「旅に出ようよ」TANUKI・DORA・TOPPOの3匹がそう思ったのは、家も完成、ジジ&ババとの同居も始まり、パピ・チビ・慈郎の面倒を見てもらえる当てがついた時。
少しゆっくり遊びに行きたいけれど、先立つものを考えて、DORAが昔からやっていた親戚巡り。何せ和賀家は各地に広がっている。
そんな思い出を残しておこうと思って…。
関西&岡山編
1990年8月3日〜8日
8/3早朝、3匹はパピ・チビ・慈郎とジジ&ババに留守を託して西へと旅立った。車はTOPPOのブルーバード。運転手はDORA。朝日の中を焼津ICから一路西へ。浜名湖も軽く横に見て、上郷SAで運転手のバトンタッチ。そう、これから名古屋に向って道はごちゃついてくる。都会の道はTOPPOの方が慣れている。この先、名神高速に入り琵琶湖の際まで行って、京滋バイパスに乗って天理を目指したらしい。ここからもう一息で田原本町の伯父の家がある。
記録によると昼は途中で食べている。何処で何を食べたかの記憶は無い。多分ここで運転手交代。
伯父の家は車1台がやっと通れるような道ぞいにある。
「ここで車の運転が出来れば、どんな道も怖くない」
と伯母が豪語する難しさである。DORAは方向音痴で住所は知っていても道を探し出す役には立たなかっただろう。ここでTANUKIの出番。運転手2匹にブツブツ言われながら、地図を眺めながらナビゲーターをしたはずである。(記憶は無いけど、今に至るまでいつもの事なので)
田原本では従妹の連れ合いが子供達とアイスクリームを買って来て待っていてくれた。子供達はまだ小さくて照れて隠れている。ようやくお姉ちゃんにお土産を渡すと、妹の手を引っ張ってきた。「こんにちわって言いな。お土産あるから」と。
しばしここで皆とおしゃべりをして、せっかくの金光教の教会、旅の安全をお願いする。
本日の泊まりは大阪の天王寺にある叔母の所。田原本の伯母が伯父を用心棒に助手席に乗せて、天王寺までの道を先導してくれた。天王寺の叔母の所も同じく教会である。街の真中ではあるが天王寺公園が借景になっている。しかし、ここも幹線道路から急に細い道へ回り込む。ただ、大きな教会なので地下に駐車場が作られており、停める場所の心配は無い。
短大生になったばかりの従妹やジョエル・チャチル・サンボという3匹のイヌも迎えてくれた。
夜も更けて3匹は2階の客間に引き取った。ここの家の従妹達ばかりでなく、和賀家の女性達には霊が出るの、金縛りにあうのと何かと楽しい話題がある2階である。
我ら3匹、霊能力は弱かった。しかし暑い夏、都会の真中、戸締りをキッチリして、クーラーを入れる。このクーラーが只者ではなかった。今にも分解して飛んで行きそうな音を立てる。心配して停めると、暑い!停めた途端「暑い!」とTANUKIが騒ぎ出し、ウニャウニャ・ブツブツと文句を言いながらクーラーを点けに行く。するとまたぞろ破裂しそうな凄まじい音。「うるさい…」。停めてみる。しかし、まもなく「暑い〜〜」。TANUKIがうるさい。点ける。かくて、霊も恐れをなしたかあきれ果てたかとうとう現れることもなく、真夏の一夜は過ぎていった。
客間は、普段は家の人間が使わないので、「あら、そうだったの」と話を聞いた叔母は、その後さっそくクーラーを取り替えたようだった。8/4、この日も晴れ。昨日は伯母の追走だったのでDORAの運転で大阪に入ったが、今朝は都会の道専門のTOPPOの運転。まだ山陽道はほとんど出来ていなかったので、中国道へ。本日の行き先は吉備路。どの道を通ったかは覚えていないが、中国道を出て入った国道は川に沿った林道のような細い道。しかも道路工事中らしく、バンバンと大型ダンプが行き交っている。景色の良い道だったが、ハンドルを交代したDORAに風景を楽しむ余裕はあまり無かった。
ようやく平地の国道へ入る。いかにも新開地、農地の間に空き地、自動車屋さん…、そんな中で少し早めの昼を食べる事にした。ようやくドライブイン風の焼肉屋を見つけたのだ。昼食をとりながら予定の確認。
