新 潟  2004

   「ちょっと新潟までドライブに…」と言うのはこの土地からでは唐突だが、「伯母のお年忌で新潟まで…」となれば「それは遠くまで大変です」という話になる。
   というわけで、6/18日の午後、TANUKIにはまさにこの手で時間休を取ってもらって新潟へと出かけた。
   目的は80才を過ぎた伯父が回顧録を書きつつあるのをパソコンでまとめる手伝いをしているのだが、タイトルと書き出しから先に進まないのを少々発破をかけようという心積りがまず1つ。さらに、この春ようやく結婚した従弟が当然嫁さんを伴って来ているはずなので是非会いたいと思ったこと、そしてもちろん伯母の三年祭が19日にある。
   さらに、ここ新津まで来れば磐越道を少し西に入り、数年前に故郷に戻って会津でキノコ栽培をしている農大の仲間の所までわずか、ついでに訪ねてみる事にした。

     


   6/18まずまずの晴天、午前中に布団を干し、洗濯をし、父と一緒にスーパーに買いものに出る。「留守の間に何を食べるか」けっこう父もウキウキと食材を選んでいる。もちろんネコと分け合って食べる少量盛のマグロの刺身も。昼はスーパーのお弁当。父は蕎麦と天丼のセット、母はミニの天丼、私は午後の予定が立たない事もあってしっかり食べておきたいので鶏のから揚げ弁当にする。
   pm2:00、予定より早くTANUKIが帰ってきた。午後から準備万端、荷物を車に乗せて出かけるばかりにしておいたところへTANUKIを乗せてそのままスタート。

   今回の往きは時間短縮を大命題とする。そこでR52を使って韮崎へ出るのではなく、東名焼津ICから御殿場へ、R138経由で東富士五湖道路(自動車道)・中央自動車道へ直接乗って、一般道を通る区間を最小限にする事にした。
   しかし、まずは富士川SAへ。ハイウエーカードを買い足しお茶を調達する。この間10分ほど。御殿場ICに着いたのは3:20、御殿場市内の混雑もなく須走ICに着いたのは3:40。道路状況は順調で大月JCTを越え、いつも入る韮崎ICも通り過ぎ、結局いつもと同じ諏訪湖SAでトイレ休息。普段なら30分位フラフラして身体をほぐすのだが、コースを変えてもあまり時間の短縮ができなかったので心配症のTANUKIが急かし、pm5:20、ほぼ10分の休みでスタート。
   ところで、R52と平行に中部横断自動車道が計画されているのは知っていたが、韮崎の東に双葉JCTが出来てクーの尻尾程度の長さの南アルプスICまで2区間が開通しているらしかった。
   とにかく、それ行けやれ行けと中央自動車道から長野道、上信越自動車道から北陸道といくつものジャンクションを通り抜けてようやく一息入れたのは米山SA。すでに日も暮れて7:20、ここで夕食。この時間帯なのにサービスエリア内は人少なだ。食堂は無人。扉に「クーラーが壊れています」の張り紙。夜だし、レジに人は居るしという事で恐る恐る入る。TANUKIは日本海地魚定食¥1150、DORAは越後路定食¥880。ともにお刺身と煮魚が付いた。ようやく先の時間も読める所まで来たので食事をしながらゆっくりと40分休憩。招きTANUKI&DORAの威力で食堂のお客さんも呼び込んだ。
   北陸道を新潟西ICで降りてR8へ、本日の宿ビジネスホテル・アーバンイン黒埼はこの道路沿い進行方向右側と聞いている。しかし、中央分離帯!次の信号で交通量の少ないのを幸いにUターンしたが、駐車場の入り口が分からずにウロウロして後ろの車をあわてさせてしまった。

