我が家&和賀家 01年
02/3/31
今日はマーミの所でお雛様の餅をつく。白・クチナシで染めた黄色・食紅で色をつけた赤・草餅の緑を2臼ずつ。色の薄い順に1つずつ米を蒸す。今年はお雛様に供える丸もち1組と草餅で作る黄な粉餅以外は、のすだけなので作業は単純。
1つ目の米が蒸せたら餅つき機に入れ、次の米をかまどにセット。一方で火加減を見ながら、餅がつけたところで、取りだし手と、餅つき機本体を押さえてスイッチを切る係りに分かれ、のし台に移してのすだけ。但し、熱いし、平均にのすのにはそれなりの技術が必要で、男手に頼っている。
今回はTANUKIが自治会の用事で途中で抜けたので、草餅を黄な粉餅用に1口大に切り分ける役目をマーミがやった。「あっちちーー!」とベタベタに伸びたまま寄越すので、始めのうちは形も大きさもまちまちになった。ようやく形が揃った頃には終了。
ジュンちゃんのお母さんとお姉さんが用意してくれたお昼を頂き、午後からはお雛様を飾った。叔父さん・叔母さんの古い天神さんやお人形から、TANUKI達4兄弟の天神さん、兄さんの子供達の天神さんと段飾りのお雛様とお人形で、かなり広い座敷が全部が占領されてしまう。それでも春が来た楽しさがある。
02/3/24
三島にいる従妹の長男は幼稚園の卒園式の間際に風邪を引いてしまい、前後に点滴を受けながらの卒園式となってしまったそうだ。今その風邪が家族の間を廻っているらしい。早く良くなって、入学式は皆元気で居られると良いね。
02/3/23
タニカへ従弟の末っ子の入学祝を持って行った。
昨日春休みが始まったばかりというお姉ちゃん達が「ハイ」と通信簿を見せてくれる。2人ともなかなか良い成績だ。TANUKIおじさんは「先生の書く所が少なくて良いなぁ」ともっぱら書く方になって眺めている。「優秀、優秀」とDORAおばさんは誉め伸ばし作戦。
我々が行くというのでタイミングを合わせて来てくれていた従妹が「良いねぇ、見せてくれる間は」と自分の長女をチラリ。「えへへ」と中学生の彼女は慌てず騒がず。
02/3/20
地下鉄サリン事件から丸7年経った。と言う事はO家の父が亡くなってから同じだけの時間が過ぎた事になる。
O父は肺ガンだった。呼吸器の弱い一族でおじいさんも肺気腫だったし、O父の妹や弟は若い時に肺結核になっている。だから本人も痰に血が混じった時はそんな事が頭にあったらしい。しかし、チェーンスモーカー。「オッホン、ゴホン」と咳き込みながらタバコを吸い続けた人だった。
その前年の春「ともかく精密検査を」と言われた頃は、まだまだ元気だった。しかし、肺の手の付けられない所にガンが侵食していた。検査と抗がん剤で徐々に体力が無くなっていく義父を見るのは辛かった。
入退院をくり返し、最後の頃はただ家に帰りたいだけで、医者に無理に退院を認めさせて、数日後に救急車で病院に戻ったりもした。
しかし、最後は急に来た。19日の午後、容態が急変。夜遅くに「ダメかもしれない」と呼び出しが来た。苦しそうな呼吸をしながらも1晩を明かし、長男の小学校の卒業式の準備で藤守のかあさんが帰り、親類の人達も順次1度朝の用事に帰宅し、逆に同じ病院に帯状疱疹で入院中の私の母が目覚めて見舞に寄り、その母を朝ご飯だからと自分の病室に送っている間にO父は旅立った。
その後は、O父を連れて帰る準備やら、葬儀屋さんや隣組への連絡やら、家の掃除やらで皆てんやわんやだった。夕方、一段落してテレビをつけたら「○○病院への搬送者は…」と延々と流していた。「何があった?」とビックリするのに藤守の小学生の兄弟が「東京で事故だよ」「地下鉄でなんかあったらしい」と断片的に教えてくれた。
あれから7年。
02/3/17
今日は藤守の田遊びさん。長男は高校を卒業して引退したが、次男は参加。娘はお舞にデビュー。
という訳で、午後の神事に合わせて、見に行った。5年生の女の子達が巫女さんの姿で神前に供え物を調え、浦安の舞。神主さんの祝詞や玉串奉てんなどが続く。
夕方は6時からは無形民俗文化財の田遊び。氏子の男の子達が田仕事の所作をしながら豊作を祈る。
今回は前半は藤守の家でご馳走にあずかっていてカット。甥っ子の出るあたりから後を見てきた。
長男が5歳の時の『早乙女』以来、この時期は寒かったり、雨になったりと完全防備が必要だったが、珍しく風も穏やかで過し易い夜だった。ところで、大井川は明日は幼稚園の卒園式。幼稚園の先生をしている藤守の母さんの姉さんが言うには「卒園児のお父さんが20人もビデオを抱えて来るんだよ、ビデオ席を作って、そこから出ないようにして、子供に呼びかけないようにして」と式のスムーズな運営も大変のようだ。その翌日は小学校、更に翌日は中学校の卒業式。羽ばたく子供達に幸あれ!
