新 潟     2016

   3月12日に新津の伯父が亡くなった。しばらく前から体調が思わしくなく、末期の肺ガンも見つかっていたそうだが、年も年だしという事で様子を見ながら入退院を繰り返していたようだ。「100歳まで頑張る」と言っていた伯父だが、享年96歳、ちょっと早めに逝ってしまった。
   葬儀は急で間に合わなかったので、50日祭の納骨にはお参りをしようと4月29日早朝より1人でドライブ。R52の太平洋側の清水は藤や桐の紫の花の盛り、山中に入れば八重桜、もっと深く山の中を進めば小桜系の山桜、さらには桜は蕾で辛夷の花盛りの所もある、やがて日本海側に抜けるとまた藤の花、日本列島を横切ってみると、いつもの事だが広さを感じる。
   我が家から出かける時はたいてい追い立てられる。父が健在の時もそうだったが、TANUKIもせっかち、「連休初日でもあり、遅くなって心配をかけないように」と7時出発予定を6時40分に繰り上げ。廻しておいた洗濯物は干してくれると言っている。
   実は前回の新潟に行きよりも新東名を使える分ずいぶん時間短縮している。岡部ICから新東名へ、新清水ICからそのままR52につながる。幸い道は混雑さえしていない、ただしSAは混雑表示がされていたが…。
   7時40分頃に着いた富沢道の駅でとりあえずトイレ、とりあえず積み込んできた荷物も使いやすいように入れ替えた。この時間でも駐車場はかなりにぎやかだった。
   道沿いの藤の花を楽しみながら、できかけの中部横断自動車道の増穂ICへ。来年開通を予定しているらしくインターに入るまでのそこここで遠目に工事をしている様子が見られた。9時前には双葉JCT。中央高速に入る。八ヶ岳Pで一休みして高速に体を慣らす。こちらはまだ八重桜の季節。道路に花びらがはらはらと落ちてくる。岡谷JCTを長野道に進み姨捨SA、まだ11時だが少し早めの昼食。ここまで来るとまだ肌寒いので山葵とろろ蕎麦を食べた。コーヒーも飲んで1時間近く休んでいざ出発。
   更埴JCTから上信越自動車道へ。帰りに寄るつもりで行きは通り過ぎた小布施付近は長い桜並木が花びらをはらはらと飛ばしていた。この辺りから心配していた雨、しかし霧は出ていない。雨に押されるように妙高Pでカーナビの目的地セット。実は自宅からセットすると東京経由で関越道を勧められる。それでなくても渋滞していそうな所には近づきたくない。ついでにしばらく使っていなかったCDの使い方を確認。とりあえずの賑やかしに音楽を流してスタート。この付近は桜はまだ蕾で辛夷の大木が見事な花を付けていた。
   12時半には日本海が見えてきた。みんな海が気になるのだろう、路肩に「わき見運転禁止」と大書きしてあった。米山SAで一休み。少しは足を動かして体をほぐしたいのだが、寒い!!ここの名物だというサバサンドを食べた。パンにサバのから揚げと玉ねぎが挟んであるのだが、繁盛しているのだから熱々のから揚げで食べたかった。
   TANUKIがTELしてきたようなので電話をしてみる。新東名のどこかで結構大きな事故があったようだが、とっくに抜けていたので分からなかった。
   2時半頃に黒埼P、一休みをしながら高速を出た後の道をチェック。最後がものすごく分かりにくいのでカーナビの縮尺を5kmから50mにする。新潟中央JCTから磐越道に入り、新津ICで降りる。
   カーナビの案内に従って最後の小道を確認するところで対向車にぶつかりそうになったが、何とか無事に曲がりこみ、思っていたよりもすぐに到着。ちょうど従弟夫婦も買い物から帰ってきたところだったらしく、3時ちょっと過ぎに無事に合流できた。
   まずはお骨になってしまった伯父さんにご挨拶。公式の写真の下にこれが最後の頃の写真というのが置いてあり、ほわっとしていていかにも伯父さんらしかった。埼玉から夫婦で頻繁に様子を見に来ていたようだが、「ちょっと危なくなってきたかもしれないから、もしもの時にはお葬式をよろしく」と、やはり親戚の沼垂教会にお願いして帰ってからすぐに「危篤」の報が入ってとんぼ返りをしてきたようだった。