   満杯の駐車場を横目に、ともかく車を端に止めてチェックイン手続きに中に入る。カウンターは空。何度か声をかけると食事処でテレビを見ていた恰幅の良いお母さんがやって来た。この方がこの宿のご主人。ほぼ1人で切り盛りしているそうだ。TANUKIが宿泊カードを書き込み、車の置き場所をたずねると一緒に出てきてくれて「それならここの隅に寄せて駐めなさい。お父さんが帰ってきたら第2駐車場に駐めるように言うから」とのこと。第2駐車場は歩けばすぐだが車だと遠くなるのだそうだ。
   荷物を部屋に運んでビールを探す。部屋に冷蔵庫はない。「お向かいのコンビニまで買いに行くのは面倒だね」と言いながら1Fに自販機は見つからない。部屋のある2Fにもない。結局3Fで自販機を発見、ホテル値段だがもちろん買い込んで寝酒とする。TANUKIはテレビの映画に飛びついたがDORAはひたすら眠って体力を取り戻す。

   とびきりの早寝でもなかったが早くに目が覚めた。TANUKIもケロリとam6:00にテレビをつける。本日からは急ぐ旅でもないので、そのままゴロゴロ時を過ごす。am8:00頃、朝食を食べに下に降りる。昨日のお母さんが元気にTANUKIの和朝食とDORAの洋朝食を運んできてくれる。厨房は娘さん?らしいよく似た女性が働いていた。いささか冷めてしまっていたが、ボリュームたっぷりで目覚めのコーヒー付き、洋朝食には牛乳も付いてうれしかった。
   実は、食事の写真はどうせ小さくするのだからと携帯のカメラを使っていたのだが、ピント合わせを間違えていてここまで失敗。唯一TANUKIが自分の携帯で撮った朝食が1枚残った。
   部屋に戻って着替えをして荷物をまとめ、「私の実家も新津なの」というお母さんから道を教えてもらいam8:45出発。
   目の前のR8を右に、そのうちに潰れたパチンコ屋と梨狩り園の看板の間を左折、道なりにまっすぐ行くとバイパスに突き当たるという。ここまでは迷うことなく進む。このあたりでガソリンスタンドを探す。確か磐越道のインター付近にコスモがあったはずとインターを目指す。迷わずコスモの看板を見つけたものの店は1つ道路が奥まっていて1度通り過ぎて入りなおす。車も満タン。ところが…。ガソリンスタンドを素直に左に出てインターに戻り右折。これが大はずれ。他所の町に入ってしまい首をひねりながら戻る。結局このガソリンスタンド前を3往復もウロウロと通ってしまった。正解はこのガソリンスタンド前を左にまっすぐ。工業高校を通り越してバス停の角を右折…、の所が工事中で行き過ぎてしまった。街中の細道、しかも工事中ときては適当な所から曲がりこんで行き着きたいところだったが、結局住宅街をウロウロして元の道に戻り曲がりなおす事になった。
   それでもam9:40無事に到着。「お姉さん早いじゃない」と従弟に迎えられた。

   取り敢えずはご挨拶。伯父は元気そうだった。木曜日の晩に夫婦で来たという従弟達。もちろん4月に結婚した彼女とは初対面。DORAよりほぼ一回り下、3人の子のお母さんだが小柄で若々しい。「とりあえず先に」と結婚式の写真と内祝いの品を頂く。九州の従妹の所は遠いので「今回は勘弁」と相成ったそうだ。
   さて、もちろんこの時間に来たのだから万事準備中である。伯父が回想録『旅路』の話を始めると「まあ、それは後から先に準備」と榊が出てきた。半紙で四手を折ってコヨリで榊に結び付けて玉串を作る。それならと伯父が四手を折る横でDORAはそれを榊に結びつけながら話を聞く。
   どうも頭の中には色々と詰まっているようだが、資料が探し出せないで回想録は止まっているようだ。唯一「こんな写真が出てきた」と言うのは『大正10年・新築落成記念』と書かれた金光教御本部の写真のコピーでDORAが預かってきた。この教会は直に炎上してしまったそうだが。
   その間従弟はせっせと掃除をしながらご神前の準備。嫁さんは天ぷらを揚げている。TANUKIは「はい新聞」とビールとともに渡されてじゃまにならない所に控えている。もっとも朝からビールはさすがに辞退したが。
   お祭の予定のam11:00には祭主の先生も到着。「この三年祭で刀自から姫に位が上がるんだ」と伯父はうれしそうだ。これだけの人数だか次第に沿ってお祭が執り行われ玉串が上げられて滞りなく終わった。