そういえば、藤守の長男と、このお姉さんの次男は共に今春、高校卒業。専門学校、大学とそれぞれの道を歩き始める。
02/3/2
昨夜、ホームページのアップを終わらせてヤレヤレと思っている所に大津の従妹から電話が入った。今年は次女の初節句。忙しいの?と聞いたら、この冬は親子4人順番に風邪を引いていたようだ。お大事に!
02/3/1
あっという間に弥生3月。今年は暖かいので、椿、沈丁花、水仙、雪柳と庭はすでに春の装いである。
焼津のひな祭りは4月3日だが、私の江戸っ子のお雛様はそんなことはご存知なかろうと、今日飾った。しかし、揃っているものではない。私と同い年なのはこけし人形1体だけ。次に古いのはプラスチックのお内裏様で、小平の叔父が買ってくれた。もらった時には雛あられが入っていた。そして本格的なお内裏様はタニカの叔父が買ってくれたもの。どちらも小学校に上がる前後の事である。雪洞や桜橘なども何年かに分けてタニカの叔父が揃えてくれた。高杯は私よりも年が古く、他のお道具とともに母方の大叔母の誰かから頂いた物だが、子供の頃におままごとに使って残るはこれと箪笥長持ちだけになった。しかし、多くの人達に幸あれと頂いた物だけに、古びてしまっても手放せない品々である。
02/2/21
今週の寒太のしり取り俳句塾のお題は仁王。難しいなぁ〜と考えていたら、小さい時の風景が思い出された。
ちょうど小学校へ上がる前の年、母と2人で岡山の和賀家の祖父の所へ半月ほど泊まりに行った。今と違って汽車の長旅なので、東京からちょっと行って帰ってくるという距離ではなかった。
実は季節は晩秋なのだが、私の7歳、従弟の5才、その下の子のお宮参りを兼ねてお参りに行こうという事になったらしい。祖父と叔母と従弟達、そして母と私、家の裏の方に続いていた丘のような道だったのか、もっと遠くまで行ったのかは覚えていないが、山道というよりも田舎道を、暖かい光に包まれて皆でポコポコと歩いた。
その途中の急な石段の上、楼門の両脇に仁王様が居た。多分お参りといっても小銭のお賽銭を上げて「ののさん、あん」で簡略に済ませたと思うが、従弟がえらく仁王さんが気に入った。家に帰ってからも「仁王さんはこうじゃった!」と物真似をする。元々茶目っ気のある祖父が「イヤ、おまえのは迫力が無い、こうじゃ!」っと、いよいよどんぐり眼を開いて睨みつける。「違う、こうじゃ」と全身形態模写で従弟が対抗する。「手はこんな風だった」と私も加わる。秋のつるべ落しの日が落ちるまで、そんな事をしていた遠い日が甦ってきた。一休み 仁王と眺める里の春 DORA
春の山仁王を真似る爺と孫 DORA
しり取の季は秋では飛びすぎなので、春に編集をし直しましたが。
01/12/31
我が家の年越し蕎麦はTANUKIが打ちます。家の、藤守、マーミ宅、こね鉢を借りている友人宅の4件分。
半日がかりの大仕事でした。
01/12/30
本日はTANUKIの実家、マーミの家で餅つき。
去年は富山に居た私の従妹一家が瑞穂へ里帰りする途中で寄っていったが、今年も去年に負けない豪華メンバー。
マーミ&ジュンちゃんにジュンちゃんのお母さんと我々はレギュラーメンバー。今年はそれにマーミ達のテニス仲間が小学生の男の子2人を連れて参加。スペイン旅行から帰ってきた知り合いのお兄さんも写真を見せに登場。他にも途中で藤守のとーさんが顔を出したり、ジュンちゃんのお姉さん一家が顔を見せたり、結果、皆さんから色々頂いて得をした我々でした。朝8時頃から火を焚いて釜の準備。昨夜マーミが冷たい思いをしてといだ3升ずつのもち米を、1つずつ蒸篭に入れてかけていく。今年は8臼分。もちろんペッタンペッタンやるわけではなく、そこは機械力に頼る。
まだだよ、と言っているうちに薪が燃え尽き、蒸篭の中は米のまま。新規まき直しで火を焚き、まずは1臼目。米を半端に蒸してしまったので、これは素直にTANUKIがのし餅に。
2臼目では頼まれ餅のお供えをまず取る。男の子達もやりたがるが、女の子と違って粘土細工並にあそぶ。
そして3臼目からは『おさんこち』。基本的にはあんこを入れたお餅だが、この辺では鳩の形に作る。一口大の餅を餃子の皮のように丸く延ばし、あんこを入れて形成する。下手をすると頭と尾がなくなり、ゴロンとしたトドになる。しかし、今回の坊や達の作品は、そのまま餃子!
