我が家&和賀家 15年
16/3/15
昨日が新津の伯父の葬儀だった。段落が付いたところで従弟から電話をもらった。
伯父はしばらく前に肺炎で入院、その時に末期の肺がんが見つかったらしいが、年も年だしとそのまま様子を見ていくことにしたそうだ。高齢なので進行も早くなく、眠るように逝ったそうで「大往生でしょう」と言っていた。
そろそろどうかなぁという気がして4/8に沼垂の親戚に「もしもの時には葬儀をお願いします」と言ったばかりだったそうだ。準備が整ったところで「では」とさっさと動き出すあたりも、なんだか伯父らしい。
16/3/12
日比の叔母から新津の伯父が亡くなったと連絡が入った。母の長兄で大正10年生まれの95歳。ここ数年は施設で暮らしていた。
終戦の食糧難の時、海軍から除隊した伯父は家が戦災で焼け出されたと聞いて毛布をもらって帰って来たそうだ。家族は海軍は食料がたくさんあると聞いて食べ物のおみやげを待っていたようだったが…。
また、結婚が遅かったため「子どもを連れているとお孫さんですか、って言われるんだ」とぼやきながら楽しそうだった。
今頃は先に逝った伯母さんと再会をしているのだろうか…。
日比の叔母だけでなく、十勝の従弟からも連絡が来て、こういう時は別の話も加えて色々と親戚の情報もやって来る。
16/3/9
連島の叔父から連島教会が今年で100年になるという話を聞いた。大正5年秋の設立で、初代教会長は岡本虎太郎師、2代教会長には藤井聰常師(お祖父さんの弟)、3代は岡本虎太郎氏の孫の岡本憲雄師、お祖父さんは4代目教会長の藤井真保師(お祖父さんの弟)の長浜教会の元で連島教会を預かっていたようだ。その後、十勝の叔母がショートリリーフをして今の連島の叔父が5代目という事になるようだ。
私はアウトサイダーなのでよく分からないが、同じ土地でずっと1つの事をつないできたという点は素晴らしさを感じる。
ここで祖父が半端な立場に居るのは、若い頃は別の仕事をしていて、戦前は大阪で暮らしていて戦災で焼け出され、祖父本人は終戦まで戦争にも行っており、まだたいした年ではなかったはずだが、戦後は余生の気分だったのかもしれない。
16/2/20
この何日か岡山の従弟から引っ越しをするつもりだと電話が来ている。「引っ越すなら母と一緒に暮らしたい」と1度施設に入れた叔母さんを引き取るつもりのようだが、2人の体力がいささか心配。
16/1/23
しばらくぶりに岡山の従弟から電話。寒い時期の叔母の体力を心配して、高齢者施設に預けたそうだ。
「エアコンはあるし、食事も出してくれるし、少し心配が減った」と言っていた。
16/1/7
しばらくぶりに静岡教会へお参りに行った。金光教は狭い社会なので、親戚のあれこれの話が聞けて、うっかりすると先生の方がこちらより詳しい。日比の長男が学院の教頭格になったとか、田原本の末っ子が本部に居るとかいろいろと聞いてきた。
15/12/30
本日はマーミの所で餅つき。彼の偉いところは必ず知り合いの子供たちを招いて手伝わせること。今日はジュンちゃんの姪っ子たちと隣の家の子供たちが来ていた。
のしもちは機械で搗いて大人がのすばかりだが、おさんこちの風習があるので、餅にあんこを包んで鳩の形を作る。これには結構人手がいるし、子供たちも「熱い」と言いながらも粘土細工のように楽しんで一緒に作る。多少不出来でも親や祖父母となれば「すごいじゃない」と言って食べてくれるので、良いおみやげにもなる。だんだん作る家も減ってきているようだし、伝承をするという面でも良いことだと思う。特に今回などは年上の姪っ子さん達が初めて会った隣の家の子供たちを指導してくれていた。
これが年取り餅となると、もう他所の家では残っていないのではないかと思われるが、2本の稲わらの上に丸餅を乗せて餡を乗せ、稲わらで切って食べるのだが、3つに分けた部分が過去・現代・未来を表すと聞いている。昔は一段落がつくまでのお腹の虫抑えで大きなものだったが、今はお印ばかりになっている。
今年も餅つきが終わり、家に戻って正月飾りをしてお供え餅を上げるといよいよお正月という気分になってくる。
15/12/28
