我が家&和賀家 10年
11/3/16
父の3回忌も近いので父方の親戚だけ心ばかりの偲び草を送った。
本来ならば3回忌位までは親戚を集めて偲ぶ会をするべきなのだろうが、母も相変わらずだし、墓と自宅が離れているし、親戚も遠いしとマイナス要因ばかりを上げて簡単にしてしまった。
物流が不安定になっていて少し時間がかかると店で言っていたが、県東部には1日で着いたようだ。県東部は東京電力の範囲で停電やら電車の運休やらで大変かと思ったら、停電は待ち構えていた割には今のところ影響はないようだ。しかしガソリンをはじめ「物がない」らしい。
別件で話した和賀家の叔母も関東にいる子供達の所で「お店に物がないと言っていた」と言っていたが何ともおかしな群集心理が働いているようだ。
11/3/13
宮城のお祖母さん宅は避難して無事の確認が取れたと従弟から。
盛岡の従弟からも停電と余震が続いているとメールが入った。しかし無事との事でホッとした。
岩手の従妹の息子が2年自衛隊で勤めて除隊をしていたのだが、いわゆる予備役にも招集がかかりそうだし、地元だと災害出動をする事になるのかもしれない。
11/3/11
午後に東北地方太平洋沖地震M8.8が起こった。岩手・宮城などの沿岸部ではかなり大きな津波に襲われた。津波に関しては太平洋側全域、静岡県も大津波警報が出た。他にも地震による被害が東北から関東までの各地で起こり、もっと広範囲で揺れによって転んだりの事故も起こっている。全体の被害はかなり時間が経たないと分からないかもしれない。
T家の叔母の実家が宮城にあるが様子が分からないと従妹がやきもきしている。和賀家関係は岩手は停電中だとは言うが皆無事。横浜の義姉の所は娘が職場から戻れず、逆に御殿場の従妹の所は家族が早め帰宅になったそうだ。
東京の従妹の所は被害はなかったがガスは使わないようにとのお達しで夕飯はカップ麺とおにぎりの非常食になったそうだ。
現在分かっているのはこの位。
11/2/26
本日はO家の法事。祖父・寿天顕光居士33回忌、父・尚山道輝居士17回忌、母・尚室貞春大姉13回忌をまとめてやった。祖父が逝ったのが12月、母は11月なので、3月に亡くなった父に合わせてという事になったらしい。
祖父が亡くなったのは私が結婚した翌年だったと思う。この頃はまだ通夜も葬儀も自宅ですべて行った。もちろん嫁さんは裏方要員なので、海苔巻を巻いたり、混ぜご飯を作ったり、黒おこわの支度をしたり、煮しめを作ったり、味噌汁をこしらえたりとほんの数日でずいぶん色々な事を覚えた。通夜や葬儀の方はそろそろお焼香という頃に誰かが呼びに来てくれるのでしびれがきれずに助かった。
父が亡くなったのは東京で地下鉄サリン事件が起きた日だった。まさに地下鉄サリン事件の起こった8時頃に亡くなったのは賑やか好きの人だったからだろうかと今でも思う事がある。1年前から肺ガンで入退院を繰り返していたために母もそれに付き添っていて家の事にまで手が回らず、その日は我々は大忙しで家の片付けに追われていて、夕方ようやく付けたテレビで事件を知ってびっくりしたのだったが…。
母が亡くなったのは私がHPを作った年だった。 当時は『じじ&ばばと一緒』は母と私の両親とTOPPOさんのご両親、さらにはおじさん・おばさんの誰かなどのエピソードと賑やかだったのだが、この10年で多くが三途の川の向こうに行ってしまった。
本日のお年忌では参加メンバーもずいぶんと代替わりもした。
11/1/9
正確には明日が成人式なのだろうが、今日が焼津市の成人式。
我が家周辺では姪をはじめ3人が新成人となるが、姪が成人式の後で両親に連れられてやってきた。
せっかく振袖を着ておしとやかな美女に化けてきたのだが「もう苦しいよぉ。」それでもクールに前撮りの時に着せてくれた美容師さんの方が上手だったとのたまった。
次に着物を着るのは卒業式のはかま姿の予定だそうだ。
10/12/30
本日はマーミ宅で餅つき。
