我が家&和賀家 07年
08/3/31
今年のお節句の餅は横浜の義姉の所と春休みに遊びに来られなかったTOPPOさんの所に行った。
無事に着いたようだが、TOPPOさんは咳が止まらなくて医者へ、山ほど薬をもらってきたようだ。義姉は階段から落ちたとかでやはり医者通い中だとか。義姉は「骨は頑丈だから無事だったけど頭を打って5針縫い、あちらこちら痣が出ている」とぼやいていた。しかし、それこそ打ち所が悪ければ大変な事になるところで無事で良かった。
二人ともお餅で元気を回復して欲しい。
08/3/30
カレンダーの関係で今日お節句の餅つき。
白・黄色(梔子)・ピンク(食紅)・緑(ヨモギ)を各2臼。搗く手間は機械なので良いのだが、火力が電気になって蒸しあがるまでがいささか手持ち無沙汰。以前のように広い所に広げておくということも出来ないので、伸したはしからマーミが配達先別に大きく切り分けてしまった。
我々はお供え用の小餅を丸めるのと最後に草餅を丸めて黄な粉餅にするだけなので大して仕事があるわけでもない。まあ、みんな揃ってワイワイ1つの事をやることに意義がある。
08/3/26
三島の従妹からしばらくぶりの電話。
この春からもう長男が中学生。卒業式やら入学の準備やらで忙しそうだ。しかし、旦那さんが転勤で職場が近くなり、ずいぶん時間にゆとりができるようになったとか。
08/1/14
瑞穂の従妹のお舅さんが昨日亡くなったそうだ。糖尿病は持っておられたが、休んでいるという話も聞いていなかったのでビックリしたが家族にとっても突然だったようだ。
一昨日、具合が悪くて救急車で病院に運ばれたようだが、その時はそれほど状況が悪いようにも見えなかったのが夜半に急変したそうだ。それでも病院から呼ばれて皆で駆けつけて間に合ったそうでお別れができて良かったと言っていた。
お正月は元気で親戚や知り合いにも会い、ちょうど今年は金婚式でお祝いをしたばかりだったという。残念なのは初孫の成人式で、今年だったのだがタッチの差で晴れ着姿を見せられなかった。もっとも晴れ着も用意したし美容院も予約していたので今日は晴れ着姿でおじいさんに付き添っていたそうだ。
とにかく病院に付き添ってから、亡くなって帰って来るので家を片付け、次々とお別れの人がやって来て寝ている暇も無かったらしいが、色々な事情でお葬式は今週末、もうしばらく落ち着かないままの日が続くと思う。
08/1/3
本日は横浜の義姉の所までお年始に。一昨年に家を建替えて昨年のお正月は引越しの終わった所で片付いていないからとの事で行かず、そのまま1年が経ってしまった。という訳で新しい家への初めての訪問。
もちろん位置は同じなのだが家は大変身。木の木目を生かして、さらに壁紙なども白っぽいベージュを基調にしたカントリーっぽい作りで、さらに1Fはおばあさんの個室と和室以外はオープンスペースなので広々と感じられる。トイレや風呂場もバリアフリーで広く取ったそうだ。
2Fは娘達と夫婦の個室と階段上のオープンスペース。さらにロフトは義兄さんの遊び場スペースになるらしいが、ここはまだこれから手が付くようだ。義兄さんが「この窓良いだろう!」と見せてくれたのは、押して開くタイプのガラス窓なのだが、3層構造で機密性が高く、しかもクルリとひっくり返って手元に来るので裏表とも掃除がしやすいのだそうだ。
機密性が良いので暖かく暑がりの義姉さんは半そでのTシャツ。義兄さんの方は「家の中でタバコをすうと家中にタバコの臭いがこもる」とわざわざタバコを吸いに外に出ていた。
そんなこんなで家の中をキョロキョロした後は大宴会。下の娘は仕事でいなかったが、すっかりご馳走になって、ただし、早めに始めたのでそれほど遅くならずに帰ってきた。
08/1/2
本日は恒例の年始周り。一番近くの叔母の所から。帰って来ている従妹の子供達にお年玉。郵便局に行く所だったという従妹を乗せて郵便局往復。彼女を送って次は駅の側の叔父の所へ。お正月には法多山へ初詣が恒例になっていたようだが、最近は従弟が代表で行っているようで「オレはもうあの坂道は心臓がパンクする」と叔父。
次は自宅を通り越して叔母の所。相変わらず家の周りでたくさんの花がきれいに咲いている。そして次はジュンちゃんの実家。こちらは今日もお姉さんの長女がお留守番。最近は人ごみはあまり好きではないようで、「家族で出かけなくなった」とお姉さん。その分お祖父ちゃん宅の良いお留守番になっているようだ。この姉妹3人分のお年玉。
