我が家&和賀家 08年

09/3/24

   父の葬儀に和賀家系の従妹達も助っ人に来てくれた。たまたまお婿さんをもらった子と家と同じサザエさん型の同居。自分の親との同居だがだからこその色々がぽろぽろと出てきた。家は彼女達ほど忙しくはないが、「そうなのよ、まったく!!」の部分は同じ。

09/3/15

   藤守の末っ子の進学祝を持って訪ねたら本人は居らず、彼女からは従兄に当たる子がお嫁さんを連れてきていた。昨日が結婚式だったそうだ。藤守の長男と同い年なのだがこちらはどうなのやら…。
   長男坊も不在だったが珍しく次男が帰ってきていた。社会人になってだいぶ経ち少しは精悍になったかと思いきや、実家でオフをしていれば相変わらずだった。

09/1/18

   暮れに亡くなった叔父さんの七七忌の法事と納骨がお寺で行われた。O家の墓地と同じ所にあるのでマーミ宅の目の前なのだが、O家の法事は自宅でしていたのでここのご本尊の前での親族の法事は初めてかもしれない。
   底冷えのする本堂でお勤め、その後お墓に出て納骨、お線香を上げて滞りなく終わった。しばらくの時間お茶を頂いて、迎えに来たバスに乗って精進落しの会場へ。
   内々の会なのだが、皆お墓まで車で来ているのであまり飲む人もなくゆっくりと食事。途中で私が昨日まで突貫工事で作った叔父さんの遺稿集『泡太郎笑話』を叔母さんが配ってくれた。泡太郎、実は好きなビールの泡から来ているというのは今日初めて知った。皆さん見てくれて作ってみた甲斐があった。

09/1/12

   本日は成人式。我が家&和賀家系でも何人かが大人になった。

09/1/3

   マーミ宅へ兄さんの長男一家が来ているというので顔を見に行った。子供達もしばらく見ないうちに大きくなって、上の子は今春学校だそうだ。「幼稚園からは飛び出して帰って来た前科があるのだが…」とママは心配顔。通学路に交通の激しい狭い道などもあるのでしばらくは心配だろうが、まだ先の話。
   子供達はじいじとマーミの付き添いで公園に行って、庭では甥っ子が1人で積んであった砂利を庭に均していた。部屋の中でO家との血縁ではない嫁さん3人(子供達のママとジュンちゃんと私)で「O家の性格だ!」と盛り上がる。何かの拍子で始めると一目散にのめりこむ…。その後年始に回った叔母の所でちょうど居た従妹が「私もそう」と言っていた。
   良いお天気の中、年始回りも半分終了。明日、行き違った藤守と今日お留守だった所に行こうと思っている。

08/12/30

   あっという間に1年がめぐり、今日は餅つき。マーミ宅に朝から集まる。藤守の父さんも年取り餅用の藁をもって途中から参加。TANUKIが体調不良で動きが悪く、兄さんが部屋から出て来なくてもジュンちゃんの姪達も大きくなってお姉ちゃん2人はすっかり戦力。数年前に餅つきの後で生まれた三女もすっかり大きくなった。
   ダイニングに続くリビングも少し片付いて作業しやすくなった。
   そんな中でマーミがお父さんや叔父さんに良く似てきたという話。「古いアルバムを見たら親父そっくりでさ」と言うマーミ。「この前の叔父さんの葬儀で叔父さんの若い頃に似ているなぁと思った」と言う藤守の父さん。見た目は長男・次男の方がお父さん似で面長のマーミは叔父さん似かとも思うのだが、行動や発想はマーミが1番良くお父さんに似ているかもしれない。姉さんはもちろん藤守もお母さん方に似ている。

