我が家&和賀家 16年

17/3/7

   昨日、従妹から教えてもらったことをメモにしてみた。伯父と母は2つ違いなのだが、広島時代については、2つの年齢差は幼い時代には大きいのかもしれない。逆に新津の伯父の回想録『旅路』(とうとう未完で終わってしまったが…)との共通点が多いようだ。伯父達は誕生日も共に8月14日の丁度2歳違いなのだが…。
   もう1つ、男の子と女の子の視点の差のようなものがほの見えて面白かった。
   祖母は話が本当ならごくごく初期のビジネスガールで、女学校卒業後に東京の出版社で事務員をしていた。そんな人が岡山の田舎の大家族の元にお嫁に来たのだからかなり大変であったとは思う。士族の娘であった祖母はそれなりのしつけをされていただろうが、農家が多い土地(私の知っている頃は宿屋だったのだが、当時まだ農家だったのかはよく分からない)の生活とは違っていただろう。
   面白いのは当時広島に住んでいた伯父達が土地の子供たちが柿を木からもぎ取ってはそのまま食べていたのがやってみたかったが、家ではきれいにむいて切り分けて出されるもので、なかなか近所の子供たちの真似は出来なかったが、金光からお祖母さんがやってきてみやげだと柿を手に持たせてくれた。この人は金光教祖様の娘さんだが、元々は農家の人だから「そのままおあがり」と食べさせたらしい。それが伯父達には新鮮な驚きだったようで、どちらも長く覚えていたようだ。この話は母から聞いたことがない。
   この広島時代は工場経営をしていて羽振りの良い暮らしをしていたらしいが、長くは続かなかったようだ。
   工場が傾いて家族は金光へ戻り、その後大阪へと転出する。

17/3/6

   田原本の従妹から電話。母の忌明け挨拶につけた句集の母の年譜を読んで、補足を色々と教えてくれた。彼女の父が母のすぐ上の兄にあたるので覚えていて伝わった事、金光教関係の内輪の話など、知っている事は多い。
   このあたりで覚えている事を並べ合わせておかないともう消えてしまう事が多いと思う。庶民の歴史などというものはそんなものだろうが…。

17/3/5

   函南の従兄から電話。八王子まで来てもらったお礼を言ったら、「帰りに車がパンクして大変だった」との事。幸い近くにあった修理工場で中古のタイヤを付けてもらって安く済んだと言っていたが、高速上の事故にならなくて良かった。

17/3/2

   横浜の義姉から電話。声は元気そうなのだが、右膝が痛くて歩くのがやっとだそうだ。家の中はともかく、外はゴミ出しでも杖を使っているとのこと。

17/2/27

   昨夜は叔父の所に泊めてもらい、従妹夫婦を送り出したところまでは覚えているが、お風呂をもらってダウン。坊さん一家はお風呂に入って帰っていったそうで、従弟は早朝から出勤、従弟の連れ合いも私達が起きだした頃には以前の家に比べて通勤時間が長くなったと出勤。
   叔父たちとゆっくり朝ご飯を頂いてから帰ってきた。
   行きは従弟にくっついて最寄りのスマートICで圏央道を出たのだが、カーナビはまだ知らなかったらしく、その次の狭山日高ICから圏央道に入り、せっかくなので狭山PAをのぞく。海老名JCT付近に渋滞表示が出ていたが、走っている内に無くなったので、そのまま東名に乗ることにしてまだまだ出来立ての道を走る。無事に東名に入り、御殿場SAで昼食。東名をこちらの方まで来たのはしばらくぶりかもしれない。フラフラしながら帰ってきたので帰り着いたのは3時過ぎ。
   4匹ネコズは結構しっかりと留守番ができたようで、誰かが少し吐いていたが、餌や水も残っていたし、トイレもまあきれいだった。

