我が家&和賀家 18年
19/3/31
昨日、マーミ宅でTANUKIも手伝ってお節句の餅つき。
山ほどの分け前を頂いたので本日は荷物を作って各地へ宅配。送り先は義姉とTOPPOさん以外はその時々。今回はたまたま去年女の子が生まれた所が2軒あったのでそこへ。
私の古いお雛様にも菱餅が上がった。
19/3/19
お彼岸で八王子の墓参り。お墓で埼玉の叔父夫妻と待ち合わせ。風もなく暖かな日で助かった。
今年は祖父の50年・祖母の33年になるので、お年忌の打ち合わせ。とはいえ「俺がやるから」と叔父が言ってくれれば、「いや、私が…」とは言えない。ともかく秋に叔父の孫婿の坊さんが修行から帰って来るのを待って行う事になった。彼の実家のお寺は継ぐ人がいるので、修行が終わったらどこかのお寺を預かる事になるらしいのだが、「実家に気楽に帰れる距離じゃなきゃいやだ」と孫娘は頑張っているようだ。
叔父の娘一家の方は長男家族がアパートから家に戻ったようだ。
叔父も叔母も見た目は元気そう、「薬は色々飲んでいるんだ」と言っているが、叔母も「今年でついに80の大台よ」という年なのだから。
19/3/10
保福島の叔父さんの1周忌と、この家のおばあさんの33回忌。こういう場で会うのがいとこ達になってきた。
10時過ぎから自宅でお経、その後、近所にあるお墓まで徒歩でお参り。さらに本堂でお経があって奥の位牌の間にもお参り。その後、迎えのバスで祓いの会場へ。焼津の反対側へ向かう。
旬楽という和食屋さん、丁度お昼時でお客さんが大勢入っていたが、お座敷は静か。最近は皆車なので、昼からアルコールは少数派だが、ほとんどがノンアルコールビールで献杯の後は、ゆっくりとお食事。
M家の親族のもうじき1歳になる赤ちゃんが来ていたが、こういう場に子供が居るというのが、その家の次の世代へのつながりになって良いものだなと思う。
19/3/9
ハワイに住んでいる天王寺の長女から電話。母親の1年祭にはパスポートの関係で間に合わなかったそうだが、1年祭のお参りに月初めから帰国していたそうだ。「お姉ちゃんネコ好きでしょ」と猫グッズを送ってくれたそうだ。
夜届いたそれは、かなり大きなブックエンドと可愛い置物。使うというより飾るからね、ありがとう。
19/2/27
午後から天王寺の叔母の1年祭という事で2人で出かけた。お葬式は急だったし、50日祭は少しのんびりしたくて1人で行ったので、TANUKIにとっては叔母のお祭は初めて。TANUKI共々天王寺には何度もお邪魔をしているのでぜひとも今回は一緒に行きたかった。
ネコに留守番を頼んで8時頃家をスタート。行きの新幹線はひかりの座席指定を取ったので、かなり余裕を持って焼津から静岡へ。新大阪へは11時到着。そこでお昼を食べてしまおうかと思ったのだが、あまり気をそそるものもなく、天王寺まで。それでもまだ12時前。駅ビルの食堂街でお薦めのマグロと真鯛のおひつ膳。食後にボチボチ歩いても1時前には天王寺の家に着いた。
蒲田の従妹と大津の従妹がお食事中。ミケはますます丸々としてドッカリといたので焼津みやげのチュル食べさせる。ラッキーは賑やか過ぎて消えているようだった。家の主母子はお祭の準備であわただしい。その内に本家のお兄さんと連島の叔父、田原本夫婦なども集まってきた。日比は次男の車が修理中で来れないと言っていたのだが、長男の会議予定がキャンセルとなり、長男の長男と叔母さん・次男がお祭が始まってから登場した。天王寺の若い衆は平日で仕事が休めず、長女はハワイからなので飛行機の都合で今日は着けないとの事。
