いつもはメンバーの親睦と協調を図るために行われる研修旅行だが、今回は東日本大震災の津波被災地、宮城県石巻市の様子を見せて頂く事をメインとした視察研修になった。
我が焼津市も東海大地震とともにいつ津波がやってきてもおかしくない地域、大変気にはなっていた。しかし、混乱をした被災地に出かけても邪魔になるだけでたいしてお役にたつ事もないだろうとある程度状況の落ち着くのを待っていた。また、今回はこちらの民児委員で消防士OBの方の伝で石巻市の消防防災の専門家の方から現場を見ながらお話を聞く事ができた。
また、たまたま浜岡原発に関する講演会のDVDがあるからと持って来て下さった方もあって長旅のバスの中でもじっくりと研修をする事になり、ハードな研修旅行となった。
しばらくぶりの遠距離行きとなった今回の旅のスタートは朝6時、港側から順にバスが回って来るので私の乗る所は4番目、6時15分の予定。小雨の中、ここで乗るメンバー全員がバスが来る前に着いた。最後の農協前に集まるグループが乗り込んで、今回は東名の焼津ICを通り越して新東名の藤枝岡部ICへ。まず型通りに旅行幹事、会長の挨拶、さらにバスの運転手さんからの挨拶があった。今回は長距離のため、運転手さんも2人体制。一方が運転をし、もう1人が休みを取りながらルートチェックをしたりDVDの世話をしてくれたりした。1人の方は物静かだが、もう1人は昨年もお世話になった方で話し好き・世話好きで行き先の案内をしてくれたり話を盛り上げてくれたりした。
最初の小休止は駿河湾沼津SA。新東名の中では海に近く見晴らしが良いそうだが、残念ながら霧の中。それでもかろうじて傘を差さなくても済む程度なのでこちらはありがたいが、運転手さんは神経を使う降り方だと思う。このメンバーになってから旅先での時間前集合はなかなか守られない。しかしこの時は外に居ても寒いばかりで朝の7時過ぎとまだ早いのでサッサと集合出発。
東京を突っ切るルートは渋滞をしているようで、バスは御殿場ICからR253と我が家の墓参りコースを行く。後ろのサロン席では男性陣の軽く1杯が始まったようで、東富士道に入ってしばらくすると「次のトイレでストップ」の合図が掛った。8時半過ぎに中央高速の谷村Pでトイレ休憩。私は暖かい缶コーヒーで一休み。今の男性メンバーはたばこ吸いが多く、禁煙の車内から解放をされると、まずタバコの人が多い。
バスは中央高速八王子JCTから圏央道。話をしている内に墓参りコースの西八王子ICはあっという間に過ぎてしまった。持ち込んだ研修DVDの『ゲートキーパー』に関する研修はディスクエラーで機械が受け付けてくれず中止。バスは鶴ヶ島JCTから関越道へ。次は寄居Pで一休み。ここで運転手さんが交代。それぞれのおしゃべりも一段落という事で音楽を流してくれた。焼津のイメージソング『潮騒のまちへ』とNHKで復興支援ソングとして流している『花は咲く』。『花は咲く』のDVDはご機嫌が悪くかからなくて音楽の先生をしているメンバーが歌唱指導をしてくれて皆で歌った。
高崎JCTからいよいよ東北道。次は大谷Pに停まってお昼のお弁当の積み込み。そろそろお昼という事で、動き出した車の中でお弁当。ほぼ1時間走った安積Pで運転手さんが交代して、今まで運転をしていた方がお昼ご飯。その間もバスはづんづん進み、バスの中では私がさんざん試行錯誤をしてCDにダビングしていった民生委員の歌も無事に音を出してくれたので練習など。だいぶ以前に旅行用に編集してくれたいつもの唱歌集や、誰かが持ってきたシャンソンなどを聞きながらノンビリ旅。
バスは安達太良を通り過ぎ「どれが安達太良山でどれが阿武隈川だろう」という話になったが、良く分からなかった。緑の濃い道を走っている事だけは間違いない。福島に入っているわけだが田植えも終わって青田が美しかった。ちょうどこのあたりを東に海まで(50〜60km?)出ると福島第1原発にあたる。
バスは宮城県に入って「この先は松島までトイレ休憩はありません」と菅生Pでトイレ休憩。美味しそうな飲むヨーグルトがあったので飲んでみた。\90。
ほんの少し走って仙台南ICから仙台南部道路、仙台若林JCTを通って松島海岸ICへ。ここまでずっと自動車専用道路が続いている。しかし、このあたりはすでに海に近く津波の跡が残っている所もあった。しかし遠くに見える仙台の町の中心部はビルが林立し日本の都市は地震には強いなと思った。
さて、ようやく松島で大休止。4時出航の島めぐり観光船の出るまでの30分位で五大堂を見物。国の重要文化財だそうだが、小さなお堂。そこに行く赤い欄干の橋が板がすいていて気を抜いて歩くと足を突っ込みそうで怖かった。お堂には12支の彫り物があり、なかなかリアルで躍動感があった。ただ東照宮のような彩色は無いので大人しい感じがする。
