺拳法部で毎日常磐松道場に通い、縦横のつながり、厳しさ優しさを全身で体験し、あっという間に4年間が終った様に感じます。その4年間で一番良かった事は、多くの人に出合えた事です。学科はもちろん、農友会各部、応援団、他大学拳法部、全国のOB諸先輩、又、4年生の時にオホーツクキャンパスができ少林寺技術指導を行った事など、農大を通じて多くの人と出会い、酒をくみかわし、色々な事を吸収できました。さらに最近では志太常磐松会を通じ、様々な職種の人にも出合え会合を楽しみにしています。
自分は現在、(株)ホテイフーズコーポレーションの研究部2課に所属し、新製品開発業務に携わっています。仕事でも「農大健児のいきをみよ」のつもりで頑張っています。又、会社でもホテイ農友会があり、2〜3ケ月に1度集まり団結を深めています。
これからも志太常磐松会の会合には積極的に参加し、少しでも多くの人と出合えることを期待しています。どうぞよろしくお願いいたします。(No8 平成9年4月号)
横井講堂最後の入学生 芹沢 寛(S26学)
昭和20年4月に、渋谷にあった東京農業大学専門部農業土木科に入学した。
時はまさに第二次世界大戦の末期で、軍国教育も行われ、旧制中学からは、軍関係の学校へ行く事を薦められ、戦死した者もいる。しかし、軍隊を志願する事を止めさせられた者もあり、その結果が私を今日にあらしめたのだと思う。
農大への進学について振り返って見た。当時、農大を含め理工科系の専門学校は徴兵延期の制度があり、農業土木科と農芸化学科が該当していた。それが第1の理由であったと思う。
敢えて4月入学と書いたが、徴兵延期の無かった学生は、入試に合格していても、中学校在学のまま勤労動員を続けていた。戦争末期とは、このように深刻であり、矛盾に満ちていた。
入学式は、正門から坂を登って左側にあった横井講堂だった。式の後や放課後に、応援団に毎日校歌や応援歌を指導された事を覚えている。
私の下宿だった東横線反町駅近くの親戚が空襲で焼失したので連絡に行ったら、農大も5月25日の東京空襲で横井講堂と食堂を残して校舎は全焼だった。
学校は5月28日から2週間休講するので、土木科の新入生は、その間に疎開先へ行くように指示があった。
同級生一同は、秋田県仙北郡の閑村の廃校で6月から終戦後の10月末までの5ヶ月間を実習を兼ねた開墾作業や援農作業で過した。
20年11月から現在農大のある世田谷の陸軍機甲整備学校の跡地の校舎で授業が再開した。とは云っても大半は米軍に接収されていて、教室は経堂寄りの入り口附近の戦車の車庫を改造した校舎だった。
諸々の事情で休講も多く、車庫の土間の焚火で暖をとり乍ら多感な青春時代を談論した事が懐かしい。
このように、戦中、戦後の特異な環境で学生生活を過した我々は、特異な思想の持主なのかも知れない。
卒業後の進路も多岐に亘っていた。公務員、銀行家、商社員、先生等々。何れも一匹狼的存在の者が多い。
同年の友人達が、お互いに「頑固だな」と云いあう事がある。その頑固さも、人生70年近くなれば、当たりまえのように云われる男の頑固さとは異なる、幅の広い人間的頑固さは、正に農大で培はれた精神なのだろうか。
日本で一番過酷な時代に青春を過した友情は特別だ。
今年も5月下旬に東京で同窓会が開催される。(No7 平成8年7月号)
私の好きな風景遠州小国神社 桜井 繁(S56造)
清流が流れ、モミジが大変美しい神社の右手の道を散策しながら参道の入り口に向かった。
ここは古代の森小国神社、御祭神は大国主命、その名の通り境内には杉の大木が林立し、太古の音を思わせる。森町宮代にあるこの杜には、もう何度となく足を運んでいる。私の住む焼津からも気分転換のドライブにもちょうど良い距離で、又四季折々に大変美しい事も理由のひとつだ。静かな参道をゆっくりと砂利を踏む音をたてながら歩き始めると、神妙な気持ちになり、自分が礼儀正しい博愛精神に満ちた人間のような歩き方をしているのに気がつく。そして私を澄んだ気持ちにさせてくれるのである。
たぶん、そこには「光・影、涼気、緑水、鳥のさえずり、色、香、音」。そして私には神々の姿は見えないが、信仰というものが相まって、普段、分散させていた力を取り戻し、自らのすべてを見直して、心の奥底なる思いをはっきりと再確認させてくれる何かがあるのだ、それを感じる事が、この神社に訪れるのではなく「通う」という理由でもある。私達の心は澄んだ湖面のようなものだと思う。しかし日々の生活の中で、波立ち不安定になった時、私は自分の好きなこの小国神社へ来て、心のリフレッシュをさせています。(No6 平成8年3月号)
重くも大しわれらが使命 朝比奈敏和(S45経)
