我が家&和賀家 04年


05/3/20

   本日は地下鉄サリン事件から丸10年、お彼岸の中日、我が家にとってはOじいさんの10年目の祥月命日だ。
   あっという間の10年、午前中に本家に寄ってお墓参りをした。

05/1/3

   本日は東名の渋滞の先を越すべく早起きをして横浜へ。夜中に子猫達が暴れていたので眠いが仕方がない。
   いつもとは逆に姉の所へお昼頃に到着。結局箱根駅伝を肴にTANUKIが兄と酒盛りを始め、高校サッカーの藤枝東戦まで見て半日腰を落ち着けてしまった。
   そこからTOPPO氏の所へ。彼女を誘って焼津まで帰ってきた。

05/1/2

   お昼前から近くの叔父さん・叔母さん宅などを年始まわり。
   それぞれにお元気そうで良かった。たまたま家に居たいとこ達も含めてこんな時にしかなかなか会う機会がない。

05/1/1

   午後は毎年恒例になってきたマーミの所での兄弟集合。もちろん兄さんの子供達も。長女も就職し、長男家は2人目の娘が10月に生まれて初登場。もちろん兄さんは2人の孫娘に相好を崩してメロメロ。
   お姉ちゃんが外に行きたがったのでマーミとすぐ近くの公園へ。「マーミ」は覚えたのだが一緒に来たのは…。遊びに夢中になっている内に「おばぁちゃん」と呼びました。確かにアナタのおばあちゃんとは同い年だけど…。今年の秋にはこの子も3歳のお祝い。
   藤守は1日から近所の新年会だったそうだ。お祭りやら村の事やらで緊密に連絡を取り合わないとならない事が多いようで、新年早々忙しそうだが、中学生の末っ子を残して兄さん達は就職をして独立。
   そしてマーミ家は30日の餅つきから忘年会になだれ込み、またまた本日の一族の新年会、にぎやか好きだった亡き義父もこの家の様子に喜んでいるのではないだろうか。

04/12/30

   いよいよ今年も大詰めでお餅つき。昨年お餅つきの翌日に生まれたジュンちゃんの姪ももうよちよち歩きをするようになっていた。
   今回はマーミは少し前に肩の手術をしたばかり、TANUKIは数日前から腰痛、私は手の怪我と総崩れ。という訳でこの赤ちゃんのお姉ちゃん達がおさんこち作りの戦力になってくれた。今年も様々な形のハト(おさんこちの形)ができ、最後に1歳のお祝いに背負わせるお餅をついてお終いとなったようだ。

04/12/22

   そろそろ2月期もお終い。三島の兄弟も元気にサッカーを楽しんでいるようだ。学校のマラソン大会ではおにいちゃんが9位、弟は優勝。頑張っているよ!と兄弟のおばあちゃんより情報。



04/11/5

おてんばのかんざしひかる七五三  <国子>

   今年も七五三の季節がやって来た。上の俳句はしりとり俳句ページの国子さんがお孫さんの七五三を詠んだ句。
   今年は和賀家系の子供たち3人が3歳、1人がかぞえ7歳のお祝いになる。全国に散らばっているので、生まれたと聞いてからあっという間に大きくなった感じがするが、それぞれの家族にはそれぞれの長い物語が出来ていると思う。1つの節目を通り越して元気で大きくなって欲しい。

温き日やちょっとおしゃまな七五三     DORA


04/11/1

   新津の伯父からも手紙が来た。夕飯の支度をしていた時に揺れたそうだが、ご本人は「風かと思った」そうだ。目の前の物が揺れ、テレビは地震情報に変わり、「これは大変だ」と思ったようだが古い家ともども無事だった。
   そして長男夫婦が心配して所沢からすぐに駆けつけてくれたようだ。
   まだ結構強い余震もあるようだが、無事に冬支度に追われている様だ。

04/10/30

   今年は6月から各地で水害、浅間山の噴火、そして中越の地震と天災が次々にやって来る年となった。
   日比の叔母からの便りによると、日比は台風16号で家の間近まで水が来る水害、23号では各地で土砂崩れがおこり、夏に通った渋川から児島へ抜ける海岸線も王子が岳あたりからの土砂崩れで通行止めとなったそうだ。
   中越地震では三男のお嫁さんの実家が小千谷なのだが、家には入れずに空き地にテントを張っての避難中であるらしい。
   どちらも復旧までまだまだ時間がかかりそうだが、健康第一で頑張ってと祈らずにおられない。

04/9/1

   学校は新学期。タニカの下の2人は今日から転校。同じ町の中での引越しだったが、小学校区が違うそうだ。
   次女はもともと度胸のある性格の上に、バレーのお友達が町のどこに行っても居るので心配ないが、末っ子は少々馴染むのに時間がかかる。お姉ちゃんの居る後1年半でたくさんお友達を作らなくちゃ!