皆それぞれのペースで座り疲れた体をほぐして出航前には集合場所に集まってきた。その港の岸壁も地震・津波の跡をまだとどめていて、敷石が崩れたりしていた。また、船の中の展示によるとこの観光船会社の船もずいぶん被害にあったそうだ。
船は時間通りに出港、湾内の小さな島々を巡り始めた。船内にはカモメのえさも売られており、カモメたちが追いかけてくる。夕方のせいかかなりゆったりとした船内で案内を聞きながらキョロキョロと外を眺めたが、松島湾は小島が多いために湾の津波被害は少なかったという事だが、その島の中には地震と津波で岩が崩落したり形が変わってしまったものもあるようだった。
ゆったりとした船旅の後はまたバスに揺られてすぐ近くの本日のお宿へ。「本日の走行距離は660km」と話し好きの運転手さんが教えてくれた。
ところで、ここで翌朝、臍をかむ事が起こった。仙台銘菓の『萩の月』を買いたいと要望が出たのだがホテル内の店には無くて翌朝お店に行ったのだが、朝が早くてまだ店が開いておらず右往左往する事になった。結局、瑞巌寺門前のお店に連れて行ってもらったのだが、宿に着く前に誰かがちょっと思い付けば翌朝のロスタイムは無かった…。
本日のお宿はホテル松島大観荘。宿に着いたのが5時ちょっと過ぎ。部屋割をして部屋に荷物を置いて部屋のメンバー総意でまずお風呂へ。温泉ではないそうだが、広々とした熱いお湯で露天風呂もあって気持ちが良かった。地下に降りたはずなのに眼下に景色が見下ろせる。とりあえず汗を流しただけで夕食会場へ。我々と男性グループの1部屋が先に風呂に行ったようだが、後は皆さん「お風呂は後にした。」携帯にお呼び出しも入っていたようだが、風呂まで携帯していなかったので失礼をしてしまった。
我々が少し遅れてしまったが6時からお夕飯。まず会長の挨拶と乾杯。宿からは担当の若い女の子が1人付くだけなので幹事さんが何かと忙しそうだった。
はるばる遠くまで来たので、メンバーの1人は中座して昔の友達と会いに行った。そしてもう1人、明日の視察のコーディネートをしてくれた人も先方に会いに出かけていった。
初めは静かに食べていたが、途中からにぎやかにカラオケ。今回は歌声喫茶風になった。
1本締めでしめてお開きになった後は売店をブラリと冷やかす。とりあえずレトルトのタンカレーと仙台駄菓子をみやげに確保した。
部屋に戻ってからはおしゃべりに花が咲く。初めはちょっと気になる活動がらみの情報交換から、「苦労しているのよ」になり、最後はよもやま話。
10時半を回ったところでもう1度お風呂に行き、「結局寝る時間は普段と変わらないね」と12時前ごろ。
翌朝6時に起床。7時には朝食バイキング。ここのお店は中華に力を入れているようだったが、私はパンとコーヒー。トーストは自分で焼くんだと言われて素直に手抜いてクロワッサンとバターロールを取ってきた。笹かまぼこやふのりの味噌汁は美味しかったが海の側の割には海産物が少ないような気がした。
玄関で恒例の記念撮影をして8時半出発。ここで上記の臍をかむ話となる。バスで数分の萩の月を扱っているお店は朝が早すぎてまだ開いていない。幹事さんが問い合わせをしてくれている時にお店の方が出勤をしてきたが、ここの準備はまだで瑞巌寺前の店ならもう開いているはずだとの事だった。バスは駅の駐車場に入れたので、駅からこの店まで歩き、さらに瑞巌寺までテクテクと歩き。買い物を済ませても門前町で他にも土産物屋があるので、皆ブラブラとそぞろ歩き。私は山門に居た白いネコにご挨拶。愛相の良いネコで取材を受けた事もあるそうで写真が受け付けのガラスに張ってあった。
とにかく予定に1時間遅れでようやく出発。R45のバイパス的な道だという三陸自動車道を通って石巻へ。
9時40分、待ち合わせ場所で無事に案内の方がバスに乗り込んでくれた。こちらの消防士のOBの方で、うちの民児委員さんとは「現役時代に研修会で数カ月同じ釜の飯を食った仲」だそうだ。
すでに港近くだが道路と工場の他は更地と瓦礫の山、そして瓦礫の山にシートをかぶせたもの、さらに壊れた車が並んでいる(津波に流されたもの)「車って軽いよね」と案内の方がポツンと仰った。更地の部分は住宅街だったそうで、土台ごときれいさっぱり流された後に草が生えていた。所々に立っている家もあるが、土台が丈夫だったか、水の当たり方の問題か、それも中は大破していた。
もちろん瓦礫処理のためのクレーンが忙しそうに動いていたし、リサイクル用の缶を大きなブロックに固める工場や木材加工か製紙用か丸太が積み重ねられている工場も稼働をしているようだった。
