我が家&和賀家 19年
20/3/29
岩手の従弟の長男が無事に大学院を修了して県庁に就職が決まったようだ。
20/3/22
保福島の叔父さんの3回忌。普通ならばこのあたりでは家に集まってお経、さらにお墓参りに行って、祓いのお食事というのが一般的なのだが、新型コロナウイルス禍のこんな時なのでお寺に集合。本堂は広さがあるので、両脇に広々と間を置いて席が準備されていた。
皆マスクをしてだが、まず御本尊に『般若心経』をあげる。ついでお位牌に向かって『修証義』を上げてお焼香。普段ならここで和尚さんからのお話があるはずだがそれもカット。ご本尊の奥にある家の位牌をお参りしてからお墓参り。
こんな時なのでゆっくり話もせずに1時間ほどのお参りだけで帰って来た。
20/3/6
お米を頼んだら藤守の義弟本人が配達をしてくれた。「そろそろリハビリで動かなくちゃ」との事だが元気そうだった。
保福島の叔母からは叔父のお年忌の電話。時節柄お経とお墓参りだけで「お食事は持たせるから」という事になったらしい。
20/2/25
亡くなる人があれば生まれる人もあり。藤守の孫が誕生。
2/17生まれで22日に退院したそうだ。3100gの元気な女の子(退院後に体重は順調に増えているそう)。ジジ&ババにお披露目に来たついでにこちらにも見せに来てくれた。
「人見知りをしない子になるように抱っこして」と言うので、生まれたてをこわごわと抱かせてもらった。だいたい赤ちゃんを抱くと泣かれるTANUKIおじさんにも堂々と抱っこ。口をモニャモニャさせてご機嫌でいてくれた。
20/2/24
今朝、日比の叔父が亡くなったそうだ。
日比も叔母がシャキシャキと切り回す方で、叔父はのんびりしていたが、昨年に入って大分仙人化していた。それでも「どこも悪くないし、自分の事はやれるから」と叔母が言っていたので大往生だったと思いたい。
20/2/2
藤守に義弟の様子を見に入ったらもう起きていた。「痛いよ」と言いつつも顔色も悪くなく元気そうだった。病院も満員で抜糸(と言っても今はホチキス止めらしい)が済んだら退院だそうだ。それでも摘出した腎臓の血管のかなりの部分が詰まっていたようで、担当の医者もじきに転勤するとかで良いタイミングだったそうだ。
藤守の家は今台所と水回りをリフォーム中で寝るのはこちらだが、食事と風呂の為にアパートも借りているそうだ。
20/1/31
藤守の義弟本人から「無事退院した」と電話。腎臓を片方摘出したそうだ。「まだ痛いけどね」との事だが声に力があってとりあえずホッ。
20/1/29
連島の従弟から連島の住所で寒中見舞いが来たので、どうやら実家に引っ越して落ち着いたようだ。これで叔父・叔母も少し心のゆとりが出るのではないだろうか。
20/1/22
藤守の義弟、腎臓摘出の手術の予定。
20/1/2
今年もO家・Y家の親戚へ年始回り。箱根駅伝の2区の学連選抜で農大の子が出ていたので、そのタスキ渡しを見届けて出発。
まずは保福島の叔母の所から。叔父の1周忌が終わってから「あちこち疲れが出て痛くて」との事だがお元気そう。ここに来るとTANUKIは居心地がいいのか話し込んでしまう。相変わらず玄関先で色々な花が咲いていた。そのまま藤枝へ出てジュンちゃんの実家へ。最近はお孫さん達も大きくなってしまってお二人で静かなお正月のようだった。
次は築地へ。相変わらず従弟の嫁さんが先発でお留守番。昨年は初期の乳がんを切って数日入院をしたそうだが、すっかり元気になっていた。話している内に近所の次女ご夫妻が到着。車を適当に入れていたので、ご挨拶だけして入れ替わりで失礼してきた。