餅つきメンバーも最近のレギュラーメンバーが決まりつつあり、マーミ夫婦とジュンちゃんのお母さん+姉さんと子供達、マーミ達のテニス仲間の年配の女の方に我々、そして、今回は兄さんもしばらくぶりで加わった。
正月の餅はまず餅をついたよという事で神様にお供えをする丸餅、正月に各神様にお供えをする小さなお供え、さらに鏡餅、そしてメインののし餅とお正月餅のおまけに付けるらしい「おさんこち」を作る。
おさんこちは餅の中に餡を入れて鳩の形にしたものだが、これに手がかかるので皆に動員がかかるわけだ。このおさんこちはどうも作り手の体形に似て細い人が作るとスマートに、丸っこい人が作るとふくよかになるが、こればかりは餡をたっぷり巻き込んだ丸い方が美味しそうになる。
ジュンちゃんのお姉さんの子供達も今日は来なかった1番上はもう中3、一番下の1年生の子がもうおさんこち作りを手伝ってくれた。この子は12/31が誕生日。バックナンバーを見ていくとその子が生まれる年の餅つきの記録もあるので、このページもずいぶん続いている事になる。
10/12/26
叔父さんの葬儀。葬儀は午後3時半からなのだが、出棺は11時過ぎ。その前に納棺とお経があるので10時過ぎには自宅を出た。
座敷一杯の人の中で家族による旅支度。それぞれに手分けをして草履や手甲脚絆を付けて納棺。私は腰が曲がってからの印象の方が強いのだが、大柄な方で大きいサイズのお棺で背丈一杯だった。
一緒に入れるものはと言われて迷わずゲートボールのチームのジャージとストック。そして、叔父さんが丹精をこめた畑で収穫したばかりの里芋とトマト。最後に皆で花を入れてお棺のふたが閉められた。
雪でも降りそうな雲行きだったが寒くはあっても降る事はなく出棺。年末も近く日曜日でもあったので道路は混んでいたが、大きな渋滞もなく斎場に着いた。明日が友引で休みという事もありフル稼働で、お棺が着くなりお経とお焼香が始まりあっという間に待合室に案内をされた。すでに1時近くという事もあり、皆でありがたくおしのぎの助六寿司を頂く。寒い日なので熱いお茶が何よりのご馳走だった。
集骨の後は葬儀の行われるJAやすらぎ会館へ。時間の余裕があり、お茶を頂いて一休み。
お葬式には老人会やゲートボールのお仲間も見えた。その方々からの弔辞ではやはり叔母さんが亡くなられてからは寂しさからかお仲間との付き合いも間遠になっていたようだった。
戒名は勇岳永喜信士。
最後の喪主の挨拶で子供達は誰も一緒に住んでいなかったが、周りの人達が気にかけてくれて何かあれば連絡ももらえたので、最期を1人にしないで済んで本当にありがたかったという話があった。
今回は自宅で土人衆の祓いをするとの事で、バスから降りてお線香もあげずにそのまま帰って来た。
朝出かける時に母が「帰って来た時に塩をまかなくちゃね」と言っていたのだが、玄関に塩の準備はあったもののご本人は聞こえなかったらしく登場せず、香典返しに付いてくる塩をまいていいにした。
10/12/25
夜、叔父さんのお通夜。冬らしいキーンと寒い1日だったが、お天気は良く助かった。
お通夜には親戚の他に近所の方達も多く見えていたが、1人暮らしを心配して色々な方達が声をかけていてくれたようだ。お祖父さん・お祖母さんに連れられてきた近所の子供さんも「寄ると何かもらっていたから」とお別れに来てくれたそうだ。
お経をあげに来てくれたお坊さんも「つい先日まで自転車に乗っていたんだよ」という話をされていた。
また、毎朝様子を見に来てくれていたというおばあさんも「何日か前にちょっと心臓がバクバクしていると言っていたのが気になって娘さんに電話をしたんだよ」と仰っていた。高齢のため子供達も代わる代わる様子を見に来ていたようだが、高齢なりに体調も良さそうだったのでびっくりしたが先のようで、長男(末っ子だが)のお嫁さんも「急に寂しくなっちゃった」とつぶやいていた。