天王寺のお祭りの雅楽は生演奏、それとともに登場する祭主の先生がいつもと違うなと思ったら、大阪教会長の先生が疲れから検査入院をされたという事で、息子さんがされていた。最後のお話で「亡くなられたからと言って空の上の方から見守っているのではなくて、いつも側に居るんですよ」と話されていたのが印象的だった。天王寺の娘は学院卒業後は大阪教会に通って修行を続けているようだが「最近お祖母ちゃんとしてではなく教会の先生として意識できるようになったと言っていましたよ」というような話もされた。最後の挨拶で従妹が「母が亡くなる直前に病院でなかなか帰りがたくて、ずっと足をさすっていたのだけど、さあ帰ろうかという所でものすごく胸が温かく幸せな気持ちに浸って、それからはっと気が付いて帰って来ました」と話していた。
お直会までちょっと時間があって親族でおしゃべり。大津は「今年は受験生がいるし」と早々に帰って行った。日比の長男家の長男は無事に推薦で大学が決まって春からは1人暮らしになるようだ。急に来たのでそのまま帰るという日比の一家を見送っている内に、タイムオーバーで他のお客さん達を待たせてしまった。
今回は寄せ鍋。お客さんに気の使いようもなく、のんびり鍋に取りついてたらふく頂いていた。
鎌田の従妹も含めて居残り組が帰った頃には天王寺の若い衆も帰宅。彼のご飯タイムに合わせて我々もおやつタイム。そのまま結局夜中まで、それぞれの飼いネコの写真を見せ合ったり、日比の叔父さんのユニークな楽しさをつまみにしたり、バカ話で盛り上がった。
19/2/20
もうじき天王寺の叔母の1年祭が来る。
覚えている叔母との1番初めの思い出は母と叔母の東京の職場を訪ねた時だったか…。ただ、お針子さんをしていたはずだが、そちらに関しての記憶はない。両国の方で、大きな橋を渡る時、おかっぱの大柄なお兄さん達(お相撲さんのタマゴ)が大勢行きかっていたのを妙に鮮明に覚えている。その前だったか後だったか、叔母が「(ディック)ミネさんの所にご挨拶に行く」というのに母達と付いて行った。田園調布の大きなお宅(写真は残っている)でもちろん家に入り人にも会ったはずだが記憶はない。最後にせっかくだからと一緒に写真を撮ってもらった。シェパードだったか大きな犬が心得顔で写真を撮りましょうという所に1番乗りでお座りをしたのはよく覚えているのだが…。フランス窓の所にその時家に居た方達みんなで入って下さった写真が残っているのだが、我々の中で叔母だけが違和感なく収まっているのを少し大きくなってから発見した。
次に覚えているのは叔母が結婚して天王寺に住まってから、まだ古い教会の時の外水道のペタペタ張り付いていたヤモリ。
まだ何度かはお邪魔しているはずだが、次は20歳の時、岡山へ用事で行く途中に1泊させてもらった時に、珍しく叔父も時間があって、みんなで結構良いレストランに連れて行ってもらったこと。「えっ、子供連れてきて良いの」というような店だったが、子供達(末っ子はまだ赤ちゃんだったが)に叔父が「こういうお店でも気後れなく行儀よく食べる事ができるような大人になってほしいから」と子供達に言っていたのが印象的だった。
私が結婚する時には叔母が来てくれて、当時まだ残っていたご近所へのお嫁さん披露に付き添ってくれて、ご近所への挨拶をいちいちしてくれた。
結婚後、何度かのドライブ旅行で親戚のほとんどを回ったが、天王寺にはその時だけでなく何度かお世話になった。日比の従妹や十勝の従妹も大阪には居た時で「あんたが来ると皆が寄って来てにぎやかで良いわ」といつも歓迎してくれた。
19/1/17
十勝の従弟の所は本日無事に孫が生まれたそうだ。女の子、健やかな成長を祈りたい。
19/1/3
藤守の父さんがお年始で来た。
暮れにお祖母さんがコケてあばら骨を折ったそうで、静かにしていれば良いのだけど、何かと動こうとするのでと心配をしていた。かなりのお年で認知症のけも出ているし透析もしているので、うっかり入院しても今度は動けなくなりそうだしとのことだった。
それでも昨日は子供達も来て賑やかにしていたようだ。
19/1/2
例年通り、O家・Y家の親戚をラジオの箱根駅伝を聞きながら年始回り。
