我が家&和賀家 12年

13/3/20

   お彼岸の中日なのでO家の墓参り。午後はお天気が崩れるらしいのでTANUKIをせかして行ったらマーミ夫婦と叔母さんも来ていて一緒になった。叔父さんのお墓もあるのでともにお参り。今日も暖かで穏やかなのでしばらく立ち話をしていた。
   叔母さんと分かれてしばらくマーミ宅でおしゃべり。先日出たテニスの指導者講習会の様子や彼の友達の子共の陸上部の送別会の手伝いなど相変わらず色々とやっているようだった。

13/3/14

   夜、世田谷の伯母の通夜だったので午後から東京に出た。
   今回は1人なので車でなく電車。東京の真ん中を車で走るのはしんどいというのもあるが…。しかし、東京駅でどっちだ?とキョロキョロし、新宿駅でまたもどっちだ?とキョロキョロし、とにかく横に広いだけでなく縦にも広いのでいったい地上ではどのあたりなのかがサッパリわからない。とりあえず最寄駅からは同様な喪服の集団が歩いて行く方について行く。まさか全部がご一緒ではないだろうなというほどの人の流れだったが、大きな会館で一気に6軒分位のお通夜が営まれていた。
   訪ねた伯母のお通夜は本当に近い家族だけの小さなものだった。子供達・孫たちそして伯母の方の親族(姪・甥あたり)、長女のお連れ合いの弟さんと私、他に勤めに出ている二男の関係の方が何人か弔問に来てくれていた。
   お祖父さん・お祖母さんのお年忌は金光教でされていたが、伯父さん・伯母さんのお葬儀は浄土真宗。導師様は女の方だったが、かなり長いお経をでその後でお話も少しされた。伯母さんの戒名は釋清富。多分お葬式では戒名の由来も話されるのだろうが今日は聞けなかった。
   伯母さんは昨年春に体調を崩されたそうだが、見守られながらずっと自宅で療養されていたそうだ。最期は「まだ大丈夫」と思っている内に呼吸が弱ってしまったとの事で、数日前にはお風呂にも入れたそうで、あまりやつれもなく良いお顔をされていた。
   ここの伯父が父の親友で、母とはいとこに当たるので、子どもの時には家族ぐるみで行き来をしていたが、いつの間にか年賀状だけのお付き合いになりつつあったが、会ってみると懐かしいものだ。

13/3/7

   夜、世田谷の伯母の訃報が入って来た。伯母と言っても母の従兄の奥さんになるのだが…。
   それなりのお年だったが、自宅療養を続けていてほんの数日前までお風呂にも入れるほどお元気だったそうだ。
   長男が同い年、長女がちょっと下でその2人とは子どもの頃よく遊んだが、その下2人は少し年が離れているのであまり遊んだりした覚えもないのだが、電話をくれた末っ子の娘さんももう高校を卒業するくらいの年になっているはずだ。
   東京も葬儀場の混雑は同じようでお葬式は来週半ば過ぎになりそうだ。

13/3/5

   藤守の次男坊は巡査部長に昇進。試験と長期研修でしばらく家を離れていたようだが、昇進とともにまた転勤だそうだ。

13/2/15

   日比の叔母から下津井のお葬式が終わったと電話が来た。「早く電話しようと思ったけど調子が悪かった」と叔母。元気そうな声でも80歳過ぎ、お大事に。
   もっともお葬式で会った人や○○さんがどうしたという話は続きがらが良く分からなくて、古い名簿を見てみようと思ったのだが、どこにしまい込んだか見当たらなかった。

13/2/2

   日比の叔母から母の従弟のお連れ合いにあたる遠縁の叔母さんが亡くなったという電話が来た。10年近く時々危ない状態になりながら寝ておられたようだ。

13/2/1

   瑞穂の従弟の長女の結婚が決まったようで本人からメールが来た。ついこの前小学生だと思っていた子供達がどんどん大人になっていく。
   我が家もトータルすると未婚・少子化傾向ではあるのだが、このような祝い事のニュースは大変に嬉しい。

