年に1度、市民児協理事会でよその地域の民児協運営の様子を勉強する視察研修があります。
   今年は私も部会長で理事会メンバーに入っているので出かけました。
   今回の目的地は木更津市民児協。海に近く、人口・民児委員の数などはほぼ近いですが、木更津市の方がかなり広く、14地区民児協に分かれ、社協も同様に別れて車の両輪となって地域福祉に当たっているようでした。逆に部会活動は高齢者・児童対策・援護対策の3部会に集約され、研修を行なっているようでした。

   3月11日、良いお天気になった朝7時半前、TANUKIと一緒に家を出る。家の前で右と左に分かれるが…。テクテクと歩いて行く途中で「おはよう」と言ううちの地区会長さんと遭遇。
   さすが理事の皆さんは集まりが早く、時間前に全員集合、市役所や社協の皆さんの見送りを受けて出発。本来何人か一緒に行くのだそうだが、市議会の委員会が終わっていないので事務局担当の女性が1人付き添ってくれる。後は中型バスを運転する運転手さんと添乗員さん。
   バスに乗ったとたんに「主任児童委員さんにお願いがあるのよ」と保健センターでボランティアをされている方からお話がある。保健センターの就園前の子供達とお母さん対象のプログラムと、その中から子育てに困っている親子対象のプログラムへの協力を申し入れられる。
   バスの方は焼津ICに入った後、添乗員さんからの日程説明、さらに会長の挨拶。お菓子も出てくるがお仕事があるのでアルコールはお預け。
   富士川SAと海老名SAでトイレ休憩を取った後、横浜ICからアクアラインへ。道路はほぼ空いていてスイスイと流れている。その間、それぞれの担当部分について先方からの資料などを見て皆さんお勉強。「誰が主に説明するか決めてよ」と副会長さんからチェックが入る。
   11時過ぎにはお昼を食べる予定の海ほたるPAに到着。いささか早過ぎて食事の準備ができていなかったのでその間に見学。この海ほたるまで川崎市側からは長いトンネル、ここから木更津市側には橋で繋がっている。はるか沖の白い物体が何だろうと皆で言いあっていたら、トンネルの換気口だとの事だった。良い天気で大きな船に乗っているようなイメージだが、「お天気の悪い時に来たら大変だったよ」と話していた方がいた。かなり荒れて橋は通行止め、デッキを歩くと吹き飛ばされそうだったそうだ。
   ここは海の上、お昼はアサリご飯とお刺身などお魚がメインだった。
   さて、橋を渡りきれば木更津市。会場は木更津市総合福祉会館。すぐ側まで行って運転手さんが場所を探しまわったが予定時間には余裕で着いた。先方の社協の職員の方や民児協の方が外で出迎えてくれた。
   先方は会長さんはじめ理事の皆さんと各部会長、主任児童委員長そして事務方の社協の方が待つ中、会場に迎え入れられてさっそく民生委員児童委員信条、児童憲章の唱和から。
   双方の会長挨拶の後、それぞれの副会長から市の概要説明がある。木更津市は『日本武尊が上総へ渡ろうとしたとき、にわかに海が荒れ、船が難破しそうになりました。尊の命を救おうと、妃の弟橘媛が自ら海中に身を投じ海神を慰めたので、怒濤はたちまちにしておさまりました。上陸した尊は太田山から海を見下ろし媛をしのび、何日もこの地を去らなかったことから、君不去(きみさらず)と呼ぶようになったといわれています。』という地名伝説があるそうだ。そして焼津市はもちろん同じ日本武尊が敵に火を掛けられて焼き殺されそうになったが、持っていた火打石で逆に火を放って剣で草をなぎ払ってこの危機から逃れたという伝説の地だというわけで、双方大いに盛り上がった。また、市の広さは違うが、人口や高齢化率、民児委員の数などはほぼ同じで、海辺の町という共通点もあり、民児協の運営方法や災害時対応などについて大いに話が弾み、時間を30分延長してもまだまだ話足りなかった。
   4時少し前に木更津市総合福祉会館を後にして泊まりは千葉県中部を横断するような形で勝浦市。千葉県という所は海を外れたとたんに山の中に入り込んだ印象がある。途中ふれあいパークきみつという道の駅でトイレ休憩。印象はダムなどもあって山の中なのだが、農産物などの物産館の入り口で地海苔や小魚などを売っている。個人的にはポストを見つけて朝から出しそびれていた郵便物を投函。5時半頃バスはつつがなく本日の宿勝浦ホテル三日月に到着した。
   今回女性は事務局さんの他5名。事務局の方だけ別に部屋を取って後は1部屋になった。せっかくの温泉なのでまずお風呂。そして夕食。ここも海が目の前なので海のもの尽くし。嬉しいのは皆が座って始まってからお刺身が出てきたこと、さらに天ぷらもお皿だけ準備されている所に揚げたてが後から配られた。また、あわび・サザエ・さらに小鍋と火を使うものが3つもあるのも時間差で火を入れてくれて食べやすかった。もちろん1仕事終えてアルコールも入り皆さんリラックス。