まずは、保福島へ。昨年叔父が亡くなって喪中なのでお線香をあげさせてもらってしばしおしゃべり。一緒に住んでいる次男夫婦とも挨拶だけした。他の子供達は明日集まるらしい。続いてジュンちゃんの実家へ。ちょっと世間話をして失礼してきた。次は築地。叔父さん叔母さんはもう亡くなられているが、お正月とお盆には姉弟全員集まるそうだ。長男の奥さんと話している内に長女夫妻が到着。さらに次女とその息子と孫達もやって来るのと入れ違いに失礼してきた。ここから高柳。相変わらず長男は川根で温泉か汽車見物か…。いつの間にか玄関にネコの通り道ができていた。ここから小土。こちらは相変わらず従兄弟が留守居役をしていた。あと1年町内会長だそうだ。ここから港へ。保福島の叔母が心配をしていたが、叔母さんご本人が呼び鈴にこたえて出てきた。ちょっと元気がないようだが、ディサービスに通うようになったそうだ。ここから当目へ。叔母さんは施設入所して今年は叔父さん1人。娘さんが施設と家と様子を見に通っているようだ。ここから大へ。叔母さんは相変わらずお元気そう。娘と孫が来てちょうどお昼時だったようだ。最後は本家マーミ宅。ミニ門松を立てて玄関がお正月らしくなっていた。
夜、藤守の次男夫婦が、お父さんの葬儀後の挨拶に来た。
まだ新婚さんだが、次男坊、またまた丸くなっていた。「飯が美味いから」と言いつつ、100kgの大台間近だそうだ。仕事で防弾チョッキを着たら、縦横同じになりそうだが…。嫁さんが大相撲の静岡巡業を見に行ったと言うので「遜色なかったのでは…」と言ったら「やっぱり本職は違う、でかい」と言っていた。
18/12/30
例年通り本家で餅つき。藤守は長男坊が来るかと思ったら大掃除でぎっくり腰をしてしまったらしく、父さんが来た。
口達者な3兄弟が集まったので、口先はにぎやかだが、肩が、腰がとみんなそれぞれ情けない。近所の小学生が3人ばかり助っ人に来てくれて、例年通り子供達も一緒におさんこち作り。
富士山女子駅伝で昨年は農大が調子が良かったので、今年はテレビを見せてもらいながらの作業。しかし、私が見ていない方がどうも農大は調子が出るらしい。それでも後半頑張って6位に入った。
18/12/26
藤守の次男坊の連れ合いのお父さんが亡くなられて、今日がお通夜だった。
連絡はもらったものの最近はあまり縁の薄い者がお悔やみに行くのもどうなのかという事もあるので香典だけことづけた。お通夜に出向いたマーミが香典返しを届けてくれたが、『ご挨拶』を読むとしばらくご病気を抱えておられたようで、この2月の結婚式の写真を見直してみると、ずいぶんとほっそりされている。子煩悩な方だったようなのでお嬢さんの結婚を見届けられて良かったのではないだろうか。
18/12/7
函南の従兄から電話。
先日来た時に畑を借りて農具小屋を手作りしていたようだが、頼まれて現役復帰とか。金型加工か何かの仕事をしていたはずだが、忙しいので1年ほど来てくれないかと頼まれて、「大忙しになっちゃった」らしい。元気ならば忙しいのは何より。
18/12/5
横浜の義姉から電話。声は元気そうだが「杖が手放せなくて、私より年上そうな人にまで電車やバスで席を譲られる」と言っていた。今日は次女がお休みで夕飯を作ってくれているとの事で、のんびりしていた。
長女は先日、個展をやったそうで、彼女なりにやりたい事を進めているようだった。
話が藤守に飛んで下2人が結婚した話になったら、「長男はどうしている?大昔、縁側で抱っこしている写真が残っているよ」と懐かしそうだった。
18/11/9
函南の従兄と裾野の従妹が母の3年忌のお参りに来てくれた。
R1を通ってきたらしいのだが、どうやら1度焼津で降りてからまたR1に入ってしまったらしく島田の方までドライブしてしまったと言っていた。
一緒にお昼を食べながらしばしおしゃべり。従兄も従妹の旦那も無事に現役は退職、のんびりムードの生活に入ったようだ。従兄は畑仕事を始めたようで、よく日に焼けていた。従妹の所もほどほどに野菜を作っているので今回はTANUKIも加えて夏の野菜作りの話で盛り上がった。