   後はお直会。御神前に供えられていた尾頭付きのブリと御霊様に備えられていた見事な鯛が下げられて刺身となる。従弟は魚屋なのでお手のもの。もちろん魚も彼が選んで調達してきたものだ。マグロも加えられて見事に盛り付けられる。後はさっきまで揚げていた天ぷらと昨日から仕込んだという新潟名物のっぺ(伯母の直伝ではなく従弟のオレ流)。伯父が漬けている糠漬もたっぷりと出てきて、まずはお神酒。地酒の麒麟山だそうだ。暑いので取り敢えずのビール。祭主の先生も伯父の仲良しにして従弟の恩師、という訳で内輪のさまざまな話が出る。さらには近藤藤守先生の書の話や三代金光様の話、吉備乃家の話etc.。
   途中から従弟の友達が来てくれる。職場の1年先輩だそうで我が家におけるTOPPOさんのような存在のようだ。ビールから酒、こちらからお供えに持っていった磯自慢も開封。さすがに酒の本場の皆さんはクイクイと水のように飲んでしまう。
    話は近くで行われる日本有数の花火大会から、消防団の話まで。伯父もご機嫌でよくしゃべっているが、この先輩に言わせると「時々頼まれて配達に来るけれどおじさんがこんなにしゃべっているのはしばらくぶり」だそうだ。若夫婦は話の間にお給仕をしたりお供えを頂いた所に刺身の配達に行ったり忙しいが、気が付けば夕方。
   伯父は家のまわり中にある盆栽や野菜の苗に水をやり始める。毎年梅干を漬けられるほど実が採れる梅は今年の天候不順でだめになったようだが、家の周りは青々としている。
   祭主の先生がお帰りになり、はっと気が付けばpm5:00。もしや5時頃今日の宿にチェックインの予定ではなかったかと確認すればまさにそうで、あわてて宿に遅くなる旨連絡を入れる。しかし向かう時間も必要なことと、食い逃げの上に大活躍だった従弟は奥でダウンの様で申し訳なかったが失礼する事にした。

   アタフタと車を出し、まずは磐越道へ。次のインターチェンジの安田ICまで。R49を通って途中から咲花温泉への表示にしたがって阿賀野川を渡る。咲花温泉は片側はとうとうと流れる阿賀野川、反対側は細い道路の隣が磐越西線といううなぎの寝床のような温泉街である。この温泉街の一番奥に本日のお宿・碧水荘はあった。この間およそ20分の道のり。
   宿の玄関前では可愛らしい水車がまわっている。水をモチーフにした宿というだけあって各所にミニチュアの水車がある。ここの宿も入り口・受付ともに人は居ない。万事のんびりとしている。
   ロビーの広い窓から見える川面が借景となってロビーそのものも広々と見える。案内された部屋も広かった。しかしこの日の泊り客は我々も含めて3組のみだったらしい。おかげで静かだしあまり広くない温泉も貸切で広々と使えた。お湯そのものも硫黄泉としてはきつくなく気持ちが良かった。
   着いて早々、たっぷりと昼酒を飲んでテレビの前で転がっているTANUKIに留守番を任せて、DORAは一風呂浴びる。
   川面を見下ろせば魚の群れが泳いでいる。見事な夕景だがはめ殺しの窓からは上手く写真は撮れなかった。ぼんやりしているうちに夕飯が運ばれてくる。ついさっきお昼の炊き込みご飯とお汁まで食べて出て来たのだが…。
   カニ・巻貝のゆでたもの・お刺身・焼きナス・マーボナス・肉と野菜の陶板焼きとご飯とお汁、漬物にデザートのスイカのメニューであった。もちろん冷酒を1杯。他に1人に越の寒梅の1升瓶1本のお土産(旅の窓口の期間限定企画)がついた。
   食べ終えて片付けて布団を敷いてもらい後はゴロゴロ。温泉なので24時間入浴は自由だ。皆が泊まっている本館から長い廊下を隔てた別館にお風呂があるのであまり気を使う必要もない。しかしそう何度も出たり入ったりするものでもないので寝る前にもう一風呂浴びるだけにした。もちろん風呂上りにビール。ここは部屋に冷蔵庫が備え付けられているので探し回る必要はない。