08/12/6

   叔父さんのお葬儀。12時半出棺でその前に準備やお経があるというので11時頃に着くようにした。もっともTANUKIは市町村駅伝がはずしてもらえずに午後のお葬式までに来ることになった。
   まず、お棺の中に持っていく物を入れるのだが、何はともあれ最後まで食べたがっていたお酒と刺身になったようだ。末期の水もいつの間にかお酒に変わっていたようで、最後は瓶は困るけど中身は大丈夫だと葬儀屋さんに言われて従妹がお棺の中にお酒を振りかけた。親族皆でお花も入れて最後にお坊さんのお経とお焼香。
   すぐそばの火葬場でまた型どおりのお焼香とお見送りをして1時間半ほどの待ち時間。部屋に一杯の人でほとんど立ち歩けずに姉さんやジュンちゃんとおしゃべりをしていた。ここでの世話人も組内の人達ではなく葬祭殿の人達。
   骨上げも全身がそのままの状態ではなく、まとめられたものを取って骨壷に入れたら待たずにバスに向かうように言われた。
   そして戻ってお葬式。TANUKIも無事に間に合い、多くの皆さんが来てくれていた。追悼の言葉も仕事仲間や同級生など3人の方がして下さった。身内の送る言葉は子供がやることが多いのだが、皆大きくなってしまっているのでピッピの先生(獣医さん・甥に当たる)がした。すでに2人の子供が居るが子供達を連れて行った時、かまってくれる様子を見て自分が子供の頃もこんなにしてもらっていたのかなぁと追想したというなかなか良いものだった。
   戒名は寶山慶蔵上座。生前に永平寺で頂いていたそうだ。
   祓いの席を立つ頃には時間は遅くはないがすでに外は暗くなっていた。片付けを手伝って家に帰って6時だった。

08/12/5

   1日に亡くなった港の叔父さんの通夜。
   午後からものすごい西風と土砂降り、雷付き。どうなるかと思ったが夕方までには雨も上がったがかなり空気が冷たくなった。
   広い葬祭殿でこじんまりと身内だけで坊さんの通夜の読経を聞きお焼香。早い時間の設定だったので弔問客もかなりばらけて見えた。
   叔父さんの写真はなかなかダンディ。亡くなって横たわっている顔はおじいさん(叔父さんの親)によく似ている。
   今回は親族からのお供えの生花1対を「もういとこ達の代だよね」といとこの頭数で負担したのだが、マーミの数えるところO家のいとこは16人になるようだ。そこから叔父さんの子供達を抜いた数で割ったらちょうど1人の負担が\3.000になった。
   同じ焼津市内だが受付などの細かい世話も葬祭殿の職員がしてくれて組の人などが手伝ってくれるわけではないようだった。また、今回は叔父さんと一緒に仕事をしていた藤守のとうさんがマーミと一緒に細々と動いている。

08/11/16

   昨年暮れに体調を崩し、退院後長男家に身を寄せてリハビリをしていた新津の伯父が家が恋しくなって新潟へ帰ったそうだ。ただ1人暮らしは無理なのでしばらく老人用のケアハウスに住むことになったそうだ。
   元の家からそう遠くないので知っている人達とも会えるし気分的には良いのではないかと思う。

08/11/3

   お茶屋の叔父さんが退院されて快気祝いを持ってきてくれた。一時は起き上がるのも大変だったようだが、市立病院での治療の後リハビリ病院でしばらく過ごし、しっかりと歩けるようになった。
   今日は函南からも叔母さんが従兄&従妹と一緒に来てくれた。足元はだいぶ危なっかしいが、気持ちはお元気そう。
   お昼を食べながらしばらくおしゃべりをした。

08/10/28

   今度はO家の叔父さんが肺炎で入院している。話はだいぶ前にジュンちゃんから聞いて「面会はだめみたい」との事だったのだが、今日、藤守の父さんから聞いたところでは2つの細菌に襲われて1つは退治できたもののもう1つの菌がなかなか消えないそうで、まだ叔母さん以外とは会えないそうだ。それでもリハビリで歩行練習が始まったようだが誤嚥が心配で口から物が食べられないらしい。