そこからもう1軒叔母の所、といっても叔母は施設に居るので、叔父のご機嫌伺い。ちょうどここの家の姉弟家族が集まっていて、しばらくおしゃべり。岡崎の従姉に「食べていきなよ」と彼女得意の味噌煮込みを出されたがこちらは遅い朝ご飯でまだお腹がいっぱいなので貰って帰ってきた。
最後に本家に当たるマーミ宅。開けっ放しなのでホイホイと中に入っていったら居間に居らず2階から降りてきたので、こちらが奥、マーミが外側でのご挨拶。兄さんも一緒に大画面テレビで箱根駅伝の山登りを見るが、好スタートだったはずの農大は結局5区はドン尻争い。それでも農大OB3人寄ってマーミに適当に構われる。藤守にもここで会えるかなと皮算用していたのだが、来なかったのでこちらから行ってみる。珍しく母さんと娘がのんびりして居たが、父さんとは入れ違いだったようだ。
親戚一周の後は焼津神社と七社神社へ初詣。1年のお礼とこの先1年の無事をお願いしてきた。
07/12/30
片付くのか、と本気で心配だったマーミの新居で無事に餅つきをした。
ジュンちゃんのお母さんとお姉さんの上の2人の娘さんが今回の援軍。小6と小3になってずいぶんお姉さんらしくなってしっかりしてきた。初めにお供えやお鏡、さらにおさんこちと年取り餅と丸めなければならない餅がたくさんあるので手はたくさんあった方が良い。さらに兄さんも昨年までの火の番がなくなって「入れて」とやって来て、さらに藤守の父さんまで様子を見に来て、兄弟4人が珍しく集まって仕事をした。
昼にはジュンちゃんの姉さん夫婦と一番下の子もお姉ちゃん達を迎えに来て年取り餅を食べていった。
台所の火がIHなので米の蒸けるタイミングを計るのにしばらく戸惑ったが、上手くいった。その代わりなんだかんだで3升ずつ10臼分、けっこう時間が掛かった。
07/12/16
マーミ宅はまだ荷物でごった返し。こんなに押し込んじゃったら荷物を解いてしまう事ができないと思うのだが…。
とにかく少しの時間だが、TANUKIを働かせて、ジュンちゃんを手伝ってタンスの位置を変えたり廊下の荷物を動かしたり。TANUKI、家ではテレビの前にころがって何もしないで邪魔なだけだが、他所ではよく働く。
お正月までにとりあえずでも片付くのだろうか。
07/12/10
朝からマーミ宅の引越しの手伝い。ジュンちゃんのお母さんとお姉さんも来てくれる。とにかく引越しの傍ら旧宅の解体開始で瓦がはずされ慌しい事になった。しかも旧宅の電気・ガス・水道が止まっているので、ちょっとした所で不便。しかもエアコンの取り外しに来た電気屋さんが、電気が来ていないと困ると言い出しマーミもいささかうんざり気味。しかも広い所から狭い所に入るので家具が多すぎて、計画は立てていたのだろうがかなり難航。
何やかやとあったが、それでも隣に運ぶだけという地の利で、夕方暗くなる頃までには何とか当座の物だけは収まった。
まだ、アパートに預けたものなど持って来なければならない中身はたくさんあるようだが、ウォークインクローゼットやパントリーなど収納スペースはかなり取ったようで、落ち着けば暮らしやすそうだった。
07/12/9
マーミ&ジュンちゃんの新しい家が完成。明日の引渡しと共に引っ越して、旧宅は電気・ガス・水道を止めるとの事。
そんな訳で午後から様子を見に行ったが、彼らと仲良しの従妹が援軍に入ってほぼ荷物は仕分けられていて、明日朝から大きいものを引っ越し屋さんに運んでもらうとの事。家が狭くなる分、いらないものは思い切って処分する事になるのだろうが、明日、運び込んでから片付くまでしばらくが大変になるだろう。
07/12/4
藤守の末っ子が修学旅行から帰ってきたと沖縄みやげを持ってやって来た。
「どうだった?」と聞いたら「暑かった!」確かに…。
07/12/2
瑞穂の従弟一家が「この前自分達だけ来れなかったから」と遊びに来た。
しかし、次女はバレエの練習が忙しくて来なかった。この子は先生にもずいぶんと期待をされているようで、将来はアメリカに勉強に行きたいと頑張っているようだ。長女はすっかり落ち着いたようで「彼氏が良いからね」と母子で納得の様子。今週は期末テストだそうで、「数学は自信があるけど後はね…。」とケロリとしている。彼氏は全般に出来が良いそうだが数学だけは勝っているそうだ。次女の方は将来のために英語を頑張っているようだが、「私は中学から分からなかった」と長女。それでも現役なだけにこちらのすっかり忘れたような話をしっかりしているから大丈夫だろう。この前も一緒に来た末っ子は親と一緒だとすっかり甘えっ子。それでもお母さんが仕事で帰りが遅ければご飯のしたくもしっかりするそうだ。「お料理は次女が一番出来ない」とキッパリ言っていた。
