我が家&和賀家 09年

10/3/26

   三島の従妹からしばらくぶりの電話。
   下の子も今年小学校を卒業した。この子はサッカーがやりたくてサッカーの強い私学に進学を決めたそうだ。通学は自転車だそうでかなり時間が掛かり、お弁当も作らなくてはならないので4月からはお母さんも朝が早くなりそうだとのことだ。
   それでも少年団に比べると親が世話をする部分は減りそうで、試合の応援に精を出せそうだとの事だった。

10/3/14

   父の一周忌の代わりの偲ぶ会を行った。
   T家・和賀家・O家にTOPPOさんと30名が集まって焼津グランドホテルで食事をした。母は相変わらずの状態で行かなかったが、函南の叔母さんはだいぶ歩くのが大変になっていたけれど来てくれた。さすがに階段は数段でも大変だろうと車椅子を借りてホテルの従業員用のエレベーターを使わせてもらったが、まだまだお元気だった。
   挨拶の中で叔父が父からは聞いた事のない戦後しばらくの岩手時代の事について少し触れてくれた。一緒に行ってそのまま結婚して住み着いた函南の叔母や子供達も懐かしそうだった。思えば今回来てくれた和賀家の連島の叔父も新津の伯父から数えれば親子ほどの年の差があるが、父と瑞穂の叔父もその位の年の差があるのだった。
   また、同じ命日のO家の父の写真もサプライズゲストとして参加してもらった。ちょうど地下鉄サリン事件の起きたのと同じ日に亡くなったので今年で15年目になる。
   先月の結婚式以来で会った横浜の姉に甥っ子の結婚式の写真を渡したのだが、藤守の父さんがそのまま借りて藤守の仲人親の叔母さんに写真を見せていた。
   瑞穂の子供達もまた一回り大きくなりお酒を飲める年齢になってきた。
   最後にマーミの立派なカメラでみんなで記念写真を撮ってもらってお開きにした。

10/2/14

   多分このホームページを始めて初めての結婚式へのご招待。藤守の次男坊が結婚式を挙げた。
   同じ管内の警察官と消防の救急救命士のカップル。出会うべくしてで出会ったと言うべきか。
   距離があるのでバスで連れて行ってくれるというので朝7時半に出発。我々と兄さんを拾ってもらい、藤守経由で藤守の母さんの姉さん宅を廻り東名を使って浜松へ。マーミ達は自分の車、横浜からは新幹線の方が早い。ずいぶん早くに会場のホテルに着いた。
   お支度の出来た新郎新婦をサカナにプロと一緒に写真撮影会で盛り上がる。
   控え室で双方の親族の紹介をした後、集合写真の撮影。さらに上階にあるチャペルで結婚式。すでにお招きしたお客様達が廊下で大勢待っていてくれた。今回はプロテスタントスタイルの結婚式だが、ジュンちゃんに聞いたら讃美歌などは変わらないようだった。
   式の後は晴れて明るい回廊でフラワーシャワーの中を新郎新婦が下がっていく。
   そして、披露宴会場へ。親族を含めて100名近い数で、特に新郎の仲間内はなかなか賑やかに盛り上がっていた。仲人さんは無しなので司会の方から簡単な二人の紹介があった後は双方の上司の方のお祝いの言葉と乾杯。
   新婦は白いウエディングドレスから赤いドレス、さらに振袖とお色直しも忙しかったが、お色直し中は食事の時間に当てられ余興も二人が居る時に行われたので多いに盛り上がった。最後は新郎もピシッと制服姿。
   次男坊と1人娘のカップルなので親同様に婿殿になる。忙しい仕事を持ったカップルだが、楽しい家庭を作ってほしい。

10/1/30

   少し早いが藤守のおじいさんのおぜあげ(納骨法要)。TANUKIが仕事なので代理出席。
   広間一杯の人で自宅でのお経とお焼香の後、近くにあるお寺までみんなで歩いていく。幸い日は暖かいが風は冷たい。
   納骨の後みんなでお線香を上げ、お寺の位牌堂でお焼香。しばらく客殿で休ませてもらってから精進落しの席へ。朝9時半からと早かったのでゆっくりとお昼の時間が過ぎて行った。

09/12/30

   あっという間に今年も餅つき。例年マーミの所に誰か彼かが集まって賑やかなのだが、今年もジュンちゃんの姪っ子たちがやって来て賑やかだった。
   何年か前の餅つき直後に生まれた子もすでに戦力1歩手前。しかし、この年代が1番お手伝いをしたがってくれるのだが…。
   今年は昨年と同じメンバーで、ジュンちゃんの実家が入れ替わり立ち代りでオールスター、それと彼らのテニス仲間の方、藤守の父さんも用事のついでにのぞきに来た。
   そしてお昼はたいていお寿司になるのだが、今年は奮発をしてよし寿司を取ってくれた。家の通夜の時に通夜振る舞いのお寿司をよし寿司に手配してくれたのはマーミなのだが、人数より多めに取ったはずなのに食べそびれたから食べたかったのだそうだ。