   翌朝は6:30頃起床。着替えをしてカメラを持って外に出てみる。もっとも玄関がまだ開いていない…。ロックを外すと手動で開いたのでちょっと失礼して宿の下駄を突っかけて外に出てみる。夜の間に雨が降ったらしく車が濡れている。
   川の風景はなかなか上手くファインダーに収まらない。反対側にまわってきれいに咲いた紫陽花を写す。ロビーに戻るとおじさんが一人朝刊を読んでいた。どうやらこの方がここのご主人らしい。
   一度部屋に戻って荷物を整理していると食事の案内の電話が入った。朝食は1Fの大広間に準備されている。いかにも宿の朝ご飯らしくご飯と味噌汁、漬物、納豆、冷奴と鮭の焼き物にカニサラダ、トマトジュースが付いた。窓の外、阿賀野川の向こうにR49と磐越道が見える。朝のこの時間はけっこう車が通っている。
   ゆっくりと食事をして荷物をまとめ我々もam9:00に出発。しかし、隣の宿でお客を乗せているバスと路上駐車をしている車の間が通り抜けられない。さんざん待ったがどうにもならないのでホーンを鳴らしたらそこに居た人があわてて車を移動させた。それなら少し早く気がついて欲しいものだった。
   そして今度は宿のお茶菓子に出た花咲饅頭を饅頭屋さんで買おうと店の前で車を停めたらその向かいの宿の人が「バスが出ますので」と車の移動をしてくれと言って来た。この道の狭さは物理的にはどうにもならないと思うので温泉街全体で何とか考えるべき問題だろう。
   とりあえず買いものも済ませてR49に戻りコースを西会津へ。

   今回の旅の最後の予定はキノコハウスの訪問のはずだったが、本日は地元の奥川健康マラソンの当日で、主はマラソンの手伝い、奥さんは売店、お嬢さんの1人は地元のミス??(花の名前を採っていたけど忘れた…)で盛り上げ役だそうである。というわけで我々の目的地も会場の奥川小学校。
   R49からマラソンの案内看板に沿って曲がって来いとの事だったが、結構遠い。看板を追ってR459に入り集落の細い道を抜け、山道をスタコラと走っていくとやがて人々がランニングをしている所に出た。駐車場は中学のグランドのようだが、すでに駐める所はない。パトカーも居るのであまり顰蹙を買わないですみそうな所に路上駐車。
   小学校のグランドはゴールゲートと周りを取り囲む地元の皆さんの出店などで賑わっている。ちょうど小さい子供とお母さんの親子ペアがゴールに入って来ているところだった。最近の便利グッズ携帯電話でTANUKIが到着を伝え待ち合わせ場所を決める。キノコハウスの主は相変わらず飄々と我々の前に現れた。
   マラソンとなればうるさいTANUKIと組織や運営の話でまず盛り上がる。
   キノコハウスの出店には仲間の人達が店番をしていたが奥さんはシイタケを取りに家に戻っているようで会えなかった。せっかくだからと干しシイタケと「家の自慢のシイタケが入っている」パンをおみやげに頂く。このパン、おむすびの形をしていて、中の具は炊き込みご飯のおむすび。そこに自慢のシイタケが入っている…らしい。(気がつかずに食べてしまってごめんなさい)
   頂き物をしまっておみやげを渡すためにTANUKI達は車を停めた丘の上に。DORAは「せっかくの機会に取材」と、おりからの小学生男子のスタートを見る事にする。スタート地点は学校の前の道路である。3・4年生と6・5年生に集団を分けてスタートをするようだ。もちろん先導の白バイだって付く。
   この子達の先頭が帰ってくるのを見て、道路の方へ向かうとTANUKI達も帰ってくるところだった。今度はこちらのお土産をしまいにキノコハウスの車へ。こちらも集落の中で路上駐車である。
   成年男子(これも年代別)がスタートをし、距離の短い60代の皆さんが帰ってくる頃にそろそろ忙しくなるからと分かれる事にした。