昨年は色々あって大変だったが、どうやら平穏に戻ったようだ。
07/11/3
瑞穂の従妹夫婦と末っ子・叔父夫婦と長男家の末っ子が来宅。母が何やら呼び出した模様だが大はしゃぎで色々とあげたいものを持ち出してきたり、アルバムを引っ張り出したりと大歓迎。その代わり、「お腹の調子が悪くて何も食べられない」とお昼は無視。
その間、爺さん2人で何十年ぶりだろうといいながら将棋盤を広げる。子供達は将棋よりはゲーム機のようだが、本将棋より山崩しや廻り将棋で盛り上がっていた。
最後に来年の春頃、誰のお年忌年でもないのだがT家のお年忌をやろうかという話になったようだ。そろそろ皆足腰が心配な年になっているので理由をつけてこの世で顔をそろえるのも良いかもしれないが…。
07/10/24
明日から2泊3日で出かけなければならないのだが、先日1泊で出た時にすでに台所状況が危なっかしくなっていたので、今回は出かける前に大仕事、残り物をかき集めて味噌煮込み・箸休め用のひじき煮、ついでに少しは持つだろうと筑前煮を作って冷蔵庫に押し込んだ。
TANUKIも日曜日に買い物に出て、いざという時の親父カレー用にカレー材料を買い込んできたし、何とか持つだろう。
07/10/18
田原本のお葬式であった和賀家系の人々の最近の様子。
まずはご本尊の亡くなった伯父さん。「死ぬ時は1人」と常々言っていたそうだが、本当にたまたま家族が用事で誰も側に居ない数分間に行ってしまわれたそうだ。伯父さんとしては「やったぜ!」といった感じだったのだろうか。
新津の伯父さんは膝は悪いものの内臓も血液もまだまだ大丈夫、長男(私より一回り以上若いはずだが)家は3人目の孫がこの夏に誕生。男の子3人年子で生まれているので、「育てるのに手間もお金もかかるんだよ」と娘さんのダンナに意見をしたとか。長男も早々と親から独立。職人さんを目指しているので稼ぎは良いらしく、車の免許を取ったとたんにずいぶん良い車のカタログを見ているとの事。
日比の長男(私の4つ下)は土曜日に娘の幼稚園の運動会だとニコニコ。お酒も控えめでした。秋には3番目の子供が誕生の予定。次男家は専門学校に通う娘は高校時代の仲間とバンドを組んで活躍中。車の中でCDを聞かせてくれました。将棋小僧は将棋ばかりで学校の勉強はあまりしないそうな。それでも記憶力はさすがらしい。
天王寺は下にも書いたとおり、末っ子家族がすっかり教会の生活に慣れた模様。子供達も大きくなった。
十勝の長男は鮭釣の鑑札を手に入れたとか。釣にいそしむ時間があって元が取れれば良いのだが。
連島は末息子家族がよく来ているらしく、嫁さんも教会が大好きになっているらしい。
07/10/13
本日の心積もりでは祭りの準備だけのつもりだったが、マーミの新宅の棟上式をするというので朝から餅つきの手伝い。
中老会が夜宮で出すお汁粉用の餅2臼と棟上式用に紅白で半臼ずつ。お汁粉用の2枚をとりあえず伸した後で、蒸米を半分餅つき機に入れて搗く。予備も入れて15個を丸めて、残りで四方餅用の大きい丸餅4つを取る。残り半分は搗く時に赤の食紅を入れて赤くする。ああだこうだと言っている間に搗きすぎじゃない?という状態になったが、丸めるとかえってきれいな肌目になった。
マーミの所から内祝いのご馳走が先に来てしまったので午後からお祝いを持って行ったら、すでにお汁粉用の餅の支度とお汁粉の餡をとくお湯沸しの最中。そのまま手伝い。
夕方薄暗くなった頃、祭りの夜店の支度で忙しいから出られなかったらそれで良いと言っていたマーミを呼び出して棟上式。ちょうど祭りのちょうぼろを子供達が引いて家の前を通って行った。
「お義姉さんも上がってみて」と皆に言われて階段を上がって2Fへ。屋根の上ではなくてここでお神酒・洗米・塩・餅を供えて拍手を打ち、4隅から餅を投げ、4隅の柱にお神酒をかけてめでたく終了。
ジュンちゃんを乗せて家へ車を置きに行く。彼女は家でテニス仲間の家族と待ち合わせてお祭りへ。彼らの車を預かって私もエプロンを持って援軍に駆けつける。お汁粉屋さんで大忙しでブンムクレたTANUKIは無視してそのまま大忙しのお汁粉屋さんに変身。写真を撮るまもなく大忙しだった…。