裾野の娘はおめでた中で、先日、三島大社に岩田帯を頂きに行ったそうで、3月末が予定日との事、ちょっとお母さんのお腹でゆっくりしてくれれば4月生まれで学校が楽になるのだが、果たしてどうなるか。お姑さんもだいぶお年を召して耳が遠くなり、補聴器を作ってもすぐ無くしてしまって…との事だったが曽孫ちゃんに会えるの楽しみにされているだろう。
18/11/6
埼玉の叔父から電話。秋田からは無事に戻ってきたようだ。仕事で忙しかったせいかかえって生き生きとした声をしていた。
来年がT家の祖父の50年忌・祖母の33年忌に当たるので法事をどうしようかと相談をかけていたのだが、祖父の命日頃に墓前祭でやろうかという話になった。ただ、頼りの孫の婿殿が京都で修行に入っているとの事で、お坊さんがどうなるかはまだ未定。
十勝の従弟からは、もうじき長女に子供が生まれて「おじいちゃんになる」との報告。少子化ってどこの国の話…。
18/11/2
十勝と日比の叔母から電話。どちらも大祭の準備で忙しそうだ。十勝は来年布教100周年だそうだ。
函南の従兄からも電話。畑を借りてそこに作業用の物置を立てるので忙しいと言っていた。
親戚にも何の気なしに連絡を取る事もあまりないので、たまにあちこちから色々な話が聞けるのも楽しい。
18/10/31
昨日送った偲び草がもう着いたと埼玉と田原本から電話が来た。
埼玉の叔父は同じような菓子を作っている親せきの助っ人で秋田まで車で行ったらしい。行った先で車がなければ不便だろうが、借りる事もできると思うのだが…。「自分の車の方が使いやすいんでしょ」という叔母もそろそろ雪の季節になるのにと心配をしていた。
そういえばT家関係の何方かが亡くなって、9月にお葬式だったそうだ。目の悪い奥さんの方が残ってしまったとの事だった。
田原本は従妹が風邪引きらしく、すごい声で電話をくれたが、忙しそうだった。
18/10/30
11月初めに母の3回忌が来る。人を集めての法事は親族が遠いのでやらないが、お茶に追分羊羹を付けてちょっとした偲び草を送る事にした。
遅れては間抜けるので、今月半ばから準備をして昨日荷造り、本日郵便局から発送した。
O家の弟達にも色々と世話になったので、これは近いので持って行った。実は近いわりにしょっちゅう行き来しているわけでもない。
マーミの所はお彼岸以来、それなりに2人でやっていっているようで少しほっとした。
藤守は末っ子が入籍をすることになったらしいが結婚式は仕事の都合などを考えて先延ばしのようなことを言っていた。
18/10/27
早くも喪中はがきが舞い込む季節になった。
従弟の娘の嫁ぎ先のお寺のご住職(婿殿のお父様)が先月亡くなられたようだ。
彼らの結婚式の時から体調を悪くされているようだったが、「うちのが結構介護をしているようよ」とママが言っていた。ご住職も体格の良い方だったが、こだわらずに下の世話までしていたらしい。孫の顔も見せたし、親孝行ができたのではないだろうか。
18/9/16
昼前にマーミ&ジュンちゃんが来た。夏前から色々あった2人、どうやら落ち着きどころを見つけたようだ。
18/9/12
『和賀家の通信』をまとめていて、連島の叔父夫妻が金婚式に当たることを発見。今月は台風だ地震だで文字数がオーバーしてしまったため書けなかったが…。
こちらが高齢者となったのだから驚くこともないのだが、母の末弟夫妻が金婚式とは!正直驚いた。
18/9/6
明け方に北海道胆振地方で震度7の地震。今度は千歳空港が使えなくなった。停電が全道に広がって電車もほぼ北海道中で止まってしまったらしい。
十勝はだいぶ離れているので大きな影響はないだろうが、それでも震度4、停電中だそうだ。
「来週、出張で千歳から関空に飛ぶ予定だがどうなる事やら…」と心配していた。