多分、総社で車を停めて、貸し自転車を借りて吉備自転車道を見所を追ってまわったようだ。残っている写真によると、宝福寺・作山古墳・備中国分寺・国分尼寺・こうもり塚古墳・造山古墳などをまわったようだ。写真は夕景の吉備津彦神社で終わっているので、もしかしたらこちらがスタート・ゴールだったかもしれない。とにかく暑かった。アップダウンも無い代わりに蔭もあまり無い道を延々と自転車をこいでいく。今と違って、小さなペットボトルの飲料もあまり無かった時代である。それでも観光地風に手を掛けられ過ぎていない史跡を見て歩くのは楽しかった。さて、本日の宿は岡山市内の叔父の所である。吉備津神社から川の堤防沿いに来いと言われていた。吉備津神社を出る時に電話を入れたので、叔父が堤防上まで歩きで迎えに来てくれた。「あの人!」と最初に見つけたのはTOPPO。会った事は無いはずなのに「あなたのお母さんソックリじゃない」と。
今にして思うとかなり無謀な押しかけだったが、前年の暮に叔母はくも膜下出血で倒れ、無事に退院した後だった。たまたま倒れた朝は次男が側に居て、叔父は介護士として勤めていた病院の夜勤だった。話を聞いた病院の先生が色々手配をしてくれて、素早く治療に当たれた事が幸いしていた。
手芸など細かい仕事が大好きな叔母は「あれもしちゃいかん、これもしちゃいかん、言われて…」と不満そうだったが、すっかり自分で動けるようになっていた。
叔父と2人で叔父が借りて作っている畑の元気一杯の野菜を色々と食べさせてくれた。そして翌朝、まずは洗濯機を借りて溜まった洗濯物を片付ける。ここには後半にまた寄らせてもらうので、干したままで出かけさせてもらう。
本日の第一目的地は鴨方にある天文博物館。当時、大叔父がここの館長だった。何しろTOPPOを誘うのにはコツがある。「星」に話が向えば動きが早くなる。和賀祖父さんは10人兄弟で、実はDORAも会った記憶が無いのだが、こんな機会でもないと会う事も無いので行ってみる事にしたのだった。
R2を西へ。鴨方から山の方へ入っていく。遥照山は観光地でもあるようで、細い道には観光バスも居る。ようやく山の上の天文博物館の駐車場に車を入れる。
まずは受付へ。母が電話で伝えてくれていたので、話は通っていたようだ。まず施設の中を案内してもらう。ここはTOPPOの独断場。『大叔父館長さんと、接眼レンズに蜘蛛の糸を十字に貼り付ける話で盛り上がったり、岡山の晴天率が高い話など伺ったり…。』と今でも思い出が残っているTOPPOだった。
DORAの記憶に残るのは「休みましょう」と連れて行かれた館長室の壁に掛けられていた星図のジグソーパズル。後に見つけてTOPPOにプレゼントをしたが、翌年の夏「ゆっくり広げる場所が欲しい」と我家に持ち込み、結局我々は敗退して、猫がピースをもてあそんで流れ星をいくつか余分に作った後、父が組み立てた。
この後で上にある188cm反射鏡のドームも見に行ったが、中に入れてもらえなかった。でも、『大叔父さんのご尽力で天文台の玄関先までは入れてもらって、ガラス越しに望遠鏡を拝見することはできました。ガラスにヤモリのように貼り付いて眺めていました。』と、これもTOPPOの思い出。
この大叔父も、この年の秋には亡くなった。ここを辞した後、隣の金光町にある和賀家の本家のお姉さんの家へ。彼女は祖父の長兄の孫に当たる。当時はまだ吉備乃家の隣に居た。この吉備乃家は和賀家のルーツで金光教本部の前で旅館を営んでいた。DORAも小さい時から和賀祖父さんに連れられていって、お姉さん達にもよく遊んでもらった懐かしい場所である。またもとんでもなく狭い道…、しかし、金光教本部で何か行事があったらしく、R2で誘導されるままに車を停め、「吉備乃家は…」と道まで教えてもらってノコノコと歩いて行った。
「ちょっと抜けてきた」とやって来た日比の長男も一緒にしばらくおしゃべり。
帰りにDORAの目的の1つであった和賀家のお墓参り。和賀家の墓は金光教本部の裏山の中にある。「どこだっけ?」と言ったら、小学生だったお姉さんの次女が連れて行ってくれた。