私が東京農大に行こうと決めたのは、当時ワンダーホーゲル部のしごき事件があり、世評は農大に対して厳しい目を向けていました。
この世評に対し、私は逆に男らしさを感じ1級上の北村先輩にどのような大学かを聞きに行き、海外へ勇飛している先輩方も多勢おられることを聞き益々気持ちが湧きました。入学して1週間は伯母の家から通学し、勉学の道に励もうと心しましたが、クラブ活動のオリエンテーション時、高ゲタをはいた背の高い空手着を着た先輩に「空手部に入部したい」と話たら、早即「ついて来い」と言われ、ついた先が少林寺拳法部でありました。しまったと思ったが、当時少林寺拳法部は創部7年目であまり知名度もなく、空手と合気道を合わせた武道との説明であり、それならと気軽にその日から練習に参加しました。
しかし、見るのと実行のと違い練習終了時には自力で立てず、先輩の下宿(全員が拳法部員)へ肩をかりてたどり着きました。
この日から2年間下宿を変る迄、ここから大学に通う事となり、大学生活が勉学から勉少林寺拳法へと替りました。
この少林寺のクラブ活動の事を書くと原稿用紙が何枚あっても足りません。ナベを持って近所の商店を廻り、野菜クズや、肉の切り落としなどをもらいに行った事、台風の時、近所の屋根や窓の補修に廻った事、人の集まる所では毎回青山ほとりを踊り、夜飲んだ後は蒙古放浪歌の斉唱など、学生ならでは出来ない事を全てやってきたように思います。
青春期の短い4年間が私の人生の出発点であり、この間に学んだ全てのものが今の私を形成しているといっても過言ではありません。「農大生、元気あるかい」のカケ声と共に学歌の最終章「重くも重し、われらが使命」はいつまでも頭の中に鳴り響いています。
苦しき時の父となり、悲しき時の母となり、楽しき時の友とならん、いざ歌わんかな、踊らんかな……と共に。(No5 平成7年7月号)
思い出そして母校の今は 中村秀雄(S24土)
学窓を巣立ってから早や46年の歳月が過ぎ年号も昭和から平成に改まりました。想い起こせば母校農大が昭和20年5月の大空襲によって施設の一切を焼失して、教育研究の機能を完全に焼失し、渋谷の常磐松から陸軍機甲整備学校跡の世田谷キャンパスへと移転して新生農大となってまもない頃の入学でした。
当時を省みれば旧兵舎の教室は素通しの窓で冬などは寒風吹きまくる有様でした。
又世情は猛烈なインフレと食糧難・住宅難の時代で勉学には誠に厳しい環境でした。
学友達は軍隊あるいは軍需工場の動員先より帰り入学してきたため、久しぶりの勉学に戸惑いを感じながらも希望に満ち満ち各教授の講義に熱心に耳を傾けノートを取り続けました。又測量実習では充実した時間を送り大きな成果を挙げ、それぞれが測量技術に自信を持つ事が出来たと確信しました。
毎年11月3日に行われる恒例の収穫祭には、各科の対抗意識も非常に強く仮装行列に模擬店にと特殊性を編み出し張り切って参加したこと等、走馬灯のように思い出します。
卒業も近くなりますと食糧増産の基本である農業基盤の整備に使命感を持ち、地下足袋生活に徹し大きな役割を担って行くこと等、農政について語り合ったことも、つい先日のような気が致します。
学成りそれぞれ胸を膨らませ社会の荒波の中に飛び込み、雨にも負けず風にも負けず、ただただ忍の一字に尽きる生活の連続でしたが、これを母校で体得した意気盛んな農大精神と、苦難の時代に鍛えられたハングリー精神で乗りこえてまいりました。
そして光陰矢の如し、卒業し10年20年と過ぎ去り30年を契機として、昭和54年7月に北海道で初めて、夫婦同伴の同級会を中山実教授(当時81歳故人)を囲み盛大に開催して以来、毎年各都道府県で幹事を決め順次継続して催しており、楽しみな行事となっております。
おたがいに還暦を迎え第二の人生に出発した友、毎日を晴耕雨読に入った友、それぞれ年齢を感ずる最近となり、より一層の団結を期し末永い交友関係を築かんと、平成2年10月「24みどりの会」を発足させ、慶弔等の活動をしております。
さて半世紀を経た今日の母校の姿はどうであろうか。農業工学科では平成2年11月創設50年を祝い長年にわたる足跡を偲び、大学院修士課程の認可を機に更なる発展を誓いあいました。農大は今やニ大学、短期大学と三つの高校、総合研究所を初めとする付属機関と大学院博士課程を有し、在学生約9,000名を有する世界的にも知名度の高い農学系大学としては最大規模の大学に発展して居り、卒業生として誇りえる学府となりましたが、なほ国際的にも評価を高め、一層の充実発展することを祈念して筆を置きます。(No5 平成7年7月号)※ 中村秀雄氏は平成10年4月に死去されました。
父の急死で中退を決心 深沢衛治(S56経)
−−−でもアルバイトと両立でがんばりました−−−
