我が家&和賀家 13年
14/3/12
今年高校を卒業する瑞穂の従弟の末っ子から「今日が卒業式だった」と電話が来た。無事に就職も決まっているようで、じきに社会人。しかし、話し方はまだまだ学生さん。社会人らしくなった頃にまた声を聞きたいものだ。
14/3/10
三島の従妹から電話。長男が今年高校を卒業したそうだ。大学は東京。お父さん方の実家から通うつもりのようだが、遠くないと言っても引っ越しや入学準備で忙しそうだ。
「生まれた時に1番初めに来てくれたよね」と言われて、まだようやく首が据わった位の時に行ったかなぁ…とおぼろげに思い出す。「マグロを持って来てくれたよ」と彼女の方はよく覚えているようだった。
次男はサッカーからテニスに転向して1年。「よく分からないけど、一緒に色々覚えている」らしい。
14/1/3
母方の遠縁のおばさんから電話。毎年、母の名前で年賀状はやり取りしていたのだが、「恐れ入りますが、どういうつながりで…?」との事だった。岩手の方なのだが、津波は無事だったが、昨年火事に遭ったそうで、その時におじさんが亡くなられてつながりが分からなくなってしまったようだ。
私の母方の祖母の弟か母の従兄になるのかなはずだが、祖母の話、曾祖母の話でようやく話が繋がった。
曾祖父の転勤で各地に住んだ事のある曾祖母が、子ども達に会いたいと晩年に大旅行をした事があった。岩手からまず姉娘のいる東京へ。ここでしばらく過ごした後、私の祖母である妹娘のいる岡山へと旅立った。その時にたまたま病み上がりで仕事をしていなかった父と初めての里帰りに行っておいでと言われた母と3〜4歳になっていた私とで曾祖母を送って岡山まで旅をした。当然まだ本物の汽車の旅、座席のまっすぐな硬いシートの汽車で24時間近くかかったのではなかったかと思う。旅上手の曾祖母は列車が空くと座席にコロリと横になって休んでいた。
この時の繋がりで「いい所だから1度おいでなさい」と祖母を招待したら訪ねて行ったようで、「きれいな海の色だ」と喜んでいたそうだ。
T家は元々東京に居たので、何かの時に上京してくる人達の足場にもなっていたので、この亡くなったおじさんとも子供の時にお会いしていたかもしれない。もう80歳過ぎだが最近も遅くまでパソコンをされていたそうで「同じ部屋では落ち着いて休めない」と別の部屋に寝ていて、おばさんは助かったそうだが、「一緒に死んだ方が良かった」とちょっと湿っぽくなられていられた。
昭和31年 三鷹の家で 前列の男性が話題のおじさん 後列右が世田谷の伯父(曾祖母にとっては孫) |
昭和32年 連島の家で 前列中央が曾祖母 |
14/1/2
恒例のO家親戚1周年始回り。TANUKIがグズグズと年賀状の返事のあて名書きなどをしていてスタートが遅くなってほぼお昼前になった。
それでも新春らしく暖かで穏やかな天気。ただしお正月らしく歩いている人も無く、遊んでいる子供もいない。ただ神社のまわりだけは初詣の車でにぎわっていた。
保福島の叔母の所はしばらく前に家の建て替えをしたのだが、今は庭の整理中。おかげで車は停めやすかった。日当たりが良好になり昼間は暖房も要らないし、太陽光発電でオール電化にしたけれどずいぶん掛りが安くなったと言っていた。叔父も最近は母屋で過ごしているようで、「家できちんと食事をするようになって体調が良くなった」と叔母が言っていた。
次は叔母夫婦が相次いで亡くなって普段は留守宅になっている所に従弟達を訪ねた。今日は長女夫妻と長男一家が来ていたようで、ここでは遠慮なくよもやま話。そして、高柳の叔父の所。80歳の大台に乗って足が悪くなってきたようでマイ椅子が必需品だそうだ。リウマチで字を書くのが大変だと言っていたが口は絶好調、次男は今パラリンピックで使う車いすを乗せて移動する車の開発に携わっているようで、そんな話で盛り上がった。