はけてしまえばそれでお終いなのでさっさと片付け。以前TANUKIが会長をしていた時に比べてずいぶん早くに終わる事ができた。
07/10/12
11日の午後、赤い羽根の募金に廻った後で田原本にむかった。募金先は20件余りなのだが「出かけなければならないので1時間ほどで帰らせて欲しい」と頼んだら、「どうせ1度では廻りきれないから今日はその位で終わろう」と言ってもらった。おかげで予定より少し早く出発。しかも、マーミが香典を託けてくれると言っていたのに貰っていなかったので寄ると、駅まで車で送ってくれたので予定より1つ早い新幹線に乗ることが出来た。しかもこれだとひかりなので名古屋で乗り換える必要もなし。ありがたかった。
奈良へは京都から近鉄でむかう。1時間に2本しかない橿原神宮行きはちょうど出たところ。よその土地では行き先の見当がつかないので大人しく次を待つ。ばかに皆が入れ込んで並んでいるなと思ったら、座席数が割りと少なくしかも通勤・通学路線でちょうど混む時間帯のようだった。
とにもかくにも無事に田原本駅に到着。1時間位かかったので座れてラッキーだった。駅には初めて降りたのだが、この駅前、1車線がやっとの道路をバンバン車が走っている。しかもものすごくクラッシックな商店街。天王寺の従妹に地図は送ってもらっていたのだが、どの道も細くて地図上の道がどれだか分からない。幸いまだお店の開いている時間なので聞き合わせながら終祭(通夜)の最中に到着。教会の前がたまたま空き地になっていたのだがそこにも信者さんなのかご近所の人なのかビッシリの人。それも小さな子供連れの人から年配の方まで田原本の家と周りの人々との関わりの多さを物語るようだった。
お広前も満員なのでそのままそこで参加。玉串を捧げて、「おい、上がれ」と挨拶に出ていた連島の叔父に引っ張って行かれたのはトイレの扉で、信者さんに「こちらからどうぞ」と反対側の脇の入り口を示された。この教会は隣の家が引っ越すので買い取ってもらえないかと言われては継ぎ足してきているので中は迷路状態。何とかお広前にたどり着いてそこに居た方に「お座りなさい」と椅子を譲られてしまった。
終祭の後、和賀家の親戚の輪の中にもぐりこむ。伯父のお遺体もお広前から奥に運ばれてそこで対面。生きている時はそれほど感じなかったが祖父と良く似ている。生きている面々も後姿はみなそっくりで他人が見れば前から見てもそっくりだと思う。
大阪勤務の難波の華もお悔やみに来て合流。「限定品」と商売物の景品らしい携帯クリーナーを貰ったのでTANUKIのみやげにした。
「わしが死んだら賑やかに送ってくれ」と言っていましたからと、後の席はビール・酒・焼酎と共に。伯母はさすがに疲れたようで居なかったが、担当の信者さんと共に高校生の末っ子まで接待の手伝い。それぞれの親族ごとに席を作ってくれていたので、伯母さんの関係や若だんな(ここの従妹の婿殿)の関係も集まっているのだが、和賀家系の交流だけで手いっぱいだった。
ずいぶんゆっくりさせてもらって、本日の泊まりは天王寺。日比の従弟達の車2台で移動。たまたま日比の次男坊の車に乗ったら、新津の従弟と十勝の従妹と3人とも教会に生まれながら教会を継ぐ選択しなかった面子。それでも教会や金光教へのこだわりはそれぞれに持っているようだった。
天王寺ではポポちゃん(犬)に大歓迎される。前回は玄関でずいぶんほえられたのだが、今は庭住みで、犬も年を取ると性格が丸くなるらしい。
いいかげん遅い時間だし、明日は葬儀だし早く寝るかと思いきや、そのまま二次会に突入。天王寺の若だんなが釣ってきた魚を本職の魚屋の新津の従弟が刺身に。飲みながら話は金光教について。日比の次男坊、悩みあり悩みありの様子でかなり過激。面白いもので何かの機会に会うと誰かが話し出す。今回は新津が相手になる。彼らは明け方まで飲んでいたようだが他は程々で引き上げる。
翌朝、ご祈念の時間前の従妹が部屋に支度をしに来た音で目が覚める。昨夜は遅かったのに子供達を学校に出す支度もしているはずで若いとはいえタフだ。せっかくなのでコソッと起きてお広前にお参りに行く。信者さんが数人お参り。彼女ちゃっかりと「今日は日比港教会の先生が…」とお話は日比の長男に振る。
朝のご祈念の間に従妹の上の子は制服姿でちょこっとお参りをしてそのまま学校へ。下の子は今日は遠足だと言っていた。
朝の仕事が一段落して、すぐ近くのコンビニへ朝食用のサンドイッチを買いに行って起きた順に朝食。