08/9/27

   田原本では伯父さんの1年祭が行われた。
   そして、岩手では叔父さんの100日法要と納骨が行われた。

08/8/14

   花火を見に瑞穂の従弟達がやって来た。
   従弟宅は子供達はそれぞれに自分のお付き合いや用事で夫婦だけ。長女はバイト、次女はバレエ三昧、三女はお友達と遊びに出ているようだ。逆に従妹の所はこの時に家族みんなの予定を合わせて皆でやってきた。娘達が大きくなってそれ以外はなかなか皆揃わなくなってきたようだ。
   今回の花火メンバーはこれが主力でマーミの方は親子2組だけ、後はTANUKIの古い友達夫婦
   先に従妹が連絡をしてきたので従弟の方には定員オーバーで泊まれないと伝えてあったのだが、花火の後、夜中の方が走りやすいとゆっくりしていたら長女からママへ何度も電話。まだちょっと親離れまでには時間があるようだ。

08/8/13

   こちらはお盆。午前中にマーミ宅で棚経。お坊さんも今日はお忙しいようで予定時間通りには来ない。「待ちくたびれました」と言ったら「来年は1番でも良いですか?」との事で8時過ぎには廻り始めるそうだ。
   お昼前に親戚の初盆見舞いに廻るつもりだったが、マーミ宅で遅くなった上に黒雲がわいてきたので1度家に帰って布団や洗濯物を取り込んでいたので、午前中の残りはそのまま買い物に出る。途中ラーメン屋で食事をして、午後1番で初盆のお参りに行く。
   その後、明日の花火用の買出しに廻って本日は一段落。明日は瑞穂の従妹一家がやってくる。

08/7/21

   昨年亡くなった叔母の一周忌と初盆の法要が行なわれた。
   自宅での法要の最後にお坊さんが「来月また集るのも大変だし、そもそものお盆の時期は7月ですから」とお話があった。お盆だけはそもそもが7月の行事で、8月の月遅れのお盆は農作業などの都合に合わされたものだそうだ。
   法事の後は近くのお墓まで歩いてお墓参り。今にも降り出しそうな空だったが降られずにすんだ。お墓でお経の間にお線香を上げ、本堂奥のお位牌の間でもう1度お焼香。
   精進落しは昨年の49日法要の後で行ったお店だった。本来がお寿司屋さんなのでお魚料理が主だった。車で来ている人が多かったのでお坊さんとその相手の何人かに飲むのは任せてちょうど時間もお昼時でさっさと食べる。人数も居るのでお料理のタイミングがこれで終わりかなと思うと次が出てくる。しっかり座り込んでお腹一杯頂いてきた。
   お店のバスで家に戻り、庭でちょうど食べ頃のブルーベリーを皆で摘んでデザート。この家の庭は実の生る木が多く、藤守の父さんなど子供の頃は叔母さんが土産に庭のブドウなどを持って来てくれるのを楽しみにしていたそうだ。
   最後にお線香を上げて帰ってきた。

08/7/20

   ハワイに住んでいる従妹からメールが来た。インターネットというものは距離や時差を考えずに交流が出来るからありがたい。
   元気で暮らしているようだが、犬派だと思っていた彼女の所にも猫が居るそうで写真が来た。なっちゃんだそうだ。

08/6/27

   何事かあって色々と連絡を取り合うと色々な情報が入ってくる。和賀家系の情報を少し。
   年末に1度倒れて入院した新津の伯父さんは長男家に退院。リハビリ中だが教会のお祭りには帰っているようだ。
   昨年伯父さんが亡くなった田原本では伯母さんが体調不良。「私が出かけると不安がるのよ」と従妹。
   岩手はまだ学校に行っているのは長男家の長男と次男家の次女。孫達がそろそろ年頃で孫の結婚式に出られなかったのが叔父さんとしても残念だろうが、姉弟仲も良いし叔父さんは大往生の部類ではないかと思う。
   岡山の叔父さんは身軽に動く人だし岩手に居た事もあるので今回も来るかなと思ったのだが、さすがに長距離移動は辛くなったようだった。
   日比の叔母さんと北海道の叔母さんは元気ハツラツ、ともに昨年生まれた孫自慢。この2人は似ているので盛岡の従弟の嫁さんに間違えられていた。間に挟まった天王寺の叔母さんは気力は充分だが体調はいまひとつ、今回も遠距離の旅は無理のようだった。
   連島の叔父さんも元気だそうだ。

