3匹の和賀家探訪

   「旅に出ようよ」TANUKI・DORA・TOPPOの3匹がそう思ったのは、家も完成、ジジ&ババとの同居も始まり、パピ・チビ・慈郎の面倒を見てもらえる当てがついた時。
   少しゆっくり遊びに行きたいけれど、先立つものを考えて、DORAが昔からやっていた親戚巡り。何せ和賀家は各地に広がっている。
   そんな思い出を残しておこうと思って…。


新潟・東北編
1996年8月1日〜8日


   この年も何かと忙しかった。春にOじいさんの1周忌も過ぎ段落もついたところで、夏には遊ぼうという気になっていた。そう、まだ北が残っている。
   TOPPOは亡きカエル氏の故郷の地、弘前にねぷたを見に行く計画を温めていた。DORAは従弟の結婚式で訪ねた岩手の広々とした風景がもう1度見たかった。TANUKIにとっても東北は高校の修学旅行以来だった。方向は決まったが東北と言っても広い。今回もポイントの宿は旅行会社に勤めるマーミの友人に押さえてもらう事にした。
   しかし、今回はじいちゃん&ばあちゃんがいささか年を取って、慈郎の散歩が大変になってしまった。(じいちゃんは前立腺の手術の後だし、ばあちゃんは帯状疱疹の後遺症の神経痛が治らないでフラフラしていた。)という訳で、留守部隊は岡山の叔父の援軍を仰ぐ事になった。
   7/28夏休みに入ったTOPPOと慈郎が焼津に到着。この年は神社の年行事にも当たっていたようで7/29は神社の不燃物当番。これも無事にこなし、7/30には岡山から叔父も到着、準備万端整った。

   8/1早朝5時。じいちゃん&ばあちゃん、叔父さんとネコ6匹(チビが死んでしまい、みゆが加わる)と慈郎に留守を頼んで、R150を清水に向いR52を北上。韮崎ICから中央高速に乗り、長野道からR18に入り、上越ICから北陸道と切れ切れの高速道路を繋ぎながら、まず新津を目指した。
   しかし、まずは腹ごしらえ。北陸道の米山SAでちょうど昼。海の幸タップリのラーメンを食べる。長く車に揺られてきたので、とりあえず体をほぐして再スタート。日本海が見えるのはこのあたりまでで周りの風景は一面の田圃に変わってくる。新潟中央JCTで磐越道に入って新津はすぐである。ここに母の長兄が住んでいる。
   和賀家はみな最後のツメで分り難い所に住んでいる。目印のバス停まではすぐに着いたが、その先の細い道が行けども行けども分らない。ついにTANUKIが歩きで探し回る。手前の家から少し奥まって、小さく教会の看板が出ているだけで、ようやく探し当てた。細い通路にオッカナビックリ車を入れてようやく到着。1人でお泊りに来ていた幼稚園児の孫も一緒に迎えてくれた。この子はおばあちゃんと一緒なら大丈夫だけど、まだ1人だとはにかんで隠れてしまう。
   一休み後、伯父に新潟市内にある沼垂教会(和賀じいさんの弟の子供)へ案内してもらう。伯父は運転をしないので、慎重に大きい通りをたどっての案内なので、しっかりと渋滞に巻かれ、最後はいつものパターンで車1台やっと通れる道を伝って教会の駐車場へ。
   ここは亡くなったおじいさんの代から毎年年賀状を頂いていたので、年賀状のお付き合いは続いていたが、実はDORAも初対面(多分)。お参りをして、ちょうど居た娘さんも交えておしゃべり、買い物から戻った奥さんにスイカをご馳走になった。
   戻って、伯父のご自慢の家の周りを取り巻いている盆栽を見せてもらい、やはり庭で作っている野菜をたっぷり使ったお夕飯をご馳走になる。新潟名物のっぺい汁は伯母にレシピも教えてもらった。