札幌市も所によって液状化など大きな被害が出たようだが、はとこの所は揺れにビックリして飛び起きたけど、建物も室内も無事でホッとした模様、こちらは夕方に電気は点いたものの、それまで電気がダメ、スマホも通じないで大変だったようだ。買い物をしようにも物はなくなり、大行列で「真冬でなくて良かった」というのには実感がこもっていた。
18/9/5
台風21号はものすごい風台風だった。通り道の大阪ではずいぶん色々なものが吹っ飛んだようで、「1日中緊急車両のサイレンが聞こえていた」と天王寺の従妹。「子供達の通った学校の屋根が飛んだらしい」とも言っていた。大津の従妹は「30分くらい停電した」と言っていた。
元気なのは大阪の従妹。「普通に出勤してお店ちゃんと開いたし、お客さんも来た」との事。深夜の電車での帰宅だったらしい。街路樹がひっくり返ったり看板が落ちたりしている中の帰宅だったようだ。
しかし関西国際空港は高潮で滑走路が水浸し、連絡道路にタンカーが衝突して使えなくなったり大騒動だった。
18/8/13
朝、起き抜けでマーミ宅。ジュンちゃんが来ていたのでホッとしたが、またまた何やら勃発の模様。早々にお坊さんが見えて棚経。
1度戻って朝食後の午前中にTANUKIが初盆見舞いに回る。お昼前には藤守が夫婦でお線香をあげに来てくれた。
夕方は港の叔母さんを誘って保福島へ初盆見舞い。話している内に雷、その内に土砂降りになった中を築地が初盆見舞いに登場。彼ら兄弟は毎年新年とお盆に実家に集まって兄弟会をしているようで、長男が代表してお参りに見えた。少し小降りになったところで失礼してきた。
18/8/6
父の使っていた座り机の引き出しを整理していたら祖母の形見らしい大昔の三味線か長唄、もしかしたら踊りのプログラム(番付)が出てきた。祖母が亡くなった後でチラリと見てきれいだなと思ったのだが、それ以来どこにあるのか分からなかった。
明治30年代、たぶん祖母が娘の頃のお稽古のおさらい会か何かのものだと思う。
父方は関東大震災にも東京大空襲にも遭っているので、良く残っていたなぁと思う。
18/8/5
十勝の叔母から電話。「もう涼しいのよ」との事。本日の最高気温は22℃位らしい。羨ましい…。
若い衆は夏のキャンプで今日帰って来るらしい。若い時からかかわっているとはいえ60名からを率いていくのは大変だろうと思う。
18/7/29
昨日、瑞穂の従妹の所にまた孫が誕生した。今度は長男の所の第1子(女の子)。
この長男君、叔父の所の孫の1番下で、しかも唯一の男の子。ゴチャッと皆で育ったから子供の扱いも上手で、彼にとっての甥っ子の面倒もよく見ていたが、私にとってはどうしても、ついこの間まで母親や彼の姉達の膝にチョコンと座っていた印象の方が強い。他所の子の成長は早いが、こちらも年を取るはずだ。
18/7/17
この季節、お付き合いの関係で親戚情報が色々入ってくる。
今年のテーマは白内障。私が「手術したよ」と言ったので「私もやった、2度も入院したよ」は横浜の義姉。他にも目の病気などで何度か短期入院をしたらしい。
一方、函南の従兄は「俺も白内障の疑いがあるんだって…」との事。ドライアイもあるらしくて、体質もどこか似るのかもしれない。
18/7/8
日比の従弟から音楽をやっている子供達のセカンドアルバムが出ると知らせてきた。
喜咲は長年この世界に居るので3年ぶりの新作『あなたはやさしかった』をクラウドファンディンで作ったそうだ。
諒之介の『もうさよならは言わない』も3年ぶりのリリース。
2人ともこの世界で頑張っているようだ。
18/7/7
ここ数日台風と帯状降水帯とかいうもののせいで沖縄・九州北部・西日本・岐阜・長野などが大雨に見舞われている。
北九州市は以前にも水害の時に従妹の所は「家は安全な所だから」と言っていたのであまり心配はなかったが、倉敷市で水害と聞いてたまげた。町村合併で倉敷市も広くなっているが、親戚がある所よりは大分北に位置するあたりで被害が出ているらしい。広島の方でも土砂崩れなど大きな被害が出ているようで、日比の従弟が「大分道路が寸断しているようだ」と言っていたので交通や物流はしばらく大変かもしれない。
