令和1年6月23日〜24日、焼津市ボランティアコーディネーター(VC)で被災15年目となる中越地震の被災地の視察に出かけた。本来は焼津市社協によるステップアップ講座として行われる予定であったのだが、直前に新潟県村上市で震度6強の地震が起きたので「こんな時に如何なものか」と社協の腰が引けたので、会独自の研修旅行にしましたと会の事務局からの説明だった。
朝6時45分焼津駅出発、という事でほとんどが6時半頃までに集合。予定通りに男女ほぼ半数ずつの16名を乗せたバスがスタートした。
東名焼津ICから清水JCTを新東名へ。駿河湾沼津SAでトイレ休憩。怪しげな空だが降りている間に傘を開くことなくありがたい。御殿場JCTから東名に戻りさらに圏央道へ。狭山PAで2度目の休息。静岡で十分お茶を見慣れているはずなのに、わざわざ狭山茶を買い込んできた人がいた。ここも傘無しで過ごせて有難かったが「途中けっこう降っていて運転手さんは大変だったんだよ」と前に乗っていた人から聞いた。
ここからは「せっかくだからやってみて」と『防災検定』の問題が配られた。あまり悩む間もなく回答編も配られて、少し解説もしてくれた。
その間、バスは関越道へ。「トイレに寄ってヤァ」のリクエストで赤城高原SAで小休止。そろそろ皆さんほぐれてきて、最後尾では「○○神社が」「志太郡衙が」と歴史談義が始まっていた。
湯沢ICで1度高速を降り、近くにあるレストハウス越後(錦鯉ランド)で昼食。少し時間が押し気味になってしまい、幹事さんはハラハラしていたようだ。とうとう雨になったが、傘をさす間もなくレストハウスへ。入り口前の流れの中でたくさんの巨大な錦鯉が迎えてくれた。
食事を終えて一休みして、湯沢ICから関越道へ。ほぼ40分で小千谷IC。降りてじきにおぢや震災ミュージアムそなえ館へ。後ほど講演をお願いしてある桑野さんが迎えに出て下さっていた。
まずはそなえ館の案内の方の先導で、発災シアターへ。データーの説明と共に当時の様子が3Dで迫ってくる。全席ではないが地震の振動を体験できる席もあった。さらに避難状況の写真などのある部屋で、当時の避難所の様子などの説明。避難所に指定されていた建物も被災して入れない所もあり、多くの人が車中や自宅の車庫や物置などの無事だった建物での避難生活を余儀なくされたそうだ。私の従弟の嫁さんの実家がこちらにあるのだが、「しばらくご近所の皆さんと近くのビニールハウスに避難した」という話は聞いていたが、これはこの地区の自治会役員さんの英断だったようで、これから収穫というミニトマトのハウスをまず雨風をしのごうと利用させてもらったそうだ。大変だったのが大勢の人いきれで結露がひどく、中で傘をさすほどだったとの事だった。
ここを訪れる人達は各地の自治会の役員さんや自主防関係者、民児委員さんなどが多いそうだ。我々は軽く流してお話を聞いただけだが、じっくりとした研修にも応じてくれるそうだ。それでも気が付けば1時間。ここからバスで10分ほどの小千谷市産業界館へ移動。災害支援ネット;ちゅうえつの桑野敏久さんのお話を伺った。
ご本人も当時被災をし、途中で道路崩落で落下した車の中から人を救助して応急手当をしたり、道路の寸断で帰宅できなくなり、それこそビニールハウス避難所で支援を受けたり、様々な体験をされたそうだ。その体験を踏まえて、どんなに準備をしていたとしても十分ではない。しかし、日常で出来ないことは非常時には確実にできない!よと強調しておられた。災害時の対応も想像力と状況や情報に対する取捨選択能力が必要だよという事も仰っていた。緊急避難袋の中身も暑い時と寒い時では必要な内容が違うはずだし、年に2回はチェックをして賞味期限の迫ったものは食べてみて好きか嫌いかを家族で判断するなどして、ローリングストックを心がけると良い、必要な物はそれぞれ違うしという事も話されていた。
お話しの後は開館2Fの小千谷の特産の繊維製品やお土産物の販売店を見て回った。「使って下さい」と3%引きの券を頂いた事もあって、買い物を楽しんだ方も多かった。
ここで1時間半ほど過ごした後、バスはR17を長岡方面へ。錦鯉の町らしく、道路をまたぐ地下通路の入り口も鯉のデザイン。
この道中の信濃川沿いに国道に車が埋まって92時間後に幼児が無事に助け出された現場が妙見メモリアルパークとして保存されているそうだが、雨も降っていて、道すがらのためよく分からなかった。道路は当時よりだいぶ山側を通っているようだが、日本海側の川はドンと流れがあって、太平洋側の広い河川敷がある川と様子が違う。ただ、よく見ると河岸段丘になっている。
30分ほどで長岡市の本日の宿、法華クラブ長岡に到着。すべてシングルルームで、幹事さんが部屋の割り振りをして鍵を渡してくれた。この鍵が電気のスイッチ代わりにもなっていて、最初戸惑ったが覚えればキーの取り忘れもなく、なかなかの優れものだった。
1時間半の休息時間を挟んで6時半から隣の居酒屋で夕食という事で、ホールで市内のパンフレットをもらって部屋で一休み。
6時半すこし前にホールに集合して、お隣の居酒屋・日本海庄やへ。小雨模様だが、冬の雪対応で頑丈なアーケードになっているので雨の心配は無し。