   翌朝「もう2〜3日も泊まっていけば花火もあるのに」と引き止められたものの、先の宿の予定も決まっているので出立。
   磐越道のこちら側は安田までできていた。ここからR49へ。川沿いの景色の良い道を進んでいく。会津坂下からまた磐越道へ。この磐越道のどこかの坂道、眠気防止プレートが3・3・7拍子になっていたのには一同大受けをした。郡山JCTから東北道へ。とにかくこの日は長丁場である。お昼を食べた以外は缶コーヒーなどで水分を補給しながら一路秋田へ。十和田IC¥8900の領収書が残っている。
   ここから十和田湖とは逆にR103を大館市へ。TOPPOが希望していた秋田犬博物館へ。城跡のそば、市の真中にある施設であるが、夕方のせいで静かだった。隣町の比内の鶏についての資料も色々とあった。TANUKIは近くの市役所へ焼津市の資料を持ってご挨拶。先方の資料を頂いてくる。
   R103を引き返して、大滝温泉千歳ホテルが今日の宿。開け放した窓から入る風はひんやりと涼しい。比内鶏をはじめとするお料理を食べ、温泉に使って本日はお終い。

   翌朝は、旅館らしい朝食をしっかりと食べて出発。この旅でちょくちょく出合ったシソで巻いた甘い梅と初対面。梅干の酸っぱさが苦手なDORAも食べてビックリ。
   まずはR103を十和田湖方向に進んで大湯のストーンサークルへ。周りをぐるりと金網で取り囲まれているので、はるかに石が見えるだけ。DORAが想像していた物より石は小さく見えるが、広がりのあるものだった。ここからもちろん十和田湖へ。

   駐車場に車を入れ、まずはビジターセンターへ。そして喫茶店で
「やっとコーヒーにありつけた!」
と一服。それからようやく湖沿いの遊歩道を乙女の像の方へ。そして何故か我々は祠めぐりを始めたようだ。みな自然の洞穴のようだが、注連縄が張られ『天ノ岩戸』『火ノ神』など木の立て札が立っている。ぐるりと6ヶ所写真が残っている。もちろん乙女の像の前でも記念写真。「わざわざ写すの」と渋るTANUKIに「私は始めてきたんだからね」とDORAは順番待ちをした。
   昼はどこで食べたのか「シカ刺し定食¥1200」と記録がある。
   遊覧船にも乗らず、奥入瀬へも入らず、車はそのまま弘前方面へ。今晩がねぷたである。十和田湖の東岸R454を通って、R102へ出、虹の湖レストハウスで一休み。リンゴ畑の中を抜けながら弘前の町を目指す。

   実は、今回の一番の不確定要素が弘前だった。祭りという事で宿が取れず、現地で当たるか、どうせ夏なので車中泊かと考えていた。ねぷたをどこで楽しめばよいかも未定。という訳で、まずは情報収集に観光館を訪ねた。
   幸いに宿も紹介してもらい、ねぷたのコースなども教えてもらって、館内のねぷた絵などを楽しんで、まず宿へ向った。今日のお客は皆ねぷたを見に来ていると宿の人も心得ている。車を預け、夕飯無しにしてもらって少し早い夜の町へ。
   ちょいと路地を入ったつがるという居酒屋へ。時間が早いとはいえ今日は祭り。これから見に行く人、参加する人で店はもうにぎやか。これから皆で参加するという元気なやっちゃ場のお兄さんと大いに盛り上がった。「もう行かなくちゃ」と最後の1杯をグイッと飲んだお兄さん達を見送って、TANUKIもカメラバックを取り上げる。
   町の通りの両側は、すでに立ったり座ったり見物が出ている。我々もその中に仲間入り。こういう時TANUKIの頑丈なカメラバックは真価を発揮する。そう、椅子として…。
   やがて大太鼓を先導に、光の列が近付いてくる。各グループごとに扇型のねぷたとパフォーマーの乗った山車や飾り物を載せた山車が行く。子供がミニチュアの山車を引いていたり、皆で笛を奏でたり、踊りがあったり、見ているお客さんに何かを配ったりと色々あるが、飛び入りでお客が入るのは認めないので、整然と進んでいく。やっちゃ場のお兄さん達はリンゴを配っていて、我々もしっかり頂いた。そして、TANUKIはフィルム3本使って、全部を写した。
   やがて『本日終了』の看板が通り過ぎ、あたりは元の静けさに戻り、我々も宿へと寝に戻った。