04/8/16

   8/10、TOPPOさんが仕事を片付け「1週間も居ないの?」と言うご両親をなだめ、お父さんの冷蔵庫を満杯にして、「せっかくの休み、少しは息を抜かなくちゃ」と焼津にやって来た。「夏には来るの?」と楽しみにしていた父、今回は絶好調の母、TANUKIはまだ仕事だが、マーミ達も皆で首を長くして待っていた。何年ぶりかのお盆時の登場。
   夕方前に無事に到着。日が傾く頃、散歩がてらマーミの所へみやげを届けに行く。彼女がちょっと来ないうちに町は様変わり。区画整理中で道路が出来るとともに家も移って行くので、焼津のこのあたりの変身はすごいものがある。「慈朗が居たらびっくりするね」と言いつつ、慈朗の散歩道だった道を通ってまず仏様にご挨拶。庭で「ここの猫のミミも初盆だね」と言いつつ土手の散歩道の方へ。ゴロゴロと雷様もお出迎え。夕立を気にしながらも幻の慈朗と共にかつての慈朗の散歩コースをたどる。犬質・慈朗のお墓は我が家の庭にパピやチビ・小慈朗・ジライヤと共にある。お盆も近い、連中も現役のクーやクロン、みゆと共にその辺りをウロウロしていてもおかしくは無い。
   お夕飯はTOPPOさん来宅をダシにお寿司を頼む。しばらくぶりのおしゃべりをしている内に夜もふけた。
   翌11日は何はともあれ鍼の先生へ。帰りにTOPPOさんが調べてきた静岡市内の沖縄物産の店に寄る。ツインメッセを目印に車を走らせ、どんな店なのか分からないので近くの大型スーパーの駐車場に車を入れる。店の中を通りながらTOPPOさん、秋物のパンツを1枚お買い上げ。タダ駐めじゃありません。
   食事も出来ないだろうかと目論んで行ったお店は、すぐ口に入るものはジュースとアイスクリームしか売っていないので、1度ツインメッセまで戻る。お昼のカレーは\840(だったかな)。
   食後、改めて沖縄物産を吟味に行く。TOPPOさんが期待した食材は少なくお菓子類などが多い。お店の人が次々と相手をしてくれて沖縄大好き!のTOPPOさんと話が盛り上がる。島豆腐や麩、スクガラスの瓶詰めなどの食材とTANUKIのバースデープレゼント用のイラブの丸薬?などを山のように買い、沖縄らしいアイスクリーム(TOPPOさんはゴーヤー、私はサトウキビ)を食べてきた。
   お夕飯はTOPPOさんが腕によりをかけた沖縄料理。今日買ったもの以外にも、TOPPOさんはレトルト食品やインスタントのソバなど色々なものを持ってきた。
   しかし、いよいよと言うところで麩が見つからない。大捜索の末にお店に電話をかけてみると、「お預かりしています」との事。たくさん買い物をしたので、潰れないように上にいれてくれるつもりで忘れられたらしい。明日取りに行く事にして、本日は麩チャンプルはお預け。それでも食べきれないほどのご馳走だった。
   もちろん12日は午後から静岡へ麩をお迎えに行く。本日はTANUKIも興味津々で同行。
   まずTOPPOさんが店員さんに麩を返してもらう。私はゴーヤーのどら焼きを発見してどら焼きコレクターとしては興味がわいたが、ゴーヤーは…、苦手で二の足を踏んでいたら「買おうよ」とTOPPOさんが手を出す。その他にもそれぞれ色々と買い物をして、本日もアイスクリーム!TOPPOさんは飽きずにゴーヤー、昨年の夏に沖縄で話だけ聞いて食べなかったのが心残りだったようだ。TANUKIも付き合う。さっぱりとしていて苦味はあまり無いようだ。私は紫色をした山芋のアイスクリーム。私のはコッテリ系。
   家に戻ったらマーミの所から甥っ子が顔を出したと連絡が来たので、しばらくぶりに顔を見に行く。彼とは正月以来。どうやら家を持つ事にしたらしい。しばらくテレビを見ながらおしゃべりをして、我々3人はやはり古くからの遊び仲間のKANMA氏も誘って西焼津駅の側まで飲みに出る。歩きで焼津駅へ出て西へ一駅、西焼津の駅前のバリハイ。TANUKIが気に入って去年から誘っていた店だ。すぐに満席になるというのでまだ日の明るい5時過ぎ到着。
