我が家&和賀家 17年
18/3/20
春彼岸。昨日は八王子へ、今日はこちらのO家の墓へお参り。本日は父と義父の祥月命日。義父が亡くなって23年、父が亡くなって9年になる。ついこの間のような気もするが、あらためて年が経ったとも思う。
18/3/5
珍しく1人暮らしを始めた義兄から電話。かなり妄想が強くなっているようだが…。
それなりに保健センターなどが連携して見守りはしてくれているようで「色々話をすればいいよ」と言ったのだが、伝わったのか…。
18/3/4
叔母の通夜式のため3/2に天王寺へ。
夕方までに着けば良いだろうと、昼前に家を出る。ひかりで行きたいので早めに焼津駅で切符を取る。おかげで静岡駅で30分の日向ぼっことなってしまったが、座席指定も取れたのでのんびりとできた。ちょうどお昼時の静岡発車。車中で買ってきた駅弁を食べる。新大阪・大阪・天王寺(前回環状線の外回りに乗ったが、内回りが正解らしい、どちらにしても半周程度の位置にあるらしいが)の乗り継ぎは昨年行ったので無事できたが、天王寺駅で前回と違った出口に出てしまい、「ここはどこ?」状態に。ようやく古い商店街の通路と前回お世話になった交番の位置関係を見つけて無事に道を発見。さすがに今日の教会は教会関係者や葬儀屋さんが大勢で準備にかかっていた。
すでに十勝の叔母さんが到着、ただし荷物が天候不良で着かないと苛立っていた。大阪に居る本当の娘と蒲田の娘分(姪にあたるがそっくり)と賑やかにしていた。天王寺の姉妹とその息子は忙しそうに飛び歩いている。やがて大津の従妹も到着。さらに鎌田の従妹の友人の教会の先生も到着。彼女はこちらの従妹や娘ともつながりがあるらしく、裏方の手伝いに入ってくれた。やがて日比の長男・次男・叔母さんや田原本の一行も到着。田原本は伯母さんも一緒に見えた。
終祭の始まった頃、修行に出ているここの従妹の娘も帰ってきた。普段人少ないこの教会も親族の他に関係の教会の先生方やこの教会の関係者など多くの人のお参りがあった。
祭主の先生がお帰りになるのをみんなでお見送り。誰かが「金光様のお引けみたい」と言っていたが…。
夜中近くに日比のもう1人の従弟が厚木から到着。男達は夜中過ぎまで酒盛りをしていたようだが、女性軍は叔母さんの部屋で雑魚寝。ドアの真ん前を占領した私が1番よく寝ていたらしい。
翌朝、告別式は11時からだが、6時前後からみな起きだす。私は7時近くまで寝かせてもらったが、みんな元気。昨日は姿を見せなかったネコのラッキーも登場したが、いつの間にか姿を消して「ラッキーはどこ」と騒動になった。
一昨日からの残り物、昨夜の残り物のおむすびや太巻き寿司などと野菜たっぷりのお味噌汁。後は「コーヒー淹れようか」「お茶淹れようか」と代わる代わる色々な飲み物が出て来る。ただし、バタバタと用事をしながらなので飲みっぱなし、食べっぱなし。お互いの得意分野を生かすのが1番なので私はせっせと洗い物。
ここの長男坊は若さで早朝から「お母さん、起きる時間やで」と目覚まし代わりをしていたが「もう少し寝かせて」となかなか起きなかったようだ。他の男達も9時過ぎにはスタンバイ。
告別式の前には昨日長女を中心に生花で作ったハワイ式のレイと頭飾りをお棺に入れて亡くなった叔母さんの旅支度も完了。
皆さんが集まり始めているのに急がされて霊前で親族の集合写真。もちろん葬儀屋さんも撮ってくれるが、日比の従弟のカメラや私のカメラでも撮ってもらった。
告別式直前には連島の一家も長男の車でやって来た。もっとも赤ちゃんがいるのでベビーシートに1席取られて叔父さんは電車で来たらしく、「しばらくぶりで来たら、駅で迷った」と言っておられた。
告別式も大阪教会の先生が祭主をされて4人の祭人さんと楽人3人の笛や笙の演奏付き。土曜日の事もあり大勢のお参りだった。
告別式の後は飾られていた大量の花をお棺に入れて出棺の準備。叔母さんは文字通り花に埋もれてしまった。
「あんなにたくさんの花があるんだから少し家にもらいたい」と言っていた連島の叔母さん、焼津のお葬式では残った花はお参りの人がもらうのだが、こちらではその風習はないらしかった。
出棺は孫息子が「にぎやかなのが好きだったお祖母さんのために」と太鼓で三々七拍子、皆で太鼓に合わせた手拍子で賑やかに霊きゅう車に送り出した。
火葬場までバスで見送って玉ぐしをささげた後、教会に戻って葬後の儀(仏教の初七日法要のようなものか?)、田原本の先生(従妹の旦那)に聞いたら遺骨が戻ってからする事が多いらしい。その後はお客さんや祭人さん達は祓いの膳についてもらい、親族は一休みした後でお骨上げにまたバスで火葬場へ向かう。