17/2/26

   母の納骨法事を行った。今回は東京で仏式なのでT家とO家の人間で行った。
   幸いお天気も良く風もほとんどなかった。すでに石屋さんに戒名を彫り込んでもらい、カロートのふたも開けてスタンバイOK。今回はお坊さんも従弟の娘婿殿。従弟達やマーミまでがキャンプ用の椅子などをたくさん持ち込んで用意してくれたので座ることができた。
   お坊さんはお墓の前にシートを敷いてお勤め。お墓の周りにお米・塩・酒を振りかけて結界を張り、墓前にお供え物をするのは悪霊などが付いて行かないようにするためのものだそうだ。
   お経はかなり長いもので、丁寧に送ってくれたようだった。
   そのあとは皆で昼食、子供達もよく食べたようで、小さな男の子が3人もいた割には静かだった。11月半ばに生まれたお姫様も初登場。ほとんどが車の運転で飲めないので、席を立ち歩くこともなくしっかりと食事会になった。
   叔父があいさつの中で、最近2度ばかり具合が悪くなって「姉さんが一緒に行こうと誘いに来たかと思ったが」と言いつつ「今日、兄貴の所に行ったからもう誘われないでしょう」とも言っていた。「天皇陛下より4カ月兄貴だ」と言っていたが、こちらもまだまだ現役引退とはいかないようだ。
   食事会の最後に坊さんが母の釋尼観貴という戒名について説明をしてくれた。色々と母の人生や性格を考えて文字を選んでくれたようだった。夫婦仲が良かったので夫婦和合の神「歓喜天」にも音が通じますよね、と言っていたのが印象的だった。
   ここで法事の方は解散。そのまま叔父の家までお礼方々まだ新しい家を見ていなかったので新居拝見(というにはずいぶん経ったが)に行った。結局、妹を送った坊さん家族と1度家に帰った従妹夫婦も集まってきてにぎやかになった。
   叔母も従妹もリュウマチとか言っていたが、よく身体を動かしている。私の50肩も入れて動きにくさ談議になってしまったが…。

17/2/21

   今月の『和賀家の通信』で、どこからも情報が入ってこないと書いたら、十勝の叔母からは長い手紙、天王寺の従妹からはメールが来た。
   天王寺の叔母も介護度が5になったようだが、リハビリで外出するのを楽しみにしているようだ。

16/12/30

   本日はマーミ宅で餅つき。藤守は今までお祖母さんが搗いておられたのだが、お年のせいで大変になり、父さんがこちらに合流してきた。相変わらずジュンちゃんのお母さんや姪っ子さん(今年は次女だけ)も助っ人に来てくれている。
   手が来ている5家族分に叔母さん、姪っ子さんのお父さんの実家、横浜の姉宅・TOPPOさんの分、マーミの付き合いのある何軒かの分などをひっくるめて作る。
   お正月の分は色はつかないので、熱い内にお供えを丸め、お鏡餅を取り、残りを熨しながら、最後の何臼かでおさんこちを作る。餡子入りの餅だが鳩の形にまとめる。しかし、何故かそれぞれの作り手の体形に似るのだが…。最後に2本の藁の上に餅を取り餡を乗せた年取り餅を作る。
   今回は子供の手伝いが居なかったので、昼過ぎには無事に終了。
   年取り餅を食べてお昼を頂いて、それぞれの分け前をもらって終了。
   わが家の場合、男3人寄ると大変かしましい餅つきになった。

16/12/20

   田原本の従妹から電話。彼女は仕事がらみのつながりがあるので、和賀家一同の情報に通じている。天王寺の叔母はだいぶ回復した模様の一方、日比の叔母は1つづつの動作が大変そうになっているとか。年から言えばそうでしょうが…。
   十勝の叔母は1度帰った後、天王寺経由で岡山・田原本とめぐっていったようだ。主目的は金光で叔父のお祭りをする事だったようだ。

16/12/16

   先月末に瑞穂の従妹の長女の所に3人目の子が生まれた。上2人が男の子だったところに待望のお姫さま。
   お兄ちゃんたちに守られて深窓の姫となるか、鍛えられてヤンチャ姫となるか…、楽しみ♪

16/12/5

   日比の叔母から手紙。母の着れそうな衣類を送ったのだが、手首を骨折したせいで、自分のしまい込んだ冬物を出すのが大変なので助かったと喜んでもらえた。
   十勝の叔母からは手前味噌と煮豆の缶詰が届いた。

16/11/16

   日比の叔母から「荷物に入れてくれた姉さんのパジャマ、とても暖かくて良いわ」と電話をもらった。母は昨年の冬に少し着ただけで、まだきれいだったのでパッキング代わりに入れたのだが、喜んでもらえて良かった。
   それにしても預かってきてくれた香典のお返しを送った先から次々と電話が入るが、関係がよく呑み込めなくて、相手は私を知っているようなのだが…、どう応対して良いのか困ってしまう。