   我々も帰りの道中に入る。来た道をそのまま戻り、R49から津川ICで磐越道に乗る。往きは知らない道を走るので長く感じたが、阿賀野川SAまで45分で来た。ここでトイレ休憩。もう1時間走らせた米山SAで昼。少しくどいものが食べたくなったDORAは海鮮フライセット。TANUKIはうどん付きのカツ丼セットにしたので、カキフライ・イカフライとカツのトレード。食後は売店を見てまわってお土産を買う。ありきたりだが新潟らしく笹団子とお煎餅。
   帰りは往きのように突っ走る必要はないので少しゆっくりと身体をほぐす。このルートは芭蕉の奥の細道のルートと重なっているので各所に芭蕉の句碑がある。下りの米山SAは『荒海や佐渡によこたう天の川  芭蕉』だと思ったが、こちら下りは『草臥れて宿かるころや藤の花  芭蕉』。
   フラフラと歩いていたらネコに行き当たった。トコトコとやって来た猫は芝生の真中で用を足し、気持ち良さそうにまたトコトコと走って行った。
   pm2:20出発。急ぐ事はないとはいえ長い道中。順調に北陸道を終え上信越道に入る。食後、しかも当面の予定は終了して単調な道路を走っているうちに眠くなってくる。1時間走ったところで小布施PAへ。目覚ましに栗ソフトを食べる。せっかくだから写真を撮ろうと携帯を構えているうちに暑さでクリームが流れ出してくる。
   土産物を眺めながらTANUKIが「子供達の分を忘れた!」とあわてる。ここは小布施の栗ばかりで他のものがない。次のSAにも寄る事にして20分休みでスタート。このルートのPAは駐車スペースとトイレくらいしかない所が多い。冬場のタイヤチェーンの着脱などのために必要なのだろうが東名に慣れていると予定が狂う。結局次のSAは長野道の姥捨てSAだった。という訳で子供達のお土産は数が合った栗クッキー。一口サイズのクッキーなのだが先生のおみやげを家まで持って帰って家族で1かじりずつした子供もいたらしい。
   ところでこの姥捨てSAにも芭蕉句碑がある。『おもかげや姥ひとりなく月の友  芭蕉』。ここの句碑は『名月や仏のやうに膝をくみ  一茶』などいくつかの土地にゆかりの句碑がまとまって置かれている。
   買い物と写真撮影に15分ばかりかけて出発。ここからはスタコラと走って韮崎ICを出たのがpm5:35だった。TANUKIの「双葉JCTから中部横断道に入ってみよう」という意見は却下。新しい物好きとしては珍しい事だがわざわざまわるのが面倒になっていた。しかし、ずっと工事中だった南アルプス市の街中も道路が大分きれいになっていたので、高速道路とのつながりを良くするための道路整備が出来たのだろう。ともかく旅慣れたR52を南下。車のガソリンが尽きかけている。これまたコスモを探しながらの運転。夕暮れ時、中富町の町の中でようやく発見、車も満タンになりホッとする。
   ここまで来れば先は見えたようなものだが、身延あたりからは雨。台風が接近中で初めのうちは時々パラパラと降りかかるような雨だったが、清水側の下り坂に入る頃にはしっかりと降り出した。R1からR150へ入り海岸線を行くと波も高くなっている。もやっとした中を、ここまで来たら焼津まで帰ってラーメンを食べようとひた走る。家の前を通り越して焼津の気に入りのラーメン屋さんに着いたのはpm8:30。TANUKIは冷たいつけ麺、DORAは坦々麺を頼み1皿の餃子を加えて本日の旅の終わりを祝う。食事をして自宅に着いたのはpm9:30前、この日も長いドライブの1日だった。(お終い)