親族はとりあえず無事でホッとしたが、多くの方が亡くなったり行方不明になっていたりけが人や建物や生活のためのインフラの被害は計り知れない。被害に遭われた方々にお見舞いの気持ちを伝えるくらいしかできる事は無いが、最近の自然災害の多さには不安を感じる。
18/6/20
一昨日、大阪北部で震度6弱の地震。
和賀家系の親戚がいくつかあるので心配だったが、みんな無事でホッとした。それでも「揺れたよ〜」との事。
田原本はお年忌が交通機関が止まって親族の方が集まれずに延期、大阪の従妹は「1時間半かけて歩いて通勤したけど、渋滞していた車より早かったかも…」だそう。
18/6/19
TANUKIがたっぷり収穫したキュウリのお裾分けを大の叔母さんの所へ持って行ったら帯状疱疹で具合が悪いとの事。
18/5/12
保福島の叔父さんの49日法事。
珍しく私が運転手で午後から港の叔母さんやマーミを車で拾って保福島へ。
お坊さんを迎えてまずお経とお焼香。しばらくぶりでお経の本が配られて皆であげた。それから遺骨や蘇東坡をもってお寺まで歩く。お天気も良いし大した距離でもないが、最近では珍しいかもしれない。
お坊さんのお話しで、「お線香が仏様やご先祖さんのご飯なのだから」というのがあり、「何か良いことがあった時や命日などにはちょっと良いお線香をあげるとか、高炉はお茶碗のようなものだから、たまにはきれいにして、ちゃんとお線香が立つように」などとユーモアを交えたお話があった。
石屋さんも見えていてまず納骨。お経の中みんなでお線香をあげる。その後、本堂に上がってもう1度お経の中でお焼香。さらに奥の檀家さんのお位牌を祭ってあるところでお参り。
その後、迎えに来てくれた料理屋さんのバスで祓いの席へ。昔の農道のような道を行ったのでどこを通っているのやらだったが、昔からのお店らしかった。
たまたまはだかっこの会でご一緒している方が叔父さん方の親戚で、おしゃべりをしながら少し早めのお夕飯感覚で美味しく頂いた。
18/4/18
起きたら7時、みんな疲れていたらしく「寝過ごした」とバタバタ。長男坊だけはそんな女性陣とは別に昨夜の残り物を食べてキッチリと出勤したようだった。
朝食後、従妹と娘さんは次なる行事・大祭の準備。プロの教会の先生第1歩を踏み出した娘のためにお供え物の発注などを指示しながらさせている。
「まだ山ほど持ち帰った洗濯物がある」と娘さんは洗濯機を回し続けているがその干し物は事のついでにしておいてやる。周りから見通しが良すぎるのも考え物という事で物干しの屋根と周りの囲いがお天気が良いと残念なのだが、天気が良ければ結構早く乾く。
お昼は昨夜の残りのすき焼きを卵とじにしてご飯に乗せた丼。あまりやらないのか作ってくれた娘さんがすっかり気に入って3杯もお代わりをしていた。
午後は信者さんも見えてご祈念。帰る日なのでお付き合いをして神様にご挨拶。その後で叔母さんの遺骨を教会内の霊廟に収めるのまで付き合った。通路はプクちゃんのテリトリーなので大喜びでまとわりつかれた。
2時頃に教会を出発。「送って行くよ」と従妹が新大阪まで付き合ってくれた。実は帰りは誰かの後を付いてばかりなのでなかなか道を覚えられない。従妹は「プチ旅行気分」と夕飯代わりの駅弁を買ってホームに上がるまで付き合ってくれた。
たまたまホームに停まっていたひかりにそれこそ飛び乗ったのだが、これが静岡は停まってくれない。仕方なく豊橋で乗り換え。けれども全行程座れたのだから文句はない。せっかく静岡までの切符を買ったので掛川で降りずに通過する自宅を見て静岡から引き返してきた。
家に着いたら6時過ぎ。猫たちはお夕飯を食べ終え、TANUKIがせっせと餃子を作っていた。
18/4/17