   「お腹一杯」とそのまま皆で部屋に戻ってマッサージを頼む。「これが1番の楽しみなの」という先輩。結局皆でお願いして3人のマッサージ師さんを部屋で借り切ってしまったらしい。皆そろって「凝ってますねぇ!」と言われていたが、1時間\4.000、とても気持ちよくリラックスできた。
   翌朝も元気に目覚めてまず温泉。朝食はバイキング。和食・洋食ともかなり良くそろっていた。
   8時半出発。隣町御宿町の月の沙漠記念像を見学に行く。ほんの15分位で到着。もっと広い砂丘なのかと思ったらそれほどでもなく、トンとらくだに乗った王子様とお姫様が寄り添っているだけ。すぐに海。
   さて、この月の沙漠記念像の作者は、彫刻家の竹田京一氏(S11〜H12)で志太郡広幡村上当間(現・藤枝市)の生まれである。藤枝農業高校を卒業後、佐藤忠良氏に師事し文化学院美術科の講師になっている。この像はS44年に制作されたそうだが、これは童謡『月の沙漠』の作詞者である加藤まさを氏との出会いによるものだそうだ。
   加藤まさを氏(M30〜S52)は本名を正男といい、やはり現在は藤枝市になる西益津村田中に生まれている。小学校入学時に父が浦和中学へ赴任したため、高等小学校卒業までを同地の祖父母の元で育っている。その後、東京の両親の元で中学・大学と進むが、絵に興味を持ち学生時代から少女向けの絵葉書などを出版し、竹久夢二や蕗谷虹児などと抒情画ブームを築いた。子供の頃から身体が弱く、T8年の夏休み、療養のために御宿街で過ごし、『月の沙漠』はT12年に『少女倶楽部』に詩と挿絵として発表された。そして佐々木すぐる氏により曲がつけられ関東大震災後に大流行したそうだ。
   この2人が同郷という事で出会った事から御宿町の月の沙漠記念像はS44年にこの地に建立された。加藤まさを氏の御宿町への思い入れは強かったらしく最晩年に東京からこの地に転居している。
   ところで2人の故郷である藤枝市の文学館にこの月の沙漠像の小さなものが藤枝ロータリークラブの依頼で制作され置かれている。H12年に作られその除幕式の直後に交通事故で竹田京一氏は亡くなられたそうだ。
   さて、もう1度昨夜の宿の前を通り過ぎ、30分ほどで誕生寺へ。このベタな名前のお寺は日蓮上人誕生の地に立てられた古刹だ。日蓮上人誕生にまつわる伝説『庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、 時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ渕」、 海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」の「三奇端」』 を境内の12歳の日蓮上人像の前の写真屋さんが説明してくれた。集った鯛に由来するのか「鯛の墓」まである。幕末から明治期の皇室とも縁が深かったらしく、宝物館には日蓮上人の生涯を描いた絵やお経などの他に大正天皇の産着などもあった。また、祖師堂の鬼瓦は世界1の大きさだそうで、たたみ21畳分もあるそうだ。
   誕生寺の前の海を鯛の浦といい、船端を叩くと寄って来るという鯛を観光船で見に行く事ができる。残念ながらそこまでの時間は無かったが…。
   近くの潮騒市場で一休み、おみやげも見て東京湾カーフェリーに乗るために金谷方面へ。ちょうどお昼に着いてまずカーフェリー乗り場で昼食。またもアサリの炊き込みご飯とお刺身。山葵味のひじきが美味しかったので買ってきた。この食堂で隣り合わせた団体さんが船橋の町内会のお年寄りの団体で、お世話係に民児委員さんが付いていて「民児協の方ですか」と話しかけてきてしばし交歓。
   食後まだ時間があるので鋸山ロープウェイへ。元々は石切り場だったようで、頂上駅にはその資料館もあるようだったが閉鎖されていた。代わりにねこが何匹か日向でのんびりと昼寝をしていた。
   さて、フェリーにはバスごと乗り込んで中でバスから降りる。途中ソフトクリームを買い込んで上部の客室へ。ガラス窓を通した日差しが暑い。金谷→久里浜間30分ほどの旅だが、座っているのに飽きて甲板に出たら皆でカモメにエビセンをやっていた。オホーツク同様たくさんのカモメがもらおうと後を追ってくるが、放り投げたものは取らず手からとっていく。陽ざしは暖かくても吹きさらしの甲板の風は冷たく早々に船室へリタイア。行きかう船が多くなると終点間近。港に着いてからまたバスに乗り込んで横浜横須賀道路から東名高速。海老名SA、富士川SAと小休止を取りながらの帰り道、「予定より早いからラーメンでも食べようよ」と言い出した人がいて日本坂PAで最後の小休止、ここから焼津ICはすぐ、「市役所まで帰らずに途中で降ろしてもらおうよ」とうちの地区会長さんが交渉してくれて途中下車、6時半頃には家に帰り着いた。