ただ、そんな亡くなり方だったので寝ている姿はやつれてもおらずに本当に普段通りで「皆どうしたんだ」と今にも起き上がって来そうだった。88歳になられていたそうだ。ご冥福をお祈りしたい。
10/12/23
9月に亡くなられたO家の叔母さんの旦那さんが亡くなられた。お元気とはいえ高齢だったが、ちょっと具合が悪くなって病院へ行こうとしているところで亡くなられたそうだ。
10/12/21
従妹達からメールや電話。同じ金光教の組織の中にいるので、家と岩手以外は色々な面で交流がある。
今回はどちらも本部で十勝の叔母さんに会ったよというもの。相変わらずお元気で動きまわっているらしい。
10/12/7
和賀家系は音楽好きが多いのだが従弟の娘が自分のバンド(HAPPY BIRTHDAYというらしい)のCDを出したそうだ。高校時代からやっていたようだが、これからもっと上を目指すのか、これが1つの到達点なのか、いや、これが認められてメジャーに上がる事もあるかもしれない。
おばさんには評価のできないジャンルだが頑張ってほしい。
10/11/19
昨日はお葬式に行けなかったので、お線香をあげに下のおじさんのお宅を訪ねた。実はおじさん・おばさん以外の人の顔をほとんど知らないので、おばさんが出てくれてホッとした。
「どこか悪かったのですか?」と聞いたら、まったく元気で、ただ高齢のために仲の良かった人達もみな物故され、寂しくなったのでディサービスには通っていたが、内臓は何ともなく、亡くなる当日の13日もディサービスのお迎えを待って靴を履いて杖も付かずに庭を歩いていたそうだ。元気に帰ってきて夕飯前にしばらくやめていたお酒をちょっと飲んでお夕飯を食べている内に居眠りをしそうになったのでベットに横になったそうだ。その内にイビキの様子がおかしくなって救急車を呼んだそうだが、「代わりに消防車が何台もとんで来てびっくりした」そうだ。ともかく病院に運んでもらって心臓マッサージをしてもらったそうだが、三途の川までよほど多くの仲間が出迎えに来たようで帰って来なかったそうだ。
「もう年寄りだし会社勤めをしている家でもないのでお葬式にどの位の人が来てくれるだろうと心配だったけど、たくさんの人が見えてくれて」とおばさんは喜んでおられた。
会葬御礼に決まり文句以外を書く家は珍しいが、息子さんが『風雪に耐え、家族を守った父へ 胸いっぱいのねぎらいを込めて』と題して軍隊生活・その後の農業経営、第一線を退いてからの趣味やご夫婦での旅行の事などを書かれていた。家族のためだけでなく地域のお世話も色々とされていたおじさんだが、多くの皆さんに慕われていた。
息子さんこそ1人だが、お孫さん・ひ孫さんも生まれ、賑やかに命がつながって行っている。
戒名は徳翁辰光上座、享年は93歳だったそうだ。
10/11/14
我々の仲人をして頂いたO家の遠縁のおじさんが亡くなられた。数年前まで車を運転するほどお元気だったが、最近は見かけないなぁと思っていたのだが、もうかなりの年配になられていたはずだ。
ご冥福をお祈りしたい。
10/10/23
O家の従弟の結婚式に夫婦で招かれた。こちらは親戚も多いしO家代表はマーミなので初めての事。ようやく、ずいぶん前にTANUKIにクリスマスに買ってもらった着物を着る機会が来た。静岡の式場だが、歩くのもきついのでマーミに頼んで車に乗せてもらって一緒に行った。
どちらかというと遅い結婚なのだが、私が結婚した時にはまだ幼稚園に通っていた子が結婚をしたのだから時の流れを感じる。
お相手はインドネシアのお嬢さんでこちらに語学留学の後で短大に入学、日本で就職をしたそうで、言葉の心配もなさそうだ。先にインドネシアでお披露目をして、今回がこちらでのお披露目。彼女のご両親と妹さん、伯父様ご夫妻もお国から来ていたが、同じアジア系なので言われなければ分からない。
ウェディングドレスからインドネシアの民族衣装に変わったが、それぞれの職場の仲間達との賑やかな交歓がずっと続いていた。
2つの文化を楽しんで、楽しい家庭を作ってほしい。