私の起床は6時半。洗面所で通勤前の長男坊とバッティング。
従妹は早朝に祭主をして頂いた教会へお礼参りに行くと言っていたが、結局起きられなかったようだ。
日比の叔母さんと従弟は娘さん作のサンドイッチと南瓜とコーンのポタージュを食べて帰宅。従妹は遅まきのお礼参りへ。その間、娘さんは戻ってきた荷物の洗濯物をしながらスマホで見つけたレシピでアップルパイ作り。冷蔵庫のリンゴの山を消費しようと努めていた。結局洗濯物は私が干すことになったが、本日はまずまずのお天気でよく乾いた。洗濯機を3回は回したのだが…。
午後は暇を見つけてボソボソになっていたミケのブラッシング。撫でるだけでもブワッと毛が飛ぶが、櫛でといてやったら背中だけピカピカになってきた。さすがに警戒してお腹側まではやらせてくれないので、立ち上がると脇はボソボソ…。時々窓からプクちゃんがのぞきに来た。ラッキーもやりたかったが寄っては来ても警戒していた。
夕方娘さんの友達がやって来て彼女達は2で外出。その前に「焼き加減見て」とアップルパイをオーブンに入れていったが、焦がして失敗させるわけにはいかず、恐々時間を足しながら様子見。ともかく美味しそうに焼き上がった。
お夕飯は昨夜から「肉!」と言っていた従妹がステーキとすき焼きをダブルで出してきた。娘さんとその友達、長男坊も居るのだがさすがに食べ過ぎ気味となった。でも、アップルパイは一かけ食べた。
シャイなラッキーは娘さんの友達からおみやげのチュルをもらって狂喜。お友達も明日は仕事という事で遅くはならずに解散。
皆、朝は早いので11時過ぎには夢の中。従妹は時間のある時や寝る前など日に何度もストレッチやヨガ体操などをスマホを見ながらして柔軟性や体力をつけているようだ。
18/4/16
6時半に起きたが、さすがに皆もう起きだしている。
母子でお祭りの準備をしている間に台所の洗い物と洗濯、猫の守り。「人の出入りが激しいと猫がお広前の方に抜け出てしまうので、出さないように気を付けて」との事だが、怖がりなラッキーとほとんど動かないミケなのであまり心配はない。「ラッキーが消えた」と言ってもどこかに潜り込んでいる事が多い。
昼は残り物で私がサバチャーハンと野菜スープを作った。娘さんには量が思い切り足らなかったようだが「夕飯はお直会で早くなるから」とお母さんに言われて我慢…。
1時を過ぎて日比の叔母と従弟、連島の叔母と長男一家、さらに本家のお兄さんと連島の長女、連島の叔父が相次いで登場。最後にドタバタと近くに住む十勝の従妹が登場。「これから仕事」と普段着で来たが叔母に「それで出るの?」と言われて「5分で帰れるから」と着替えに戻った。
叔母の50日祭は2時から大阪教会の先生の祭主で始まった。ここの信者さんや関係の教会の先生方もみえていた。お祭だけで仕事のある十勝の従妹や遅くなれない大津の従妹は帰ったが、お祭の後はお直会。道をぐるりと回った普茶料理のお店。窓から見たら目の前が教会。見た目もきれいで分量もあったが「肉がないと力が出ない」と主催の従妹。何人か帰られたようで蔭膳の分も含めて残りがあったのは若手の連島の従弟夫婦や娘さんがかたずけたらしい。(彼女は「何人分食べたかな…」と後で言いつつまだ余裕)4時半から始まったので7時頃には終了。
連島組と本家のお兄さんはすぐ帰られたが、日比は1泊。夜のご祈念タイム。修行から帰ってきた娘さんのデビューだったが、昼間お祭だったので身内ばかりだったのがちょっと残念。
長男君も帰ってきて彼の夕食中に他の皆はおやつタイム。日比の従弟は飲んでいたが…。この家の従妹はよほど疲れていたらしく、ロールケーキを端から切ってかなりの量食べていた。こんな時は最後には業界の話になるのだが、高齢の叔母も遅くまで付き合っていた。それでも12時頃には眠りについた。
18/4/15
明日の天王寺の叔母の50日祭の為に昼から天王寺へ。