近所に住んでいる十勝の従妹も合流して今日は天王寺の若だんなも車を出して3台連ねて田原本へ。
1時間前には田原本に着いた。ちょうど駐車場で和賀家の本家のお兄さんと会う。他に、母の従妹に当たる人も岡山から来ていた。受付に玉串料(香典)を出したり荷物を整理したりしているうちに葬儀の始まる時間になった。
喪主のはずの若だんなが葬儀屋さんと一緒に席の指図や式次第の説明に走り回っている。
祭主は難波教会の大先生。先生の祝詞でも色々な方の弔辞でも80年余りの伯父の金光教とのかかわり、この町との関わりが語られた。
最後は玉串奉奠。多くの方が来てくれて出棺時間が遅れるほどだった。しかも今日も車が通る気にならなくなる程の人が通りまであふれた。
狭い教会の前の道まで霊柩車とマイクロバスが入ってきて出棺。さほど遠くない火葬場はお墓の真ん中に火葬施設だけがある小さなものだった。お寺のものらしく小さなお堂も側にある。そこで祝詞があげられ棺の上に玉串が捧げられて火葬された。
2時間ほどかかるそうでそのまま教会に戻って祓いの膳。岡山組は帰りの時間が掛かるのでとここで帰って行った。
朝食を食べただけだったし、荷物になるので持って帰れないのでここでありがたくしっかりと3時の食事。教会と関係のない私には誰が誰やらさっぱりだが、ほとんどが教会関係者なのでどこかで誰かが繋がっている。十勝の叔母が「はい、あんたにも」っと難波の大先生から根付を頂いてくれた。結局母への良いみやげになった。
さて、時間が過ぎて骨あげに。骨壷が小さいのか、下の方から順番に入れ、残ったものは布袋に入れて持ち帰った。残ったお骨が困るようならばここでまとめて処理もしてくれるそうだが、こんな風習ははじめて知った。
最後に教会でもう1度、新霊神拝詞をあげ、夕方5時頃につつがなくすべての行事を終えて家路に。ただし「駅はどっちだ?」状態。田原本の高校生の末娘が駅まで連れて行ってくれた。
帰りは少しはルート状況が分かっているので、途中の大きな駅・西大寺行きへ迷いなく乗る。西大寺で入っていたがら空きの特急・京都行きに「乗れますか?」と駅員さんに聞いたら「中で特急券を買って下さい」との事。ありがたく飛び乗って特急料金\500也を払った。京都ではそう上手くはいかずに静岡には止まらないのぞみばかりが続く。それならと入ってきたのぞみで名古屋まで行く。自由席が少なく混んでいたが1人なのでなんとか席は見つかった。名古屋からは空いたこだまでノンビリと静岡まで。静岡からの東海道線まで含めて全部座って帰ってきた。
07/10/9
田原本の伯父さんが亡くなった。
急を聞いてから1月余り、先月の28日には症状が安定したとの事で退院して自宅療養続けていたそうだ。
金光教会という事もあり家族の手がある事と古くからの町で人の繋がりが密な事が幸いして自宅での大往生が遂げられたのだと思う。
人が死ぬ事が病院の中に隔離されてしまっている現在、伯父さんにとっても周りの人々にとっても良い最後だったと思う。
07/9/15
叔母さんの49日忌。早めに行こうと言っていたのだが結局ギリギリになってしまった。
家でお坊さんを迎えてまずお経。お経の後でお坊さんが戒名の意味を説明してくれた。最後に「是非息子さん達のお嫁さんを皆さんで探してあげて下さい。」ここの家もお寺から近くて叔父さんとお坊さんは仲が良いらしい。
お骨や卒塔婆と共に歩いてお寺へ。周りの稲田が黄金色に輝いているが「昔は一面の田圃だった」と言う話だが住宅が結構出来ている。清林寺というお寺は駿河観音札所の1つだそうだ。
まずお墓に納骨。お墓とお墓の合間が狭いので、一方通行で順にお線香を上げていく。本堂の仏様を拝んで、奥の部屋で一服。その時にお坊さんが仏教では廻る時には必ず時計回りという話やお焼香の時の作法について話をしてくれた。
その後は近所のお店で精進落し。ちょうどお昼だったので美味しくいただいた。
帰ってから叔母さんの衣類を形見に持っていかないかと出してくれたのを女の人達みんなで見せてもらった。どっちみちどこかで片付けなければならない物なので、また日比へでも送ろうかと少し頂いてきた。TOPPO家で一部屋片付けた実績からTANUKIも的確な意見を出す。亡くなった叔母さんの妹にあたる叔母さんが「これ鏡台のカバーに直そう」と刺繍入りの羽織をもらっていった。
07/9/14
早いもので明日は叔母さんの49日忌。男世帯なので片付いたか気になって午後から花を持って様子を見に行った。