   さて翌朝、大鰐弘前ICから高速へ乗り小坂ICへ。十和田湖大館樹海ラインに入り、途中小坂町七滝で開いたばかりの滝の茶屋孫左衛門という所で、道路の向こうに見える滝を見ながらモーニングコーヒーにありつく。本日は十和田湖の南岸を通って、R454を迷ケ平自然休養林へ。ものの見事に霧に巻かれ、幻想的なドライブだったが、前方の安全確保だけで、実は何も見られなかった。
   先へ進むと新郷村に出る。何の変哲も無い村だが、キリストの墓がある。伝承館という資料館も付属している。丸い土盛りの巨大な十字架と、可愛い建物の資料館、東北の山里らしい展示物の中に何かエキゾチックなキリスト教風の伝承。しかし、緑濃い静かな山里という印象が強かった。
   ここから南下してR4へ。天気は崩れ気味。途中のドライブインで昼食。奥中山の叔父に電話をしてツメの道を確認する。一直線に広いR4をあっという間に南下して、目印の信号を発見。何しろDORAは前回は1人で来ているので、このあたりまでは自信がある。おもちゃのように可愛らしい駅もすぐに分る。さて、ここからのツメが、聞く相手は牛位しかいない。しばらくあっちかこっちかを繰り返しながらようやく到着。

   叔父夫婦、長女一家、長男一家に次男の連れ合いと子供達(お父さんは仕事)が待っていてくれた。
   雨になってしまったが、家の脇のビニールハウスの骨組にビニールシートの屋根をかけた下で、火を焚いてバーベキュー。長女の所は男の子が4人いるが、次男と父さんを中心に川で釣ってきた魚がメインらしい。またまた肌寒いほどの夜気の中で、火を囲んでの一時だった。
   この家はキャンプ場のような楽しさが残っている。茶の間と台所と2Fの部屋以外は建設途上。トイレは庭を越えた外の掘っ立て小屋。前回DORAが訪れた時には2匹の犬が脇持のようにトイレの両側につながれていたが、それらはいなくなり、1匹残った元子犬が倉庫で飼われていた。
   翌朝、早々と目覚めたDORAとTOPPOは朝日を眺めがてらトイレへ出かけた。ついでに外水道で顔も洗い、あっさりと目が覚めたDORAは部屋の布団をたたんでしまった。戻ってきたTOPPOは「まだ寝たかったのに…」と抗議。しかし、片付けたものをまた引き出すのも面倒で、そのままゴロゴロ。開けた窓からは避暑地もビックリの草原から来る爽やかな風が抜けていく。

   本日は「休みを取ったから案内するよ」と言ってくれた長男夫婦と、まず彼らの家に近い玉山村の石川啄木記念館で待ち合わせ。啄木記念館を一回り歩いて、まずは赤ちゃんを盛岡の実家に預けに行く。
   次の目的地は、ちょうど生誕100年で盛り上がっていた、花巻の宮沢賢治記念館である。新幹線の新花巻駅近く、豊な緑の中で、高低差を生かして賢治設計の花壇などもある。もちろん記念館の中もじっくりとまわったはずだが、記憶が無い。ただ、夏に会うことになっていた従妹の旦那の賢治君(彼の両親は宮沢賢治にあやかって名前を決めたと聞いていた)のためにハンカチを買ったのは覚えている。
   昼もだいぶ回ったところでお蕎麦屋さんへ。皆でごぜん蕎麦を食べる。
   そして次は民話のふるさと遠野へ。まずはホップの畑を抜けて河童淵へ。入り口のお寺には狛犬ならぬ狛カッパが1対並んでいた。緑濃い小さな淵はカッパも人もいず静かだった。しかし、駅前はカッパだらけ。交番もポストも屋根の上にも、もちろん池にも河童がいた。多分人間よりたくさんのカッパに出会っただろう。