ぐるっと戻って港の叔母の所は玄関先でまだハイビスカスが咲いていた。台風の時など重くて運ぶのが大変だと言っていたので、バッサリと刈り込みをして春先に植え替えたらと言っておいた。
さらに戻ってY家側の叔母の所へ。下の孫が来ていたらしいが照れて出て来なかった。ここで「義姉さん(母の妹)の具合があまり良くないらしい」という話を聞いた。腰を痛めていて手術をしたらしいが、予後があまり良くないらしい。昨日、叔父から「年賀状を書かなかった」と新年の挨拶電話が掛って来たのだが…。
本家に当たるマーミの所を訪ねたら、義兄さんは神社の交通整理のアルバイト中、本人達もジュンちゃんの実家で皆でお昼を食べに行って帰って来たところだと言っていた。その後でジュンちゃんの実家にも新年のご挨拶に。
玄関先でちょこっと話をしてくるだけだが、みな近くなので4時間もあればこれだけ回れる。
13/12/8
十勝の叔母から電話。従弟も仕事以外に何やら地域の役目をたくさん背負いこんでいるみたい。時間があると釣りらしいが、まだまだ若いからこそのリフレッシュ法…。何しろ山歩き&川歩きのようだから。
13/12/7
瑞穂の従弟の嫁さんから電話。今年は長女の結婚・彼女のお父さんの逝去・次女のアメリカ留学と忘れられない忙しい1年になったらしい。
ちょうど長女がお寺に嫁いで、直後の8月3日にお父さんが急死され、お葬式の後の仏事は婿殿がしてくれたようだ。またお墓もそちらのお寺に作り、これで墓守は孫がしてくれるという良いめぐり合わせとなったようだ。
13/10/22
天王寺の叔母が本日傘寿の誕生日だそうだ。
母とは8つ離れているのだが、子どもの頃の印象の、若くてきれいでおしゃれな叔母さんのイメージがどうしても離れない。写真を見てもお元気そうだし今でもお若い。しかし、北海道・静岡・大阪・岡山と母達4姉妹の住んでいる場所はほぼ日本中に散らばっている。もう1度元気に一堂に会する事があるのだろうか…。
13/8/15
お泊りをした孫っ子が夜中に発熱。しかし幼い子というのは40℃近い熱でも結構元気にしている。暑い家なので「熱中症かも」と言われて風呂場で水遊びをさせて身体を冷やしたが、やって来たマーミが「医者に連れて行かなくちゃ」と近所の小児科がやっているかを見に行ってくれた。さいわい開いていたのでじいじと両親で孫っ子を連れていったところ「夏風邪」との診断。「親切に診てくれた」とママは喜んでいた。
早めに出て遊びながら帰る予定が、お昼を食べて直行で帰るに変更。時間がなかったので、こちらもそろそろ盆休みかとおそるおそるよし寿司に電話をしたら「やってますよ」とタイミング良く届けてくれた。
従妹家歴代のイクラ好きは孫っ子にも伝わっていてイクラの軍艦巻きの頭ばかり2つ3つ食べていた。上手にお薬も飲んだし、ともかく食欲があれば大丈夫とホッとした。
お昼を食べて夕方の渋滞前に帰りつく作戦はまずまずの成功のようで、厚木付近で混んだ他はたいしたことなく無事に夕方帰りついたようだった。
13/8/14
焼津港の花火の日。従妹一家(次女が仕事で欠席)が午後にやって来た。
今回の花火見物メンバーはマーミ夫妻とTOPPOさんと従妹一家と我々。まだ孫っ子が小さいので今年も瀬戸川の河口の河川敷へ。車を近くにつけたいので明るい内に行ったが、時間制限のある港まで行くよりはずっと楽。早速芝生の上で孫っ子を中心にボールで遊び始める。川で魚のはねるのを見ている内に釣竿も登場。小魚の団体さんが居そうだったが釣れなかった…。
肝心の花火は風がなく煙がどいてくれなくて、いまいちだったが、孫っ子は側を通る東海道線の電車の方が気になっていたようだ。
とにかく夏のイベントの1つが終了。