   帰る前に「足が痛い」というのをさすっていたら気持ち良さそうにしていたので、こんなにすぐとは思わなかったと嫁さんも言っていた。
   ところで、「ここに泊まれるか」と聞いたら「奥はつぶしたし、台所もないので水も止めてあるから…」との事で市内の宿をとってあるとの事だった。
   本やら書類やら物やらが山と詰め込まれていたのはどうしたのと聞いたら、伯父の一人暮らしの頃からずいぶんネズミにやられていたとの事で、軽トラを借りてごみ処理という事になったそうだ。ここでも嫁さんが頑張ってくれたらしく、「感傷に浸らないで良いからね」とゴミはゴミとして片づけてくれたようだがホコリか虫か肌荒れやアレルギーが出たりもしたそうだ。
   それでも伯父が亡くなった時、「あんなに教会を気にしていたのだから」とお広前に連れ帰り、2人でお通夜をしたそうだ。「とにかく寒かった」と言う従弟、「電気はあるので電気ストーブは使えたけど、トイレも水もないのはやはり不便でした」と嫁さん。
   お葬式には連島の叔父だけでなく日比の叔母や十勝の従弟も来てくれたと言って、ひとしきり彼らの話をした。
   その後は10日ごとに20日祭・30日祭・40日祭と新潟まで通ったそうだ。「最後位ちゃんとしたかった」と何気なく言うが、2人ともそれぞれ仕事を持っているのだから長距離を通うのは大変だったろうと思う。
   話しながら御神前のお供え物の支度も終わり、宿で従妹夫婦と合流しようという事になった。
   4時前には宿に着き、「まずは1杯」とビールをもらう。「これもどうだね」と宿のダンナさんが浸し豆を差し入れてくれた。
   昔、新津は鉄道の起点になっていたというだけあって調度なども立派な宿だが、今はおかみさんが1人で切り盛りをしているようだ。だんなさんはこの家のまねきねこ(尻尾の長いグレーの大きな猫)のお守り係らしく、首にケガをしている猫に長い紐を付けて家の中をあちこちと移動させているようだった。
   5時頃に従妹夫婦が到着。こちらは新幹線で九州から。従妹の方が姉になる。末娘を連れてこようかと思ったが、彼女もすでに社会人、仕事もあるので今日は留守番との事だった。
   全員がそろったところでまず近くの温泉へ。トロリとしたお湯で気持ちがいい。女性3人はみんな目が悪い、「眼鏡を取ったら顔まで分からないから」とそれぞれに複線を張って、帰りの脱衣場でまたそれとなく合流。
   男2人の方は湯上りの1杯の後、従弟が「ロッカーのキーが無い!」の一騒動をしたが、「置き忘れていたよ」と従妹のダンナが探し出した。
   1度宿に戻って荷物を置いて、夜の町へ。基本的に駅の近くだし、狭い範囲を歩いているのだが、どこからどう歩いているのだかよく分からない。とりあえず賑やかな居酒屋に座り込む。
   従弟は魚屋なので「今ここいらではこれが美味い」と選んでくれる。美味しいが、あれもこれも「良いよ1人で食べちゃって」と言われても許容量がある…。ミカキニシンも白身の魚もそれぞれに美味しかったが。また油揚げを焼いたものもこの辺りのメジャーな食べ物らしいが、「お母さんの味を思い出す」と従妹が懐かしんでいた。
   ところでこの姉弟も第六感が強いらしく、弟夫妻は伯父さんが亡くなる頃に旅行計画を立てていたが何となく気乗りがしないでぐずぐずしていたらしい。そうしたら姉の方は「あの頃はあまり体調が良くなかったんだよね」とこちらも外出計画を立てずにいたらしい。逆に伯父さんが「そろそろ会いに来い」と念を送っていたのかもしれないが…。
   「しめはラーメン」と「ここが美味しいんだ」というラーメン屋へ。ずいぶん食べたのでおとなしく醤油ラーメンにしたが、大盛にから揚げまで乗ったメニューが人気だそうだ。それでも「以前に比べて量が減った」そうだが、町全体の高齢化で以前の大盛を食べきれる人が減ったせいではないかとの事だった。
   みんなたっぷりと食べたはずだが、従弟も従妹も「この店のこれが美味しかった」昔を懐かしんでいた。意外と接点が少ないのは男の子と女の子の差なのだろうか。
   明けて4月30日朝、伯父さんの機嫌を表したか晴天の空が広がっていたが、寒い!