ついこの前、犬が死んでしまった天王寺、早くも次の犬がやって来たようだ。
15/12/17
天王寺のワンコがついに逝ってしまったようだ。わりと開放的に庭飼いされていたはずだが、最後は家の中で布団に寝かされて看取られての大往生だった。
ところで、何故かお葬式は仏教式、テープだけどお経まで流れたそうだ。お棺の上は榊なのだが、お犬様のお葬式も大事になったようだ。
15/12/15
天王寺の従妹から電話。11月はあまり体調が良くなかった叔母さんはどうやら落ち着いたようで、しばらく経過観察でよく、心臓の手術の話はなくなったようだ。
ワンコは玄関ホールの布団でおしめを当てて寝ているようだが、こちらは飲まず食わず、それでも出すものは出すんだねと介護を続けているそうだ。
15/12/4
天王寺の最後のワンちゃんがとうとう老衰のようだ。最近はここの家も猫が2匹いるのだが、居るのが当たり前だった犬の話は、ずいぶんしばらくぶりの気がする。
15/11/8
埼玉の従弟夫婦が長女夫婦と彼らの赤ちゃんと一緒に登場。
赤ちゃんの写真は生まれてすぐにメールで来ていて見たのだが、あっという間に5カ月。首もしっかりとしてそろそろ身体の回転もする。親が大きいだけにこの子もかなり大柄、しかも顔が初めからしっかりとしている。向き合ってあやしているパパと頭の形が相似形。人見知りもせずにニコニコしていて、TANUKIおじさんに抱かれても平気。これはかなりのニュースで、この子のママをはじめたいていの子が泣くのだが…。そう言えばここの三女はかまってくれるお姉ちゃん達が多くてめったな事では驚かなくなっていたのか平気で、これもニュースになった。親子ともお寺の生活にすっかり馴染んでいるようだ。
親世代はそのまた親(叔父夫婦)と再同居したが、生活時間帯もずれるので2世帯暮らしになっているようだ。子供達は皆独立し、犬が家族を取り持っているようだ。それでも叔父は相変わらず仕事もし、ドライブを楽しんだりまだまだ健在のようだ。
15/10/7
母の退院の方をメールで届く親戚に送ったので、同じようにそろそろ介護のいとこ達からそれぞれの情報が入った。天王寺の叔母さんも介護度がつき、金光へ大祭のお参りが一緒にできるのも今年が最後かなぁ…と、やや寂しそう。十勝からは夏の間元気がなかった叔父さんが年相応の体調を取り戻してきたとの事。
15/10/6
和賀家の従弟の娘が一応プロとして音楽活動をやっている。この前までバンドを組んでいたのだが、解散をしてソロデビューしたそうだ。その弟も昔は将棋小僧だったのだが、いつの間にやら7日に歌手デビュー。
娘の方は「朝が壊れても愛している」でソロデビュー、息子のデビューアルバムは「舟はまた壊れる」、『奇しくも今回のアルバムタイトルは二人とも壊れるという字が入っています。二人とも壊れなければいいのですが。』と父親は心配していました。
15/8/26
午前10時半から亡くなった岡山の叔父(守雄英真心大人)の50日祭。(本当はまだ40日だが色々な都合もあり…)
祭主は亡くなった叔父の弟にあたる連島の叔父、助手?に連島の長男が付く。喪主に当たる亡くなった叔父の次男と手術退院明けの叔母も本家の2番目のお姉さんの付き添いでともに杖をつきながら登場。岡山の家にも泊めてもらったりして叔父夫婦にはお世話になっていたが、この従弟とは子供の時以来の再会だった。後は日比の叔母と従弟、日比の長男の嫁さんと連島の叔母さんと次男の嫁さんと子供達。全国に離れ離れでそれぞれに弱ってきたり介護があったりで、またなかなか集まれなくなって来た。
金光教といっても儀式といては仏教とそう変わるものではない。本人のこの世での人生を振り返り、御霊様としてお祭りをするという事になる。玉串も喪主2人は「危ないから立ちなさんな」とその場に台の方を移動。後は普通に玉串奉天。最後に連島の叔父が少し話をして終わった。
ごく内輪の会なので、お祭りの後はお寿司やお菓子を食べて一休み。腸閉そくの手術をしたばかりの叔母も良く食べたが「退院後初めて」と言っていた。本家のお姉さんもお姑さんの介護中だそうで、上手に相手をしてくれていた。1つ違い位のはずだがこちらとも50年ぶり位の邂逅。お互いに小学生の時は私が行った時に連島だったり金光だったりで遊んでもらっていたはずだが…。