遺骨が帰ってきた頃にはお広前も元の形に整えられていた。
祓いの場で待っていて下さった先生方に喪主をはじめ親族それぞれご挨拶に行ったのはビックリ。狭い同業の社会なのでそれぞれ知っているのだろうが…。お互いに知らない者が出て行ってもと私は遠慮しておいたが。
4時を回ったあたりで親族の祓いの膳。残しても持って帰れないのでせいぜい食べてしまおうと頑張ったが、時間が半端で全部は食べられなかった。先生がお帰りになるのを見送って親族の祓いもお終い。後は下に移ろうかと言っている間に、車の遠方組から帰宅。金光へ帰る車に従妹の娘も同乗して、もうしばらくの修行。
3人残った電車組も6時頃には出発という事にして、もう1回コーヒータイム。
家族の他に十勝の叔母と蒲田の従妹がもう数日残る予定だそうだ。
ところで天王寺の長女は普段はハワイ住まいなのだが「急なのによく間に合ったね」と言ったら「お正月に来て、もう帰る予定だったのが様態が悪くなって帰るのが延び延びになっていたの」との事だったが、それこそ神様に引き留められていたのかもしれない。
電車組は大津の従妹と厚木の従弟、大津へ帰る子とは新大阪まで、厚木の子とは名古屋までのぞみで一緒に帰った。名古屋でこだまに乗り換えて、静岡経由で焼津、さすがに疲れてタクシーで家まで戻ったらちょうど猫の夜食タイムだった。
18/2/27
天王寺の叔母が亡くなった。
一昨年からかなり体調を崩していて入退院も繰り返していたが、母に比べるとまだまだ若いし、昨年の6月に訪ねた時にもお茶目にリハビリに取り組んでいたので、まだ大丈夫と思っていたのだが…。
連絡をくれた日比の叔母の声も心なしか湿っていた。
18/2/25
藤守の次男坊の結婚式。少しお姉さんの彼女だが明るさ大爆発で楽しい披露宴だった。特に彼女のいとこ会、なかなかの結束力で彼女がムードメーカーらしいが、皆さん楽しく盛り上がっていた。しかし、最後の家族への手紙では感極まったようで、その思いをもってこれから2人で力を合わせて楽しい家庭を築いていけると良いなぁと思う。
実は藤守は父さんの体調が思わしくなく、おばあさんもちょっと心配のようだったが皆出席できて何よりだった。
18/2/15
昨夜、BSでテレビを見ていたら岩手の二戸郡周辺の大雪警報が出た。今朝のニュースでは1晩の積雪がかなりのものになったと報じていた。心配になって地元の従妹にメールをしたが、「大丈夫、今日は晴れたよ」とあっけらかんとメールが戻ってきた。雪に対する態勢もこちらとは違っているのだろうが、叔母など1人暮らしなのでつい心配になってしまう。
18/1/2
例年通りTANUKIの親戚のO家・Y家関係へ年始回り。幸いみんな近いのでほぼ半日で回りきれる。
まずO家の末の叔母、ちょうど一回り年上なのだが、まだまだ血色も良くお元気そうで色々な話が尽きなかった。次はジュンちゃんの実家、餅つきでお会いしたばかりだが、「夕方にはジュンちゃん夫婦が来る」と楽しみにしておられた。次が築地のO家の一番上の叔母の家、と言っても叔母夫婦はもう亡くなっているのだが、子供達がお正月には集合して新年会をやっているので皆に会える。今日は少し早くて長男夫婦にしか会えなかった。次がその下の叔母の家。ここも叔母はもう鬼籍に入っていて、叔父と次男・三男が昼食中らしかった。長男は今年も川根温泉でまったりしているのか鉄道写真を撮りに行ったのか…。一昨年より叔父さんもお元気そうだった。そこからY家の本家へ。こちらも叔父さん叔母さんは亡くなって長男の代になっている。奥さんは今日は仕事だとワンちゃんと一緒に1人でお留守番だったようだ。町内会長が回ってきたとぼやいている割には楽しそうだったが…。柴犬のメイちゃんもだいぶ丸くなって、日向でのんびり眠っていて吠えられなかった。
ここからO家の叔父の家、と言っても叔父はすでに亡く、叔母さんに会ってきた。長男は法多山へ初詣のようだ。この先にY家の叔母さんの家、叔父さんが出てきて上がって叔母さんにも会っていくかと言ってくれたのだが、遅くなるので玄関先で失礼してきた。こちらもこれから娘一家が来る予定のようだった。次のY家の叔父の所も叔父はずいぶん前に亡くなっていて、今日は孫の次男坊が来ていた。