   この日のドライブは従弟任せなので、道路に関してはあまり自信が無いのだが、花巻からR283で遠野へ、帰りはR396へ入ったようだ。町から外れた田園の中に、南部曲り家の千葉家があった。石垣をめぐらして一段高くなった敷地に住居と厩が1つ屋根の下に収まっている。最盛期には馬が20頭も居たそうである。現在は厩は民具などが展示されている。
   岩手は広い。遠野を出る時はまだまだ強い日がさしていたのに、盛岡は夕暮れ。岩山展望台から夕暮れの盛岡の町を見下ろした。
   そしてシメは盛岡名物ワンコ蕎麦。ほんの1口とはいえ、数が集まればお腹に溜まる。しかも目の前に積み上げられるおわんの数でこれまたお腹が一杯になる。しかし、よく食べた!
   最後に赤ちゃんをお迎えに行って、玉山へ。ここで従弟一家と分かれて我々は叔父の家まで。
   ここでの最後の夜なので、星を見に外へ出てみた。叔父に「星見酒」と缶ビールを渡されたが、外は涼しいを通り越して寒い。車からバスタオルを引っ張り出して羽織り、ポイントを探す。確かに暗いのだが、道に沿って民家が並んでいるので、星が見えて真っ暗な所はなかなか見つからなかったが、牧草地に座り込んでしばし星見。「冷たいビールより熱燗が欲しいね」と言いつつ、都会より大きく見える星をしばらく見ていた。

   翌朝は叔父の案内で叔父の次女の農場へ。彼女の所は牛飼いで朝から忙しい。こちらは女の子が4人。お姉ちゃん達が大人しくなった分、下の子が「子牛がいるよ」「ネコに名前をつけたよ」とあちこちを案内してくれた。この朝も含めて奥中山はずっと寒いほどの涼しさだったが、実は我々が連れてきた寒気だったようで、「DORAちゃんが居る間は涼しかった」と皆に言われた。
   そして荷物をまとめて出発である。本日の始めは一戸町観光天文台。天文台があるのは知っていて気になっていたのだが、結局夜に訪ねる間はなかった。しかし、ガードレールも無い地道の山道、とても夜など登れない。エッチラオッチラ登って、牛の放牧場や馬の放牧場を下に見て、着いたところで管理する人もまだ来ていなかった。本日は道中が長いので、諦めて表で記念写真。「せめてパンフレットが欲しいね」と言っているところで、草刈をしている地元の人を発見。「役場はどこですか?」と聞くと、かなり遠いらしい。「支所なら奥中山の駅前にある」と言うので、そちらへ行ってみることに。TANUKIはまたまた焼津市の資料と交換をしてもらってお仕事をしている。もちろんTOPPOも情報収集に余念が無い。
   次にR4を南下して途中のみやげ物屋さんへ南部煎餅を買いに。実はここで次男の嫁さんが働いている。もう1しゃべりして、次は盛岡の小岩井農場へ。ここにも天文館はあるのだが、双眼鏡でヒツジなど眺めてみただけ。お昼を食べ、おみやげを求めて次へ。