また、日比の叔母に言わせると岡山の叔父の後は女の子ばかり3人続いてやっと末っ子に弟ができて岡山の叔父は大喜びをしたようだった。
その脇では日比の従弟と連島の従弟が健康法談義。日比は6つ年下だが、連島は私が学校を卒業する頃生まれたのではないかと思うのだが…。お互いに年を取ったものだ。
何故か喪主達が帰った後で、私が「お墓が見たい」と言った事で「それなら皆の居る機会に納骨をしよう」という事になり、連島の叔父夫婦と長男、日比の親子と私でお骨とともに車でちょっと離れた所にあるお墓へ。
急傾斜の途中まで車で入れるもののかなりの坂道。これは足の悪い人にはかなりのハードワークで納得。80代に入っている日比の叔母も歩きにくそうだったが、叔父も杖を持って来ていた。
周りをさっと片付けて榊を切って立て、簡単な祝詞の後、裏のカロートを開けて納骨。数年前に出来たばかりなので、まだまだきれいで余裕もある。
一連の行事を済ませて、今回は慌ただしく帰らなければならないのが残念だった。
15/8/16
岡山の叔父の50日祭があるので、出かける算段のためにルート検索をかけたのだが、最後のバスのルートが探せない。焦って従弟にメールを入れたら、あるはずだけどかなり本数が減っているはずだとの事。なんてラインだったかなぁ…、と心もとない。こちらも記憶は40年近く前のもの。
結局、大廻りをさせて朝、駅まで車で迎えに来てもらう事になりそうだ。
15/8/3
岡山の叔母さんが退院した。
15/8/1
岡山の従弟から電話。叔母さんの退院が決まったようで、「今日は病院の玄関まで杖をついて送ってくれた」とホッとした様子だった。
15/7/26
岡山の従弟から電話。叔母さんはようやく水を飲む事ができるようになったそうで、これで手術は無事成功という事だろう。早々に帰ってくる事を想定して、家を片付けて、料理ももう少し手際良くしなくちゃ…、と言っていた。
15/7/23
岡山の叔母は手術を嫌がっていたようだが、無事に手術を終わったようで、早速歩行リハビリが始まっているようだ。「疲れる」と言うのでそんなに動かして良いのかと従弟が心配をしてナースステーションに言いに行ったらしいが、「体のために早く動く方が良いのだ」と説明をされたらしい。
15/7/22
天王寺の叔母は退院後、外出ができる程度に元気を取り戻したようだ。「今日は一緒に知り合いのお見舞いに行ったけど、さすがに足が弱ってきた」と従妹から。
15/7/21
「今日は和賀家のお祖父さんのお命日だよね」と天王寺の従妹から。お祖父さんの妹の子ども(母達の従弟)が見えたそうで、お祖父さんの命日を「アポロが月に行った日だ」と記憶されていて話が出たそうだ。
このお祖父さんの亡くなった年の7月は十勝の従妹が生まれ、叔母はお葬式には来られなかった。さらに連島の叔母も臨月で大きなお腹をされていた。お葬式の日だったかその直後に従妹が生まれたはずだ。
私は高校1年生だったが、そろそろ危ないと言われて期末試験が終わってすぐ見舞いに行ったのだが、終業式、実習と予定が詰まっていたためお葬式には出ていない。自宅の部屋で皆に見守られて寝ている姿が最後の記憶で、私が東京に帰ってじきに亡くなった。
15/7/19
岡山の叔父は本日午後、火葬場で岡山の従弟と日比の叔母夫婦と長男とその末っ子・次男・連島の叔父夫婦・本家の長女夫妻・次女夫妻で見送ったそうだ。遺骨は連島で預かったそうだ。
昔々、岡山の叔父は本家の姉妹をずいぶん可愛がっていたのを思い出した。と言っても私より年上のお姉さん達で、何故知っているかというと古い『和賀家の通信』に話が出てくるからだが。
そう言えば連島の長女にも連絡を取ってもらおうと訃報をメールで回したのだが、何か思い出があるらしくブログ(内容は書いていなかったが)で叔父を偲んでいた。
15/7/18
「今朝3時過ぎに父が亡くなった」と今朝、岡山の従弟から電話があった。苦しむ事もなく穏やかに亡くなったそうだ。ところがその後で叔母が具合が悪くなってしまったようでまた入院という事になったらしい。