   とりあえずのビールでTANUKI気に入りの料理を何品かもらう。アジアンレストランだが特にどこの料理と言うものでもないらしい。後からやって来たKANMA氏はアオザイ姿のお姐さんが一番気に入ったようだが、内装などもなかなか凝っていてTOPPOさんなどわざわざトイレの手洗い鉢を写真に収めたほどだった。
   30代には夏休みともなれば4人で林道ドライブに出たり、飲みに出たりと散々遊んだものだが「何年ぶり?」と言う会話が出るほどKANMA氏とTOPPOさん、それぞれに忙しくなっていたようだ。仕事ももちろんだが親の健康状態が気楽に遊び歩けない大きな要因になっている。ここは遊べる時に遊んでおいて良かった!と素直に思う。
   ひとしきり飲んで食べた後、家へ場を移す。頂き物の泡盛がまだ少しある。TOPPOさんが材料があるからと沖縄風のニラ入りお好み焼きとゴーヤーのおひたしを作る。もうしばらくおしゃべり。10時過ぎ、「もう1軒」というKANMA氏だがTANUKIのおみこしは上がらなかった。そういえば今日から焼津神社の荒祭り。
   遊び歩いている間に三島の従妹が寄ってくれたようだった。会えなくて残念。花火で会えれば良いのだが。
   さて明けて13日。午前中にTANUKIはとなり組の初盆お見舞いに。その間にこちらは本家のお盆のお供えを買いにスーパーへ。
   お坊さんのお経の予定は午後2時との事だったが、流れの中での時間なのでお昼を食べてすぐに本家に出向く。まさに我々が行った時、お坊さんもいらして縁側を上がろうとしていた。こちらもあわてて通用口からジュンちゃんにご注進。マーミは仕事先からの帰りに東名の事故渋滞に巻き込まれて、まだ帰って来ていない。何はともあれ部屋で休んでいた義兄さんにも知らせて、盆棚の前に集合。お経の途中でマーミも無事に帰って来た。
   本日のお坊さんは忙しい。お経がすむとさっさと帰られる。
   我々は明日の花火の打ち合わせをしたりして、しばらく話し込む。
   その後は買い物。今晩やって来る従妹一家を迎えてのバーベキューの準備と明日の花火の準備で山のような分量になる。今年は枝豆や落花生の出来が悪く、スーパーをハシゴして探すことになってしまった。
   家に戻ると岩手の従妹達から立派なキャベツやレタス・トウモロコシが送られて来ていた。有難く早速使わせてもらった上、今朝お隣で頂いた梨のお礼にトウモロコシを差し上げることも出来た。
   夕方、従妹一家が到着。今回はキャンピングカーではなく新車。「買って1月近くなるけどなかなか乗る暇が無かった」との事。しばらく車見物をしながら(従妹)「前の出ている車は怖い」(TOPPOさん)「後ろが無いと後ろの車にピッタリと付けられて怖い」などそれぞれの車感。私は後ろの出ている車は曲がる時の感覚がつかみにくい。
   夕方、藤守の一家が珍しく上の2人の子と一緒に仏さんのご挨拶に寄ってくれた。ここでも明日の花火の打ち合わせ。
   日の傾く頃、裏のデッキで借り物のバーベキューコンロにTANUKIが火を熾すがなかなかおこらない。適当なところで肉を焼こうとするが火力がいまいち。結局、台所で炭を熾し、(外を通っても行けるのに)部屋の中を火が通る騒ぎとなった。焼けたところから皿に取ってテーブルに送り込み皆で食べる。焼き手のこちらは火の番をしながら「ビール!」
   にぎやかさにクロンは家から抜け出し、田んぼ道で座り込んでぼんやりとコウモリの飛ぶのを眺めていた。
   食事の途中で「今日着くよ!」と従弟の長女から電話。食事はしてくるとの事で、寝る場所の配分だけ考えなくてはならない。
   食事の後片付けをしている内に下田経由の後発隊もこちらはキャンピングカーで到着。
   あまり飲まない従妹のダンナは疲れと酔いで子供達の騒ぎを子守唄にグッスリ早寝。
   子供達も皆大きくなったので寝場所の配分が難しい。結局男3人をいつも我々が寝ている部屋(布団3枚が敷ける)に押し込み、そこに続く客間(布団3枚敷ける)に従弟家の妻子4人とTOPPOさん。いささか狭いので真ん中のふすまを取り払いもう1枚布団を敷く。従妹と子供3人に私(みんな小柄)を加えてジジ&ババの部屋と続いている茶の間へ。こちらは布団2枚半がいいところ。幸い夏なので横になるスペースさえあれば何とかなる。