そして最後が義弟(O家の本家)の所。さすがに誰か来ると困るからと2人とも家に居た。そこで、藤守の義弟が31日に具合が悪くて病院に行ったら新年早々に検査と多分手術になると話していったというので、そのまま様子を見に向かった。幸い口は元気で「痛み止めを使っているから」と言うものの暮れに出た血尿から様子がおかしかったのが痛みがひどくなったとの事だった。「復帰が次男坊の結婚式に間に合うかね」が周りの心配だが、その次男坊とフィアンセも来ていて、ケロリと軽口をきき合っていたのでとりあえず心配は検査結果が出てからという事にした。
夕方、築地のお姉さん夫婦が新年会の後で家に立ち寄ってくれた。
17/12/30
12月30日は義弟の所(本家になる)で餅つき。今年は婿に出たすぐ下の義弟も合流、今までは家でお母さんを中心に餅つきをしていたのだが、もうお年で難しくなったようだ。
ジュンちゃんの姪っ子たちも大きくなってしまって来ず、今年は近所の姉弟が手伝いに来てくれた。しばらくマーミのテニス指導を受けていたようだが、今は違うらしい。弟君はついている餅の水回し、お姉ちゃんは「やってみる」と言われて上手にのしもやってくれた。人手が大幅にいるのはお供えの小丸餅や餡子を入れるおさんこち。相変わらず色々な大きさ太さのおさんこちを大量生産した。
それでも昼過ぎには終了。お昼をご馳走になり、お餅を分けてもらって、義姉やTOPPOさん達に宅配で送り出す頃には空も暗くなってきた。
17/12/28
母の実家が金光教の教会だったので、母方の大かたが今でも金光教の教会だ。何かの都合(今回は母の1年忌が終わった)でお供えを出すと、たいがいご神米が来る。
これどうしようというほど貯まってしまった古いものやお守り代わりに持ち歩いて粉々になってしまったものは仕方がないのだが、「ご飯を炊く時に入れて食べても良いのよ」と言われて、最近は頂いてしばらく家の神棚にお供えした後は、ご飯を炊く時に混ぜてしまう。
しかし、「ありがとね」と連絡があったり「お届けしたから」とお供え物のお下がりを送ってくれたりしても、ご神米が来ない所もある。多分私がもて余すだろうからと思っているのだろう。が、教会のあり方としてはどうなのだろうか…。
17/12/23
日比の従弟から岡山の母の従姉妹の50日祭だったとメールが来た。母がよく名前を出していた人ではないかと思うのだが、何しろ祖父が10人兄妹なのでどこがどうつながっているのか私にはさっぱり分からない。
従弟も「だんだん母のいとこの代も数が少なくなって寂しくなってきた」と言ってきたが、それだけの付き合いがある方がむしろ現代では珍しいのかもしれない。
17/12/9
十勝の叔母から電話。外はもう-20℃近いそうだ。ただ、家の中はかなり暖かく温度設定をしているので、屋内では鉢花も咲いているし暖かにしているそうだ。
17/11/26
藤守の次男坊が婚約の挨拶に来た。彼女とは6年越しのお付き合いだそうだ。
犬を何匹も買っていた事があるそうだが、挨拶に出てきたトラ丸がすっかり懐いてしまった。彼女は「お年寄りと動物には好かれます」との事。
たまたまか彼らが来た時にうまくタイミングを合わせたか、藤守の父さん&母さんがお米の配達がてら寄ってくれた。
最近料理に目覚めたという甥っ子、「予算を考えない男の料理をするんですよ」と彼女にばらされて、「それなら家計費の財布は隠してお小遣いを使ってもらってお道楽を大いにありがたく食べよう」と盛り上がった。しばらくおしゃべりをして、結婚式の招待状を置いて帰っていった。
17/11/23
日比の長男から田原本の伯父さんの10年祭の写真がDVDで届いた。
こちらに回してくれたのだから、とりあえず私も知っている誰かだろうなとは思うものの、自信をもって判るのは伯母さん達など半分ほど、後は多分そうかな…といったところ。特に子供達は成長してしまうと、親に似ているから多分そこの子だろうな程度にしか分からない。
写真からも良いお祭だったように感じられるので伯父さんも喜ばれただろう。
17/11/22
日比の叔母から「やっと大祭が終わった」と電話。
「あちこち痛くてなかなかやることがスムーズにできない」と言うがすでに87歳。それでも家事のほとんどをやっているのだから大したものだと思う。「この前は見かねたお父さんがお茶碗を洗ってくれた」というがその叔父も90歳近い。
その叔父さん、「朝早くちゃんと起きてご祈念を始めるんだけど、様子を見に行くと居眠りをしている」と聞いて祖父の晩年(まだ60代だったと思う)を思い出した。祖父の場合は午後のご祈念、時にはお神酒さん(1升瓶)を抱え込んで舟をこいでいた。