あまり時間をかけるとお餅が固くなってしまうので、扱いが悪くなる前に残りの餅はのして、次の搗き立ての餅でまた作る。そうこうして、ジュンちゃんのお母さんが1升の小豆を煮てきたと言うあんこが、鳩のおなかに納まっていく。
さらに、年取り餅を作る。これは器にわらの芯を2本しき、丸めた餅を乗せて餡を乗せる。各自、柔らかいうちにそのわらを絞って餅を3等分して食べ、年を取る。これは柔らかいうちに自宅のジジ&ババにも配達。そんなこんなですっかり片付いたのは3時近く。マーミ達はこれから自宅で忘年会。TANUKIも夕方から中学の仲間と忘年会に出かけていきました。
01/12/23
少し早いがOばあちゃんのおぜあげ(納骨)の法要が行われた。
暖かく風もない良い陽気になった。
午前中10:00から近所のおばあさん達によるおしょうや。しんみりと聞いていたTANUKIが後で言う事には「足腰も楽になってズンズン歩ける、とおふくろは喜んで歩いて行ったよ」との事。
7年前のOじいさんの時には、おしょうやのおばあさんにもお昼を出したのだが、今回は用意しなかったので、マーミが気にして、慌てて近所のデリカッセンで詰め合わせを用意してもらい、持って行って頂く事にする。
それから家族のお昼。これまたマーミが買出しに行く。その途中でおしょうやのおばあさんたちへの心づけを渡し忘れた事に気が付き、まわって来たそう。
食事が終わった頃には親戚や近所の法要のお客様が集まり始める。お隣のお坊さんも早々と到着。
本寺のお坊さんは時間キッチリにいらっしゃる。時を同じくして仕出屋さん、酒屋さんも配達に来る。(次回は時間差にしてよね。)慌しい中で法要のお経、お焼香。
皆が隣のお寺へ行っている間に、嫁さん3人で精進落しの席の準備。和室にテーブルを出し、料理を並べ、皿やコップを揃えて準備完了。施主のマーミの挨拶の後ビールとお酒。親戚のおじさん達は年齢とともに体調を気遣ってお酒を控えているので、早々にご飯と味噌汁、お茶の用意。
日が落ちてお客さんが帰られたのはまだpm6:00頃だったが、片付けて我々が食事をし、それを片付ける頃には8:00をまわってしまった。さすがにこの時間になると風が冷たい。
「次は初盆かぁ」とマーミは半年後の話。「餅つきはどうする」と藤守のとーさんは1週間後の話。色々と段取りをつけ帰ってきたらpm9:30をまわっていた。
01/12/21
そろそろクリスマス用に手配した品物が、届け先に着いているようだ。
昨夜は横浜の姪から電話。今朝は大阪の従妹からメールが入っていた。
夜、瑞穂の従妹から電話。この夏に富山から帰ってきたので、末っ子は幼稚園でお友達を作るまでが大変だったらしい。お姉ちゃん達は小学校時代のお友達もいるので、その点は良いようだ。しかし、富山でやっていたブラスバンドはこちらではお休み状態、その代わりピアノの発表会が終わった所だそうだ。
知り合いのお宅では、大学生の兄妹が、年末までスペイン旅行中とか。
そして、さっきTOPPOさんと話して笑ったのだが、富士へはお互いに鶏を送ったらしい。大家族だから1羽じゃ少ないかと思ったのだが、これなら2羽揃う。めでたしめでたし。
01/12/14
7日にOばあちゃんの二七忌と三七忌のお経を上げてもらい、今日は四七忌と五七忌。
先週は忙しくて出られなかったので、今週は朝9:30頃にO家へ。
私の顔を見たとたんに主のマーミは積団子を取りに菓子屋へ。その間に座敷の空気を入れ替えていると、ミミが庭からやって来た。中に入れたくないので、庭でかまってやっている内にお坊さんがやって来た。お寺さんはお隣。しかも父と同年輩のお坊さんもやはりセッカチ。マーミはまだお使いから戻らない。
お座敷で準備をして頂き、お茶をいれている間に兄さんが離れから来てくれた。
マーミも何とか戻ってきて、積団子を替えている間にお坊さんにお茶を出す。
そして、法要のお経、お焼香。