病院の建物など大きなものは側が残っているが、他はほとんど何もない中を門脇小学校へ。ここは津波に洗われ火事で焼かれと大変だったようだ。少し高台になっていて、地域の人々の避難地になっていた所だが、「さんざん訓練をしてきたけれど実際には役に立たなかった」という事だった。隣が墓地で学校の1Fと2Fの間の位置までの墓石が壊れているのでその位まではかなりの水の圧力があったのだと思う。もう少し高さのある近所のお寺は屋根と柱を残して中はがらんどうだった。
このあたりの事前防災計画の津波到達予測は10分程度と見ていたが、実際には1時間程の時間があって、その時間差がかえって犠牲者を増やす事になったと仰っていた。「警報解除まで安心してはいけません」と強く仰った。また「津波てんでんこ」で「事前にたくさん話し合いをするのは良い、しかしいざとなったらまず自分の身を守るように、自分が助からなければ人のお役には立てないのだから」とも言われた。
また、揺れている間は動かない事、車での避難は大変危険な事(簡単に持ち上げられて流される)、津波とともに来る瓦礫に当たって亡くなった人も多いので気をつける事など、1年余りが経っているとはいえ現場を見ながらの教訓は心に染みた。
この近くに『がんばろう石巻!』の看板がある。だいぶ整理されて『復興するぞ!』の大書きも書き加えられていた。さらに被災した石巻の木片を集めて種火とした火が灯されていた。
我々が行った時も何台かのバスが入れ替わりで来ていて、道路の向かいには簡単な売店も出ていた。
また、我々の地区が瀬戸川を背負っているというと「では旧北上川の方に行ってみましょうか」とバスをそちらに案内してくれた。住宅街の細い道で、こちらは無事に家が残っている。しかし地盤沈下もあって川沿いの道路は使えなくなっているそうだ。干潮時だというのに川は溢れんばかりの水を満たして流れており、満潮時には実際に溢れてくるそうだ。
そこから商店街に出ると一見無事のようだったが、1Fの改修工事をそこここでしていたので、水はここまで来ていたのではないだろうか。11時頃まで案内をして頂いて我々は帰路についた。
石巻のがれきを種にともす火の小さな光大きな希望 DORA
元来た道を引き返しながら、三陸自動車道の矢本Pでとりあえずのトイレ休憩。利府JCTから仙台北部道、富谷JCTから東北自動車道へ。今日のお昼は予定よりもだいぶ時間が押して12時半頃に白石ICを出たところにある白石温麺茶屋。古い民家を利用した物のようで、どっしりとした建物だった。バスの団体客が多いようで、ずいぶんにぎやかだったが食事だけで売店なども無かった。
温麺ではなく冷たい麺と桜エビの入った釜めしのセットだった。40分ほどで「道中が長いので出かけましょうか」という事になったが、我々ばかり食べてバスは空っ腹という訳に行かない、次はガソリンスタンドでバスの給油。
双方満腹となったところで白石ICから再び東北道へ。車内は時代劇のDVDをかけて、楽しんでいる人、お昼寝の人。安達太良SA、上川内SAとほぼ1時間ごとにトイレ休憩を取りながらバスはひたすら南下。ビンゴゲームで盛り上がり、さらに残った飲み物をかけて2回戦。蓮田SAでお夕飯の弁当を積み込む。「まだ明るいし、お腹もすかないし」ととりあえずお弁当は後にして、首都高からスカイツリーの姿などを眺める。
このあたりからもう1つのお勉強。『東海地震と浜岡原発』という作家の広瀬隆さんの講演のDVDを見る。この講演会自体がかなり長いものだったらしく、ダイジェストしてあるようだが、それでもかなりのボリュームのある話だった。
話は地球の成り立ち・構造から入った。日本の原発は昔、海底だった所にあるそうだ。また耐震性についても中越地震時に柏崎原発が壊れた事で引き上げられるなど、必ずしも信頼性のある数字とはいえないとの事だった。そういう意味でも2006年の中越地震以前に構造計算をされたものの安全性は疑問符が付くとの事だった。また、耐震性は1つの枠ではあるが、大地震という様々な様態を含む複雑な動きについていける保証はないそうだ。
また、1991年の雲仙普賢岳の噴火以来、阪神淡路大地震・鹿児島県川内市の震度6弱の地震・三宅島の噴火(この時には富士山の噴火は大丈夫かと話題になった)・新潟中越地震・中越沖地震・桜島噴火と日本での地殻変動が続いている。また桜島の噴火から10年で関東大震災が起こった大正時代とも酷似している。さらに2009年から2010年にかけて静岡(M6)・スマトラ(M7.6)・サモア(M8)・バヌアツ(M7.8)・チリ(M8.8)と環太平洋でも地殻変動が続いている。これら全体を見たうえで原発問題の安全性も考えるべきだ、との事だった。(この講演会の時点ではまだ東日本大震災は起きていない)
聞いている内にバスは藤枝岡部ICを無事通過。運転手さんによると今回の2日間の走行距離は1300kmだったそうだ。9時を過ぎていたが、それぞれに乗った所で下してもらっての流れ解散。濃い研修旅行だった。