今年も高津区民文芸祭の季節となった。昨年の『俳句でおしゃべり』オフ会に味をしめて今回はそちらをメインにする事にした。
しかし、一応は俳句の仲間、それぞれに事前投句を行い会場に集った。今回のメンバーはガス灯さん・たまごさん・悠さん・にTOPPOさん改めゆうさんと私DORA。一緒にお昼を食べましょうと11時過ぎに集まって、会場近くにお住まいの悠さんが予約をしておいてくれたつきじ植むらという和食屋さんに集合。
食事をしながらおしゃべりを楽しみ、おみやげを交換しひと時を過ごした。
先に受け付けをしてきたガス灯さんと悠さん以外は戻って受け付け、それぞれに当日投句用紙をもらって投句。
その後で、オープニングの地元合唱団の発表とお歴々のご挨拶は失礼を決め込んでもう1度下の会のケーキ屋さんへ。広くて明るい店でケーキも美味しそうだったのだが、入る余地はなくコーヒーだけにしておいたが、「おいしそうよ」とリンゴのタルトを注文したガス灯さんと悠さんから1口お味見を頂いた。
そろそろ行きましょうかと上へ行くエレベーターを待ったのだが、途中の階なのですでに満員。1つやり過ごして何とかたまごさんとガス灯さんゆうさんを押しこんで、悠さんと2人階段を上がる。しかし、4階から12階はかなりのものだった…。
しかも、ほぼ予定時間通りに行ったのだが、すでに寒太先生のお話が始まっていた…。エレベーター組も似たようなものだったようだが、そちらと違ってゼイゼイいいながら前の方に取った席まで行くのも失礼なので後ろの方の空いた椅子に腰を下ろした。
さて、今回の講演は昨年の江戸時代の芭蕉・蕪村・一茶の生涯に続いて『現・近代俳人の晩年力 〜 子規・虚子とその後』。実は昨年のレジュメでそこまでの予定だったのらしいが、お話に力が入って近代まで来なくて2年にわたる講演となった。
頭を聞きそびれてしまって残念だったが、子規が俳句を分類して季寄せの大元を作った話から聞く事ができた。それもかなり細かい分類を行い、今のようにパソコンがあるわけでもなくカードを作って分類をし、それまでの遊びとしての俳句から文学としての俳句へと革新をしたとの事だった。子規の俳句といえば写生と条件反射のように出てくるが、そのような土台があったということだろう。
また、子規の記念館を先生が見に行った話もあり、同じ所には台東区立書道博物館があり、その中に同時代の中村不折の記念室もあるので、ともに見ると良いとの事だった。ところで子規の墓碑銘は本人が生前に書いたものだそうで、拓本をみんなに配ってくれた。亡くなるのが何時かなど空けてあるが、月給の額まで入っていて、当時すでに結核で自宅で臥せっていてそこから原稿を送るような生活だったそうだが、明治29年に月給で40円ほどもらっていたそうである。現在に直すとどの位だろうと話が出たが、それで本人と母・妹の生活をまかなっていたそうである。享年は35歳だそうだが、教科書の写真などで覚えている子規はずいぶんおじさんくさい印象で、改めて若かったのだなと思った。
子規といえば ヘチマ咲いて痰のつまりし仏かな 子規 が辞世の句となり糸瓜忌ともいうが、 痰一斗糸瓜の水も間に合わず 一昨日の糸瓜の水も取らざりき の3句を同じ紙に、初めの1句を真ん中にそこから筆が逸れて次を斜めにというように書いてそれが絶筆だそうだ。
さて子規の写生の後を継いだ形で出てくるのが高浜虚子と河東碧吾桐。この2人は出身も同じ四国松山でともに子規に師事したが、虚子は花鳥諷詠、そして 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 虚子 という句で俳句は難しいものではないからと人々に勧めた。
虚子は多作で駄句も多いが良い句も多いと寒太先生は評するが、虚子の転機は『ほととぎす』という文芸誌を作り、小説も自身書いて載せていて本当は小説家になりたかったのではないかとも思われるそうだ。 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子 霜降れば霜を楯とす法の城 虚子 という転機に詠んだ句があるそうだ。蛇笏・石鼎・鬼城など第1期の黄金時代が作られた。
一方の碧吾桐は海外の詩の影響を受け自由律の句など新傾向俳句の方に流れ、山頭火や放哉へと影響がつながって行った。
この2人も私には対立の印象が強いが、同じ出身地で同じく子規に師事し切磋琢磨してそれぞれの道を見出したという感慨もあったようで、碧吾桐の死に際して たとふれば独楽のはぢける如くなり 虚子 という追悼句を作っている。
虚子のいう客観写生とは目で見たものをより深く森羅万象を写し取るというものだそうだ。そして 独り句を推敲をして遅き日を 春の山屍を埋めてむなしかり 虚子 が辞世句だそうである。
第2の黄金時代は4Sといわれる時代で東の2S 水原秋桜子・高野素十と、西の2S 阿波野青畝・山口誓子という東大俳句会のメンバーが輩出した時代だそうだ。