13/8/13
何日か早いけど、TANUKIの還暦祝いに食事に行った。
昔は食道楽で大食漢だったTANUKIもコース料理で「腹一杯だ」と言うようになった。しかし、早食い競争が得意種目のTANUKI・DORA・TOPPOの三人組、さっさと食べて廻ってくる1口のパンをヒョイヒョイと食べ、満腹になるのも早いはず。
カシスオレンジのノンアルコールカクテル(ジュースだが…)で乾杯をし、スープ、前菜、魚料理、肉料理、デザートと息つく間なく食べてしまった。
しかし還暦、そろそろ食べるものに気を使うなりして身を労わるべきなのだろうが…。
13/7/11
ちょうどお昼から叔母の葬儀。平日の昼間なので、ほとんど身内だけの静かな葬儀になった。最後の挨拶で瑞穂の叔父が終戦後に岩手に行くいきさつなどを少し話した。父をはじめ他の家族はみな帰ってきてしまったが、叔母はそちらで結婚して20年以上そちらで暮らした。
葬儀の後で火葬場へ。その待ち時間に祓いの膳が出た。
1度葬儀場に戻ってそれぞれの車でお寺へ。初七日のお勤めの後、納骨まで済ませた。お寺さんはきれいになっていて、お墓もずいぶん増えているようだった。
13/7/10
夜、函南の叔母さんのお通夜。受け付けは叔母さんの孫のオールスター。ご近所に頼んでも良いのだがあえてしなかったそうだ。皆いつの間にか立派に一人前になっている。婿に出た二男のお姑さんに「何時も孫におハガキを頂いて」などと挨拶されたがそれも小さかった頃の話。
亡くなった叔母さんはふと起き上がりそうなほどやつれてもなく横たわっていたが、祖母にそっくりだった。そんな話をしていた瑞穂の叔父は横から見ると父そっくりになって来た。そして、函南の従妹は叔父に言わせると叔母の若い頃にそっくりになってきたそうだ。
この家は浄土宗のお寺の檀家になっているのでお坊さんのお経もお話も元気な頃の叔母の面影が浮かんでくるようだった。
戒名は清室浄雲信女。享年89歳、祖母や父と同じだった。
13/7/9
昨日が今日になった頃、函南の叔母さんが亡くなられたそうだ。
入院はしたがガンのターミナルケアという事で、積極的な治療はせず痛みを取るだけで2週間ほどの入院だった。昨日、「分かっているのだか、いないのだか…」と従兄が言っていたが、良い最期だったのではないだろうか。
13/6/29
本日は従弟の長女の結婚式。何故か血のつながりはないマーミも「おじちゃんも来て」と招待され、おかげで彼の運転で楽をして埼玉まで出かけた。
お相手がお寺の息子さんなので結婚式も仏前。東叡山泉福寺の住職様の戒師(司式)で行われた。作法が分からない人のために式の前に進行役のお坊さんが式次第に沿っての説明をしてくれた。祝詞や賛美歌が入る所が経文になったようなものだが、結婚指輪の交換の前にお数珠がそれぞれに渡された。
結婚式には檀家の代表の方々やお寺の関係者、お嫁さん側の職場の方なども来て皆で見守る形になった。しかし、お姉ちゃんの結婚式だというのに次女はまたニューヨークへ旅立ってしまっていたようだ。夏の学期の授業を受けてどこかのオーディションで目に留まれば良いのだが…。
それはともかく、式の後は良いお天気だったので仏前ではなく境内で記念撮影。この頃には新郎新婦もリラックス、皆のカメラの獲物になって楽しんでいた。
その後、披露宴会場に向かった。ちょうど先を行った従妹一家の車を追って無事に到着。1時からお式で4時から披露宴というのはずいぶん時間の間があるなと思ったが、それぞれの車でバラバラの移動を考えるとこの位の方が余裕があって良かったようだ。
披露宴はかなり大勢の人が集まった。お寺関係の方やそのかかわりの方が多かった。また親族が少ない分お友達が多くて賑やかだった。