相変わらず庭では何匹もの子猫がチョロチョロしていた。叔父さんは離れの片付けものの最中。部屋は片付けてきれいになっていたのでお線香をあげて帰ってきた。
07/9/7
朝、田原本の従妹から電話。昨夜、伯父さんが倒れて救急で病院に入ったようだ。大きな脳梗塞なのでかなり危険なようでICUに入っているそうだ。「別に苦しんでいるわけでなく、ただ眠っているんだけど」との事。「どうせ付いていられないので今のうちに大掃除をしている」との事。この数日が山だそうだ。
07/8/28
叔父のお葬式は、朝8:30出棺。その前にお坊さんが来てお経をあげそのまた前にお棺に花を入れるというので集合時間は7:45。車をたくさんは置けないので、藤守の父さんに回ってもらう。ラッシュ時間になると混むから早めに行くと言っていたが、7:30頃登場。TANUKIはまだ支度もしていない。挙句に昨日締めていた黒のネクタイが無いと騒ぎ出す。とりあえず黒のネクタイはもう1本あるのでそれを渡してせかす。こちらも慌しかったがマーミの方も皆で行こうとしたら兄さんは先に出てしまう、その兄さんを探すジュンちゃんがなかなか来ないでマーミがキレて、ジュンちゃんを置いて姉さんと2人で来てしまう。ジュンちゃんは後から「ムカツク!」と言いつつタクシーで登場。個人的な事はともかく、つつがなく親族が集まり出棺。竹を組んだ輪を通って家から霊柩車にお棺を移すのは初めて見た。
斎場は多分本日の1番初め。お焼香をして見送った後、待合室へ。おしのぎのお弁当を頂いてもまだ朝の9時過ぎ。それぞれの系統別に座を占めるので、集まって座ったO家の兄弟のよくしゃべる事。義姉も緊張感が解けてきたのかこの家の孫娘達が姉の所の子とよく似ているなどと言って本人達と話していた。
1時間半ほどでお骨あげ。そのまま斎場での葬儀。親族と参列者でほぼ会場が一杯になった。
お経の後、老人会のお仲間の弔辞、すでに成人した孫の送る言葉とも、戦後ずっと農家として稲作や梨栽培で励んできた事など叔父の穏やかでまじめな人柄が偲ばれた。戒名は自得^暉上座。
七日の法要も終わって払いの席がちょうどお昼。しばらく話しながら過ごし、お線香をあげに叔父の家に寄って、帰って来てもまだ午後早い時間だった。
夕方、先日叔母の葬儀があった方の叔父が49日の法事の件で家に来てくれた。タイミングがマーミ達がテニスクラブの合宿で、今回は幹事だと言っていた時なので、我々が2人でお手伝いがてら行く事にした。
葬式が終わってもなんだかんだと忙しくて…と、ぼやいていた。
07/8/27
叔父のお通夜。午後、横浜から義姉さんも来た。マーミに乗せてもらって叔父さんの家に着いたのと同時にお坊さんも到着。
明るい内にお経と身内のお焼香は済んだが、それから8時頃まで次々と従兄やその子供の職場関係、ご近所、親類など弔問のお客さんが見える。
Y家の従兄弟はこの家の3人と家の5人以外は叔母の所も下の叔父の所も1人っ子なので従兄弟の数は少ない。マーミの引き回しで気がつけば兄弟全員集合した我々がデデンと場を占めていた。
ご近所に志太常磐松会の先輩が居られて弔問に見えてくれた。「消防団やなんかで若い頃から世話になったんだよ」と話しておられた。話し込んでいたところに三島の従妹が到着、目の前に来るまで気が付かなかった…。
金谷の従妹は子供が小さいので家族で登場。こんな時でないとなかなか顔も合わせないし、話もできないのはちょっと残念だ。
明日も早いからと今日は早めに引き上げてきた。
07/8/25
午後、藤守の父さんの車に乗せてもらって叔父さんのお悔やみに行く。
ちょうどお坊さんが来て枕経が始まり、一緒にお勤め。マーミ&ジュンちゃんも来て、しばらく話をしてそろそろと立ち上がったところに今度は葬儀屋さん。明日が友引なので通夜が明後日、葬儀はその翌日と間があるので今から納棺と言うので、今回は子・孫と人手はそろっているのだが、それにもお付き合い。
部屋に白幕を引いた後、死者のお支度。足袋・脚絆・ぞうり・手甲・頭陀袋と皆で支度をしていく。お棺に入れて帷子を掛け帯を廻し、本日は周りにたっぷりのドライアイスを入れてもらう。
我々が帰る頃、今度はご近所のお年寄りの団体がお悔やみに来てくれた。
家族の人の話によると叔父さんは今月の初めから調子を崩されたようだが、「病院には行きたくない」と言うので自宅療養をしていたが、肺炎で痰が詰まって苦しんでいるのを見ているわけにも行かずに入院、落ち着いたので転院先を考えようとしている所で容態が急変して亡くなられたようだった。「自宅の畳で大往生とはなかなかいかないものだ」とこの家の長男の従兄が語っていた。