親戚も世代交代をして築地も高柳も従弟が出席。帰りは皆でマーミの車に乗り合って帰ってきた。
10/9/27
叔母さんのお葬式。「葬儀場からでも良い?」とマーミに聞いていたのだが、TANUKIが出席できないし、早起きができたので築地の自宅まで伺う。
お坊さんの到着が割合に早かったが、その前に納棺。お経の後で着物の上から女学生時代に作ったというブラウスを着せかけ、やはりその頃の作品だという水引細工を1つお棺に入れられる。さらに好物のカニと甘いものが加わった。保福島の叔母さんが栗煎餅を入れていたので、「栗煎餅はO家皆の好物か?」とマーミに聞いたら「おれはあまり好きじゃない」と言っていたが、甘いものをあまり食べないTANUKIは結構好きだ。さらにお花を入れて出棺となった。
藤枝市の霊柩車は見た目は普通の車。それでも運転手さん以外に3名が陪乗できるようだ。
昨日が友引のため斎場はフル回転。着いたらすぐにお別れのお経とお焼香、しかし、年配で足元の悪い方も多く、移動は大変だったが座敷といす席の部屋が用意されていて待ち時間を過ごす部屋はかなり広かった。
葬儀は午後1時から。ほとんど身内だったが、その親戚が大勢なので賑やかだった。戒名は勇室妙喜信女。孫5人がそれぞれにお祖母さんの思い出やお別れの言葉を述べた。それでようやく昨日のママが孫のお嫁さんだという事が分かった。
お葬式と初七日のお経の後、祓いの膳はお手伝いに来てくれた近所の方も一緒で、その後、家まで送ってお線香をあげて帰ってきた。
10/9/26
叔母さんのお通夜。
叔母さんは11年の病院・施設暮らしからようやく自宅に戻られた。穏やかな顔で寝ておられるのを見ると、元気でおられた頃は、皆それぞれ違う雰囲気でそんな事を思った事はなかったのだが、義父の妹の3姉妹は良く似ていたんだなぁとつくづく思った。
飾られている写真について長男の方が「サバどころかマグロなみによんでるよ」と言われたのは入院生活も長かったが、その前も目のためにサングラスをかけている写真が多く、ようやく見つかったのが50歳代初めの写真だそうだが、優しい顔に撮れた良い写真だった。
「DORAさんだよね」と赤ちゃん連れの若いママに言われて誰だか分らなかったのだが、この家のお孫さんだと思うのだが、市で以前に地域福祉課に居た方らしい。
慌ただしくお経が始まる直前にお参りをさせてもらい、お経が終わってすぐに次の予定のために帰ってきた。
10/9/23
O家の叔母さんが亡くなった。享年84歳。かなり長い施設暮らしで、最近は他所の人の顔も分からなくなっているからとの事で、ずいぶんご無沙汰をしていたのだが、夜に「ずいぶん心臓が弱ってきているから」と連絡を受けて駆けつけたが、間に合わなかった。
藤守の父さんが「こんなにお祖父さん似だったっけ?」と言っていたが、良い顔をして休まれていた。
マーミも「ずいぶん長かったね、お疲れ様」と見送っていた。
10/9/15
手首骨折で入院をした従弟は無事に手術を終え退院したようだ。
「指先を動かしてリハビリ中」だそうだが、まだまだ右手は使えず、左手で箸を持つ練習をしているそうだ。声は元気そうだったので良かった。
10/9/6
従弟が仕事中に手首の複雑骨折をした。積み荷を降ろしている時に転んで思わずついた手に全体重が乗ってしまったらしい。当然、救急車で運ばれて、家族に連絡が来て「ホント、びっくりした!」という事だったようだ。
出先だったため応急処置をしてもらって帰宅、こちらの病院も日曜は担当医がおらずに応急処置をして今日改めて診察をしてもらったそうだ。
「全身麻酔で手術になるらしい」と本人はブツブツ言っていたが、一番使う右手首、後遺症なく回復をしてくれる事を祈るばかりだ。
10/8/22
従妹の子供の婚約の報の後は従弟の結婚式の案内が来た。
O家の親類の結婚式は今まで全く出ていないのだが、代替わりも進みおはちが回ってきたらしい。