   順番に風呂に入ったりおしゃべりをしたりで眠ったのは夜中過ぎ。ところがハイになったばあちゃんが目を覚まして煌々と明かりをつける。消えてしばらく経つとラジオでオリンピックの開会式を聞きだす。明け方人の足を踏んづけて風呂に入りに行く。台所の食器をテーブルの上に並べ立てる。そのうちに従弟家の早起き組が起きだした。かなり賑やかなサービスエリアの仮眠でもぐっすり眠れる私がほとんど眠れなかった。従妹も「眠れた?」と聞いたら首を振っていたが…。
   朝ごはんを全員で食べる場所はどこにも無いので起きてきた順。夕べのバーベキューの残りの肉を炒め返してバーベキューソースを絡めてたっぷりのレタスの上にドンと置く。ご飯にパン、味噌汁にコーヒーを用意して、後は常備菜でご勝手に。
   昼までは動きも取れないので、子供達が遊んでいる間に瑞穂の親二組は買い物。そこに廃インクタンクが満タンになって取替えに出していたワープロが戻って来たと文房具店から連絡があったので、私もそれを引取りがてら買い物。
   ただしお昼はお寿司を取って、昨日のお昼の素麺の残りを具にしたお澄ましでごまかす予定。何しろ午後から台所が忙しくなる。
   お昼は客間側の2部屋にテーブルを総動員して全員で食べた。「ネギ無しのはDORAおばさんの!生姜が乗っているからね」とおわんを1つ確保していたら、従弟家の末っ子もネギは苦手だったらしく、お姉ちゃんにネギを押し付けた挙句、食べ切れなくて最後はおわんごと全部押し付けていた。子供達が大きくなってよく食べるようになった一方、お父さん達はきっちり一人前。「医者のイエローカード」がそれぞれ出ているらしい。
   さて、午後からは花火見物の支度。例年、義弟と合わせて仲間が50人位が集る。場所は朝のうちから義弟やTANUKIが確保に出る。夕方早いうちにゴザと飲み物食べ物を運び込んで、花火が始まるまでの間に宴会になるのが我々のいき方だ。
   そのためには準備が要る。今回は小芋の衣かつぎ・枝豆・茹でピーナツ、黒はんぺんのフライ・TOPPOさんのお土産のシュウマイの素揚げ、フライポテト、ウインナーのケチャップ炒め、焼き鳥、ミニトマトとキュウリを切ったもの。そして具を混ぜ込んだ一口おむすび。今回は油の相手以外は中学・高校の年長のお姉ちゃん3人に活躍してもらった。黒はんぺんに衣をつけたり、おむすびを作ったり、結構楽しみながら上手にやってくれた。
   あまり遅くなると車を止めるスペースに苦労するので、まだ暑い中を出発。荷物は藤守の車に入れて荷物運び要員と共に港へ直行。小さい子はキャンピングカーで三島の従妹が帰っている叔母さんの家を経由して、港の近くの友達の家に車を置かせてもらう。道案内役のTANUKIが子供は歩かせる。残念ながら三島の一行とは会えなかった。その上マーミの車の台車を当てにしていたのだが、なかなか来ないので、結局人力で運ぶことに。
   花火見物のお座敷が広がったところで子供達の興味は露店に移る。お小遣いを持って連れ立って出て行く。そうこうしている内にマーミの一行も到着。荷物持ちが欲しいと言うので男手が出て行く。大きなスイカにクーラーボックス。こちらも一山のご馳走。夕べ渡したトウモロコシも茹ってやって来た。
   カキ氷に始まり焼きソバやらクレープやらと買っていた子供達も一緒にご馳走を広げる。飲んで食べて一段落して暗くなった頃、藤守の父さんは今日は試合で遅くなっていた末っ子を迎えに出て行く。
   煙の花火が終り、ご挨拶に続いて花火が打ちあがる。なぜか皆で携帯のカメラで花火を撮る。最近の携帯は動画でもきれい撮れる。このあたりから私の記憶はあいまいになる…。確かに花火は見ていたが…、よく眠ってもいたらしい。従弟の上の娘達は幼児の頃やはりこの花火の喧騒の中でよく眠っていた。同じ遺伝子のカケラのせいかもしれない。
   とにかく今年の花火は無事終り、「また来年」の挨拶を交わしながら片付ける。