13/1/15

   母宛に宅配が来たのだが送ってくれた人に覚えがないという。見ず知らずの人に「どちらさまでしたっけ」と電話をするのも気が引けて日比の叔母に電話をしてみたら、本家の結婚した娘さんからだと分かった。
   暮に叔母から「みんなで少し出し合ってお返しなし程度のお祝をするから」と連絡をしてきたので、その挨拶という事らしい。せめて連名にしてくれたら推理が付いたのに、ドキドキしてしまった。
   秋頃にでも結婚されたのかと思ったら春だったそうで、彼女達にしても今頃お祝が来て戸惑ったのではないかなと思った。

13/1/2

   本日は近くの親戚一周お年始回り。
   スタート前に藤守の義弟が来てくれてテレビで箱根駅伝を見ながらおしゃべり。先日腸ヘルニアの手術をしたばかりでまだ違和感があるようだが元気そうだった。
   箱根駅伝が終わってこちらはスタート。ちょっといつもより遅かったが、保福島では叔母が「明日は家族が集まる」と今日はノンビリしていた。仕事をやめて盆景やコケ玉、手芸などを楽しんでいるようだった。ジュンちゃんの実家ではちょうど彼らが帰ったところだったようで、ご夫婦でゆっくりとされていた。そこから築地へ。こちらは叔父さん・叔母さんが亡くなられた後、お正月に兄弟で寄りあっているようで賑やかだった。従弟の子供達は大人になっているし、ついこの間赤ちゃんだった孫も大きくなって増えて、そろそろまたお年玉が必要そうだ(上の子は明らかにお年玉を期待していた…)。次は高柳へ。ここも叔母が無くなって男所帯になっているが、叔父さんはじめ皆さん元気のようだった。居たのは普段は居ない次男だけだったが、長男は鉄ちゃんで電車で川根温泉へ出かけたらしい。
   藤枝ルートを終えて言うならばここから復路。焼津駅前まで進んで港へ。こちらは叔父が亡くなって叔母と子供(大供)達だけだが、玄関の外に置いた叔父の形見のハイビスカスがまだ蕾を持っていた。「ちょうど(叔父の)誕生日から咲き始めてよく咲いた」と叔母が話していた。次は大の叔母の所へ。ちょうど従妹が来ていてしばらくぶりで会った。彼女の次男はサッカーがやりたくて学校を決めたはずだったが、最近サッカーからテニスに方向転換をしたそうで、「私もテニスのルールを覚えなくちゃ」と言っていたのでマーミの所で練習をしたらと誘っておいた。そして最後はマーミ宅。「疲れた」とのびているところに押し掛けてしばらく話をしてきた。

12/12/30

   今年もあっという間に年末の餅つき。最近はジュンちゃんの姪っ子達が戦力になっている。
   彼女達、餅を作るのも面白いらしく、餅つき機の前でしっかりと面倒を見てくれる。高校生になった次女と小学生の三女の対決は、餅つきの翌日に生まれた三女の方がカンがよろしいようだった。
   そして、もう1つ手がいるのがお供え餅とおさんこち。おさんこちは餅の中に餡を入れて鳩の形にする(真ん中の写真の右手前が正調)のだが、作った人の体形となぜか相似形になる。手の平に入るサイズ位に作るのだが、子供達はミニチュア化させてしまった。しかし積んだら来年の干支、巳に化してしまったようだが…。そう言えば誰かの説で鏡餅を上から見た図は蛇がとぐろを巻いている姿だというのがあった。
     

12/9/16

   やっと夏休みという瑞穂の従弟一家がやって来た。まだアメリカかと思っていた次女はとりあえずアメリカの空気を吸って帰国、逆に長女は彼氏との生活を始めたそうで不参加だった。妹達によると、すっかり主婦の顔になって、おかずの作り置きをしたり色々な家事をしたりしているそうだ。両方の親公認でアパート暮らしを始めたそうだが、結婚式は未定だそうだ。
   次女はしばらく親から離れた事でかなり自立。バレエをやっていて元々いつも動いている子で身体も柔らかいがイメージがずいぶんと落ち着いてきた。言葉よりもアクションで意思を通じてきたようだがまたアメリカに行きたいとも言っていた。先日はバレエの大会で奨励賞を頂いたそうだが、「もうちょっとで入賞できたのに…」と悔しがるあたりは、まだまだ伸びる要素なのかもしれない。
   三女はスクスクと身長ばかりが成長中。それでもいつの間にか違和感なく話に加わっているほど大きくなった。
   パパはようやく取れた休みの始まりだったのだが、ママは「明日は仕事」という事で夕方には帰っていった。