西の2人が虚子の写生を忠実に継承したのに対して、秋桜子は『馬酔木』を主宰し、写生に主観を強く投入、また万葉の言葉を使うなどした。また自身の句集『かつしか』は全くの自選句で近代俳句の草分けとなった。また『馬酔木』以来多くの句誌が誕生した。
また秋桜子は本業が医者で 余生なほなすことあらむ冬苺 秋桜子 など老いを見つめた句も多い。
加藤楸邨となると寒太先生が師事をしていただけあって話に力が入った。楸邨が俳句を始めるきっかけが職場で俳句がはやっていて、とんでもない句を作って笑われたから始めたというエピソードがおかしかったが、まずほめて、食いついて来るなと思ったら厳しい事を言わないとみんな始めないよと寒太先生自身の指導者としての顔も見せた。ともかく楸邨は第2回馬酔木賞でデビューし上京して『馬酔木』の編集や秋桜子の子供の家庭教師などの仕事をしながら句作をしていたそうだ。土塵を俳句にしたいと 麦を踏む親子嘆きを異にして 楸邨 などの句がある。
楸邨の転機は後鳥羽上皇の「ひとりごころ」が分からなくては芭蕉は分からないとS16に隠岐を旅した事だそうだ。思い付きで旅立って列車は事故で止まるのを迂回し、船は台風で欠航し1日遅れで着いたがここで176句もの句を作っている。H4年には句碑が立って除幕式にはご本人が高齢のため弟子である金子兜太さんと先生も行ったそうだ。「弟子は突き放したから良く育った」と言われていたようだ。
晩年にはシルクロードの旅を5回もされ、「あんな所では俳句にならないでしょう」と言われても「行ってみなければ分からない」と仰って 日本語を離れし蝶のハヒフヘホ 楸邨 はそんな中で詠まれたそうだ。
また朝起きるとまず墨をすりそこで思い付いた句を書いたりもしていて、そんな中で 百代の過客しんがりに猫の子も 楸邨 という句も浮かび出たそうだ。
最後に寒太先生からは兄弟子に当たる金子兜太の話があった。ちなみに「年は違うんですよ」と強調されていたがお2人は9月23日の同じ日が誕生日だそうだ。
兜太は東大経済学部から日銀に入社したが、すぐに軍に取られてトラック島に派遣され多くの死に出会ったそうだ。それも物資不足による餓死で餓死というものは飢えて死ぬというよりも飢えて食べられない物を食べて死ぬ事が多かったという。終戦の帰国で 水脈のはて炎天の墓碑おきて去る 兜太 という句を残している。
戦後は日銀に戻ったが組合を作り初代委員長として組合活動をしたために地方の支店を回されたが 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太 のような良い句ができ「俳句のためにはそれが良かった」と弟弟子は仰っていた。
90歳代でまだお元気だが、戦争を通しても多くの死を見てきて、死には殺戮死(死にたくないのにいやおうなしに死ぬ)と自然死があり、この年になると死というものは怖くないと仰っているそうだ。
最後に、人生の転機は大小、強弱はあるがそれを捉えてきっかけとして自分の作風を作るのが大切だとの事だった。
また、今や90〜100歳を見据えて生きなければならない時代で晩年を豊かに過ごす事が大切、そこから言うと60歳はまだ残り1/3がありますよとの事だった。
さて、講演の後は事前投句・当日投句の入選作などの発表だが、その準備の間に炎環のお仲間だという若い方がピアノの演奏をして下さった。準備の都合上「もう1曲」とか言われながら、困った様子も見せずに何曲か聞かせてくれた。
悠さんは「後の予定が…」とここで退席。
今年のテーマは「水」で付近を吟行する会も行われたそうだ。まず入選5句・特選10句には表彰があった。たまごさんはこの途中で退席。
その後の佳作にはゆうさんとガス灯さんが入りやはり表彰があった。遠く北海道函館からの参加もあった。さらに予選通過の70句も読み上げられた。ゆうさんはこちらにも残りさすが!
次に当日投句の入選作5句が発表され、ガス灯さんが入選。賞品に先生の句の短冊を頂いた。さらに佳作20句が発表されゆうさんと共に私の句も入った。
30分近く時間が押して、最後のご挨拶は慌ただしかったが、今年も椅子の片づけを手伝って残った3人で薄暗くなった溝口の駅へと向かった。
メンバーの事前投句佳作・予選通過・準予選通過作品
水をください蕣とひとひとり |
ゆう |
牛声に目覚める旅の水澄めり | ガス灯 |
夏銀河いのちの水の分岐点 |
ゆう |
水かさのずんずんあがるねむの花 | DORA |
測量士花野の風に立ちつくす | たまご |
用水のいつしか花の名所かな | 悠 |
多摩川になき水不足半世紀 | 悠 |
メンバーの当日投句特選句と佳作句
冬の蝶息するやうに翅うごく |
ガス灯 |
地球いま暮れてのひらの蜜柑かな |
ゆう |
父と子のボールの会話冬浅し |
DORA |
ちょうどエレベーター前で行きあった寒太先生とご一緒に写真を撮らせて頂きました。