叔父の場合は早朝にきちんと起きるが、その後の居眠りとお昼寝で体調を維持している所もあるらしい。
今日はいい夫婦(1122)の日、是非ご夫婦元気で長生きをしてほしい。
17/11/19
先日、岩手の従妹が来た時に長女が東京で結婚をしたと聞いたのでお祝いを送ったら本人から内祝いの品が届いた。
就職で関東に出てきてもう長いが、彼女の父親は遠くに手放したくなかったようだ。でも、嬉しそうに一緒に写真に写っていたので良かった。
17/11/17
鎌田に居る従妹の所も猫を飼い始めたようだ。家族みんな大人になってしまうと、皆を取り持つコンパニオンアニマルの役目も大きい。
元気のゲンちゃん。
写真ホルダーを見たらかなり以前に犬の写真ももらっていた。
17/11/8
函南の従兄から「偲ぶ会の写真が届いたよ」と電話。
今回は岩手の話ができてうれしかったとの事。年代は少しずれていると思ったら、函南の弟が岩手の長女の1つ下との事。それならほぼ年代は一緒で「狭いコミュニティだし」(地域は膨大に広いと思うが)というからには共通の知り合いなどの消息も聞けたのだろうと思う。
17/11/5
藤守の次男坊から来年2月に結婚すると電話。今月中に彼女を連れて来るとの事。
来年はしばらくぶりに結婚式優勢になるかも…。
17/10/29
昼に母の1周忌代わりの偲ぶ会。
昨晩遅くに着いて1泊してくれた岩手の従妹達をはじめ、和賀家から、T家から、O家の義弟達まで子供達も含めて総勢36名。これだけ賑やかにすれば母も満足だろう。想定外だったのがもう少し後から来るはずの台風22号までが駆け足でやってきてしまったこと。
T家の叔父の曽孫ちゃん達が前回見た時からまた一回り大きくなっていた。東京から来た和賀家の従妹の子供が前回会ったのが小学校に上がる前だったのがもう大学生、すっかり大人びていた。岩手の従弟の長男は大学院進学が決まったという話だ。
T家の従妹の長男も無事に入籍を済ませて2人で来てくれたが結婚式は来年かなぁとの事だった。岩手の従妹の長女も「また住所が変わった?」と聞いたら「結婚して名前が変わった」との事だった。他所の子供達はちょっと聞かないうちにあっという間に大人になってしまう。
世田谷のはとこ達も来てくれて、しばらくぶりで少し話ができた。
岩手組と元岩手組(T家の叔母の子供達)はやはり共通の知人があるらしくて話し込んでいた。
台風に急かされるような会だったが、皆でお昼を食べて、こういう場で話慣れているお坊さんと金光教の先生に締めてもらって写真を撮ってお開きにした。
17/10/13
田原本の従妹から少し早いけどと母のお年忌のお供えが届いた。
17/9/27
最近の夜のテレビはBSで昭和の歌を聴いている事が多い。歌はドラマやバラエティほどうるさくないのでパソコンに向かいながらでも邪魔にならないし、タイムキーパー代わりでもある。
今日はたまたまディック・ミネさんの特集をやっていた。5〜6曲うたわれた歌、ほとんど歌える。今見ていると洋楽の訳詞はほとんど本人がしていたようだ。洋楽のリズム感のいい曲も良いが、歌謡曲の独特の歌いまわしも好きだった。
ミネさんは母がご贔屓だったこともあるが、母方のお祖母さんの遠縁の親戚にあたっているという話は子供の頃から聞いていたので親近感があったのかもしれない。
17/9/23
田原本から伯父の10年祭の偲び草が届いた。
その中に『いのち』の特集の形で、古い写真や遺稿、周りの人達の思い出などが特集されていた。
私は新津の伯父は感性、田原本の伯父は理性の信心(信者さんに自分の宗教観を伝えるという意味で)と思っていた。話をすると新津の伯父の話はまず感情に伝わって来るし、田原本の伯父はもっと理路整然としていて脳に働きかけてくるのだが、この伯父も相手の感じ方をきちんと受けて伝えようとしていたのではないかとふと思った。
まったく別の感想だが、古い写真を見ていると、兄弟みんな似ているなぁとつくづく思う。岩手の叔父が孫達(男の子4人兄弟、みんな同じ顔をしている…)の写真を見せてくれて、「これ誰?」と聞くと写真の下の日付を見て、「そうすると、これは誰だな」と言っていたが、伯父も若い時の写真を見ると末の叔父によく似ているし、晩年の写真は新津の伯父によく似ている。2人の子供の頃の写真は家にも何枚かあるのだが、それでは顔かたちで明確にどちらがどちらか分かるのに面白いものだと思った。
17/9/21
日比の叔母から電話。先日は長男の車で田原本のお年忌にお参りに行ったそうだ。昨日、やはりお参りに行った天王寺の従妹から「叔母さんも元気そうだったよ」と写真が来ていたが、「口だけよ」と言いながらもテンション高くお元気そうだった。