   花火の写真は左からTOPPOさん、従弟の長女、DORA撮影

   明日はバイトがある従妹家の長女のために、こちらはこれから家で荷物を積み込んで帰途。
   従弟家は疲れたおちびさん達からお風呂に入る。ママべったりの末っ子に「お母さんと寝るのか、お姉ちゃん達と寝るのか?」と聞けば「お姉ちゃん達」と言うので、客間に子供たち3人の布団を引くことにする。パパとママはジジ&ババの隣りへ。クーラーは効くけど…。親から離れた子供達は結構遅くまでTANUKIおじさんとテレビで映画を見ていた。
   残念ながら明けて15日は雨。午前中は皆ゴロゴロ。子供達はパソコンで代わる代わるゲームをしている。
   大人も「どこか行こうか」と言うでもなしにまったりとしている。
   でも、せっかくの夏休み。お昼を食べた後で近場のディスカバリーパークへ出かける。プラネタリウムは家族向けプログラムの『もっと不思議の国のアリス』子供達にはちょうど良かったかもしれない。その代わり1時間半位の待ち時間。
   その間、下の科学館で遊ぶ。ただいまのテーマは錯覚。斜めに柱をつけた部屋に寝転んで、その位置感覚に慣れるとボールを真上に投げているつもりでも頭上はるか、とんでもない方向に行ってしまう体験はなかなか面白かった。子供達が面白がったのは、現在の顔をカメラで写してCGで生まれた時の顔を作るもの。姉妹なので最後の出来上がりは皆似てくる。しかし、確かにうまく似ている。「パパも」と言われて従弟もやってみる。幼児期はもう少し長い顔をしていたはずだが、赤ちゃんの顔は良く似ている。「おばちゃんも同じ遺伝子が入っているよね」と引っ張り出される。遺伝子の入り分くらいは似ているかもしれない。
   まだ時間があるのでちょっとコーヒーブレイク。と言っても自動販売機しかないのだが。末っ子がテーブルにココアをご馳走してしまい、ちょっとベソ。雨も小降りなので気分転換に石踏みのコースを歩きに行く。
   そして、ようやくプラネタリウムの開始時間。さすがに夏休みで満員になる。TOPPOさんによると、南が真正面になる席に座ると説明が聞きやすいそうだ。初めは今見ることができる夏の星座のお話。天の川を挟んでのこと座とワシ座、それを取り持つ白鳥座の夏の大三角形。そしていよいよプラネタリウムからウサギを追いかけて星空まで行ってしまったアリスのお話。大画面紙芝居だと見れば楽しいが…。
   帰り道、海際を走っていたら長女とパパの釣のムシを刺激したようだった。「帰りに釣をしよう!」と帰り着くとすぐに帰り支度。夕暮れの中をとりあえず釣をするつもりの焼津港目指して帰って行った。
   夕飯を食べた後、地元の盆踊りへ。TANUKIは立場上祝儀持参で行かなければならないのだが、テレビの前から動きそうもない。付き合いきれないのでTOPPOさんと先行する。今年から新しい公園に会場が移って近くなった。しかし、やぐらの周りで小規模に民謡の会のおばあさん達が踊っているだけで盛り上がりがない。反対側の見物席の親睦会はにぎわっているのだが…。
   曲の方も我々が仲間に入れる『焼津おどり』や『東京音頭』『炭坑節』などメジャーなものはかからずに、民謡の会の皆さんの発表会になってしまっている。年配の方が多いのでそう複雑なものではないから、ちょっとした講習でもすれば走り回っている子供達も仲間に入ると思うのだが、そんな演出はない。
   涼しい晩だったので見ている間に冷えてきたが、ようやく『炭坑節』がかかったので仲間に入る。次は又難しいのでドロップアウト。同じ組内のおばあさんが近くで踊っていてしばらくおしゃべり。「腰が痛くて」と言いながらお元気そう。ようやく『焼津おどり』がかかってもう一踊り。そこで中入り…、福引が始まった。
   ようやくTANUKIがやってきて目の前をスーーーと通って受付に行き、飲みに行ってしまった。で、帰って来て「どこに居たの?」は無かろうに。
   後半の始まりは『東京音頭』の予定だったらしいが、音が出なくてモタモタして、結局飛ばしてしまった。このあたりで我々は帰宅。TANUKIはもう少し飲んでいたようだった。
   夜もずっとふけ、am0:00をまわり、TANUKIの誕生日の16日。泡盛で乾杯をしてめでたくこの夏の喧騒の最後を締めた。
   翌日の午前中、さかなセンターで買い物を済ませたTOPPOさんも、お昼を食べて帰途に着いた。