終わって、お茶とお布施を差し上げて、しばしおしゃべり。お坊さんの痛めた足も大分良くなったそうだ。お坊さんを送り出して、マーミとおぜあげ(四十九日法要・納骨)の打ち合わせ。
01/11/24
Oばあちゃんが亡くなった。
朝、藤守のとーさんから「今日は様態が悪い」と連絡。午後から様子を見に行く。昨日まではあった呼びかけに対する反応がなくなっている。藤守は午前中はとーさんと一緒に長男と末っ子が来たので、午後おばあさんと次男坊が見舞いに来てくれる。入れ違いで兄さんも登場。Oばあちゃんは兄さんの声に一番よく反応するのだが、今日ははっきりしない。藤守もとーさんとかーさんでやって来る。マーミ&ジュンちゃんも来て、夕方まで見守り続ける。
悪い状態ながらも落ち着いているので、1度それぞれ夕飯に戻った。
夜10:00前、容態急変。子供達、兄弟、親類が集まるのを待つように午後10:30、Oばあちゃんは旅立っていった。
担当の看護婦さんと一緒にこの病院で看護婦をしている藤守のかーさんがOばあちゃんの帰り支度をしてくれた。体を拭いて、元気な頃に良く着ていた絣の着物を着、顔を整えてもらって、ようやく帰りたかった自宅へ向った。
自分の布団に横になったOばあちゃんは、苦しげな表情も抜け、穏やかな良い顔で眠りについた。兄さんが側に寝てお通夜。
01/11/25
本日は朝から隣組の方が来てくれて喪主のマーミを中心に葬儀の打ち合わせ。取り敢えずはお寺さんや斎場の予約、市役所への死亡届の提出、葬儀屋さんとの葬儀の形の打ち合わせなどの事務仕事。
一方で兄弟&保福島の叔母さんやジュンちゃんのご両親まで総動員で掃除と庭の草取り。仕事が忙しいと言っていた横浜の義姉夫婦も朝早くから来てくれる。
その一方、親類や近所の人たちも相次いでお別れに来てくれる。
午後からは隣組の手の開いている皆さんが集まってくれて葬儀の打ち合わせ、神棚の封じなどをしてくれる。この地域では隣組が交通整理、受付、会計、接待などの葬儀の裏方(ドニンシュウ)を勤めてくれる。
夜はTANUKIと藤守のとーさんがOばあちゃんの所に泊まった。
夜、日比の叔母が家に来てくれる。
01/11/26
今朝はまず、葬儀屋さんが祭壇の形式やお返しの品、生花や花輪などの注文を取りにきた。
そして、隣のお寺のお坊さんの枕経。お坊さんは家の父と同い年。「ちょっと足を痛めて座れない」と床几持参でいらっしゃる。
家の両親と叔母も午後からお別れに行った。
01/11/27
今晩がOばあちゃんの通夜。
夕飯の準備などはジュンちゃんのお母さんやお姉さんがしてくれたので余裕が出た。
ところが、pm5:00の身内の通夜の時間になっても、受付を手伝ってくれる近所の人が来てくれない。そうこうするうちに弔問のお客さんが玄関に見える。外は寒いし入ってもらうがなんともタイミングが悪い。
ようやく受付に人が揃った頃にはお経も終わり、お坊さんもお帰りになる。TOPPOさんも授業の終わった後駆け付けてくれる。後はpm8:00頃まで、パラパラと色々な人が弔問に来て下さった。
今晩は横浜の義姉がOばあちゃんの側で泊まり。
01/11/28
お葬式。am10:30出棺なので、9時前にはTOPPOさんも一緒に出かける。
家族・親族が集まって、まず葬儀屋さんの指図でOばあちゃんの旅支度を整える。
まず、喪主のマーミが頭陀袋に魔よけの山椒の実、ジュンちゃんが旅の途中で困らないように針に糸を通したものを収める。ここまできて準備不足のため、三途の川の渡し賃の用意をしていなかった。葬儀屋さんが慌てず騒がず「皆さん、おばあさんの三途の川の渡し賃に小銭をあげてください」と皆から集めて廻る。「これじゃ往復分ありそうだね」と言いながらこれも頭陀袋へ、そして頭から掛けられる。その後は男兄弟で手甲、きゃはん、娘や嫁さんで足袋、兄弟でわらじ等を付けて旅支度を調える。さらに頭にお定まりの三角の布、これは冠を表しているそうだ。そうして、ようやOばあちゃんはお棺の中へ。さらに親戚の人達に白い旅装束を掛けてもらい、孫達に生前の着物を上下逆に掛けてもらった。皆で頭の周りに花を入れ、特に好きだった百合の花も加えた。ようやく、お棺の蓋を締め、親族皆で順に釘を打ち付けて用意は整った。