17/8/31
札幌のまた従妹から残暑見舞いをもらった。彼女の娘が結婚して三鷹に住んでいるそうだ。彼女もよく遊びに来ていたのは小さな頃だし、「よく覚えていないけど多分三鷹の家に近い所よ」との事。偶然とはいえ、面白い。彼女も2人の孫のお祖母ちゃんになったらしい。
17/8/30
十勝の従弟から叔父の1年祭の偲び草が来た。お菓子と共に叔母が書いた叔父の一代記、紆余曲折をすっ飛ばしているせいもあるが、ずっと地元で幸せな生涯を送られたなと思う。
「北海道は広いからね」とよく言っておられたが、親教会は函館、教団の役目も負っていたから、今に比べて時間のかかる中を走り回り、地域のお役目も色々とされていた。
宗教家と言われる人は人徳がなければならないと私は思う。いくら神様が背中を支え押してくれているとはいえ、その中できちんと自分達家族の暮らしも成立させているのは、物理的には大変だったのではないかと思う。
同じ本日、ハワイの従妹からも便りが来た。大阪で会ったのがすでに何十年ぶり!だったが、小さい時にかなり構いつけた子なので、「会えてうれしかった」と言われるとやっぱりうれしい。
17/8/15
昨日花火を見に来て泊まった従妹の娘の長男坊6歳、小さいとはいえ弟と妹を持ついっぱしのお兄ちゃん、結構しっかりしている。
今朝も仏さんの所に来て「お線香をあげるの」と上手にマッチを擦ってろうそくに火を付けお線香を立ててくれた。多分他ではまだ「危ない」とやらせてもらっていないだろうから、目の届くここで1つやってみるのも良いだろう。それにしても、従妹の所もそれほど信心深くないし、この子たちはお祖母ちゃんと一緒に住んでいるわけでもないのに、よく仏壇にお線香をあげることなど知っていたなぁと思った。
しかし、従妹がまだ子供の頃に遊びに来ていたのが、子供連れで来るようになり、今やその孫が来るようになって、こちらも年を取ったものだと思う。
17/8/9
連島から従弟の赤ちゃんの内祝いが来た。先月半ば過ぎに無事に退院して、後は元気にしているようだ。後はスクスクと健やかに育ってくれればと祈っている。
17/8/1
焼津市は7月にお盆をやる焼津神社の氏子さん達(祭りが8月にあるので)と8月がお盆の元々の農村地帯に分かれている。しかし、皆が同じ所にずっと住み着いているわけではないので、そ両方が混在している。
家の場合、仏さんで祭られている私の両親や祖父母はそもそも東京の習慣に合わせて7月で祭るのが本当かもしれないが、ご近所付き合いもあるので8月お盆にしている。とは言っても菩提寺さんがあるわけでもなし、期間中に花とお供えをするくらいだが…。
今年は母の初盆という事でTANUKIがさっそく迎え火をたいた。雨だったので玄関先でささやかにだが…。
祖父母も居る家だったが、私の方にそういう習慣は伝わっていない。TANUKIの方は私の覚えている限り義父が毎年庭で迎え火から送り火まで毎日焚いていた。やはりこういう習慣というものは行われることで代々伝わっていくのだなという事がよく分かる。私の方のご先祖様達にとって良い婿殿が居てくれるという事だろう。
17/7/31
十勝の叔母から電話。一時こちらより最高気温が暑くなってどうしているかと心配したが、最近は朝晩は10℃代でかなり涼しいそうだ。
17/7/25
梅雨の終わり?の大暴れの雨。
先日は九州だったが、今度は秋田と新潟。佐渡もニュース映像が出る程だったが、従妹の旦那の実家は大雨だけで被害はなかったようだ。
17/7/19
横浜の義姉より電話。明日はまた病院へ予後の検査で行くらしい。
入院したおかげで、膝以外にも体の悪い所を色々とチェックしてもらったようで、血圧の薬をはじめ山のような薬を飲むことになったとぼやいていた。
17/7/15
7月のお盆で大の叔母さんが母の初盆見舞いに来てくれた。
上のお孫さんが今年は大学4年で就職試験中。公務員志望だそうだ。
そして、しばらくぶりでY家関係の親戚の話など…。叔母さんから言えばお義姉さんの体調があまり良くなく、叔父さんが1人で世話をしているようだが、共倒れにならないかと心配していた。
17/7/10
連島の従弟の所の赤ちゃんは生まれて1月経つがまだ入院中のようだ。先に退院したママは赤ちゃんの世話に病院通いのようだ。早く落ち着いて退院ができると良いのだが。
17/7/8