12/8/15

   昨日午後から花火見物のために瑞穂の従妹一家が登場。孫の坊やが昨年の赤ちゃんからだいぶ大きくなって、歩き始めた。新幹線の走るのを見て喜び、花火見物では花火よりも側を通る東海道線の電車の方が興味があったようだ。
   昨日は港ではなく瀬戸川の土手に行ったので帰って来るのも楽、しかし、人数があるので風呂に入って寝たのは12時ごろ、今日は皆のんびりと朝寝だった。
   1夜開けて、お天気は不安定なものの瑞穂の一家は午前中から三保の東海大の水族館経由で帰っていった。
   慌ただしくても夏の定番が1つ終了。

12/8/4

   横浜の義兄の49日法要。
   こちらはピーカンの晴れだったのだが、足柄あたりから黒雲がわき出した。それが親族が集まって自宅にお坊さんが見えて行われた法要の頃にはドシャ降りに。義兄さん、まだまだこの世に未練があっての涙雨か…。
   精進落としは近くの和風のお店で。最近は広い座敷を持っている所も少ないのだろうが、1Fを借り切って、小上がりのテーブル席に座っての会食なので動き回る事もなく、内輪で盛り上がっていた。
   お店からの帰り道は雨も上がっていたのだが、今度は義姉の家から我々が引き上げようとする頃にまたドシャ降り。良いお湿りで気温も少しは下がったようだが、自宅に戻ったら雨の一滴も降った様子はなかった。

12/7/11

   瑞穂の(今は埼玉の奥に住んでいるが)叔父夫婦が「そろそろ長距離運転もできなくなるかもしれないから」と訪ねて来てくれた。
   朝の6時前に出てきたそうで、9時半頃に家についた。それでも高速がつながったので楽になったと言っていた。「時々信号のある下の道の方が楽だ」と昔は言っていたが、最近は「トイレの心配があるから」とパーキングエリアがあって安心な高速に宗旨替えをしたらしい。
   叔父は相変わらず菓子製造の仕事の手伝いなどをしているようだが叔母は引退を決めたようだ。退屈なのでと近所の人に教わって手芸を始めたようで作品を沢山持って来てくれた。
   津波では無事だった叔母のお母さんも96歳で大往生をされたそうでお葬式で宮城に行ってきたそうだ。
   また、バレエをやっている孫娘は高校を卒業して無事にアメリカへ旅立って行ったそうだ。
   1時間位おしゃべりをしながら休んで、次は函南の叔母の顔を見に行った。

12/6/30

   TOPPOさんの家で朝7時に起床。とはいえゴロゴロとおしゃべり。しかし、葬儀に間に合わなければ何をしに来たのか分からないので、そこそこに起き出して、幸いの良い天気に布団干し。玄関では可愛らしい子規の朝顔が涼しげな花をつけていた。
   朝ごはんをご馳走になって、「家の地図を書くから」と書いてもらったものをもらった上に「ここで迷われたら困る」と保土ヶ谷バイパスの側までナビをしてもらった。
   保土ヶ谷バイパスが混んでいたので横浜ICから横浜青葉ICまで1区間を東名。ちょうどいいタイミングで着いた。
   葬儀も昨日のお坊さん。しかし、通夜の読経より葬儀の読経の方が短かった。戒名は重願院信誉昇念居士。
   お棺にたっぷりの花を入れて出棺。バスで火葬場に向かった。火葬場では先にお棺を炉に入れてからお別れのお焼香。おしのぎではなくちゃんとした料理のお弁当を食べながら時間待ちとなった。
   骨あげをしてセレモニーホールに戻り初七日のお勤めをしてすべて終了。
   マーミや藤守と3台一緒に車を出したのだが、いつの間にかバラバラになってしまった。帰りは御殿場から新東名。清水Pと静岡Pをちょっとのぞいて6時半頃帰ってきた。