お坊さんにお経を読んでもらい出棺。子供達で縁側から足の方から出し、庭からは孫達が受け取る。実際には手が足りないので、親族の男手を中心に総出で送り出す。近所のおしょうやのおばあさん達が集まって、ご詠歌を詠じてくれる中を霊柩車に向った。ちなみに霊柩車には頭から入るそうだ。
この時間までに函南の叔母と従兄、日比の叔母も来て斎場に行ってくれた。
火葬にされ、お骨を拾ってから告別式。戒名は尚室貞春大姉。享年78歳。
七日のお勤めと払い(精進落し)を終えて斎場を後にする。
家に帰ると香典帖と香典の金額確認をした後、ドニンシュウの払い(精進落し)。
さらに、おしょうや。おしょうやの後、おばあさん達の接待をして、ようやくお葬式も無事に終わった。
01/12/1
どさくさに紛れていて、タニカの従弟達に香典返しを送るのを忘れていた。で、慌てて2件分をまとめて送った。
思い返せば、Oばあちゃんが入院した翌日、初めて姉妹2人で新幹線に乗って遊びに来た従妹の娘達には、真っ先にお見舞いをしてもらった形になった。
従弟の長女は春休みに泊まりに来るたびに洗濯物を取りに行くのに付き合って、Oばあちゃんの車椅子を押して他所のおばあさん達をうらやましがらせていた。実際の孫は藤守の末っ子が一番小さいので、他はめったに姿を見せなかったので、良い楽しみになった事と思う。
みんな、どうもありがとう!
01/11/7
夕方タニカのママから電話。
今年は末娘が6歳で七五三のお祝いかと思ってお祝いを送っておいたが、来年に持越しとか。やはり3月も末の生まれは同期の子供たちより一回り小さく、負担が大きいとか。
真中のお嬢は背の伸び盛りらしい。来週はバレーの発表会だそうだが、只今、風邪引きで咳き込みがはげしいとか。珍しい事だと言っていたが、発表会までに治ると良いね。
そして長女は忙しくなってきた稼業のお手伝い。チョコレートやグミなどの菓子製造業なので、これから春までが忙しさのピークになる。小学生といえども立派な戦力。「欲しい本を買ってあげるから」のパパの一言で頑張っているらしい。
01/9/6
午後に十勝から従弟一家が到着。静岡駅まで迎えに行く。いつもなら南口に一時停車して、乗せてくれば良いのだが、なぜかいつも迎えの車で込み合うあたりにパトカーがデンと止まっていた。本来の駐車スペースはこういう時に限って満車。諦めて反対側の立体駐車場へ。モタモタしていたら約束の時間ギリギリで、ちょうど改札へ出てきたところに行き合った。
ママがちょっと不調だと言うので、何処へも寄らずに家へ。
しかし、小さなヤンチャ姫にとっては猫を追いかけるだけでも楽しいらしい。猫のほうはこりゃ堪らんと逃げるが、「ニャンニャン、ニャンニャン」と追いかけていく。「ヤンチャ姫と一緒にコネコネして作った」クッキーをお相伴しながら、一番人付き合いの良いクーにお付き合いを頼む。しかし「抱っこしてあげる」と抱えられてはたまらない。体重差はほんの数キロなのだから。
学生時代、清水に10年近く暮らしたパパの方は、町の変貌にビックリ。さっそく散歩がてら本屋まで付近の散策。
そうこうする内にTANUKIも帰ってきて、さっそく酒盛り。手っ取り早く鮨とハンベのフライ。トンボマグロの刺身を食べさせてやりたかったが、最近は品薄で、魚センターでも総崩れ状態。
ママも疲れ気味だし、小さな姫も疲れているはずなので、早々に風呂⇒布団のコースを取る。
01/9/7
今朝は曇り時々小雨とあまり天気には恵まれない。それでも外に出てみたいヤンチャ姫と庭に出る。ぬかるみ止めにひいてある砂利で砂遊び。集めて山にしたり、投げ散らしてみたり。木の葉についているアマガエルも見つけたが、つかまえるには高すぎた。もっと遠くへの好奇心はあるようだったが、外の道へ出たら、あっさり家の方へ回れ右をした。時々すぐ側を通る新幹線にも気を惹かれる様子。「新幹線、乗った!」「新幹線で金光へ行くの!」と元気一杯。普段は車ばかりなので、やはり珍しかったのだろう。