御本部のお参りはパスして、昔ながらの門前町をひやかして、今回唯一の宿泊まり、瀬戸内荘へ。瀬戸内荘は日比の叔母のお勧めである。金光から水玉ハイウェイに入り、R430を通って児島半島へ。太平洋とは一味ちがう島影が連なる穏やかな瀬戸内海を眺めながらのドライブとなる。王子が丘の少し先の丘の上に、こじんまりと瀬戸内荘はあった。何故か入り口ホールにはデンと望遠鏡。もちろん昼間見たものとは比べ物にならないが、個人で楽しむのにはほどよい大きさ。TOPPOが目を輝かしたのはもちろんだが、星見と洒落込んだかどうかの記憶は無い。
この日、日比の叔母の所に泊まれなかったのは、金光での行事との関連で次男一家が来ていて大入りだったからである。金光からの帰り道「無事に着いた?」と皆で寄ってくれて、人見知り中だった次男家の娘をかまいつけるのに忙しかったDORAだった。ごく当り前の宿だったが、人に気を使わずに泊まれるのはありがたく、すっかりリフレッシュをして翌日は出来て間もない瀬戸大橋を通って与島へと出かけた。瀬戸大橋の真中にある与島はパーキングエリアとなっていて、観光開発の真っ最中だった。時間もタップリあるので、観光船に乗り、ビール付きでシーフードバーベキューの昼食をとり、「酔いが覚めるまで帰れないから」とクルーザーに乗ったり、お土産を見たり、遊園地のような異空間を堪能した。
日が西に傾く頃、鷲羽山へ。何度も行っているDORAの記憶では見晴らしの良い道のはずだったが、松が大きくなって見晴らしはなくなっていた。しかし、頂上からの景色は素晴らしく、島々や行き交う船を見ながらレストハウスの喫茶店でティータイム。
しかし、夏の午後はまだまだ明るい。今夜の泊まりは日比の叔母の所だが、昼間は居ないはずだった。そこで通りががりに見つけた橋の博物館へ。博物館の中は休館日で見ることが出来なかったが、建物そのものが太鼓橋の形で上に登れるうえ、敷地内に様々な橋の模型があったりして楽しい空間だった。
瀬戸大橋 鷲羽山山頂 橋の博物館 そして、叔母の家へ。ここも最後が車1台が通れるほどの細道である。もちろん幹線道路からの入り口に迷い、ハッと気がついたら宇野港まで来ていた。しかし、無事にたどり着き、お料理大好きの叔母のご馳走をタップリと頂いた。また、ここで天王寺の従妹と邂逅。ここの家は夏の和賀家の子供達の溜まり場でもある。
さて、さんざん飲んで、食べて、しゃべって、おやすみなさいとなったわけだが、実はDORAも意外とこの家の中は不案内であった。
すぐ側に叔母の絶賛する沙美の海水浴場があり、夏場は特に子供の溜まり場になっているのだが、子供の頃に私が行ったのは主に冬休みであった。1番下の叔父が仕事で東京に居たので、冬休みにその叔父に連れられて岡山へ行く私は、言うならば母からの生きたお歳暮だった。年末の忙しい時期「お姉ちゃんが東京から来たから、お祖父さんの所で一緒に遊んでなさい」となるわけである。
「お姉ちゃんが来るとお母さんが張り切ってご馳走を作るから、またおいで」
と従弟達が言っていたから、訪ねてはいたのだろうが、あまり泊まった記憶は無い。
この家も教会なので、中は広い。戸を開けると次の部屋となっているし、台所はお祭りの準備などで大勢で仕事が出来るようになっている。風呂も何人かで一緒に入れるような五右衛門風呂だ。そして、トイレが家から外れて外にある。
この2点が伏線である。夜中にTOPPOに「トイレはどこだっけ」と聞かれた。「外だと思った」…、が外はどっちだ?それともしばらく来ていないから、家にもトイレくらいつけたか?2人でウロウロと家の中をまわる。「このサイズのドアは」と開けたら物置。「こっちは」と開けたら次の部屋。かなりフラフラとあっちか、こっちか、をした覚えがある。無事に夜は明け、すっかり寝坊をして起きると、台所に「あるもので適当に朝ご飯を食べて」と叔母からの書置き。前にも書いたように、この家の台所は広い。しかも台所に1台、下の土間に1台冷蔵庫がある。もっとも土間の冷蔵庫はモモちゃん(犬)が側で番をしている。
あるもので適当に朝ご飯を頂いている内に、叔母も帰宅。今日の午前中は、叔母のナビゲーターで連島の叔父の所へ。この叔父こそDORAが子供の頃、毎年冬休みに岡山へ連れて来てくれた叔父である。