12/6/29

   横浜の義兄のお通夜のために午後からTANUKIとともに横浜へ。その前に、留守番を頼むばあちゃんが飢え死にしないように、おかずセットやイモやカボチャの天ぷら、おはぎなどを買い込む。
   こちらは昼を食べたが、まだだというTANUKIは日本坂Pまで行ってお昼。黒ずくめで歩きまわるのも億劫で、自販機のお茶を飲みながら車の中で待っていた。
   とりあえず、ここを2時頃スタート。カーナビにあまりうるさく言われるのも面倒で、足柄SAまではそのまま、ここでカーナビをセット。ところが厚木ICを超えた先で圏央道の案内看板が出たので、海老名SAに寄って東名・新東名の地図をもらった。それによるとまだ計画中の破線だが…。
   横浜青葉ICを降りてR246、義兄の自宅近くのセレモニーホールが会場だった。4時過ぎには到着、街中の割に駐車場が大きく安心した。2組が同時に行われるらしく、2軒分の案内が出ていた。
   先に出ていたマーミは、積んだはずの礼服を積み残してきたと慌てて買いに行ったらしく、こちらの親戚では我々が1番乗り。
   親族がほとんどの通夜は5時から始まった。お焼香が丁寧でちょっと面食らったが、ゆったりとした良い通夜だった。
   通夜振舞いでは義姉がずっとお世話になっている三鷹のおばちゃまの一族なども見えていてお互いにご挨拶。それぞれの付き合い別で席をしめるのでしばらくぶりで内輪で話し込んだが、義姉の体調もやや心配だった。
   夜はTOPPOさんに泊めてもらう。同じ横浜市内でそう遠くは無いのだが、またもや彼女の家の周りで迷子、「どうすれば迷えるのだ」とあきれられたが、夜9時前に何とか到着。
   今年は「森町に新東名を使ってあじさいを見に行こう」と言っていたのだが、お互いに忙しすぎて中止。しばらくぶりの再開で、結局は夏に息抜きをしようとまた皮算用をしてきた。

12/6/26

   横浜の義兄が亡くなったと連絡があった。昨年末に転んで頭を打つという事故とそれ以前からの体力の消耗で意識もほとんど無い状態だったが夜9時半頃、義姉が「まだ手を握ると暖かいんだ」と言って電話をくれた。

12/5/18

   ネコの写真は天王寺のミケちゃんです。すっかり家にも人にも慣れたようです。
「娘が1人増えたみたい」と子供達が2人とも高校生になってしまった天王寺のママは「家の次女です」とご機嫌です。

12/4/4

   日比の三男がしばらく静岡に単身赴任をしていたのが、この3月で転勤すると言っていて、その前に叔母とここで合流しないかとだいぶ前に言っていたのだが、どちらからも連絡がないなと思っていたら、叔母が1月ばかり入院をしていたようだ。腸膜炎だそうだが無事に手術も終わり退院したそうだ。
   二男の娘ががライブの途中で見舞いに来ておばあちゃんもご満悦の様子。6月に大阪であるライブを見に行くと張り切っているそうだ。
12/4/3
   今年も3/31に餅つき。見事な春の嵐の日だった。実はカメラどころではなく、私は途中から別の会合へ。それでもしっかりとお手伝いをした?事にしてもらってたくさんお餅を頂いてきた。
   ほとんどは各地へ送り出してしまったが、まずはお雛様に菱餅をお供え。雪(白)の下に若草(ヨモギ)が萌え、菜の花(黄=クチナシ染め)が咲き、その上に桃の花(ピンク=食紅)が見えると菱餅の色の順番を教わったのはいつ誰からだったか覚えてはいない。
   しかし、本日も土曜日以上の春の嵐、気象の警報と交通情報を見ながらちらし寿司を作った。このちらし寿司は母直伝だったのだが、いつの頃からか目一杯具を入れ込むようになって、少し作るのが難しく毎回マーミの所に押しつけている。

11年