04/7/20

   新潟の伯父からようやく第2弾の原稿。大雨で心配だったが、長女が赤ん坊の時以来水害はないらしい。その時の水害でしっかりと河川改修が行われたようだ。
   雨で盆栽の水やりも野菜の世話も手が抜けたのかもしれない。

04/6/15

   『和賀家の通信』が届いたところで日比の叔母より電話。
   この夏は祖父母の年祭なのだが、8月の1日に墓参、2日にお祭り。そこまでは良いのだが、1日は教会関係者がみな忙しいので、2日の夜に皆で集まって泊まるのだそうだ。時間の流れを勝手に読んで1日夜泊と書いてしまったので訂正。
   本当に出かける人間には直接伝わるとは思うが…。日比の叔母が「前日は大丈夫、家も広くなったし夏なら皆で泊まれるから」と言ってるし。


04/5/22

   5/23はT家の祖父の祥月命日に当たる。この春はお天気が悪くてお彼岸のお参りにも行っていなかったので八王子までドライブがてら行く事にした。
   朝、妙に寝苦しくて目が覚めたら、クロンが私の枕の真中に頭を乗せてスヤスヤと気持ち良さそうに眠っていた。おかげでいささか早起きができたが外は曇りで肌寒い。洗濯物を洗って干してam8時前に自宅を出発。
   東名高速はいつもより車が少なめ、順調に流れて1時間ほどで足柄SA。東名を降りた先は予定が立たないのでトイレを済ましてお茶を仕入れておく。しかし、厚木ICから先も渋滞しているとは言うもののいつもに比べたらたいした事も無い。11時頃には霊園に着いた。
   花と線香を買ってお墓へ。芝を刈った後なのか墓石にたっぷりと張り付いているのを洗って花と線香を手向ける。幸いに雨は降ってはいないが寒い。しばらく鳥の声を聞きながら線香の煙の行方を眺めていたが、寒いので車に退散。線香の尽きる頃にざっと灰を流してお墓を後にした。
   ここから一度行ってみたいと思っていた福生市の石川酒造(多満自慢)へ向かう。高尾街道から滝山街道へ、いつも瑞穂へ向かう道を進む。かなりの渋滞を覚悟していたのだが、この道もさほどの渋滞ではない。途中でお昼も考えていたのだが、陸橋通をたどって看板を見つけるまでたいしてかからなかった。一筋奥の細道を入った所が駐車場。その目の前の建物が石川酒造だった。
   石川家はこの土地の名主として多摩川とともに生きてきた家のようだ。酒造業は江戸末期から、実はビールも明治期にサッポロビールについで醸造を始めたそうだが、王冠や瓶の強度の問題などでほんの数年で中止されたそうだ。
   現在は日本酒とビールの醸造所とそれらを味わえる蕎麦処とビール小屋ガーデンがある。蕎麦処は蔵をそのまま利用したもので、どっしりとした落ち着いた空間になっている。2Fは資料館になっており石川家や醸造業に関する資料が展示されている。ここでお昼。TANUKIはもちろんビール(多摩の恵の季節のお勧め)。天ぷらをつつきながら寒かったので掛け蕎麦をすする。
   ビール小屋ガーデンはあまり広くは無いようだが、お天気が良ければ外にもテーブルが広げられる様でイタリアンがメインらしい。この正面には明治期に使われていたビール用の大釜が展示されている。その奥には井戸、さらに多摩川から引かれた熊川分水(今は使われていないようで澱んでいた…)が流れ、その奥は今でもご自宅になっているようだった。
   武蔵野の古いお屋敷らしく、大きな木も何本もあり、夫婦欅の側でくみ上げられている湧き水はマイルドなものだった。