何となく男女分かれて座ったが、飲む人は飲み、食べる人は食べ、割合静かな食事会になった。女子グループの方では何故か自己紹介が始まり、意外と色々なつながりやご縁がある同士なのが見えてきた。
初めに豚しゃぶとお刺身、2巻のお寿司が出てしばらく間が開いたので「これだけ?」と思ったのだが、後半に鮭の蒸し物や揚げ物類が山と出て、お腹いっぱいになった。
食後はそのまま解散。部屋に戻って下にある大浴場へ。そう広いわけでもないが、部屋のユニットバスより入りやすい。面白い事に、女性用だけ入口にキーがあって暗証番号を入れないと入れないようになっていた。
グッスリ眠って翌朝は6時起床。「他のお客さんもいるのでまとまって朝食は取らないので、集合時間までに各自食べて下さい」との事だったので、7時頃出たらエレベーターでお仲間と合流。その人達と食堂に行った。
魚沼コシヒカリの本場なので今日はご飯。そしてのっぺ汁は欠かせない。後は鮭や油揚げ(新津の従弟達の影響か…)卵にサラダ、それでもコーヒーと牛乳は目を覚ます必須アイテム。しっかりデザートを確保してきた人がいて、もちろん私も取りに行った。3人でおしゃべりをしながらのんびりと朝ご飯。こんな事をしながら仲間ができていくのだろう。
部屋に戻って荷造りをして8時20分ロビー集合。皆さん遅れることなく、玄関まで来てくれたバスに乗り込む。
本日は雨。40分ほどで着いた木籠メモリアルパークは旧山古志村の木籠集落。ここを流れる芋川がせき止められて震災ダムとなり水没した集落だ。小川の流れに沿って点々とあったであろう家々が軒まで水没したそうだ。このあたりの家は雪深いせいで、土台もしっかりとしているし、1Fはコンクリート造りの車庫や物置として使われ、実際に住んでいるのは2・3階、さらに屋根も高く作られている。というのは震災遺構として2軒の家が残され、それも軒まで草に埋もれているのだが、その新しさがもの悲しかった。実際に1軒は新築のお宅だったそうだ。年月の内に屋根が傷むと全体の傷みが大きくなるので最近屋根を葺き替え修理までしたそうだ。
震災3年後には、かなりかさ上げをした所に復興道路が作られたが、月曜日の朝というのにほとんど通る車はなかった。
道を10分ほど戻って、やまこし復興交流館おらたるへ。おらたるとはこの土地の言葉で「私達の場所」という意味だそうだ。入り口では山古志の特産の大きな錦鯉が出迎えてくれた。ここで案内をして下さったのは震災当時は図書館で働いていたという方。避難所の不足で図書館も避難所になったそうだが、当時彼女は妊娠中で、身体は思うように動かない、仕事は山ほどあるでかなり大変な思いをされたようだ。
まず地形模型シアターで白の地形図の上に当時の地震の様子などをプロジェクションマッピングで投影して状況を説明してくれた。あの地震は余震が大きくしかも何度もあった印象が残っているが、この付近を震源にした大きな地震が4つも起こっていたそうだ。その後、災害、避難、避難所、復興とたくさんの写真などを巡りながらの説明が続いた。阪神での避難所の反省も行かされ、特に仮設住宅は地域ごとに纏まり、高齢者や独身者が孤立しないように気を配ったそうだ。また集会室での活動で孤立を防ぐ努力もされていたそうだ。
説明の後は1Fのホールで一休み。コーヒーを飲んだりソフトクリームを食べたり、おみやげを見たり。アンケートも廻ってきた。
次はバスで30分弱離れた川口きずな館へ。こちらでは復興の支援に当たった方からお話を聞いた。
中山間地で農業が主産業、観光客など外部の人もほとんど来ない集落で、役場に災害対応のマニュアルもない中で災害対応に当たる事になったそうだ。それでも被災1週間後には災害時ボランティアセンターは立ち上がったが、ボランティア受け入れの心の準備ができていなかったそうだ。「大丈夫です」と言われてしまうとボランティアも手を出しにくく、それぞれの避難所に専任の担当者を置いて顔なじみになり、少しずつニーズを引き出していったそうだ。
そんな中で半年ほど続いたボランティア活動には多くの大学生が来てくれ、地域の人の意識も少しずつ変わり、お盆にはこちらへ戻ってくる学生さんとの交流なども続き、若い人が移住してきてもなかなか(仕事や学校の問題などで)生活ができないが、地域の人々と外の人々の交流をメインに地域を盛り上げていこうという活動が続いているそうだ。
以上で見学先はすべて終了。中越メモリアル回廊として整備されている施設群だそうだ。発災から15年、大きな施設ではないが、各地域にこれだけの施設を作り、伝え続けている地域の皆さんには敬意を表したい。
さて我々は堀之内ICから関越道へ。石内ICを出てすぐの所にある魚野の里というドライブインで昼食。30分程度時間が押していたが、朝をしっかり食べた上におやつの配給、参加できなかった方からのお菓子の差し入れなどであまりお腹が空いた感はない。日本海側だし、カニ味噌だれでお刺身を食べるのが名物らしいが、カニ味噌は私には鬼門。好きだという人に進呈して、普通にお醤油で頂いた。1時間ばかりの昼食休憩で、食事の終わった人から売店を冷かしたりお土産を探したり。
後は高速で関越道→圏央道→東名とまっすぐ帰還。間の関越道高坂SAと東名の足柄SAでトイレ休憩。ほとんどの皆さんがウツラウツラしながらの帰り道だった。予定通り焼津駅に6時半過ぎに到着。それぞれ家路についた。