   従弟夫婦は準備もあるので先に朝食を済ませて教会へ。従妹夫婦と私はゆっくりと8時頃に朝ご飯。歩いても大した距離ではないらしいのだが、従妹は今日九州の自宅へ、ダンナの方もこれから佐渡の実家へと向かうので荷物を持たなければならない。というわけで私の車でスタート。「そこから行けば」が一方通行の出口だったり、「こんな道ができたんだ」だったりで結局カーナビ頼り。歩いた方が早かったかという時間がかかったが、無事に到着。車も家の奥をつぶしてしまった空き地に無事に収まった。
   すでに今日の祭主の先生が見えていてご挨拶。沼垂教会は何度か行ったが、代替わりしていて彼とは初対面。
   万代教会の先生とお嬢ちゃん達も見える。こちらも同じ親戚筋。実は彼のお母さんの名前はひょんな所で話に出たことがあった。(知り合いの岡山の主任児童委員さんとの話の中で、「お近くですよね」と言ったら、「自分は知らないけどかみさんが同級生です」という話になった)今、ご両親はそちらの教会のサポートに帰っているそうだ。
   そうこうしている内に信者さんもお見えになり50日祭。祝詞があげられ玉串が奉げられる。
   神前でのお祭りを終えて納骨に。同じ区内でさほど遠くはないのだが、車は山道に入っていく。実は公園になっていてゴルフ場などもある標高100mもない所だそうだが、感覚としては緑濃い山奥。霊園の前、道路の行き止まりが車1台通るのがやっとの地道なのは、そこだけ所有が新潟県で手を付けていないかららしかった。奥にはかなり広い駐車スペースがあるし墓地も大きいので、お彼岸やお盆などお参りラッシュの時にはどうなるのだろうと思うのだが。
   埋葬にはそれぞれの地域の風習があるものだが、この辺りでは骨壺を収めるのではなくお骨を収める。カロートの下は土で地に戻っていくという事のようだ。ここは伯母さんの葬儀の後で作ったお墓だそうで、待っていたた伯母さんと一体化して伯父さんも満足されたことと思う。基本的に伯父・伯母の夫婦だけのお墓にするつもりでいるようだ。「俺は魚屋で魚の世話になっているから海に散骨をしてほしい」と従弟は言っていた。
   墓前でもまた祝詞があげられて玉串を奉げ無事に納骨も終了。
   ところで、本来は今年が伯母さんの15年祭になるそうだが、1年待ってもらって来年伯父さんの1年祭とともにお祭りをするそうだ。
   お墓から戻って、ちょうどお昼にお直会。先生方の間に伯父さんの席も設けて、まず一献。従弟の有難うございましたの挨拶の後、彼の兄貴分だという信者さんが乾杯の挨拶。後は和やかな食事会になった。
   ここでも魚屋に「DORA姉さん、サクラマス、今が旬で美味いから」とまたまた世話を焼かれた。天ぷらやお刺身(刺身が後から出てきて焼津人としてはびっくり)、貝(ハマグリじゃなくて…、外国産の貝らしいが、船に付いて来て日本近海で繁殖しているらしい)のお吸い物、さらにご飯と味噌汁と漬物、フルーツと食べきれないほど登場。
   「親父を思い出してもらえると思って」と言う偲び草を渡されて、お開きとなった。「まだ飲み足らん」としっかりテーブルの前に座り込んでいた伯父さんの写真を、危うく置いてきぼりにするところだったが…。
   ここで従妹は帰宅、従妹のダンナは佐渡へと向かうため一緒に駅へと向かっていった。私は一足先に宿へ帰らせてもらって一休み。
   「明日は朝が早い?じゃあ早めに飲みに行こう」と従弟の兄貴分に誘われて、4時半からまたも飲み会。従弟の嫁さんが明日は仕事のため8時には所沢に着きたいと言っているので、明け方立つというのだが…。
   まずはビールで乾杯。そしてお約束のように大きな焼き油揚げ。うるいの酢味噌やダイコンと油揚げを粕煮にしたものなど、ローカルっぽいおつまみが出てくる。さらに大ぶりな魚のみりん干しやアンコウのから揚げ。珍しかったが、朝・昼とかなりたっぷりと食べているのでそれほど食べられるものではない。男2人は食べるより飲みながら色々な話が尽きない。この兄貴分、この店のおかみさんから「飲みすぎるから日本酒は禁止」と言われているようだが、私が日本酒に切り替えたために、そのほとんど飲んでもらう事になってしまったが…。