多満自慢   http://www.tamajiman.com/index.html

   帰りは八王子ICから中央高速へ、時間が早かったので山中湖ICから降りて山中湖を半周、新緑を楽しんで御殿場ICから東名高速で帰ってきた。


04/5/21

   今週のしりとり俳句のお題は『族』。どうも家族とか親族とか一族とか私の発想が限られてしまうが、色々な事を思い出した。

   私の母方の親族は割合に団結力が強い。母の兄弟が9人、その父親である祖父は10人兄弟、何のかんのと言いながらまとまって行動する事が好きだ。私が子供の時にはバス1台を借り切って一族で海に遊びに行ったりもしていた。今でも名簿を作ったの系図ができたのとまわってくる。
   さすがに1代目のほとんどが鬼籍に入り時代が移れば誰が誰の何に当たるかが覚束なくなるが…。

ビール酌み親族家族のものがたり   DORA

   O家の義父は古い伝承行事などを大切にしていた。今住んでいる我が家を建てたのは昭和の終わり、すでに建築は機械の力を大幅に借りていたのだが、TANUKI方の一族O家・Y家・近所の友達など総動員で建前をやった。
   実際に材木を持ち上げるのはクレーン車だし組み立てをしてくれるのはこの日のために大工さんが集めてくれた本職だが、ちょうど今頃の季節、大勢が集まってにぎやかに材木を仕分けたり、お昼を食べたり、喧騒の1日の間に建物の形が組まれた。夜はみんな車なのでお料理にお酒を付けて持って行ってもらったが、慌しくもお祭のような1日だった。

一族で材曳く建前五月晴れ   DORA


04/4/4

   本日は瑞穂から従弟一家がやってくるのだが…、残念ながら時々雨の降る曇り空。釣は早々にあきらめて来るかなと思ったら昼前に思わぬ電話が。
   東名の日本平PA付近で後ろのタイヤがバースト、JAFさんを呼んでいるところだという。幸い怪我や事故にはならなかったが大音響だったらしい。だいぶ待たされて静岡ICまで連れてきてもらったが、キャンピングカーなので合うタイヤを扱っている店を探すのにだいぶ手間取り、「ようやくタイヤは見つかったけど知らないところへ来てしまった」とママから電話。慌てて地名からネット検索をしてみると、インターからはだいぶ連れられてきた感覚はするがR1バイパスに近い事が分かり、折り返し連絡。昼をまわった頃に「車が動き出したよ」と末っ子から連絡。
   皆がお腹をすかしてやって来たのは1時を回った頃。とりあえずお昼にする。
   残念ながら雨は本格的に降り始め、あまり時間もない中で子供達はパソコンでゲーム。取り合いの結果TANUKIおじさんのパソコンまで乗っ取る。
   パパやおじいちゃんそのまたおじいちゃんの古い写真など見ながらおしゃべりの傍らでパパも一緒に帰りに寄るつもりの温泉のネット検索。
   子供達のもう1つのお目当てがカントリーロードのプリンなのだが、今お昼を食べたばかりで動かないのではとても無理、というもののあまり遅くなる訳にもいかず、4時頃にこちらを引き上げプリン攻略に向かった。この結果は知らないが、その後「東名が渋滞しているので富士に抜けようとしたら朝霧高原が雪でチェーン規制、Uターンして御殿場に向かっている」とママから電話。
   膝に水が溜まって抜いたばかりだというパパが運転の春休み最後のドライブ旅行、大変な1日になったようだ。

