信州 象山地下壕と無言館

   今年も地区民児協の研修旅行の季節がやってきた。地区によっては研修先の施設や先進地区との交流を求めて行くところもあるが、我が地区は地区内の人の和を優先している。日頃の地区会ではどうしても連絡事項や決めなければならない事が優先となり、それだけではなかなかお互いの人となりが分からない。そのためにもこの1泊2日の合宿はお互いを知り合う貴重な時間となる。
   今回は信州方面へ。メインは象山地下壕と無言館という太平洋戦争末期の歴史を学ぶ旅になった。
   東名焼津IC
を8時の設定で、例によって遠い順にいくつかのポイントでバスに拾ってもらう。今年も中型のサロンパス。奇しくも昨年と同じ運転手さんで、和気藹藹とバスは進む。
   当番長のあいさつが済み、「高速ではシートベルト着用を」という運転手さんの注意の後、バスが東名高速を走る中で研修DVDを1巻。今年は『民生委員発 災害時1人も見逃さない運動』。まずは自分自身のための非常用品の準備や家具の固定などについて。そして地震や水害などのケースについて検討をしている地区の様子を勉強した。勉強をしている内に富士川SAでトイレ休息。
   富士ICから西富士道路を通って朝霧道の駅でもう1度休憩。天気予報は悪かったが幸いに雨が降らないどころか富士山がとてもきれいだった。お茶やビール・お酒のおつまみ、おやつ類も出てリラックス。
   バスは甲府南ICから中央高速へ。高速に入った途端に運転手さんが山の解説を始める。南アルプスの山々が雲間に見え隠れする。双葉SAで一休み。今回の休み時間はかなりファジー。「トイレ休憩をとりますので皆さんお集まりになったら出発しましょう」という事になっているが、ほぼ予定通りに旅は進んでいる。
   諏訪湖からは天竜川が始まっている。ちょうど岡谷JCTのそばに水門がある。「はぐれたら川下りをして静岡県に帰って下さいね」と運転手さんのジョーク。しかし、かなりダムがあったはずだが…。バスは長野道へ入って梓川SAで小休止した後豊科ICで1度降りて昼食予定のスイス村へ。
   スイス村は建てつけは外側に柱のあるヨーロッパ山岳風だが、お昼は信州名物蕎麦と信州サーモンの刺身、豚とキノコの鍋と野沢菜漬けなど。お土産屋さんはまだ冷やかしただけで再びバスへ。
   豊科ICから上信越道へ、途中何箇所かで「トイレ止まりますか?」と聞きながら、しかし誰も必要としなかったのでスムーズに長野ICまで。
   長野ICからほどなくして宮坂酒造に。ここの職員の方がこれからの案内をしてくれる。
   松代には太平洋戦争末期に大本営を移す計画で民間企業が、多くの朝鮮人労働者を連れてきて突貫工事で掘り抜いた地下壕がある。とはいえ、天皇陛下をはじめ官庁街をすべて移動させてくるつもりのものだからかなり大がかりなものである。
   象山地下壕は残念ながら毎月第3火曜日はお休みという事で、気象庁の精密地震観測室の置かれている舞鶴山地下壕の方に案内して下さる。ここは大変に地盤が固い所だそうで、戦争当時、天皇・皇后両陛下の御座所を置く予定であったそうで、地上部分の建物、地下壕ともほぼ完成をしていたようだ。現在は研究施設になっているので壕内には入れないが、ひょろ長い廊下のような建物を窓からのぞく事が出来た。壕の入り口も見ることができたが、「他は掘り抜いただけですが、ここは天皇陛下のために内側も厚くコンクリートで塗られています」という事だった。
   また、少し山を下った所には仮御所予定地だった所があり、戦後、孤児員となったそうだが、今でも児童養護施設として使われていた。
   昭和19年11月から始まった工事は20年8月の終戦時には75パーセントが完成していたそうで、その突貫工事の中で多くの犠牲者も出たそうだ。
   これらの施設について案内を始めたきっかけは地元の高校生が修学旅行で沖縄戦跡を訪ね、自分達の地域でも語り伝えるべきではないかと始めた活動が今に続いているそうだ。
   戦後昭和22年から気象庁の施設として使われ始めたようだが、昭和40年〜41年の松代群発地震で地震に関する資料センター的性格の松代地震センターが開設され、地震に関する研究が続けられているそうだ。
   この後バスは案内人を乗せたまま象山神社へ。佐久間象山は幕末に活躍した思想家・学者だが、生まれ故郷の象山を号として使っていた。幕末に非業の死を遂げたが、大正になって受難50周年を機に神社創建の計画が起こり昭和13年に創建されたそうだ。
   お参りをして象山の像と共に記念写真を撮る。この神社は案内をしてくれた宮坂酒造とも縁が深いようで、酒造用の大釜が奉納されていた。
   そして最後に案内をして頂いた宮坂酒造さんへ。「これからは私、販売員です。たくさん試飲して良かったら買って行って下さいね」とバスから降りた案内の方。