家に入ってくれば、ビニールイスと格闘技。弾んでみたり、わざとバランスを崩して転がってみたり。猫がさっさと散歩に出払って相手をしてくれなくても、面白いものはたくさんある様子。
しかし、あまりギリギリでは慌しいと早めに静岡へ向う。今回は何とかタクシーの降車場近くに車を割り込ませて降ろす事ができた。一行はこれから仕事も兼ねてママの故郷の金光へ。
急に静かになってしまった家では、ネコ達がそれぞれ帰ってきて昼寝中。お付き合いのお礼に、夕飯はカツオの刺身をはずんだ。
01/8/17
お盆が終わったところで、函南の叔父の訃報。
かなり晩年までフサフサの髪を黒々と染め、カラオケや民謡を歌うのが大好きだった叔父だが、ここ数年はパーキンソン病のために入退院を繰り返して弱っていた。
6月には母方の伯母、今度は父方の叔父、身の周りの人達が旅立っていく。
01/8/18
今日は午後から函南の叔父のお通夜へ。
どうせどこから行っても混んでいるからとR150〜R1バイパスを通って熱函道路へ出るルートを選んだが、まず新日本坂トンネルで渋滞にはまってガッカリ。沼津の街中でも渋滞にはまり、逃げるつもりで道に迷って父もウンザリ。最後の詰でも道が分からなくて叔父の家に向ったはずが、見事にお寺さんにたどり着きTANUKIがイライラ。それでも何とかpm4:30の出棺にはギリギリ間に合った。
お通夜の始まるpm6:30まで、しばらくお寺さんで待機。従兄弟達の子供が大きくなっていて、どの子がどの子かしばらく?こちらの少ない親族はともかく、叔父方の親族や友人・知人・近所の人となるとまるっきり?同じ静岡県内の事で、こちらでも隣組の方々が葬式の手伝いをしてくれるそうだ。そんな人達も大勢出入りしているし、結局大人しく隅っこに控えている。
夕方から空は明るいのに時々パラついていた雨が、お経が始まったとたんにザーっと本降り。境内の参列の方には気の毒な事だった。
亡くなった叔父の戒名は正岳謡音信士、唄好きの叔父らしい。6月に入院した時は持ち直して退院したそうだが、7/7の入院が最後の入院となったらしい。享年78歳。
お通夜が一段落した所で叔母に引き止められたが、今日は引き上げ。明日は1日父と2人でお葬式に参列。瑞穂も今日は叔父夫婦が来たが、明日は従弟に運転させて来るとの事。
01/8/19
叔父の葬儀の後の精進落しで、お寺の檀家総代さんと話をした。
このお寺は今はお坊さんが住んでいない無住寺。檀家総代さんが管理をしているお寺だそうだ。
この管理の歴史も長いらしい。終戦後、それまで居た住職がお酒で体を壊して亡くなった。その後、檀家で管理をし、何かの時には所属する大きいお寺からお坊さんに来てもらう形になったそうだ。それも不自由だというので、住職を募集して来てもらった夫婦は2日で敗退、「こんな山の中では勤まらない」とトラックから降ろした荷物をまた積み直して去ったそうだ。(小高い丘の上のお寺だが、以前は道らしい道も無かったとか。今回も火葬場へ行くバスは途中の道で何度も切り替えしをするような道だった)
その後、浄土宗の学校から紹介してもらった坊さんがつい先月まで居たそうである。頭の良い人でよく勉強もする人だが人付き合いが上手でなく、30半ばになってもお嫁さんが見つからず、小さいお寺の限界も見えて去ったそうである。
「また元に戻りました」とおっしゃっていたが、お寺の裏の墓地は立派だし、お寺の立替計画も皆で積み立てをして実行に移そうとしているそうだ。
宗教というのは形ではないと思う。建物の立派さや宗教者の世俗的な立派さではなく、地域の人と共に土地に根ざしたものであって欲しい。このお寺さんが、宗教を通じて生きているのを知ってうれしかった。
01/8/14
お盆休み、今年はタニカの従弟一家が来た。休みの前半で、彼の妹一家が富山から東京へ帰ってくる引越しの手伝いをして、ほぼその足で、焼津の海上花火大会目当てにやって来た。