先日の電話で「葬式に人は呼ばずに母と2人で送りたい」と言っていたので、そのつもりならば押しかける事もあるまいと思って、実の兄弟に当たる叔父・叔母の所だけ若い衆に訃報をメールで知らせだけ出したのだが、いささか心配になってきた。
叔父の訃報を静岡教会(金光教)に知らせ(お届けではない…ルールが良く分からないのだが)に行った。ここの先生は叔父の先輩に当たるらしく、可愛がってもらったと言っていた。そして、近いから行ってごらんと勧めてくれたのも叔父だった。多分、叔父が来た時に案内をしていると思う。
お広前には若先生がいて「DORAさんお久しぶり」とあっさり名前まで覚えていてくれたことには驚いたが、20〜30年ぶりだった。若先生と言っても以前はいかにも書生さんらしい若さだったが、すっかりドッシリと落ち着いておられた。お会いできなかったが大先生ご夫妻もお元気だそうだ。母の事も心配して頂いて、少し話をしてきた。
教会の周りもすっかり変わってしまい、以前通っていた駅前のいかにも裏道の入口も分からずに大周りをしたが、公園までドロンと変わってしまっていて、見慣れた教会の玄関を見つけた時はホッとした。
岡山は叔父が亡くなって退院したところで叔母がまた体調を崩して入院。叔母は腸閉そくだそうで、しばらく入院という事になりそうだ。
そんなこんなで叔父は今日は葬儀屋さんで預かってもらって、明日には荼毘にふす算段となったようだ。一応死去の連絡は私からまわしたので連島の叔父と日比の従弟が駆け付けたようだが、明日火葬場で顔を見てもらう事にするとの事だった。
15/7/17
先日横浜の義姉から電話。義兄が亡くなって4年になるが、衣類などがなかなか片付かないとぼやいていたのだが…。たまたま同窓会で教会関係者(義姉の場合はキリスト教)の方がいて、色々と使いようはあるから引き取ると言ってくれたそうだ。
自分も父の分を片付けたし、友人の手伝いをした事もあるが、1番困るのが衣類だった。着てダメになったものは心おきなく捨てられるのだが、意外と手を通していないものも残っているし、あまり着ておらずに傷んでいない物・思い出に残っているものなど、捨てにくいものも多い。身内で形見分けができれば良いのだが、サイズが合わなかったりちょうど着てくれる年代の人が居なければそうもいかない。宗教団体やボランティア団体と繋がりがある人が支援品・バザー品などとして引き取ってくれると物にまだ使い道があったと心が落ち着くのだが、日本ではなかなかそういうシステムとのご縁が遠い。
15/7/13
岡山の叔父が送ったアルバムを見ながら、「F家のおじいさんには可愛がってもらったけどお祖母さんは怖かった」などと話していたそうだ。
15/7/11
岡山の叔母が無事に退院したと電話をもらった。「あんたのおかげで…」と言われたが、実は「医者に行った方が良いよ」と勧めただけ…。
15/7/10
朝っぱらから岡山の従弟から電話が来たので何事かと思った。
送ったアルバムを自分も見たらしく、野沢伊久太という人は写真の人かと聞いてきた。多分写真の人の父親ではないかと思うのだが、文久の遣欧使節団に加わっていたのが野沢伊久太という人だそうだ。ヨーロッパからエジプトの方まで旅をしてきたそうで、日誌も残っているらしい。ここの叔父が昔、幕末に海外まで行って英語を学んできた人がいるからと色々と調べていたのだが、アメリカへ向かった咸臨丸には乗っていなかったという所まで私は話を聞いていた。その後も色々と調べて家族に話をしていたらしい。
時間が出来たら聞いていた話をまとめて書き送ってよと頼んでおいたが、お互いに病人を抱えているので何時になる事やら。
写真は和賀家の祖母の父、野沢郁(かおる)。抱いている子供がだれかは不明。
15/7/9
岡山の叔母、天王寺の叔母とも今週中には退院できそうとそれぞれ連絡があった。
天王寺は病室でテレビを見てのんびりしているよとの事だったが、岡山は「おかんが帰って来るまでに飲んじゃったビールの缶を片付けなくちゃ…、飲み過ぎで叱られる」と。
岡山は叔父は心配な状況のようだが、叔母さんの体調が回復して外出許可を取り一緒に見舞いにも行ったそうだ。