   お店にはお酒・濁り酒・ワインに焼酎、甘酒まで。サラリと飲みやすいタイプのお酒だ。嫌いじゃないメンバーが多いうえ、たっぷりと案内をして頂いたお礼も兼ねてみんなそれぞれに選んだお酒をかかえていた。
   気が付けば2時間が経過。しかし、後はバスに揺られて本日の宿まで。バスはR18を戸倉上山田温泉へ。
   今夜の宿は笹屋ホテル。3年前にやはり民児協のメンバーで泊まった千曲館とは隣同士だった。入口には大きな藤棚があり、花の時は見事だろうと思われるが今は緑の葉が木陰を作っている。1日傘を使わずに、日さえ出る初夏の日だったが、我々が屋根の下に入った途端にポツリポツリと雨粒が落ちてきた。
   女性の方が人数が多い地区なのでくじ引きで決める部屋割のバリエーションは女性の方がある。そして宿では何となくそのグループで動く。さて、それぞれの部屋に落ち着いて、まずは温泉。単純硫黄泉だそうだが、あまりきつくなくねっとりとしたお湯が気持ちが良い。大した降りではなかったので小さな露天風呂にも行ってみた。
   夕飯まで1時間半余裕があったはずなのだが、一休みして荷物を片づけ温泉に入るともう時間がない。宿のお姉さんの案内でエレベーターを降り、別のエレベーターに乗り換えて食事会場へ。
   今回は食事会場でカラオケができなかったので、食事の後で「さあ行きましょう」と会長。風呂からあがった運転手さんとも合流して、暫しにぎやかな時を過ごした。
   「明日も1日あるからね」と程々に切り上げた後、もう1度温泉へ。雨は本降りのようだったが、ほの暗い中でぽ〜として、部屋に戻って珍しく誰もテレビも点けないまま眠ってしまった。
   あっという間に朝が来て5時半。他の皆さんが起き出した気配に起き上がるとすでに1人もういない。残りの3人で「温泉入ろう」と出かけると途中のロビーで「おはよう」ともうのんびりしておられた。
   温泉は昨夜と男女が入れ替わって木の湯。昨日の石の湯と違って内装が木でできているので温かみがある。軽く汗を流して着替えて部屋へ。
   当番長さんが交渉をして早めにしてもらった朝食はバイキングではなくお膳が出る和食。朝からしっかり食べて、おみやげ屋さんへ。小さなスペースだが小布施が近いので栗ようかんや栗落雁などもそろえてあった。
   女性メンバーのほとんどがNHKの朝ドラを見ないとおみこしがあがらない。最近母がテレビを点けないので『ゲゲゲの女房』私は初めて見た。番組が8時からに早まったので8時半出発。
   15分も走るとねずみという交差点。何かいわれがあるようだが、ここに今日最初の訪問先のお味噌屋さんがあった。
   まずは味噌蔵に案内をされてお味噌についての話を聞く。1部屋ありそうな大きな味噌樽がいくつも並べられている。最近は樽を作る職人さんもいなくなり古い物を大切に使っているそうだ。樽のそばには『味噌の十徳』が書かれている。
   
   味噌の話を聞いた後は店に回って、まずは熱々のみそ汁を頂いた。
   店内は味噌だけでなく野菜の味噌漬けや香味味噌など味噌を使った加工品も色々とあった。通販もしますとの事だが、あまり美味しい味噌を食べるとくせになるので、ゴボウと菜の花の味噌漬けと色々使えそうな辛味味噌を買った。
   その他に地酒やお菓子などの土産物もあり、かなり広い店内を回っていると味噌ソフト発見。もう10年は前になるだろうか。その頃のネット仲間の信州の方が、信州には味噌ソフトがあって美味しいんだという話を聞かせてもらった。その頃から1度食べたいとは思っていたのだが、そして信州方面にも何度か来ているのだがめぐり合う事がなかった。
   まだ開店したばかりで準備中の所で1人はしゃぎまわって注文。バニラのソフトに味噌だれが螺旋に合わさっている。ソフトクリームはソフトクリームなので甘いが、甘過ぎない味噌だれの味噌の風味が効いていてそれなりに美味しかった。ついさっきたっぷりと朝ごはんを食べたのだが、私が呼び水になり何人かが別腹に入れた。
   20分ほどバスに乗って次は生島足島神社。緑の中の大きな鳥居やお社の朱が目にまぶしい。子安社に乗っかって三毛猫がのんびりと昼寝をしていた。
   お参りの後、歌舞伎舞台を見学。建物は資料館として武田信玄が必勝を祈った「願文」などの古文書が常設展示されている。その舞台の床下は回り舞台やせり上がりなどの仕掛けが施されている。
   境内には樹齢800年という夫婦ケヤキがある。根元がうろになっていて、お参りできるようになっていた。
   そこからバスで少し丘を登ると無言館。広々とした駐車場から木立の中の道を登っていく。途中で食べ頃に黒ずんだクワの実を見つけて手を出した人が何名か、しかし残念ながら美味しくはなかったようだ。