   2軒目はガラリと雰囲気を変えて静かなバー。ご夫婦でやっておられるようで、ママさんが話し相手、マスターはギターで歌の伴奏をしてくれる。ちょうど私のツボにはまる70年代のフォークが多いようだった。「生演奏の良いところは歌いたいようにうまく乗せて歌わせてくれるところだ」と男2人気持ちよさそうに何曲か歌う。
   従弟に言わせると「ガキの頃はとても敷居が高すぎてこの界隈には来られなかった」そうだが、高校の制服のまま来てマスターに追い返されたらしい。
   夜は更けてとはいえ、スタートが早かったのでまだ9時過ぎだが、女性2人はここで帰ることに、男2人は「もう1軒」と夜の中に消えて行った。
   明けて5月1日、こちらが起きた頃には当然ながら従弟達は出発していた。
   だいぶ体が硬くなっていたのでテレビでラジオ体操が始まったのを良いことにコソッと体を動かす。NHK俳句なども見てから朝ご飯。
   「筍はお好きかしら」とおかみさんが筍ご飯に豆腐と筍のおつゆ、煮物にも筍が使ってある筍尽くしの朝ご飯を運んでくれた。こちらはこれから筍の季節だそうだ。食後のコーヒーを頂いて荷物をまとめていざ出発。「途中でお飲みなさい」とだんなさんがリポビタンDをくれた。
   今回は途中の寄り道はなし。7時45分に出発してそのまま新津ICから磐越道。北陸道に出て黒埼Pで荷物の詰め替え。ついでにおみやげを探す。米山SAでもちょっと休憩。
   さらに上信越道に入って黒姫野尻湖Pでも一休み。但しどこも肌寒いので、軽く体を動かしてトイレ休憩程度。ただここでは一茶の句碑が3つあり、解説版などもあったのでちょっと興味を持って読んでみた。一茶はこの辺りの出身であったようだ。山に囲まれたこの辺りではまだ山桜が咲いていた。
     
   次は予定していた小布施のハイウェーオアシス。さっきの黒姫野尻湖Pから20分も経っていなかったのだがとにかく寄る。ようやく少し暖かくなってきたので楽しみにしていた栗ソフトを食べる。\380もするが食べ甲斐もある。
   更埴JCTを過ぎてちょうど昼頃に梓川SA。レストランもフードコートもさすがにごった返していた。パン屋さんで山葵コロッケパンと玉ねぎ山賊バーガーを買って車の中で食べた。私にしては珍しくコーヒーではなくまだ残っていたお茶と一緒。車を運転していただけでたいして動いていないのにペロリと食べてしまった。
   岡谷JCTを過ぎて中央道に入った頃、車の腹ペコを気にする状況に。R52まで無事に進めばいくつかカードの使えるガソリンスタンドもあるはずなのだが、一応5月の連休中の日曜日、何があるか分からないので先手必勝。諏訪湖SAで給油することにした。SAは結構込み合っているが誘導の人もかなり出しているようで、空きスペースへ誘導してくれるのだが、せっかくの親切はパスしてガソリンスタンドへ。この車に替えて人の居るガソリンスタンドへ入ったのは初めてかも…。給油中に「点検しましょう」と言われてボンネットの開け方が分からなかった。タイヤのチェックもしてもらってスタート。2時過ぎには増穂ICからR52へ。
   道路は空いているのだが、ゆばの里でトイレと思ったら、観光バスが何台も止まっていてトイレも渋滞していた。一休みをしてR52をひたすら南下。新清水ICでそのままR52で行こうか新東名に乗ろうか少し迷って新東名に入ったとたんに渋滞に巻き込まれ、カンを信じてR52で行けば良かったとちょっと後悔。入ったものは仕方がないのでひたすら並ぶ。動かないわけでもないのでノロノロと前の車に付いて行く。いい加減疲れて『空きあり』の新静岡SAに入ったが…、ここも渋滞。大型車用の駐車場に誘導されて何とか止まる場所を確保した。トイレに飛び込み、半端に使った足を慣らすためにしばらく売店を歩き回った。ここまで来ればあと少し。藤枝岡部ICから家に戻ればまだ明るさの残る5時過ぎだった。
   家ではTANUKIが夕飯の沖縄風炊き込みご飯の仕込み中だった。