「何かしないと夏休み何したの?って、2学期に聞かれて可哀相だし…」とママの言。
5年生になる長女は春に一緒に泊まった藤守の娘と遊ぶのが目的。この2人、2度の焼津での春合宿を通してすっかり仲良しになっている。昼前に着いて、「何時来る?」と気にし続ける。待ち人は自分の従姉の6年生のお姉ちゃん2人とお八つ時に登場。このお姉ちゃん達は双子。早速トランプをしたりパソコンでゲームをしたり。しかし幼稚園の末っ子は付いていけず、ママにベッタリ。
おいなりさんやハンベのフライ、蒲鉾に麦茶を用意して、義弟達の車に分譲させて会場へ。途中で、里帰り中の三島の従妹と子供達も誘って行く。
今回の集合メンバーは家がTOPPOさんも含め3人、従弟の一家5人、従妹の所が3人。友達の所は娘達はそれぞれ友達と一緒だそうで、ご夫婦だけ。すぐ下の義弟は連れ合いの妹の子供3人と自分の子供3人を連れて7人。下の義弟は仲間多数と。すぐ下の義弟は元の会社の同僚の家族3人も合流。これも例年良くある話し。今回はレギュラーメンバーの友達の一族がお父様の初盆で参加せず、ちょっとさみしい。
花火の始まるまでのしばらく、大人達は持ち寄ったつまみを分けながら、ビール。子供達は屋台が気になって連れ立っては見に行く。もっと小さい子供達もそれなりに興奮して、はしゃいでいる。
お腹も満足した頃には暗くなって花火も始まる。そこここで腕枕をして転がって花火を楽しむ。小さい子の中には初めの数発を見て満足してグッスリと眠ってしまう者もある。
花火が終わると、食べ散らかしたゴミを集め、荷物を纏め、ゴザを撤収し、場所取のガムテープもきれいに剥がす。「また来年!」と別れをかわしながら車に戻る。
歩行者が出て行くまで車は動けないので、私は友達の家に止めさせてもらった車へ。駐車禁止区間の外で、従弟の嫁さんと末っ子、従妹と子供達を乗せる。実は従妹のお兄ちゃんと従弟の末娘は同じ年長さん。お兄ちゃんは弟をお母さんが抱っこしているので、一生懸命歩き、末っ子はママの腕の中でグッスリ。着いた時には頑張ったお兄ちゃんが一番よく眠っていた。
01/8/15
さて、本日子供達は「海!」「川!」と行きたい所をめぐって賑やかだ。長女が「釣!」と言うので、岡部町の朝比奈川へ。こういう時、従弟のキャンピングカーは、忘れ物の心配が少なくて便利だ。「忙しい上、子供が3人も居ると、夜寝かせたまま目的地まで行けるので絶対に楽」と従弟は言う。
途中でおむすびを仕入れて、あまり遠くまで行かずに車の降りられる所へ。
「近いし水はきれいだし、駐車料金は取られないし」とママはご機嫌。
ただ、泳ぐ予定は無かったので水着は持っておらず、他の子供達が水の中に入っているのにやや不満。「足の先だけ」がショートパンツをたくし上げ、あっという間に3人ともずぶ濡れ。小さな魚を追ったり、カニを見つけたり。結局浮き輪やボードも出てきて本格的な水遊び。
乾いた物に着替えてお昼を食べた後、「ちょっとだけ」と釣好きのパパを説得して、釣り道具を持って長女は釣に挑戦。しばらくの間に小さい魚2匹を釣り上げた。下の子供達がまた川に入りたがるので撤収。ようやくやる気になったパパはちょっと不満だったかも。
01/8/4
明日、新津の伯母の50日祭のため、am7:00前に家を出る。例によってR150〜R1〜R52のルート。
韮崎へ着く前に異臭事件発生。TANUKIの礼服に猫が臭いをつけたらしい。開いたばかりの韮崎のホームセンターでファブリーズを買って一件落着。
韮崎から中央道へ。長野道の途中で、今朝、新潟を襲った大雨洪水警報の雨に雷付きで出迎えられる。北陸道へ出るまで、時々土砂降り、霧も出て走りにくい。pm1:00過ぎ、米山SAで昼食。ハラペコTANUKIは機嫌悪く「一番早くできそうだ」とカツカレーを注文。確か今朝もカレーを食べてきたはずなのに…。私はジャンボメンチカツを頼む。食べ応えありすぎ!