16/11/11

   母の葬儀のために集まった和賀家系のいとこ達と話していると、色々な思い出話が出てきた。
   日比の従弟は東京で学生時代を過ごしているので、その頃には何かあると母が様子を見に行ったりしていたようだ。ある時お腹を悪くしてひどい血便になった時、母が様子を見に来て「これでお医者さんに行きなさい」と3万渡したそうだ。「家からの仕送りが月に5万の時にありがたかった」と言っていた。
   その妹はフォーマル用の黒の小さなバックを持ってきたが「これ伯母さんのお下がり、あんまり可愛かったから貰って直して、まだ使っている」と言ってくれた。
   天王寺の従妹と母とのつながりは両親が焼津に引っ越してきて頻繁に大阪に行っていた頃らしい。「ピアノで練習曲を弾いていると上手上手とほめてくれた」と懐かしそうだった。また彼女の兄は若い時に事故死しているのだが、「兄さんが亡くなる少し前に伯母さんが来ていて、「送っていくから」とシャワーを浴びながら言ったのに伯母さんが電車の時間を気にして帰ってしまったので「もう僕とは一緒に歩きたくないのか」と言っていたというのを後から聞いて気に病んで母に手紙をくれていたのよ」などという話もしていた。
   この亡くなった子は日比の従弟も弟分のようにかわいがっていて、東京でフラフラしているのを下宿に連れて来て、「三鷹の伯母さんにも会って行け」と連れて行ったこともあるようだ。その時かどうか、そこから焼津まで私が連れてきたこともあった。

16/10/17

   夏前に結婚した従弟の内祝いを叔父が送ってきてくれたのだが、本人たちの連名の不祝儀袋でお供えが来た。
   かなり???だったのだが、家の亡くなった父に報告をしたくてお供えの形にしたらしい。だいぶ以前に亡くなっているわけだし、わざわざ不祝儀の形にしてくる風習の所もあるのかと日本の広さを感じた。

16/9/24

   埼玉の叔父夫婦と従弟夫婦が昼に家に寄ってくれた。さすがの叔父も自分の運転での遠出はやめたらしい。「今日は親孝行をしてもらった」と行きがけに寄ってきた所の話をしていたが、こちらはお昼前から雷付きの土砂降り。心配しながら待っていた。
   お昼を食べて、母を病院に見舞ってくれて帰って行ったが、叔父も手足の湿疹から胃がんを疑われているらしくて検査中との事、遠出が大変になる前に来てくれたのかも。

16/9/22

   お彼岸の中日、O家の墓参りに行ったらお向かいの墓に叔母と従弟が来ていた。同じ町に住んでいても叔母と会うのは半年ぶり、従弟とは前回いつどこで会ったかなという状況。お互いのお墓に線香を立ててお参りした。
   従弟は20年ものだというCR-Vにまだ乗っていた。乗りやすい車というのはあるもので、CR-Vは私も好きだったが、家はその後2台替えている。

16/8/30

   アルバムを片付けていたら、T家の祖父のアルバムが出てきた。アルバムが古くなって間で母が貼り直したのかもしれないが、年代がバラバラ。しかも、ずっと一緒に暮らしていたにもかかわらず父方の親戚関係のつながりはあまりよく知らない。それと祖父が会社勤めなのは分かっていたが、どこに何時という事はほとんど聞いた覚えもない。社員旅行やら祖母と一緒の旅行やらの写真が結構あるが、そんなに出かけていたっけ?とビックリした。
   そんな分けで、何時どういう状況の写真かはほとんど不明。しかし、和賀家の写真好きは承知していたが、T家も祖父の軍隊時代の写真や父の幼い頃の写真まであって、写真好きは共通であるらしい。
   そういえば大昔、押し入れの中で写真の現像ができるようにしていたのは祖父だったか父だったか…。

16/8/25

   入退院を繰り返している天王寺の叔母が今週中にも退院するようだ。今度はかなり心配して病院に泊まり込んだと従妹が言ってきていたが、介護度は上がったようだがとりあえず退院までこぎつけて良かった。

16/8/17

   本日午後3時30分に十勝の叔父が亡くなられたそうだ。めったに上陸しない台風の中、家族みんなに見守られての静かな最期だったそうだ。
   和賀家的には従弟の結婚披露宴とニアミスになりそうで、どうしたものかとの話もあるが、こればかりは不意なので仕方がない。