07/8/24
続く時は続くもので、Y家の叔父が夕方亡くなったそうだ。義母の療養中は何かと連絡を取っていたが、最近はご無沙汰気味で、入院されているのも知らなかった…。
07/8/17
瑞穂の従弟の次女から電話。話し方はともかく、いつの間にかお母さんの声そっくりになっている。
今年の秋のバレエの発表会では主役を踊ると張り切っていた。
07/8/15
従妹一家は午後から我々の話を聞いて香りの博物館へ。それぞれに自分の香りを調合してきた。
一方、こちらは義兄さんの長男一家が本家にやって来たので、子供達の顔を見に。年に1〜2回しか会わないので、ついこの前生まれたような気がしていたが、長女は5歳、幼稚園の事など色々な事を物怖じせずに良く話してくれる。次女は3歳前でちょっとはにかみ気味だが、さほどの人見知りは無く、脚立に登ってみたり、トラクターに乗りたがったりとにかくよく動く。行動パターンが彼女の叔母さんの幼い時にそっくり。スクスクと大きくなっている。
07/8/13
お盆の棚経のために午前中に本家へ。
さすがのマーミ&ジュンちゃんも竹を切り出して本格的な盆棚の支度はしなくなった。それでもそれなりに掛け軸や位牌を出したり、棚を作ったりと大変だが、ほうずきや生り物の掛け物は準備はしたものの掛ける前に坊さんが到着をしたようだった。
もっとも「今日は坊さんが遅いね…」と奥で皆揃って話をしながらグタグタしていたのだが…。
珍しく藤守の父さんも来て、一緒にお経を聞いていった。
午後からはマーミ&ジュンちゃんが家に寄ってくれてしばらくおしゃべり。その後TANUKIは近所の初盆見舞いへ。
07/8/6
マーミが大きな家は税金で持ちこたえられないので、自宅の土地の一部を売って家を立てる計画でいる。今住んでいる家は材料も良い物を使ってありマーミの結婚前後にずいぶん手をかけてリフォームもしたのでもったいないのだが壊すしかなさそうだ。
設計図も上がり月末には予定の場所に新しい家を建て始めるとの事で、今日はシステムキッチンや風呂場・洗面台・床材・扉などを選びに行くのにジュンちゃんの代理で付いて行った。
大したものでそれ専門の展示場がありサイズを確認しながら材質や全体のデザインを考えられるようになっている。システムキッチンや洗面台の扉は色も何色もそろえられ、それだけでガラリと雰囲気が変わるし、洗面台や風呂桶なども各色取り揃えてある。壁面の色柄などもチョイスできるので同じ予算・同じ物を使ってもかなり個性が出せるようだ。
マーミに言わせると「良いなと思うとオプションで、+&の予算を取られる」と言うのだが…。
07/8/5
叔母さんのお葬儀。出棺の時間が午前中なので結局朝からまた4人で行く。
親族が集まったところで葬儀屋さんの説明と共に旅支度。足袋・脚絆・手甲をつけ、数珠を持たせ、頭陀袋に三途の川の渡し賃。「入れるのは1円玉かお札にして下さい」と言うのはそれならばきちんと燃えてしまうという事らしかった。こしらえの後はお棺に寝かせ、ぞうりと杖を入れ、上から着物を掛ける。さらに普段着ていたパジャマや帽子、靴なども足元に入れた。そして頭の周りに花を飾りお坊さんが最後の読経とお焼香。声の良いお坊さんのご詠歌に送られて霊柩車が出発した。
車はまず斎場へ。立て込んでいて前の組が終わるのをしばらく車の中で待たされた。最後のお別れの後、火葬された。
待つ間、築地の従姉弟達としばらくぶりに話し込む。岡崎に住んでいる人以外はみな県内なのに、なかなか会う機会は無い。しかし、話し出すとみな良くしゃべるのはO家の血筋らしい。
お骨上げをした後は告別式が行なわれる藤枝の会場へ。かなり時間の余裕があって、こちらでもかなりゆっくり出来た。
告別式はかなりシンプルで、お坊さんが本人の様々を振り返りお経を上げる中でお焼香をして終わった。初めに甲状腺の病気で入院中に脳梗塞で倒れてからもう12年も経っていたらしいが、ほぼ元気になっていたのでそんなに長いとは思っていなかった。戒名は與安善志清信女。その後の初7日法要では木魚や大鈴の音が入り音楽的だった。
告別式には多くの親族が集まり賑やかだった。
すべて終わって家に戻りお骨や遺影・位牌を祭ってから、手伝ってくれた組内の土人衆の接待。家では狭いので払いのお料理を頼んだお店で行なわれた。たまたま農大の後輩のお店なのであまり役には立たないが私も付いて行った。