pm3:00前には新津ICを通過。明日はここまで戻らなければならないので、ここから宿までの時間のチェックが必要。pm3:30には本日の宿、阿賀野川沿いの麒麟山温泉に到着。小さなお風呂だが、れっきとした温泉。しかも他の人に先駆けて独占で入る。その間、TANUKIは木のパズルにチャレンジ。さらに写生までしていた。
01/8/5
昨夜は早寝をしたので早起き。「法事に出るので朝食を早く」とお願いしていたので、am8:00前には支度をしてくれた。布団の片付けや配膳に来る仲居さんが皆、阿賀野川が濁っているのを残念がってくれる。普段は澄んだ水で鮎釣の人も多いという。am9:00前に出発。
am9:40には新津教会(伯父の家)着。まだ、玉串作りやお供え物の準備中。柏の長女一家も今朝4:00頃に自宅を出て着いたばかりという。手伝って準備を整えam10:00から村松教会の北岸正一師の祭主でお祭。信者さんや近所の方も集まってくださった。
引き続き、沼垂教会で納骨と墓前祭。沼垂教会の皆さんもお参りしてくださった。
新津に戻ってお直会。何人かお客様が見えなかったようで、伯父の機嫌が良くない。しかし、内輪でゆっくりと食事を頂いた。
一度新津教会に戻って「お直会とは神様にお供えした物を食べるんだ」と言う伯父が、お供えの鯛を刺身にしてくれる。これをいただいて、pm4:00頃それぞれ家路に。
伯父を一人にしておくのが心配になった長男は転勤希望を出して新津に戻って来る予定、この週は長女と子供達が泊まってくれた。しかし、伯父は『回想録』を書くと元気一杯だ。
01/6/19
昨夜、新津の伯母が亡くなった。その晩までズボンの裾あげをしていて、夜休んでから急変したらしい。甲状腺ガンで2度目の手術をし、小健状態を保った所だったので、このまま何事も無ければと願っていた矢先の事だった。
母の兄弟9人、その連れ合いを含めて18人の中の初めての死。寂しい。
01//6/25
新津の伯母の件では皆様からたくさんの暖かいお悔やみの言葉を頂き、ありがとうございました。
入退院を繰り返しての療養で、痩せてしまっていましたが、穏やかな顔で旅立ちました。
それよりも昭和60年代の昭和天皇のような歩き方をしていた伯父が気がかりでした。伯父達は結婚が遅かったので、まだ30代半ばで独身の長男が葬儀を取り仕切ってくれました。長女の方はおっとり、ふっくりとして若い頃の伯母そっくりになっていました。彼女とは子供の時以来の再会、6年生を頭に3人の子のお母さんをしっかりとやっていました。新津までの旅は距離があるだけに結構大変でした。韮崎まで国道を北上して、中央道〜長野道〜上信越道〜北陸道〜磐越道で新津IC。夜8時頃出たので眠気に勝てず、2時過ぎに北陸道の米山SAで仮眠を取りました。コンビにおにぎりとカップ味噌汁、コーヒーの朝食を食べて7頃出発、8時過ぎには斎場に着きました。道路が空いていたし、高速道がづっと繋がったのはありがたかったです。
帰りはもう1度車中泊はきついので、須坂で宿を取りました。TANUKI氏は学生時代の友人とも会えて、『光るキノコ』なる土産まで頂いて大満足でした。翌朝、隣町の小布施でちょっと体をほぐして、後はひたすら同じ道を戻って来ました。さすがに膝がきつい!帰りがけに針の先生に寄って、メンテナンスをしてもらいました。
「これで明日の筋肉痛は大分楽です」
と太鼓判を押されてきましたが、確かにそうかも知れません。伯母の実家は京都、伯父は岡山の出なので、親族はみんな大旅行、しかも祖父は10人兄弟、伯父は9兄弟なので、 私の親戚とは言っても知らない人だらけ、伯母のお蔭でずい分色々な人に引き合わせてもらいました。