15/7/8
昨夜、岡山の従弟から送ったアルバムが付いたと電話があって話している内に、天王寺の件を話してしまって、あちらこちらから電話を受ける事になってしまった。
天王寺の従妹としては叔母の症状も軽かったし次の『和賀家の通信』でさらりと伝われば良いと思っていたのだろうが…。
ついでの話のかき集めとして、岡山の叔母と同い年のはずの田原本の伯母はまだ元気で車の運転もしているそうだ。日比では「忙しくて…」と叔母の元気な声。近くの教会の先生の体調が良くなくて、そちらの仕事も廻って来るからと本当に慌ただしそうだった。
15/7/7
今度は天王寺の叔母が今月初めに脳梗塞で入院したそうだ。和賀家の兄弟姉妹はどうしてこう気が合うのやら…。
幸い軽度だったのでじきに退院できそうだとの事だ。
以前は犬だらけだった天王寺、ネコのミケちゃんの後、白猫のラッキーちゃんが加わったそう。まだミケにいじめられるのでケージの中に入っているようす。
15/7/5
母がだいぶ前にK家(和賀家のおばあさんの姉の家)の伯父さんが亡くなった時に遺族から「もう分からないから」と写真をたくさん頂いたのだが、それを使って和賀家のアルバム第2弾を作りかけていた。主にお祖母さん方のN家やそのお祖母さん方に当たるA家の古い写真などだ。今のように気軽にスナップ写真を撮る習慣はない頃だが、和賀家も含めて何故か何かの時には写真を撮って送り合う一族だったようで、古い写真が結構残っている。
幼い時に会っているはずだと思われる人の子ども時代の写真などを見ると、同じ20世紀の中の出来事なのだと思う。しかし、誰とどう繋がっているのかは母の書いた説明のメモを見ても良く分からない所もある。
とりあえず歴史好きな岡山の叔父に見舞いがわりに送ろうと1冊を完成させた。(関係各位 兄弟全部に送るつもりだったらしく気合を込めて9冊のアルバムに写真を貼ってあるのだが、それぞれが微妙に違っていて、説明が入っているのは本体の1冊だけ。しかも手書き。他をどうするかは未定なのであしからず…。)
15/7/4
岡山の従弟から電話。あの後、叔母さんも倒れて救急搬送されたそうだが、こちらはどうやら落ち着いて来週にも退院の相談が出来そうだとの事だ。叔父さんの方はホスピスに移って食欲が出て来たようで「差し入れは良く食べる」そうだ。
15/6/15
岡山の従弟から電話。『和賀家の通信』で叔父さんの具合が悪いと流したので、日比や連島・天王寺などが見舞いに行ったようだ。しばらくぶりに顔を合わせたようで、親父もお袋も喜んでいたと喜んでくれた。日比は次男坊が運転手だし、天王寺は娘達も一緒だったそうで従弟自身も懐かしかったようだ。
ホスピスを斡旋されているようで、それで少し落ち着ければ良いのだがと思う。
15/6/14
瑞穂改め埼玉の従弟夫婦がばあちゃんの見舞いに来てくれた。
ちょいと顔を見てもらう以外ないのでその前に自宅で一緒にお昼。
ようやく引っ越しの片付けが一段落したようだが、「通勤に遠すぎる」と末っ子もアパートを借りて独り立ちしたようだ。せっかくまた孫と一緒に住めると楽しみにしていたおじいちゃん・おばあちゃんはその分の愛をワンちゃんへ。とっても可愛がるのでワンもすっかり甘えているようだ。
そして彼らの初孫。とても大きかったうえに顔つきもしっかりしている。「面白いほど先方のお父さん似」と写真を見せてくれた。そちらにとってもかなり高齢になっての初孫で大フィーバーのようだ。退院後は自宅のアパートで子育てを始めたようだが、周りの知り合いが入れ替わり立ち替わりで様子を見に来てくれているようで、「大丈夫でしょう」と安心しているようだった。
次女はもう1年ニューヨーク住まいを決めたそうだ。奨学金で学費は賄えるが小遣い分位はアルバイトで稼いでいるようだ。それでも生活費が掛るだろうが「大学にやっていると思えばね」と気長に見ているようだ。
15/6/13
函南の叔母さんの3回忌。昨年は渋滞で間に合わなかった埼玉の叔父さんも早くに見えていた。こちらは逆に伊豆縦貫道が長く伸びて便利になった分、函南台場ICを出てから「どっちかな?」とグルグル回るはめになった。