朝は土砂降りだったのだが出かける頃には傘は必要なかった。しかし、東海道線の遅れは解消できておらず、ひかりの座席指定を取ろうとしたのだが、「間に合うかギリギリだから静岡駅で乗れれば取ったら」と駅員さんに言われてホームへ。静岡方面行、1本運休、その後も少し遅れてだいぶ焼津駅で待つことになったが、何とかひかりの発車時間には間に合った。座席指定の切符を取る間はなく、自由席に飛び込んだが、1人なのでなんとか座る事ができた。このところ3度目という事で4時頃には迷わず教会に到着。
「風邪ひいちゃって」という従妹もだいぶ元気にはなってきたらしい。ミケは丸々と元気、犬のプクちゃんも窓から顔を出して歓迎して?くれた。ラッキーも後から登場。ちょっとまだおっかなびっくりかもしれないが…。
本日、金光教学院卒業のこの家の娘さんも夕方帰宅。なんと、コケて足の甲の亀裂骨折をしたとかで松葉杖をついてきた。しかし、すこぶる元気そう。迎えに行っていた弟君の方は用事があるとかでそのまま出かけたらしく見かけなかった。
夕飯の後、「疲れた」という娘さんに合わせて早々にふろに入り、9時過ぎにはダウン。
18/4/11
保福島の叔父さんの葬儀。納棺のお経が8時半との事で8時頃に着くように行ったら1番乗りだった。もっともお経の後、出棺準備まで30分近く間があったり、かなりゆったりとした時間設定になっていた。
火葬の後の葬儀なので、飾られた花をあまりたくさんお棺の中に入れるわけにはいかず、花かごを1つ分摘んでお棺の中に入れた。今は納棺の最後に釘を打つこともせず、真似事で石でお棺の周りをたたいた。
皆が集まっている間に雨が降ってきたが出棺時は雨もやんでいた。
火葬場は改装なってすっかりきれいになっていた。お経もなくお棺が炉に入ってからお焼香。そのまま待合室に案内された。かなり長い待ち時間の後収骨、そのまま葬儀場にバスで戻った。火葬場へ直接見えた人もいて、さらに葬儀だけ見える人もあってだんだん賑やかに。間で大雨注意報が出ていたが、帰りも薄日が差すお天気になった。
昨日はお坊さん1人でのご供養だったが、今日は5人。般若心経のフレーズが出てこなかったが、やはり曹洞宗らしい。
戒名は茂林英彰上座。弔辞を読んだ幼馴染の方が「好きだった英語の英が入った名だ」と言っていたが、子供の頃遊んだ仲間もこの方が最後に残るばかりになったそうだ。
喪主の挨拶で従弟が2年前に後数か月と言われていたのによく頑張ってくれたと言っていた。
お焼香の途中で具合の悪くなった方が出て救急車も呼ばれたが、大事にならなければ良いのだが…。
18/4/10
夜、保福島の叔父さんのお通夜。行きに港の叔母さんを誘っていく。
早めに着いたので、保福島の従弟達としばらくぶりで結構話す間があった。叔父さん方の兄弟はもう皆さん亡くなったそうで、親族は少なかったが、お参りの人は多かった。それ以上に永かったのがお経で、普通ならしばらくお経を聞いてからお焼香が始まるのが、お経が始まるとともにお焼香で、お焼香の人がみな終わっても、涅槃経1巻、1時間近くのお経だった。
近い身内だけで通夜ぶるまいの席へ。こんな時ばかりだね、と言いつつ近況の交換をした。
終わり近くに「用事があって遅くなる」と言っていたマーミ&ジュンちゃんも登場。献花の代金の集金をしていった。
18/4/4
保福島のO家の叔父が昨日亡くなったという連絡が来た。
小売りではないがお茶の販売をしていたので、叔父が元気な間はずっとお世話になっていたので、私はO家の親戚の中では1番お付き合いがあったかもしれない。
いつ行ってもラジオの英語講座などがかかっていて「耳が慣れていれば分かるから」と聞いていたり、道路を渡ればある自宅に帰らずに店のコンロで作ったラーメンを鍋のまま食べていたり、個性的な人だった。
時々おまけに付けてくれた紅茶は紅茶好きの従妹達には好評だった。
母と同じディケアを利用していた事は知っていたが、今年に入ってからは自宅療養をしていたようだった。