九州で大雨になっている。しかも河川の氾濫・土砂崩れと大きな災害を引き起こしている。まだ道路の寸断などで被害状況が分からない部分もあるようだ。20世紀の気象の常識はすでに当てはまらないのか…。
今回の被災地周辺に従妹一家と別の従妹の旦那の実家がある。幸いどちらも雨こそひどかったものの家や家族は大丈夫だったようだ。
17/6/18
横浜の義姉から電話。無事にリハビリ病院を退院したそうだ。「高齢の方が多くて若手だったのよ」との事。次女が出勤前にお夕飯を準備、長女が迎えに行って一緒にお夕飯を食べたようだ。
17/6/17
6/15・16で天王寺の叔母さんのお見舞いに行った。
15日の朝、10時に家をスタート。TANUKIが荷物だけ駅まで運んでくれた。まず静岡駅へ。本日も電車が遅れていて、座席指定を取っていたので早めスタートをしていてホッとした。新幹線に間に合わないほどの遅れはなく、静岡駅で茶飯弁当を買ってホームへ。ひかりの乗降客は結構多い。のぞみをやり過ごしたので5分程度停まっていた。
11時10分、出発してすぐ良いにおいがするなと思ったら隣の席の人がお弁当を食べ始めていた。浜松駅を通過して、そろそろ良いかとこちらもお弁当を開く。浜名湖はあっという間に通過して、車窓は麦の秋。田んぼの間に金色から茶色の麦畑が混じる。
1時には新大阪着。 従妹(次女))が迎えに出るとメールをくれたのも気が付かず、ひたすら駅の案内板を見て東海道線へ。新大阪は土地の人以外の利用も多い駅なので表示が分かりやすい。1駅で大阪環状線へ乗り換え。ホームへ出るエスカレーターがこちらでは左寄りに立つのに逆、危うく後ろの人に突き飛ばされそうになって、ヒョイと見た先に天王寺行きの電車が止まっていた。ちょうど真ん中辺なので、どちら回りが良いのだろうと思っていたのだが、天王寺まで行くのだから、これに乗れば間違えなくたどり着くはず。たまたま1番前に飛び乗ったので、線路の先が見えて面白かった。駅の間隔は井の頭線くらい、途中から運転席には研修中らしい若い女性とその指導役らしい人も乗り込んできた。
1時半頃には天王寺駅。一乗寺の案内を追いかけてくると分かりやすいと言われていたので、それで地上まで出たが、駅から来るのは何十年ぶり、とりあえず最寄りの交番で地図を見せてもらったが、案内はあまり上手な人ではなかった…。2時前にはそれほど迷わずに到着。ハワイから帰っている従妹(長女)に出迎えられた。
介護用ベットの上でテレビを見ていた叔母さんも血色は良くお元気そう。お姉さん猫のミケはすぐに顔を見せた。行違ってしまった従妹(次女)も帰ってきて4人でおしゃべり。家全体が明るくなったなと思ったら、隣の公園が整備されてだいぶ木が無くなったようだ。すぐ下が遊歩道で池がよく見える。その家の敷地側は犬のプクちゃんのテリトリー兼散歩道。窓から顔をのぞかせたはいいが知らない顔が見えてちょっとビビってしまった。そして末っ子の白猫ラッキーも登場。実は私が来た時に部屋の扉を開けっぱなしにして話し込んでしまい「ラッキーはどこ」とひと騒ぎをしたのだが、本猫はそんなことは全く関係なく、奥から堂々の登場。
落ち着いたところで従妹達と裏の茶臼山公園に散歩に出た。昔はあまり整備もされていない公園で、「ガールスカウトの頃、運動会とかして楽しかったね」などと言っていたが、すっかり普通の都市公園化している。昨年の大河ドラマの影響で、茶臼山のてっぺん(25m)は真田幸村一色だった。帰り道で近所の神社に立ち寄り、さらに家の近くの画廊の展覧会を見て帰宅。
出がけに従妹(次女)が叔母さんに「危ないから1人で歩かないでよ」と念を押していたが、留守中に叔母さんは椅子につかまって家の中でお散歩をしたようで、椅子が廊下の方に出ていたので「危ないでしょう」と従妹(次女)が声を張り上げた。そうこうしている内に叔母さんのリハビリの先生が登場。今度は「立ち上がって」「歩いてみましょうか」となるのだが…。軽い眩暈やふらつきはあるようだが、やればできる範囲らしい。このリハビリが週2回、透析に週2回通って、入浴介助が週1回という事で叔母さんの予定も忙しそうだった。
叔母さんのリハビリが終わる頃、従妹(次女)の長男が仕事から帰宅。お夕飯は水炊き。持って行った喜久酔を開けて鍋を囲んだ。この長男君、若いわりに日本酒が好きと言っていたのだが、先日悪酔いをしてアルコールから遠ざけられているようだった。
この日の内にお風呂に入って叔母さんの部屋で従妹達と雑魚寝。従妹(長女)にハワイ流?マッサージをしてもらい夢の中へ。