09/12/24

   藤守のお葬式。親族が多いので出棺は来なくても大丈夫との事で、そのまま斎場へ。叔父さんと従弟も直行して来ていた。
   こちらで時間待ちの間に藤守の先代のおじいさんが菩提寺さんに多大な貢献をしていて立派な戒名を頂いているので大変だという話が近くで出ていた。
   このたび亡くなられたおじいさんの戒名は喜山道悦居士。享年82歳。お元気だった頃の温顔が浮かぶような戒名だと思う。孫は皆大人になってしまっているのだが、送る言葉を藤守の次男坊が読んだ。おじいさんがお元気だった頃の思い出はみな小さかったので淡いものになっているようだったが、優しさは心に残っているようだった。
   親族だけでなく多くの方が見えて賑やかなお葬式だった。

09/12/23

   夕方、藤守のお通夜。
   小さい頃はお祭りなどにおよばれして見ていたこちらの孫達も大人になってしまうとどれがどの子かさっぱり分らない。そちら関係の親族が大勢見えていたので、婿殿の関係になるO家の親族は枕経の後お焼香をして代表のマーミ夫妻に後を頼んで帰ってきた。
   行きはマーミの車で来たという叔母さん達を帰りは家の車で送っていった。
   あまり早くは帰れないと思って家はばあちゃんの分だけ夕食の支度をしていたので、着替えてから八楠食堂へお夕飯を食べに行ったら店で兄さんと行き違った。

09/12/22

   夕方藤守へお悔やみに。
   亡くなられたおじいさんは丸顔で体格も丸っこい方だと思っていたのだが、長い闘病生活でずいぶんお顔が細くなっていた。TANUKIは「髪がふさふさしていたと思ったんだけど」と相変わらず髪にこだわっていたが…。「ちょうどしばらく前に散髪をしてもらった」と藤守の母さんが言っていたが、さっぱりとして良いお顔で休んでいた。
   長い闘病だったが、はじめは雲仙普賢岳が噴火した頃だったというので1991年だろうか。

09/12/21

   藤守のおじいさんが亡くなられた。すでに20年近くパーキンソン病で闘病されていたと思う。最後の何年間かは入院生活だった。
   ご冥福をお祈りしたい。

09/12/7

   暮になると何やかにやで普段ご無沙汰の親戚との電話連絡も多くなる。
   横浜では義兄が定年に半年残して退職したそうだ。忙しいポジションに居たので今はほっと一息ついているところらしい。
   函南の叔母は家からなかなか出なくなったと従兄が言っていたが今年のようにインフルエンザが流行っているとその方が安全かもしれない。
   タニカの叔父は仕事をたたんだ後、預かっていた工場の方も一段落させパソコン教室に通っているそうだ。T家の遠縁の叔母が目が悪くなってしまい、転んでしばらく入院されていたという話も叔母から聞いた。

09/12/6

   残念ながら私は用事があって会えなかったが、藤守の次男坊が来年結婚することになりフィアンセとともに挨拶に来た。夕方になって追いかけるように藤守の父さん&母さんが登場。お正月に彼女のご家族が見えるのでよし寿司の電話番号がほしいとの事だったが、そのくらいなら電話でも済むものを、やはり万全を期したいのだろう。さいわい「TANUKIの弟」が利いて予約は受けてもらえたようだ。

09/11/29

   昨年に亡くなった叔父の一周忌があった。
   法事の後、精進落しの席で従妹が叔父の写真を一番端の席に居たマーミの前に置いた。若い頃にはそう似ていると思わなかったのだが、叔父さんとマーミの頭の形や輪郭線がそっくりで、やはり血が繋がっているとしみじみ感じた。マーミ自身は今回も「オレは親父似だ!」と言っていたが…。父の若い時の写真を見て「オレは何時この写真を撮ったのだろう」と考えるほど似ているそうだ。
   途中で叔父の写真はTANUKIの前にやって来、「どうも説教をされている気分だ…」と藤守の父さんの前に回り、法事でその本人の写真が1番の接待役で動き回るというのもなんだか叔父らしかった。

09/11/23

   マーミ&ジュンちゃんは昨日、横浜でテニスの大会に参加。
   今日帰ってきたのだが、ジュンちゃんは順当に準優勝。しかしマーミは初戦敗退で悔しかったらしく、帰ってきたとたんにテニスクラブに練習に行ったようだ。
   夕方暗くなってお土産を持ってきてくれたジュンちゃんが、「たまにはゆっくり猫と遊びたい」と言っていたんですけどね、テニスから戻って風呂で汗を流しマッサージに行ったらすっかりノビてしまったようだ。
   マーミも1人運転だし、試合をして戻ってまた練習をしてでは疲れも全身に染み渡ったのだろう。