   ここから高速に乗り、平泉前沢ICで降り中尊寺へ。
   駐車場で車を降りてトコトコと坂を登っていく。日本的早足めぐりの観光で真直ぐに金色堂を目指す。途中には芭蕉の句碑。他にも色々な碑や建物があるのだが、素養が無いのでよく分らない。
   そして金色堂。DORAの想像よりも渋い可愛らしい建物だった。何しろさや堂に収まり、ガラスケースに収まっている。藤原4代の当主の納骨堂だが、なんともふしぎな感じを抱いた。
   資料館も見学して、高速道路をはさんだ向かい側の毛越寺に車で移動。こちらは池を中心とした浄土式庭園が見所となっている。あまり深そうには見えない池には龍頭の舟も浮いている。庭の奥には曲水の宴のための緩やかな流れも作られている。残念ながら真夏ではあまり趣が無いが、桜や花菖蒲の頃は良いだろうなぁと思われた。

   日もだいぶ傾いてきた所で、本日の宿、鳴子ホテルに向う。今回唯一の絵に描いたような観光旅館。特別なものは無いけれど、温泉も、おみやげコーナーも、見た目の楽しい食事も一通り全部そろっている。しかし、本日のハードスケジュールの旅で、皆大人しく寝てしまったものと思われる。
   そして翌朝は、まずR47を西へ鳴子温泉郷を出きった所にあるこけし館に。駐車場にドンと立っている巨大なこけしは何だろうと思わせる迫力十分。館内では土地によって違うこけしの形などが説明されている。もちろんおみやげも。
   景色の良い山道を行くと新庄市のあたりでR13にぶつかる。ここから南下。TANUKIが巨大なスイカを見つけて買い込み、それでなくてもごたついている後部シートの足元に詰め込んだのもこのあたりのはずだ。

   本日の目的地その1は将棋の町天童。天童は焼津と同じく駅前即温泉で宿が建ち並んでいる。春には人間将棋が行われるなど将棋の町としても有名である。また将棋駒の産地でもある。将棋博物館は休館日で見ることができなかったが、将棋の駒の店はおみやげ屋も兼ねていくつかあった。その1軒でDORAは将棋好きのじいちゃんの土産に程々の大きさの逆さ馬の飾り駒を買った。また、根付(写真)に名前を彫り込むサービスもあって記念に買う事にした。これもすぐに出来るのではなく、後から郵送してくれるというものだった。
   ちょうど昼時、駅前のそば屋で腹ごしらえ。
   腹ごなしには近くにある天童民芸館へ。歌手・佐藤千夜子の生家だそうだ。広い家にこれでもかと言うほど昔の生活用品などさまざまなものが並べてある。もちろん彼女のレコードなどもたくさん飾られている。しかし、何とも不思議空間だった。
   次に山寺・立石寺へ。川沿いの駐車場に車を停め、門前町を抜けて、一気呵成に登って行く。もちろんここにも芭蕉の句碑。岩にしみ入るセミの声よりも自分の吐くゼイゼイという息の方がやかましかったが…。じつは坂道・階段は日頃から慣れているTOPPOが一番強い。ケロリと先を歩いて行く。
   ともあれ奥の院をお参りして、また汗をかきかき道を下り、門前町でカキ氷を食べてホッと一息ついたのだった。

   日はまだ高いが、午後も好い加減な時間、今日はここから長丁場である。山形北ICを探し出し、山形自動車道へ。村田JCTから東北自動車道に入り、一路横浜へ。夜もすっかり更けた頃TOPPO邸へたどり着いた。留守の間の異変も無くそのままバタンキュー。翌日はもちろん寝坊をして、最後の行程、焼津までもちろん慈郎が焼津で留守番をしているTOPPOも一緒に東名高速を走らせた。


参考 ザ・20世紀 1996年

後書き

   こちらでの1番大きなその後の変化は新津の伯母が01年に亡くなった事です。またつい先日、岩手の牛飼いをしている家のおじいさん(次女の連れ合いの父)も亡くなられました。
   玉山に住んでいた従弟一家は今は盛岡で連れ合いの両親と同居しています。
   岩手の子供達も大きくなり、長女家の長男・次女家の長女が成人式を済ませました。次男家の長女もこの春から高校生のはずです。そして長男家の赤ちゃんももう小学生です。