私が結婚した時にまだ学校に上がったかどうかの年頃だったのだが…。年齢に差があるためかほとんど会っていないが、共に幸せを実感できる家庭を気付いてほしい。
10/8/21
今年の盆踊りは曜日の関係で例年より1週間遅れた。今年は新興住宅地の中の新しくできた公園で行われたが、いささか狭い分にぎやかで、義兄が「少子化の心配はなさそうじゃない」と言うほど子供達もたくさん来ていた。
今年は義兄の長男一家がちょうど来ていて連れて来ていたが、ちょっと見ない間に子供達もすっかり大きくなり、ママも「この前はライブに行く余裕ができた」とうれしそうだった。
10/8/13
いよいよお盆。今年は珍しく藤守の初盆見舞い以外は何もなく平穏。
まず、本家であるマーミ宅でご先祖様のお参り。藤守はずいぶん丁寧に法事をするようで、「合間に来てくれれば」と言っていたので終わったことを確認して午後にお参りをさせてもらった。
そして夜、気まぐれに家で迎え火をたいた。もともとT家は熱心な仏教徒というわけでもないので盆棚もしつらえてはいないし、父の初盆も昨年終わらせたので意味はないのだが、昨年のたいまつが残っていたのでほんの気まぐれ。夜気の中で小さな火を見つめていると虫の音がにぎやかだった。
10/8/4
ついに来ました!従妹の子供の結婚の報。
まだまだ年上の子供達もいるのだが、代々結婚が早いので早めに決まるだろうなと思っていたT家の従妹の長女。昔ならちょうどお年頃の23歳。のんびりしているようでしっかりとしているので、きっと良い家庭を築いていくと思う。お幸せに。
10/7/4
本日、和賀家の本家で光右衛門厳道別満輝大人(曾祖父)の60年祭・伯父さんの30年祭・伯母さんの20年祭が行われた。伯父・伯母といっても祖父の長兄の長男夫妻なのだが、記録と歴史の好きな一族なので、ここが本家となる。
曾祖父という人には私は会った事がない。曽祖母は時代的には会っていても良いのだが記憶が残っていない。そして祖父の兄である大伯父も知らない。
ただ、本家の伯母さんには良くして頂いた。成人式にお振袖など着ないという私に、「あなたが気にいるようなのを探してあげる」と色無地の着物と「これでしばらく間にあうから」と3本の帯を選んでくれたのがこの伯母だった。振袖用の派手な帯はさすがに引退させたが、後は着物も帯もいまだ現役、伯母さんの眼力はさすがだ。
10/5/20
昨夜コミュニティチャンネルの週刊ニュースを見ていたら姪っ子がインタビューを受けていた。
看護学校の2年生、戴帽式の終わったところでのインタビューだった。彼女の母も看護師なのだが、その後ろ姿をしっかりと見て自分もやってみようと思ったようで、ずいぶんしっかりと将来についての抱負などを語っていた。
10/5/16
そろそろ新茶の季節、今年は新芽が寒さで傷んだりしたのでどうだろうかとお茶屋の叔母さんの所にお願いかたがた寄ったら、叔父さんができなくなったのでお茶の販売はやめてしまったとの事。「もともと親戚のお茶を扱っていたので頼んであげるよ」と言うのでお願いしてきた。
10/4/18
家の新築をした叔母さん宅へ花束を持ってお祝いに。
「まだ引越し途中だよ」と言いつつ中を案内してくれた。1Fは段差をなくしてフラット。リビング部分が吹き抜けで上から自然光が入るので明るい。2Fは子供達の個室だがベランダも広くて日がよく入る。
しかし「新しい家は寒い」とぼやいておられた。
10/4/3
ひな祭り当日なのだがマーミ宅で餅つき。
白・黄色・ピンク・草餅の4色を2臼分ずつつくのだが、今年は今日始まってから連絡をもらったので、ほとんどにぎやかしに行っただけだった。今年はジュンちゃんの姪っ子2人が援軍に来ていた。小さいうちは良く手伝ってくれるのだが、役に立つかなと思った頃には子供達が忙しくなって来なくなってしまう。しかし、子供達それぞれに良い思い出になっているのではないかと思う。
最後に草餅を丸めて黄な粉もちにするのをみんなで手伝って丁度お昼頃に終わった。