   ところで子供達、お姉ちゃんは部活に忙しい毎日。「レギュラーになれるかな?」の問いにコックリ。ママが解説するには「人数が少ないもの。」次女はバレーの先生が外人さんになり英語の指示をされている。「全然わかんない」と言うものの、本人の発音も結構よろしい!しかし、何よりも変わったのは末っ子。いつもお姉ちゃんの後ろにくっついていたのが、今回は電話連絡係り。「おばちゃん家行って良い?」から始まって、「タイヤ直って走ってるよ」までしっかりと連絡をしてきました。


04/4/3

   ようやく空けた休みを使って『三島の従妹の所へ次男坊の小学校入学祝を持っていく』という大義名分を作ってドライブ。R150からR1を通って開きだした桜を眺めながらのドライブ。車中は暑い!それでも花はまだ3分咲き位か。
   昼前に家を出たので、途中由比の桜えび会館で食事。福引券をもらったので食後そのまま町の方まで降りて福引をしてくる。旧街道の観光ルートの外れのおみやげ屋さんまで上手く歩かされてしまった。お正月で大吉のおみくじを引いたTANUKIの運はまだ大丈夫なようで何等だかのそうめんの束が当たった。もう1つは缶のお茶。1本を分け合って飲みながら車を進める。
   沼津から三島に入るあたりでいつも道が混乱する。TANUKIは長泉を目指すが、こちらには別の従弟も住んでいるのでDORAは混乱。結局細道をこちゃこちゃと辿る事になる。最後のどん詰まりで渋滞。反対側の道から入って隣の団地に乗り入れてしまった。団地の細道をぐるぐる回り、ようやく到着。
   お兄ちゃんは朝からサッカー少年団、弟も午前中は一緒に練習だったようだが、まだ小さいので午後は無くお友達と遊びに行った模様。土曜日で旦那も居たので4人で高校野球を見ながらおしゃべり。
   TANUKIの「また転勤だ」の嘆き節の合間に最近の学校事情などの話題が出る。この従妹はだいぶ以前のTANUKIの教えた学年の子でもあるので、その頃の子達の消息なども出てくる。
   話の途中で次男坊が家に入って来たが、照れてしまってお父さんに言われて「こんにちわ」と「ありがとう」だけしっかりと言ってまた外へ遊びに行ってしまった。
   高校野球が済美が明徳義塾を7-6で降したのを見て腰を上げる。
   帰りのR1は沼津を越えるまで渋滞。途中、原のあたりの桜並木では桜祭りが行われていた。後はほぼ順調に焼津に戻って買い物をして家に着いたのが7時、ネコ3匹だけ食事を終わってそこここで丸まって眠っていた。

   そして明日は瑞穂のもう一軒、従弟一家が釣がしたくて日帰りドライブで来るそうだ。


04/4/2

   昨日の午後、瑞穂の従妹一家が来宅。昨夜の内に家を出て、焼津港でスタンバイ、朝から釣をしていたそうだが、残念ながら釣れず。風が冷たくて早々に終了。カントリーロードでお昼を食べたそうだ。こちらは分量は分かっているので家族で調整。食事の他にプリンは1つを皆でつついたそうだ。「でも、お父さんは別にアンミツを食べた」そうだが…。
   暖かかったので午後からは土手を歩いて末っ子のご要望にこたえて児童公園めぐり。小さい弟をダシに高校生のお姉ちゃん達もよく遊ぶ。間に思い出したように携帯電話が出てくるが…。
   お夕飯の後は疲れたお父さんはにぎやかな中でよく寝ていた。
   本日はお天気も悪く、五月雨式にみんな朝寝。お昼過ぎまでのんびりしていたが、明日はお父さんが夜中の3時に出勤との事で、早めに帰って行った。
   今年高校に入る次女はスクスクと大きくなっているが、1つ上の長女は程々の所で一段落。私のグレーのブレザースーツが入りそうなので、今回バトンタッチ。このスーツもTOPPOさんが20代の頃着ていた仕事着が30台の私のちょっとしたよそいきになっていた寿命の長いものである。


03年へ