この夜、叔母さんが「エアコンがおかしい」「2Fへ行かなくちゃ」などと従妹達に行って困らせたのは、昔々、私が泊めてもらった夏、2Fの客間のエアコンがおかしくなっていて、普段は2Fは使っていないから言っておいた方が良いだろうと、その時に伝えたのを思い出したらだろうか。
翌朝、従妹の目覚まし時計が6時から15分おきに目を覚ませと鳴りだす。その都度止めて結局7時まで粘って起床。長男君はすでにさっさと出勤をしたようだった。
布団を挙げて、まず通院する叔母さんの朝ごはん。母同様にこちらも飲み物とジャムパン、ヨーグルトと口に入りやすいもの。昨晩もごま豆腐を美味しそうに食べておられたが、喉を通りやすいものが良いらしい。
車いすに乗って準備をしているところに大阪で働いている十勝の従妹が登場。出勤前に私に会いに来てくれた。叔母さんも一緒にカメラマンを交代しながら記念写真。ちょうどお迎えの介護タクシーが来て叔母さんを見送った後、4人で朝ご飯を食べながら少しだけおしゃべり。十勝の従妹も朝からテンションが高い。
彼女が出勤し、朝食の後かたずけをしているとお昼を一緒に食べようと言っていた田原本の従妹がお昼ご飯の大荷物とともに登場。素麺と素麺汁、具材の薄焼き卵やシイタケの甘煮、刻みネギ、根ショウガまで持ってきていた。あっという間に素麺を茹でてお寿司と共に食卓へ。さっき朝ご飯を食べたばかりだがそのままお昼。話題が業界の話になったのであまりついていけないが、狭い世界なので「そうなっていたの」という話もちらほら。親戚の話も出て、先日生まれた連島の赤ちゃんはママの体調は問題がないものの赤ちゃんは体重は十分だったが、しばらく保育器で様子を見なければならないそうだ。
話しながらデザートに突入。その頃には叔母さんもまた介護タクシーに送られて帰宅。出たお弁当は持ち帰って2時のお昼。おかずはよく食べるがご飯は苦手になっているらしい。ご飯の後は一緒にデザート。ここでも皆で記念写真。
叔母さんが疲れてベットに戻った後、4時頃に田原本の従妹と天王寺を辞した。家の前の小道を叔母さんも車椅子で姉妹と一緒に送ってくれた。「新大阪まで付き合うよ」と田原本の従妹が地下鉄を使って新大阪まで送ってくれた。彼女も学生時代以来の場所もあり、「こんなだったかいな」と言っていたが…。彼女とは同じ6月生まれの同い年、髪を染めていないので「最近は時々席を譲ってもらえるよ」と言っていたが、「今は1歳差がある」と先に座らせてもらった。ちょうど1時間後位のひかりがあったので切符を買って喫茶店でもう一喋り。田原本の伯母さんはまだお元気で、今朝も車で駅まで送ってもらったと言っていたが、伯父さんを介護した経験があり、天王寺の様子に安心したり、もう少し介護保険をうまく利用できないかという話や、たわいのない話題でリフレッシュ。
新幹線の時間の少し前に分かれてホームへ。間違えて1つ手前のホームに上がってしまったが時間の余裕は十分。5時42分発のひかりに乗り込んだ。自由席は混んでいたようで、座席指定にして良かったが、指定席は出たり入ったりでほどほどに席が空いていた。帰りの電車は食い倒れ後で眠気ばかり。気が付けば静岡、乗り継ぎもあまり待たずに焼津へ。それなりに疲れていたのでそのままタクシー。お陰で8時には帰宅でき、猫だけでなくTANUKIにも「あれ、早い」という顔をされた。
17/6/13
連島の長男家は11日に男の子が生まれたそうだ。話のついでの田原本情報。
17/6/11
姪っ子が猫を飼う事にしたのだそうだ。「おばさんに相談がある」と言っていたというので、今日あたり猫を見せに来るかと思ったのだが来なかった。
アビシニアンは人には懐くがヤンチャなので子猫の間はお相手が大変なのではないかと思うが、楽しいだろうな。
17/6/10
連島の長男家の出産予定日が6月初めだったので、そろそろ生まれたかと叔父に電話をしてみたら、まだとの事。あまり遅くなっても危険なので、もう数日待って生まれる気配がなかったら陣痛促進剤のお世話になることになりそうだとの事。実家に帰るのではなく、今住んでいる所で出産との事なので、より一層、親子とも元気で乗り越えられればと思う。
17/6/6
珍しく埼玉の叔父から旅行みやげらしいお菓子が届いた。「どうしたの」と聞いたら母の忌明け挨拶のカタログで旅行をして気分転換をしてきたそうだ。
17/5/19
和賀家側での母の納骨祭。母の実家は金光教の教会で、親族も金光教関係の人が多い。葬儀は父の時とバランスを取って無宗教で行ったが、そんな関係から金光教で送らないのも何だか不人情な気がしていて葬儀の時に分骨してもらって、いずれ母の実家に連れて行こうと思っていた。