自分の子供達だけでなく、日比へやって来る誰でも免許証さえあればことごとく運転手にしてしまう叔母のナビゲーターは的確である。しかし、連島も古い町で、幹線道路から入った昔のメインストリートは狭い。家の前には到底停められないので、叔父が借りている駐車場の隅に駐車させてもらう。ここも狭くて車の四隅が引っかかり、DORA敗退、TOPPOもダメ。TANUKIがシャカリキになってペッタリと隅っこに張り付けた。さて、この連島の家が和賀祖父さんの住んでいた家、子供の頃にDORAが泊まりに来ていた家である。ここももちろん教会。玄関を入るとそのままお広前。渡り廊下で母屋につながり、中庭を取り囲むように台所と離れがある。建付けの関係もあり、ちょっとした応対・応接にはお広前が使われている。この時もお広前でそのままおしゃべり。懐かしがるのはDORA1匹で、後の2匹はキョロキョロと珍しそうにしている。
しかし子供の頃の思い出で、和賀祖父さんが1升瓶を抱えて船をこぎながら午後の祝詞をあげていたというDORAの話は行き渡っているので、あるいはその幻を見たかもしれない。
「せっかくだから近くの讃岐ウドン屋さんへ行こう」と言う日比の叔母の提案で小1時間でお神輿をあげる。この時はちょうど連島の叔母のお母さんが京都から見えていたので、叔父だけ付き合うことになる。その前にと、すぐ近所の造り酒屋さんのお酒を買って来てみやげに持たせてもらった。
叔父が「ちょっと待っとって」と酒屋へ行っている間に、トイレを借りに奥へ入ったDORAは、通りかかったおばあさんとご挨拶。叔母のお母さんともここでお会いしたのが最初で最後、02年12月に亡くなられた。
そして行ったウドン屋さんはTANUKIの気に入るところとなり、しばらくウドンにはまったが、こちらではなかなか腰があり美味しいウドンにはめぐり合わなかった。ウドン屋でご馳走になって叔父・叔母と分かれ、我ら3匹は倉敷の町へ。蔵と運河の美観地区を満喫する。
まず大原美術館へ。静岡美術館にもあるロダンの考える人とはDORAはここで初対面だった。しかしそれは幼児期の事。とても大きな建物だと思っていたが、一部屋の感覚は小さく感じた。けれども行けども行けども次の展示が続く。やはり広い!次いで倉敷民芸館へ。多分このあたりでコーヒーブレーク。
次いで、町並みをブラリ歩きながらおみやげ買い。TOPPOがガラス屋さんで、きれいな緑色の小さなグラスをえらく気に入って買い込んだのは覚えているが、後は何を買い込んだのだったろうか。
ともかく、夕闇迫る頃、コロッケをおみやげに岡山の叔父の所へ無事に帰りついたのだった。「お帰り、楽しかった」と叔父夫婦に迎えられて岡山最後の夜。みやげ話をしながらノンビリくつろがせてもらう。
そしていよいよ最終日。岡山の町へ。後楽園近くの駐車場に車を停めて、まず竹下夢二美術館。とんがり屋根に風見鶏をつけた、こじんまりとしてなかなか可愛い美術館だった。そこから戻って後楽園へ。烏城とも呼ばれる岡山城を向こうに見ながらお庭を1周するが、広い芝生は蔭も無く暑かった!木陰の流れの中に東屋があり、しばらく涼を求めて座り込んだ。
街へ出てお昼を食べた後でオリエント博物館へ。ここが大当たり。涼しい所が良いねと思っての選択だったのだが、1人200円で、静かな広い空間で中近東の文物を眺めながらクイズに挑戦した。TANUKIの専門は一応社会科という事になっているが、そこは小学校、3匹とも良い勝負の成績だった。
みやげの吉備団子も買い込み、R2を東へ、ほんのチョッピリ出来ていた山陽自動車道から有料の播但連絡道路、福崎ICから中国自動車道、名神高速から東名高速と夜のハイウエーをひた走り、焼津へ帰着したのだった。
参考 ザ・20世紀1990年
後書き
関係者以外にはどうでも良い事ですが、この時から干支も1回り以上、本家のお姉さん宅は同じ金光町内に新築されました。日比も連島も使い勝手を考えて改築。吉備乃家は昨年取り壊されました。
若かった天王寺の従妹も2児の母、日比も4兄妹全員が結婚し、いまや孫達が夏休みや冬休みに皆で遊ぶのを楽しみにしています。
次回、北海道編では、その後結婚して札幌に住んでいた日比の従妹夫婦にお世話になりました。