08/6/26

   帰りの車の中で日比の叔母さんから戦争中の話も聞いた。
   この叔母は大阪空襲に遭っている。すでに1度目の空襲後に小さい子供達は岡山に疎開、それが幸いして祖母とこの叔母の2人、無事に逃げ切れたのだが家は焼けてしまった。使えそうなものを探し出し、かぶって逃げた布団とともに避難場所の学校に行っても燃えてしまってコンクリート部分が残っているだけ、炊き出しのおむすびをもらってコンクリートの上に寝たそうだ。1週間ほどそんな生活をして疎開の手続きを取り、焼け残ったお付き合いのある家に挨拶に行って泊めてもらい、畳がこんなにありがたいものかと感動したそうだ。遠縁の人が用事で岡山へ行くのに同行してもらい親子2人でぎゅう詰めの汽車で戻ったそうだが、出入り口からは降りられずに窓からやっと降りたそうだ。
   当時、新津の伯父は海軍で水兵さん、沖縄に出撃の予定が船が故障して呉に戻ったために生き残ったらしい。田原本の伯父はすでに田原本の養子に入っていたがこちらは陸軍の将校さん、海軍は食料なども豊かだったのに比べて陸軍は苦労したようだがこの伯父も最後は内地の守備隊に居た。50歳近い祖父も陸軍の将校としてS20年に入営、この時代によくも皆無事に戻れたものと思う。

08/6/25

   7時半頃の電車に乗る十勝の叔母に合わせて6時頃起床。日比の叔母は母の顔を見に焼津まで同乗してくれる事になっている。
   朝食の後一緒に駅まで送りに行った日比の叔母が、「犬の駅長さんがいて可愛かった」と言っていた。その間にこちらは荷物を車に詰め込む。
   しかし、時刻表があるわけでなし「せっかくだから畑を見ていってよ」と農業をやっている次女に誘われて長男の車でご町内一周。とはいえ広い!斜面に広い畑が整然とあり、ちょうどレタスの収穫と種まきで今が1番忙しい時期だそうだ。次女家は牛はやめてしまったそうだが、この地域には牧場や牧草地・飼料用のトウモロコシ畑も多い。他にはキャベツや白菜・アスパラガス・タバコなど、水田も各所に見える。
   後は日比の叔母と2人、カーナビの案内でひたすら焼津を目指す。
   まず途中で十勝の叔母の荷物を宅配で出し、東北自動車道へ。入ってしまえばこっちのもので後は進むだけだからひたすら叔母の話しに耳を傾ける。孫の話に始まって色々な話が出て退屈しない。
   紫波SAでおみやげを見、鶴巣PAでお昼。お茶を買って持ってきた昨日のご馳走の残りを食べようと思ったが箸が無い。箸だけ持ち出すのも悪いのでここはうどんなど頼んで使った箸は持ち帰る。安達太良SAで給油。都賀西方PAで足が疲れてきて大休止。叔母にしばらく首と肩を揉んでもらう。元気百倍して首都高に突入。何だかよく分からないがカーナビが特に文句を言う事も無く東名へ。とっぷりと日も暮れてしまったが、ここまで来ればこっちのもの。海老名SAでコーヒーブレイク&夕食。今度は昼に手に入れた箸で昨日のご馳走に手を付ける。味噌などの味は濃いが煮物などは薄味で昨日から常温に置いているのでちょっと気になったが、ずっと気温も低かったし味もおかしくなかったので美味しくいただく。後はひたすら走るだけ。9時少し過ぎには家に帰り着いた。