16/8/13

   お盆の棚経をあげにお坊さんが来る前にTOPPOさんも一緒にマーミ宅へ。
   今年はお坊さんがここの他に実家の檀家さんも回らなければならないという事で早くなったようだ。マーミのきついジョークにもジョークで返せるようになって、お坊さん、こちらの面でも修行を積まれているようだ。

16/8/9

   「今年は棚経が7時45分からだよ」とマーミから連絡。年々早くなっているような…。

16/8/8

   瑞穂の従妹から今年の花火には末っ子の彼女も連れてくると電話。無事に社会人になったので後は好きにしたらと認可したとの事。それに引き換え次女はマイペースで独身生活を楽しんでいる模様。従妹も結婚が早かったので「うらやましくはある」そう。

16/7/30

   「アルバムが届いたよ」と田原本の従妹から電話。それは建前で親戚の噂話をあれこれ。連島の新しい嫁さんは末っ子の同僚らしく、そんな話を色々と話してくれた。

16/7/29

   母が作りかけたままにしていた『和賀家のルーツアルバム2』をとりあえず兄弟分そろえてあったので、叔父・叔母に送った。
   『和賀家のルーツアルバム1』はかなり大昔にF家を中心に母の兄弟9人とその子供たちの家族の写真を送ってもらって作った。F家は新しい物好きも手伝って写真大好き家族で大正末期からの写真が残っている。しかも祖父が10人兄弟。当時の事で何かの事があるとそろって写して親戚に配ったようなので、大阪で空襲にあって焼け出されているのだが、親戚たちから「あなたの所の写真だから」と後に貰ったようだ。そんなわけで母たちの曾祖父母から折々の写真が残っている。その割に母が選ばなかったからか結婚式の写真がそろっていない。
   そして今回『和賀家のルーツアルバム2』は母方の祖母のルーツ、N家とその母方のA家の写真を祖母の姉が持っていたものをその息子(母の従兄)が亡くなった後で頂いて、関係のあるものをまとめたらしい。ただ、こちらに関しては私もあまり知識がなく、関係がよく分からない。
   私から見ての曾祖母という人には私も会っている。そろそろ体力も落ちて最後の旅行になるだろうと岩手から東京の祖母の姉宅を訪ね、その後、岡山へ行くというのに私たち親子が一緒に付き添った。汽車ポッポの大旅行(私にとって初めての)のほとんどを曾祖母の側に居たはずだが、硬い3等車の座席に向かい合ってコロリと横になって「さあねんねしよう」と寝かしつけられたのを何となく覚えているくらいだ。
   後は母の話に出てくる「多分この人」程度のものでしかない。もう少し早く、皆が元気な内に話を聞いておくべきだった。

16/7/25

   先日、十勝の叔母からの便りで、叔父の体調が悪いがもう薬などは止めて尊厳の中で最期をすごすと言ってきたのだが、今日の従弟からの便りによると体調を持ち直してお元気になっているようだ。北海道の夏はすごしやすいし、少しでも長くお元気に過ごされればと思う。
   大津の従妹からは子供達も夏休みに入り、それぞれ部活などを頑張っていると言ってきた。

16/7/11

   連島の従弟の結婚式の写真を日比の従弟が送ってくれた。彼とのやり取りはソフトの違いか文字化けして送られてくるのだが、中身は無事。
   教会という仕事柄、結婚式は内輪でできる。祭主は日比の長男、祭員は田原本の末っ子。

16/7/9

   夜、横浜の義姉から電話。「最近コーラスの仲間に入っているの」と元気そう。10数名の仲間で年配の奥様が多いそうだ。「遅刻ばかりしてすっかり覚えられちゃった」と言って楽しそうだった。

16/7/8

   和賀家本家のお年忌の偲び草とともに頂いた本家のお兄さんの著書『人物点描  先師たちの横顔』を読んでいる。昭和26年から昭和34年まで続いた『金光教青年』という機関誌に連載されていたものを復刊させたものだそうだ。
   母などには懐かしい人がたくさん入っているのだろうが、私がじかにお会いしたことを覚えているのは中山亀太郎氏だけ。私が小学生の頃、新津の伯父が東京に来た時に母と一緒に付いて行ってお会いした。この本によると伯父の大学の先輩にあたるらしいが、「お世話になった」という話しか聞いていないので、それがいつの事なのかは知らない。当時は武蔵小金井の金光教の学生の東京寮の世話をされていた。
   子供の頃の事故で両手と片足をなくされて、足は義足だが、口と足を使って文字を書くこともするし、「できないのは羽織の紐を結ぶことくらい」と言っておられたが、当時国鉄の駅が自動券売機に変わりつつあり、「不便になった」とぼやかれていた。
   他にも母の話の端々に出てくる「分部の先生」や「しんせいせんせい」や、和賀家系の親戚のルーツに当たるらしい方、学生時代にお世話になった「武蔵野教会の先生」の関係筋らしい方など、元がコラムなのでつまみ食い的に読んでいる。