挨拶は戒師をされた方が結婚の報告とお祝いを、新婦側は職場の方ではなく叔父(祖父)が挨拶をした。食事の間は新郎のお兄さんの仲間だというバンドがジャズを中心の演奏をしてくれたが、本人達は着替えの中座が長くて残念だった。
1度めのお色直しでウエディングドレスに変身してケーキカット、その後で色ドレスに変えてキャンドルサービス、新婦の両親にあてたメッセージはかなり長文で良くできていて、この子はこんなに作文力があったのかとちょっとビックリ。両親への花束贈呈の後は新郎のお父さんと新郎からのご挨拶。新郎のお父さんは足がお悪いらしく車いすだったが声はしっかりしておられた。
13/6/26
函南の叔母さんのお見舞いに。かなり高齢なので治療というよりも痛みを取り様態を安定させて過ごす方針のようだ。
「口は元気だから…」と普段の口癖通りしっかりした口調だったが、あまり長くは疲れるようで、「お天気は良くないし、夕方は皆忙しいんだから…」と言われて病室にいた長男夫婦も裾野の娘も我々と一緒に帰る事になった。
13/6/25
函南のおばさんが入院されたと連絡が入った。近々お見舞いに行かなくては…。
13/6/22
早いもので横浜の義兄の一周忌。10時半からの法事だというので7時半頃には藤守の義弟夫婦が寄ってくれて乗せてもらって出かける。最近は走りやすいからと第2東名を使う事の方が多いそうで今日もそのルート。道路は順調でずいぶん早く横浜まで着いてしまったが、最後の住宅街で「どっちだろう」となった。普通の住宅街であまり目印になるものがなく同じような一戸建てが並んでいるので迷ってしまうと分かりにくい。それでもそれぞれの覚えている目印を寄せ集めると何とかなった。
1番乗りで、「まだ掃除中だよ」という居間の家具の移動を手伝った。そうこうするうちに皆が集まってきてお坊さんのお経とお焼香。初めの予定より早くなったので、その後しばらくそれぞれに集まっておしゃべり。
精進落としには昨年の49日の法事の後で行ったのと同じ店に連れて行ってもらった。季節らしい懐石料理は良い器に入れられて1品ずつ運ばれてくるが、さほど量が多いとも思わないのにお腹一杯になった。
1度家に戻って、さてお暇をしようかという頃になって今回も雨。しかし、横浜の家族も少しは落ち着いたようで良かった。
行きはマーミの車に乗って来た義兄もこちらに乗り移って一緒に帰って来た。
13/6/10
昨日、皇太子ご夫妻の結婚20周年だとニュースで言っていた。ちょうど同じ日に岩手の従弟が結婚式を挙げている。あれから20年、ふた昔も前の話になったとは信じられない。その時に岩手の叔父にもらった白藤とこぶし(花が小さいのでタムシバかもしれない)は大きくなって庭の中央を占めている。
和賀家にとっては日比の3男の結婚式も同じ6月にあり、結婚式で東奔西走したのだが今と違って元気に走り回っていた。
双方の長男がともに高校生、こちらも年を取るわけだ。
13/4/22
瑞穂の従弟から長女の結婚式の案内が来た。披露宴の案内は親の連名、そして結婚する当人達からの挨拶も記されていた。
お寺での式の後、場所を移して披露宴のようだ。
13/4/7
瑞穂の従弟の長女の結婚が決まり、皆で来てくれた。長女とその彼氏だけでなく、従弟夫婦と末っ子(次女は忙しいらしい)、叔父さん夫婦まで一緒に来てくれた。
天台宗のお寺さんの二男との事だが、すでに長女もお寺の仕事を手伝っているようだった。本山が比叡山延暦寺になるそうで、関東の子なのに言葉のイントネーションが何となく関西風になるがハキハキした良い青年だった。
皆でお昼を食べて午後からはマーミ夫妻が加わってくれてしばらく皆でおしゃべりをしていった。
結婚式は実家のお寺で仏式になるそうだ。お寺の関係者の皆さんにも同時にお披露目ができるというメリットがあるらしい。