08/6/24

   出棺の準備が7時半には始まると言うので早起き。もっとも叔母達は朝が早いので、それに引かれるように起きたのだが…。残念ながら今日も雨。しかも窓から見える木々の揺れも大きい。
   7時前には準備のできた順に朝ごはん。おむすびに味噌汁とはいえ、夕べも遅くまでだったので叔母さんをはじめこの家の女性達、寝ている間があったのだろうか。
   ともかく7時半には若い葬儀屋さんが来て出棺の準備。皆で顔の周りに花を入れ、お棺の釘を石でたたく。「血縁の近い方から」と言われて喪主の後に付いた日比の叔母がよく聞こえなかったのか釘ではなくお棺に寝ている叔父の頭を叩いたと後で大笑い。ここにはお坊さんは見えずにそのまま出棺。
   火葬場では地域のお坊さんのお経の後、お焼香ではなく1人ずつお線香を立てた。
   その後の骨上げは頭蓋骨を取り除いた後で、2人ではなく1人ずつで上げ、最後に細かい骨まで家族で拾った。
   骨壷に移す作業を火葬場の人がする間に我々は脇にある慰霊塔のお参り。お線香を立て小銭のお賽銭を上げる。
   そして家に戻ってお葬式。火葬場に見えたお坊さんは他の用があるそうで、お葬式は別のお坊さん。ぎっしりの人だが、「どうぞ足は崩して、お焼香の時だけ正座して下さい」とお坊さんは言うがその隙間も無い。曹洞宗だが、1人でお経も鳴り物も受け持つので忙しい。こちらではこれが普通の方式だそうだ。
   お葬式と7日の法要まで全員で、喪主の挨拶の後、祓いの席への案内がある人達でもう1つ法要のお経を上げて終りとなった。
   後は会場を変えて祓いの膳。近くにあるホールで結婚式から法事まで色々な事に使われるらしい。次男のお嫁さんの勤め先。すべて精進物だが豪勢に並んでいる。こちらではこの席次を作るのが大変らしく、正面にお坊さんを迎えて、左右に両家の代表が並ぶ。それに向かって他の人々が並ぶがこの順番も色々と決め事があるらしい。私が母の名代という事で坊さんのお隣になっていたがそこは「年の順」と日比の叔母と変わってもらった。
   喪主の挨拶の後は特にこれと言う事も無くみんなで食事。家族がお酌に廻るが祓いの席なので静かに時が過ぎていく。
   叔父の子供達は金光教ではなく仏式でのお葬式になったことを気にしていたようだったがそこは十勝の叔母が「本人がしっかりと金光教の事を子供達に伝えていなかったのがいけないのだから気にする事は無い」と言っていた。そんな訳で戒名を頂いたのだが、顕真則道禅士
   ここでも2時間近くがあっという間に過ぎ気がつけば外は夕方。1日がかりのお葬式だった。幸い移動中にあまり大降りにはならなかったが1日雨で肌寒かった。
   お葬式が終わって家に戻り、日比の叔母と十勝の叔母を乗せて近くの温泉へ。朝朱の湯で熱いお湯に浸かる。残念ながら雨だったので露天風呂には出なかったが、温泉好きの十勝の叔母はしっかりと露天風呂も楽しんだようだった。
   家に戻ると男の人達で座敷で飲み会。その間にまた親戚などの弔問客も来る。我々は10時頃引き上げたが、その後もだいぶ続いていたようだった。