叔父が「せっかくだからお父さんも一緒に」と言ってくれたが、一度お墓に収めたものを分骨するのはややこしいようなので、両親の位牌を作ってもらった時に父の位牌の魂を抜かずにおいたものをともに連れて行った。
叔父の祭主に叔父の長男が祭員を務めてくれてまずお広前でお祭り。叔父夫婦と長男夫婦、次男の嫁さん、さらに日比の叔母と従弟、本家のお姉さん夫妻も来てくれた。
どの宗教でもこういう場合は亡くなった人の履歴を述べる(2月の仏式の時もそうだった)ようだが、父の・母の親達の代からの歴史が語られた。最後に皆で玉串をささげて終了。
車2台で近くにあるお墓へ。「叔父さんの運転は怖い」と従弟が言うのに女性陣が便乗。確かにブレーキが遅い…。しかし、車幅いっぱいの坂道も無事に通過、車が何台か停まれる広場で切り返しをしていてちょっとガシャンとやったが、幸い車も人も無事だった。本家のお兄さんに「なに、大丈夫、大丈夫」とニコニコ言われてしまうと何となく大丈夫になってしまった。
そこからまた坂道をちょっと登り。「こんなにあったかな」と80代半ばの叔母がホヤクこと…。若葉につつまれて空は五月晴れ、高台にあるのでかすかに瀬戸内海が見える。
まずはヤモリが入るからとガチガチにガムテープでふさがれたカロートの扉を開いて納骨。墓前に持ってきたお供え物を供えて祈り、玉串をささげた。我々をのぞいてみんな教会の人間なのである意味誰が動いても手早いこと。しかし、叔母も叔父もだいぶ足に来ているようで、急な坂道の上り下りはかなり気の毒だった。
少し時間がずれ込んだが帰ってお昼の食事会。本家のご夫婦は「午後は娘が車を使うから」とそのまま帰られた。
お直会となるとアルコールがつきものだったが、現在はみんな後に車の運転があるので飲むわけにもいかず、食事をしながらおしゃべり。叔父の長男家は来月赤ちゃんが生まれる。次男家は来ていた嫁さんが昨年手術をしたそうでまだ本調子ではないようだが、「明日はキャットフードを配るアルバイトが入っている」と言っていた。1年生になった子供も「もう帰って来るのは3時過ぎだから」と余裕の様子。日比の叔母の孫達もずいぶん大きくなっているようだった。
17/5/17
天王寺の従妹から、娘が金光教学院に入ったと手紙が来た。また寂しくなったようだ。
おばさんも一人では居られないようで大変なようだが、介護度が付いているので介護保険を利用すれば少なくとも気は楽になるのではないだろうか。
17/5/14
横浜の義姉が膝の関節の手術後のリハビリで入院中と電話をくれた。いつも「具合が悪い」と話しながらも元気な声を出す人が、病院で他の人に遠慮しているのか静かな声で話すのでかえって心配になった。
春に歩くのに杖が必要になったというので心配だったが、かえってこれで元気になれれば良いのだが。
17/5/12
十勝の栗祺、少し大きくなり、暖かくなってきたので、外につながれて番犬修行中。『毎晩キツネを見つけては吠えて追い払っていますが、たまに野良着姿の母を不審者と見間違え吠えてから反省しています。』だそうです。
長女も無事に車デビュー、通勤に、家族の運転手役にと乗り回しているようなので、すぐに上手になるでしょう。
17/5/5
そろそろ母を実家へ里帰りさせる準備。母の実家の和賀家は金光教、母は長女でもともと自分の兄弟たちをずっと心配していた事もあり、こちらでも祭ってもらいたいと葬儀の時に分骨をしておいた。
どっちみち私が居なくなれば途絶えてしまうので、それぞれの所でずっと祭ってもらえればそれで良いと思っている。
17/4/28
明日は新津の大祭と伯父さんの1年祭、それに合わせて伯母さんの年祭(01年の6月半ばに亡くなったと思う)。昨年はお葬式には急で行かれなかったが50日際にはお参りをさせてもらった。
昨年秋に母が亡くなって、こちらも今年に入って納骨やら何やらと続くので、今年は遠慮させてもらった。
先日従弟と電話で話したが、もう上の孫が中学に上がったそうだ。
17/4/9
十勝に2代目の犬が来たようだ。『この7日から扶養家族に待望の子犬が加わりました。柴の雑種らしいです投票の結果名前は「栗祺」(くりすけ)になりました。母の散歩相手にでもなってくれればと思います。』と従弟からメールが来たが、世話好きではあっても車族の叔母が果たして散歩に行くのやら。長女が社会人になったので下の子供達の良い遊び相手になるのだろうとは思うが…。