16/6/27

   日比の従弟から和賀家本家のお年忌の写真が来た。
   黒づくめの事もあるが、誰が誰だか…。何しろお祖父さんは10人兄弟、母も9人兄弟、本家の伯父さんは8人兄弟、その伯父さんの所は4人姉妹、それぞれに代替わりもすすんでいる。本家のお姉さん達と母の兄弟やその子供達以外は会った事があったかなぁ程度の付き合いになってしまっている。

16/6/22

   連島の長男(のたぶん嫁さん)から頼んでおいた自己紹介文が届いた。すでに彼女の誕生日の6/7に入籍をして一緒に暮らしているようだ。
   なんと、私と誕生日が一緒!何年の差があるかは私が大学時代にまだおしめをしていた長男坊を風呂に入れたことがあるのだから…。
   この2人、友人の紹介で知り合ったようだが、父親同士が同期生だそうで、世間は案外狭いものなのかもしれない。

16/5/23

   連島の長男の結婚が決まったそうだ。付き合いだして短いらしく「この前、実家で初めて会った」と彼のお姉ちゃんから。

16/5/22

   瑞穂の従妹の所はついに長男坊も家を出て「静かになった…」と。

16/5/21

   朝は十勝の叔母から電話、夜になって日比の叔母から電話。2人とも声がも話し方もそっくり。
   十勝は叔父が要介護になって、まだ動けるとはいえ色々と大変なようだ。日比からは色々な親戚情報。どちらも80歳を超えたはずだが声はまだまだ元気溌剌だ。

16/5/18

   天王寺の猫たちは微妙な距離ながら仲良くなりつつあるらしい。
   20歳になった長男坊は晩酌デビューだとか。日本酒が好きとは…シブい。
   天王寺も所沢も本家のお年忌には出かけるようだが、皆に会いたいが、私ばかりそうそう遠出もできない。

16/5/16

   岡山の従弟は今日退院したと電話が来た。かなり大変な手術になったようだが、まずは良かった。

16/5/11

   和賀家のお祖父さんの本家のお年忌の連絡が来た。
   私から数えてひいお祖母さんの60年祭。そして、お祖父さんの兄夫婦という人達は私は知らないのだが、その人の長男(お祖父さんの甥)の35年祭、その妻の30年祭だそうだ。
   ひいお祖母さんという人と同じ時間の中に生まれてはいたが、会う事は出来なかった。本家の伯父さんについてもお会いはしているだろうが、あまり印象に残ってはいない。伯母さんにはたまに岡山まで行けばたいていお会いしていた。成人式や結婚する時に作った着物を選んでくれたのもこの伯母さんだった。
   もう亡くなられてそんなになるのだなぁと思うと感慨深い。

16/5/6

   気胸で入院中の従弟は本日手術をすることになったようだ。元気にメールをよこすくらいなので、早く完治することを祈っている。

16/4/30

   新津の伯父の50日祭。(特集で)

16/4/29

   岡山の従弟が気胸で入院したようだ。叔母はとりあえず日比に滞在。

16/4/14

   岡山の従弟からメール。新しいアパートにようやく落ち着いたようだ。叔母が台所に立つようになってようやく食事が人並みになったかも…。

16/4/13

   『和賀家の通信』の発送準備をしていたら日比の叔母夫婦が今年はダイヤモンド婚なのに気が付いた。夫婦2人が元気でいる事がまず条件なので、とてもおめでたい事だ。

16/4/4

   岡山の従弟と叔母から電話。ようやく引っ越しが一段落ついたようだ。

16/4/3

   横浜の義姉から電話。割合に元気そうだが、相変わらず「片付けなくちゃ」と忙しそうだ。それでもこちらの兄弟たちの事を色々と心配してくれた。

15年