08/6/23

   岩手の叔父の訃報を聞いて朝、車で岩手へ出発。クロンを注射に連れて行かなければならなかったので、スタートは10時前。東名高速は「やめておけば良かった」というほどの土砂降り。知っている道だし車が少なかったので怖いとは思わなかったがかなり疲れた。小止みの足柄SAでまだ11時だったが昼食を兼ねて休憩。案内所で首都高の地図をもらって東北道へのルートを蛍光ペンで入れてもらった。
   「今は空いているようですよ」と言われたのを頼りに昼休みの内に首都高を通過してしまおうとせっせと車を走らせる。昼過ぎに入った首都高は幸い空いていたが、3号線からから環状線のC1に入って次に5号線へ進んでのあたりで一般道に飛び出してしまい、必死で反対側の入り口に廻り、入り口のおじさんとカーナビのリードでよく分からないが環状線を廻りなおし、隅田川から浅草辺りなんだろうなというあたりを通って無事に5号線へ。そこからC2-S1と進み何とか川口JCTへ。浦和料金所を通過した頃には神経がクタクタで蓮田SAで小休止。すでに1時半。しかし順調な流れ。次はちょうど3時の那須高原SAで一休みをしてTANUKI差し入れのドラヤキを食べる。車もおなかを減らせたので給油。カードが使えないとかなり痛い。もう1度国見SAで小休止の後、前沢SAで夕食。最後に紫波SAでカードで給油をしてカーナビに従って西根ICで高速を降り、後から地図を見ると滝沢ICで降りた方がR4に出やすいようだが、こちらも良い道ができていたが雨は降り出すし暗くなったのでカーナビ任せの旅。奥中山の駅まではすんなり来たがここからが何も無い道。しばらくグルグル回ったが葬儀の案内と通夜帰りらしいヘッドライトで見当をつけて8時半頃到着。電車の十勝と日比の叔母はもう着いていた。
   お通夜は縁のあった人々が集って故人を偲ぶ。いとこ達の子供達はそれぞれほとんどが大人になって、どれが誰やら言われても覚え切れないが皆立派になっていた。

08/6/22

   岩手の叔父さんが昨夜、亡くなった。昨年の新津のお祭りの後、わざわざ遠回りをしてこちらに寄って行ってくれたので、体調の悪いのも知らなかったが、しばらく前に調子を崩して検査入院、その時にはかなり悪くなっていたそうだ。考えようによっては長く病みつくよりも良かったのかもしれないが、そろそろ皆、後期高齢者。どこの家もそれぞれに心配になってきた。

08/5/31

   家のお茶が無くなったので叔父さんの所を訪ねたら、とうとう叔父さんが入院されたそうだ。ベースの糖尿病に気が付かないまま、足に細菌が入って腫れてしまっていたらしい。まずは足の腫れの対応だが細菌が身体中に廻って体力が落ちてしまっているようだ。
   そんな話を聞いた後、頼んであった米を持ってきてくれた藤守の父さんが、「おばあさんが透析を始める事になって入院してしまい田植えの仕切り役が居なくなってしまった」とぼやいていった。
   従弟や、叔母、近所の人も透析をしているし、思う以上に身近に透析が必要な人が多くなっている。

08/5/18

   新茶の季節、一昨日、お茶屋の叔父さんの所へ新茶を頼みに行ったらシャッターが降りていた。お留守か忙しいのかと日曜日にもう1度訪ねたら叔父さんは足を痛めてしまったようで、立つのが大変になってしまって休んでいた。
   とりあえず叔母さんにお願いして数が多いので後から取りに行ったら、叔父さんも店の方に出てきて、叔母さんと従弟と3人で用意してくれている最中だった。
   叔父さんも動くのが大変なだけで身体を起こしてしまえば大丈夫のようだった。
   ちょうど良かったと新ジャガとエンドウまでたくさん頂いてきてしまった。

08/5/14

   わけあって実家に戻っていた従弟から来年の3月まで金光教学院で修行する事にしたとメールが入った。
   様々な経験をした人生折り返し近くでじっくりと修行をするのは学校を卒業したてで飛び込む人達とは違ったものになるのではないかと思う。
   じっくりと熟成して出てきて欲しいが…。

08/4/1

   今年度は我が家&和賀家のたくさんの子供達が新しいスタートを切る。
   大学へ進む子、高校へ進学する子、中学へ上がる子、この辺りまでは年代的にそんなものかなのだが、今年は小学校入学が3人、幼稚園に入った子が1人。主に和賀家系のいとこ達の子供達だ。母が9人兄弟の上から3番目なので、従弟の代ともなると丸々1世代分の差がある。しかも早く結婚して子供の大きい所もあれば、晩婚で子供の幼い所もありで次の世代となるとまた広がりが微妙になる。



07年へ