最後に昨日持ち込んだ扇風機や冷風扇を撤収して帰宅。日の長い時期なので7時近かったがまだ明るかった。
07/8/4
本日は亡くなった叔母のお通夜。夕方6時からだが手伝う事もあるだろうとマーミ&ジュンちゃんと4時頃に叔母さん宅へ行った。マーミもTANUKIも暑いのはかなわないと扇風機や冷風扇を持参。
叔父さんの方の親戚の皆さんもすでに来ていて、しかも昨日マーミが台所を磨きたてて必要になりそうな細かいものも買ってあったのであまりやる事は無かったが、台所でお茶の支度などしながらおしゃべり。
時間通りにお坊さんも見えてお経が始まったが、次々とお客さんが来て手前の部屋は一杯になった。慣れないお経だったので長かったが、仏教の修行の心構えのようなものらしい。
お経とお焼香の後は弔問の皆さんが見え、こちらはマーミを筆頭に台所を乗っ取ってお茶番。
弔問の方が途切れ、土人衆の打ち合わせも終わった後で順番に食事。お醤油を入れる小皿の大捜索(結局出てこないで色々なお皿や小鉢をかき集めた)などというアクシデントもあったが、無事に食事を済ませ食器を片付けて解散。
こんな時しかなかなか会えないが従弟妹達もだいぶ来ていた。O家も結構遺伝子がくっきりしているようで顔の輪郭や耳の形、後姿など皆よく似ている。
07/8/2
O家の叔母が午後に亡くなった。
ずいぶん前に起こした脳梗塞からはほぼ立ち直って杖を付きながらではあっても元気に過ごしていたのだが、再度の発病だった。
叔母が倒れてからは男所帯のため、今日は夕方から一番下の叔母と叔父さんの姉さんと部屋の片付け。男手に不足は無く大道具はさっさと動かしてもらえるのだが、細々した物が出てこない。
とりあえず部屋と台所をきれいにして湯飲みやお盆を用意して今夜は一段落した。
もっとも飼っているネコ&住んでいる猫で10匹位いるそうで、えさを食べたり砂箱に入ったりと家の中でも庭先でも子猫が足の周りをチョロチョロしていた。
07/8/1
朝、メールをチェックしていたら昨日わんわんの飼い主家に男の子が産まれたというのが入っていた。健やかな成長を祈りたい。
そして夜、春から入院していたO家の叔母の様態が悪くなったとの緊急電話。とりあえず病院へ駆けつける。点滴に囲まれて酸素マスクの中で苦しそうに呼吸をしているが大勢が駆けつけたせいか小康状態を保っている。
07/7/22
しばらくぶりでTANUKIと一緒に静岡の町に買い物に行った。市内でTANUKIの親戚の叔母さんが駐車場をやっているので、そちらに車を入れさせてもらう。
いつもとは逆方向に街を歩く事になるのだが、繁華街の真ん中の神社のお祭りの行列に行きあった。
それはともかく買い物を済ませて叔母さんの所に戻りつい腰を落ち着けて話し込んでしまった。TANUKIと一緒でないと駅前で車を入れてしまうので、年に数度しか来ないのでついつい色々と話し込んでしまう。
来週は安倍川の花火があるので「駐車場の予約ができますか」というお客さんも来た。
07/7/8
先日、岩手の叔父から新潟の帰りに我が家に寄って撮ってくれた写真が来た。
それと共に帰った頃(5/12)にようやく奥中山の桜は満開、農作業が忙しくなったとの事だった。
07/6/29
裾野の従妹が函南の叔母を連れてきてくれた。
父はもともと無口だが叔母さんも以前に比べると静か。兄妹で何となく一緒にいる時間を楽しんでいた。
裾野も4大を卒業した長女と美容師専門学校を卒業した次女が二人とも家に戻りそれぞれ仕事についた。次女の方はまだインターンで自動車学校にも通いと学びの日々のようだが、そろそろ従妹もお母さん業は卒業。おじいさんが亡くなった後を引き継いで庭木の手入れをしたり、おばあさんと畑を作ったりと忙しそうだけど楽しんでいるようだった。今回もたくさん野菜を持ってきてくれた。
07/5/28
この春、日比の孫娘も吉備舞でデビュー。神前での奉納舞だが、ずいぶん堂々とした舞いっぷりだったようだ。
お参りの皆さんにも褒めて頂き、日比のじじ&ばばも大喜びだったとの事。
母の叔母さんから退院内祝いの大きな塩焼き鯛が届いた。怪我をされて手術したのだが、退院してシルバーカーを頼って家の中が歩けるようになったという。これから週2回デイサービスのリハビリに通うそうでまだまだお元気だ。
今年もお節句のお餅をいくつかの所に送った。春のお餅はきれいでインパクトはあるがいたみやすいので、少しずつ皆に食べてもらう。