09/8/17

   初盆で色々な人が来てくれたので、ニュースも各地から集まってきた。
   まず、藤守の次男坊が来年挙式と決まったらしい。
   「来年は長女の彼氏が加わるかも」と言うのは瑞穂の従妹。
   瑞穂の従弟の方の長女が付き合っている彼氏はお坊さん。お盆は大忙しらしい。まだ若いので確実なことは決まっていないがこちらも双方の親公認。
   いつの間にかみんな大人になってきた。

09/8/9

   そろそろ初盆見舞いのお客さんがやって来る。
   こちらもO家の叔父さんをはじめ知り合いの初盆見舞いに行かなくてはならないのだが、「叔父さんの所は7月のお盆だよ」と藤守の父さんに言われて午後あわてて訪ねた。
   仏壇に叔父さん、居間にはワンちゃんの遺影。
   今、TANUKIがおじさんの畑を借りているので、その話しをして叔父さんが買い残していた肥料をもらって帰ってきた。

09/8/2

   今日は和賀家のお祖父さんとお祖母さんのお年忌だった。お祖父さんは夏、お祖母さんは春先が命日なのだが、親戚が全国区なのでまとめて5年ごとの夏に行われる。すでにお祖父さんの40年祭、お祖母さんの35年祭。
   お祖母さんのお葬式の時に初めて兄妹9人が集まって、「こんな楽しい事ないね」と言っていた母達の世代も欠けてきて、5年後にはだいぶ様子が変わるのではないかと思うが、祖父は10人兄弟でまだ存命の方もある。

09/7/28

   梅雨が明けないが8月も近付いたので暑中見舞いと初盆にかこつけて父の入院見舞いを頂いていた所へお返し代わりを送った。T家系の親戚はみな律儀で次々と電話やメールが入る。
   これで初盆のお客様に対応すれば1周忌まで一段落できる。

09/6/18

   父の納骨の時に休みを取ってドライブ旅行に行くといっていた叔父からトラピストバターとジャムが届いた。電話をしたら雨と霧にたたられて景色は楽しめなかったようだが、無事に帰り道の宮城まで着いていた。

09/5/23

   TANUKIの従弟が「葬式に来れなかったから」とお参りに来てくれたのだが、ばあちゃんが伸びてしまっているのでそちらにも通しにくく、結局、玄関先で応対してしまった。
   県内にいると思ったら会社の工場配置の見直しで現在は埼玉へ単身赴任だそうだ。「子供は学生でアパート暮らしだしバラバラだよ…」との事。

09/5/3

   T家の親族とマーミ&ジュンちゃんに付き合ってもらって八王子で父の納骨の法事を行った。
   道中の渋滞については言いたい事も多々あるので『ちょっとした感想』に譲ってこちらでは法事そのものについて。
   葬儀は無宗教でやったが、叔父が石屋さん経由で浄土真宗のお寺さんで戒名を頼んでくれ、釈仁恵という名を頂き位牌も作って墓前でお経も上げてもらった。まだ若いお坊さんでお経に浄土真宗らしいリズム感がないが一生懸命あげてくれた。
   前回、親族一同が墓前に集まったのはたぶん祖母の7回忌あたりのお年忌で子供達もまだ小さく、広い所を走り回った挙句に一番小さい男の子が墓石に激突して怪我をしたらしいが(私はぐずっていたのは覚えているが怪我は忘れていた)みな大きくなってその心配は無くなった。しかし、今度は母や叔母などの足元が危なっかしくなってきた。それでも子供(大供?)達はマーミが車から取り出したシャボン玉で遊んでいた…。
   父を無事に祖父母の下に安置して、高尾山口にあるお料理屋さんで精進落し。高尾山の周りは登山や観光のお客さんでごった返していたが、1歩店に入るとシックな雰囲気に包まれる。ただし、隣の部屋のお客さんの中に子供がいるらしくそれなりに賑やかだったが…。
   父の位牌だけでなく、一緒に書き直してもらった祖父母の位牌も一緒に床の間においてもらい食事会。
   挨拶は短いを良しとして叔父にバトンタッチをしてもらい献杯をしてもらう。
   畳部屋に低いテーブルを据えて椅子席にしてくれたので楽だった。お料理はいわゆる会席だが、蕎麦掻を揚げて軽くとろみをつけた汁を張ったものなど珍しかった。みんな車なのでアルコール飲料は控えたが、味付けのバランスからもビールとともに食べたいお料理だった。お昼がだいぶ遅れたせいもあるが皆良く食べてくれて良かった。
   若者に成長した子供達は女の子が多いのでダイエット話に彼氏の話し。2時間といっても4時近くになったが最後に皆で記念写真を撮って終わりにした。

09/4/17

   藤守の末っ子が母さんと一緒に進学内祝いを持って来た。看護系の学校という志望は変わらなかったがどこの学校にするかはギリギリまで考えていたようだ。けっきょく近くの専門学校に決めて自転車で通学をしているようだ。
   おとなしい子だと思っていたが、今日は良くしゃべっていった。

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