昭和52年焼津水産高校から東京農業大学農業経済学科へ進学いたしました。入学前よりレスリング部への入部が決まっており、高校の卒業式の2日後には上京、練習に参加しておりました。レスリング部員は全寮制になっており当時体育館前にあった青雲寮に入寮しました。たしか7畳半に4人、1年生から4年生までが共同生活を送っておりました。田舎から上京した1年生は、馬小屋のような寮に押し込まれるは、入学式前に坊主頭(5厘)にさせられるでは、東京の大学生への夢はことごとく潰されたのでありました。
その年の10月、急病にて父が他界してしまい、自分も大学をやめる決心をし、当時のゼミ担当教授に報告にいきましたが、その教授の説得にあい、なんとか中退せずアルバイトと両立しながら学生生活を送ることにしました。その親身に相談にのってくれた教授が現学長の松田藤四郎先生でした。
1年生の終わりに同郷の松永安史先輩(現、焼津高校教諭)の紹介で川崎の病院で働く事になりました。
主に、夜勤の補助や雑務の仕事でしたが、なんとか学業と両立ができ4年間で卒業する事ができました。その関係からか卒業後も医療関係へと希望で、現在静岡済生会病院に勤務しております。業務内容は朝のフロント業務から各保険への請求業務等を行っております。皆様どうぞ済生会来院の時には、一度フロントで私をお呼び下さい。どんな御相談でもお受けいたします。私は農大の卒業生としての誇りを持っておりますから。(No4 平成7年1月号)※ 松田藤四郎教授は平成10年まで学長を勤められました。
※ 深澤氏は現在も済生会病院にお勤めですが、現在の業務内容はわかりません。
私のこと、造園のこと 鈴木正明(S31年緑)
私は現在、藤枝市葉梨、上川地区に住んでいます。我々の年代は小学校3年で開戦となり、6年で終戦を迎えた。尋常小学校も国民学校となり、毎日自習と宿題。勉強したのは、旧制中学受験のため、終戦後9月以降であったと記憶している。教育制度により新中高となったが、同じ学校で6年間過した。高校卒業の頃には、多少なりとも復興の兆しが見え始め、これからは都市の整備と造園関係の仕事が繁栄すると予想し、農大の緑地学科を選んだ。本音は入学が楽であったから?卒業した昭和31年は就職難であった。しかし、翌年、第12回国体を当県で開催するにあたり、準備が進められており、幸運にもお世話になることができた。その後は、広域都市計画や区画整理事業に携わっていた。当時日本の道路事情は最悪で、国家的見地から幹線道路の整備の急務が叫ばれ、まず名神道路の建設が始まった。そこで、運転者の安全面で欠くことのできない修景工事の専門家が必要となり、私もその事に興味を持ち、この工事を皮切りに多くの工事・研究に従事し、この間に修得した私の専門は、植物利用による修景防災自然復元等を行う植物応用学であったのだろう。道路公団卒業後、民間にて緑化等の仕事を行いつつ、建設省関係の道路緑化研究の委員も兼務している。
農大関係は、造園の卒業生を中心に緑友会静岡県支部を結成し、現在会員290名で活動中である。また、全国28県に支部がある。本年6月18日には造園学科の前身である造園学校が東京目黒に開校し70周年を迎えた。この間に700名の卒業生を世に送り出した。記念行事として講演会、70年史、記念事業は造園情報センターの設置を行い、緑友会はこの事業に賛同し、資金援助を協力することになった。
最後になったが私の出身は富士郡須津村川尻で、現在は富士市となっているところである。今後共、よろしくお願い申し上げます。(No3 平成6年8月号)※ 鈴木正明氏は平成7年9月に死去されました。
農大を卒業してからの事 山川和人(S62工)
大学を何とか無事に?4年で卒業し技術職として焼津市役所に就職して、早いもので公務員生活7年目半ばに入りました。
入所して6年間、つまり昨年の3月迄は、水道局に勤務し、水道本管路の設計、監督等していましたが、4月より初めての異動で、農政課に配属が決まり農業用施設の設計が仕事となりました。本来なら、やっと大学で学んできた事が生かせると喜々とするところですが、大学時代、学問以外のことばかり励んできた私としては、もう少し、いや、たくさんの専門知識を得て来ていればと後悔することばかりであり、また、前の職場も水道局というある意味では特殊な職場であった為(その中でも学ぶ事は多かったですが)そこで得た経験も、あまり生かすことができず、もう一度新人時代に戻ったような、とまどいを覚えながら、現職場である農政課において、設計等周りの方々のご指導を受け頑張っている毎日です。そして、実務は別として、気持ちの面では常に初心に帰ってという心掛けを忘れずに、日々を過していきたいと考えています。(No2 平成6年3月号)