お経の後、若いお坊さんは今年も卒塔婆の文字の解説などをしてくれたが、『南無阿弥陀仏』はインドの古い言葉をそのまま音として持ってきたもので、光に包まれてというような意味になるらしい。
お墓参りをして精進落とし、叔母の子ども達3家族に従妹の結婚した娘夫婦、叔父と我々だけのごく内輪の集まりだったが、和やかな時を過ごした。
15/6/11
岡山の従弟から電話。どうやら叔父さんも入院されたようだ。ガンが広く見つかったようで、やはりお年なのでこのまま看取っていく事になりそうな話だった。
15/6/6
昨年後半に和賀家の謎の親戚・芦谷蘆村の話が出たが、母の部屋を片付けているうちに、ようやく母が作りかけていた『第2和賀家のアルバム』が出てきた。
それによると『昭和15・16年頃、童話作家(芦谷蘆村)として月1度くらい大阪放送局から童話を放送しておられ、常宿は私達の家でした。兄弟妹皆で叔父さんを囲んでお話をしてもらいました。お土産は叔父さんの書いた話の本。小学1年生から6年生まで全部、大阪心斎橋筋の1番大きな本屋さんに並んでいました。』とメモがありました。本名は重常さんだそうです。
いつ頃のものか分かりませんが写真も出てきました。
15/6/3
朝、岡山の叔母から「どうしている?」と電話。実は母の入院は母方は母の姉妹の家にしか連絡を入れていないので、誰かから情報がまわったかと思ったが、そうではなく叔父の具合があまり良くないという事だった。
もう80を超えているので足が弱くなっているのだが、とうとうこの1週間ほど寝たきりになっているらしい。「医者は?」と聞いたら近いらしいのだが行っていないようで、「救急車でもタクシーでも、とにかく診てもらいに行ったら」と勧めた。叔母の方も「足が痛い」などと言っているし、「ヘルパーさんに手伝いをお願いしたり、色々と相談もできるから」と介護保険の申請も強く勧めてみた。遠いので今様子を見に行くわけにもいかず、何とも心配だ。
15/5/26
瑞穂の従妹家族が叔父も一緒に母の見舞いに来てくれた。叔母も来てくれると言っていたのだが、引っ越し疲れで腰に来てしまったらしい。
引っ越した先は丘の上に開発された住宅街で、車がないと不便らしい。買った建物は築7年できれいだけどオール電化でシステムに合わせて鍋などを買い替えなければならないしとなかなか大変そうだ。
午後から皆で母の見舞いに病院へ行ってくれたが、従妹の末っ子(もう大きくなったが)の顔を見てニッコリ笑った。気まぐれではあったが子ども好きな母なので、「大きくなったでしょう」と言われるとそんな反応になるらしい。
15/5/18
「大祭も終わって一段落だけど、忙しくて、疲れて…」と日々の叔母から電話。それでも声は元気そうだった。
岡山の叔父が脳梗塞後、さすがに車の運転は止めて、外に出かけるのが好きな叔母が残念がっているなどと話してくれた。
15/5/17
横浜の義姉と十勝の叔母から電話。新茶を送りがてら母の調子がかなり悪くなってきたと伝えたので、気遣ってくれた。
義姉の所は「1番調子が悪いのが私」と言いながらも声は元気そうだった。
十勝は叔父が要介護2になり、叔母は付きっきりのようだが、自宅で高齢者のサロンをして食事会などをしているそうだ。
15/5/16
瑞穂の従弟から明日引越すと電話。出物の中古住宅が見つかったらしい。現在別々のアパートに分かれて住んでいた叔父達ともまた一緒に住むとの事で、まずは良かった。
15/5/5
瑞穂の従妹の長女の所に3月6日、次男が誕生した。
昨日お宮参りの写真がまわってきた。夏の普段着のリラックスした姿を見慣れているせいか、きちんと取ってもらった写真で見ると2人とも立派なパパとママ、お兄ちゃんもずいぶんしっかりしてきている。これからもスクスクと元気に大きくなって欲しい。
今朝、子どもの日という事でおじいちゃん・おばあちゃんと孫との最近の付き合い方のような特集をテレビでやっていたが、このジジ&ババよりいつの間にかこちらの方が年上になりつつある。親と違う大人との多様なかかわりが子どもの心の育ちには大切という事で、これからも外野から時々ちょっかいを出して見守っていきたいと思っている。