   無言館はうっそうとした木立の中、無機質な感じの箱型のコンクリートの建物だった。おもしろい事に料金所は出口にある。
   集合時間にバスに集合という事で会計さんから1人ずつ入場料を渡されて解散。どうもこういう所に来るとはぐれてしまう私はマイペースで動いてしまう。絵の他に当時のハガキや写真などの資料もありかえって興味深かった。
   絵ははっきり言わせてもらえばはいそうですか(名前は忘れたが日本画家の方の息子さんが描いた屏風は生き生きとして素晴らしかった。すでに画家として世に出ていたのかもしれないが。)といったものが多かったが、家族や自画像を描いたものが多いのは本人が覚悟を決めていたか、家族が本人の身代わりとして大切に守ってきたからなのだろうと思った。
   もう1つ、画学生の絵という事でほとんどが20代の若者の絵なのかと思ったが、意外と30代の人のものが多く、教員だった人や画家のお弟子さんをしていた人など経歴も様々のようだった。さらに描いた人の経歴も分からず、病気や負傷で後送された病院で描いて残された絵というものもあり、絵につながる人々の思いを感じた。
   途中の空き地に筆をたくさん挟み込んだオブジェがあった。その裏には『画家は愛する者しか描けない 相手と戦い相手を憎んでいたら画家は絵を描けない 1枚の絵を守る事は「愛」と「平和」を守るという事』と記されていた。
   
   2棟ある無言館の見学の後、時間があったので駐車場を通り越して信濃デッサン館別館の槐多庵で立原道造展を見た。ロマンチックな詩とさらっと書いたパステル画の印象が強いが、本業が建築家である事をさる推理小説の伏線のおかげで知っていた。そこで使われていた風信子ハウス(別荘として作図された)が気になっていたのだが、その図面と模型もあった。
   見終わっても時間があったので、丘の上からのせっかくの広い風景と眼下の麦畑の黄金色と植田の緑がきれいなので写真を撮りたかったのだが、どこから狙っても電線に邪魔され、お天気も今一つで雲が厚かったので結局うまくいかなかった。
   「ちょっと先まで行くと重文の三重塔がある前山寺がありますよ」と運転手さんに教えられてちょうど集まってきた何人かで足を伸ばした。
   ところが山門を入った途端に雨、大粒で落ちてきたのでそのまま手近の建物に飛び込んだ。売店のおばさんが色々と話しかけてお接待をしてくれたが、時間も押してきたのでそこから「あれだね」と目の前の三重塔を見て、小降りになったところでバスに戻る。途中の売店で山菜のコシアブラを見つけて買い込んだが。
   バスに乗り込んで丘を下りたあたりで本日のお昼、きのこ狩り苑深山。森があるわけではなく屋内のポット栽培だが、色々な種類のきのこを作っているようだった。最近の傾向なのか店の人が栽培されている所を案内してくれてから売店を通って食事に。きのこの炊き込みご飯におそば、さらにきのこがたっぷり入った味噌煮込みのうどん。きのこの天ぷらもついて、いくらきのこが低カロリーとはいえ食べきれなかった。
   食事の後、ほぼ1時間のバスの旅で小諸懐古園へ向かう。
   小諸は平安時代末から歴史の舞台に出てくるが、元禄15年(1702年)、越後国与板藩より牧野康重が入城し幕末まで続いた。明治時代の廃藩置県で旧藩士が城跡に懐古神社を祭り現在にいたっているようだが、遊園地に動物園、懐古館(歴史資料館)・藤村記念館・小山敬三美術館・郷土資料館さらに懐古神社に鹿島神社と様々なものがある。さらには句碑や詩碑などがそこかしこにあり、傍には寅さん記念館まである。ここだけで1日かかりそう。懐古園では案内の方が色々と説明をして下さり、後は藤村記念館・小山敬三美術館を駆け足でササっと見て1時間。
   緑と野面積みの石垣が美しく、もっとゆっくりとしたかった。
   小海線沿いのR141を南下、バスの中で恒例のビンゴを楽しむ。そして、昨年も利用した野辺山の八百屋さんのようなドライブインで一休み。まとめ買いをするには安いのだが、自分の車ならともかく、バスを降りてからを考えると自重。少し冷えてきたのでホットミルクを飲んだ。
   長坂ICから中央高速へ。双葉SAで帰着時間が8時を回りそうなので各自夕食を調達。とりあえず無難におむすび弁当を買ったが、食べてみたら結構な量だった。甲府南ICで降りてR139を通って朝霧高原へ。すでに6時を回っていたが今回は帰りも夕景の中で富士山がきれいだった。
   ここまでくれば後はのんびりと釣りバカか寅さんかといった映画見物でもしながらというパターンなのだが、今回は宮崎駿の『ハウルの動く城』。7時過ぎに富士IC、8時過ぎに焼津ICで最後まで見れなかった部分が気になっている。
   いつも通り乗ったポイントで下してもらいながら流れ解散。今回の研修旅行はお当番のお陰が天気予報よりずっと良いコンディションの中で無事に終了した。