ぐるりと回って高柳へ。こちらは相変わらず長男坊はお出かけ。保福島で叔父さんの体調を心配していたが、脳梗塞を起こしてさらにリュウマチもあるので立ったり座ったりが大変になって来たそうだ。それでもお元気そうでよく話をされた。
次は道を間違えて小道に迷い込みながら小土。ここは周り中が小道に囲まれていて目標がない。今日は珍しくご夫婦でいた。奥さんが藤守の父さんと同期なので彼の体調を心配してくれていた。
次は港、叔母さんは施設入所されたそうだが、長男もお留守。次は当目へ。こちらも叔母さんは施設入所。テレビが付いているようなので叔父さんは居たのだろうが、出てこられなかった。お会いできないのは残念だが、最近、細い道で停車するより安全なので海岸の駐車場に車を停めるのだが、穏やかな蒼い海がきれいだった。
ずっと戻ってきて大の叔母さん宅。娘さんが来ていて彼女ともしばらくぶりでおしゃべり。「もう50だよ」という彼女に息子さん達が成人したのだから当然とはいえ、私が来た時まだ小学校に上がったばかり位だったのを思うとビックリ。
最後は本家のマーミ宅。毎年お墓の世話も任せっぱなしだが「墓参りしないのか」と言われて「手だけでも合わせてご挨拶しようか」と皆で向かいにあるお墓まで。帰りに初詣もまだだったと七社神社もお参り。
家に戻って夕方、築地の長女夫妻が帰る途中に寄ってくれた。
19/12/30
例年通りマーミ宅で餅つき。今年も藤守が合流。今年は長男坊も助っ人に来た。他は近所の子供達3人。
ワイワイ言いながら米を蒸して搗いてのす。何故かマーミがかなりハイテンション。近所の子供達が合流して、餅つき機に興味津々、やり方を聞きながら搗きをまかされてくれる。6年生だというお兄ちゃん、なかなかタイミングを見るのが上手。
そうこうしている内に藤守が合流。「お供えがもっと必要」との事で、あんこが出る前の綺麗な内にお供え餅の増産。藤守の長男坊は家でずっと搗いていたはずだがお供えを丸めたりはやった事は無いようだ。口から出てきたようなオジサン軍団の指導がどんどん入る。
最後はおさんこち。「少し滑らかな方が良いな」と言ったらお兄ちゃんがちゃんと調整をしてついてくれたのには驚いた。他の子供達も加わって、あんこを包んだおさんこちにする。鳩の形だそうだが、どれだけあんこを入れてうまくまとめられるかが腕の見せ所だが、どうも自分の体形に合わせたものができるようだ。今年のあんこはしっかりできていてたくさん作れたがお餅が余り、最後はまたのし餅。
大騒動の途中で歳とり餅。子供達はそこまででテンションが上がり過ぎたのかあまり食べなかったが…。
餅つき終了後はお昼ご飯。「ここでお寿司を食べると年末を感じる」とマーミ。藤守も「正月にはよし寿司で頼んである」といつの間にかみんなご贔屓になっていた。
最後に兄弟3軒で引き取り分を決めて解散。ここから藤守も子供達の所などに分配するし、家も義姉やTOPPOさんの所へ宅配。マーミも友達やら知り合いやらあちこちに分配予定のようだ。
19/12/24
ちょっと藤守へ。今日病院に行ってきたとかで父さんは検査結果がいまいちとガッカリしていた。なかなかはっきりと決まらないが「早めに手術かな」との事だった。それでも2月末に生まれる孫ちゃんが女の子だと分かっているようで楽しみにしているようだった。
19/12/18
朝、日比の叔母から連島の叔父が危ないと電話が来た。夏から体調を崩していたので、とうとうかと思ったのだが、昼頃に叔母から再度電話が来て、「入院はしたけれど検査の為らしい」という事でひとまずホッ。
どうやら連島の叔母が不安で大げさな話になったらしい。無事に年が超させてもらえれば良いのだが…。
藤守も昨日検査をしてきたとの事。こちらは薬が身体に合っていればしばらく大丈夫なのだが、「腕が動かしにくくって」と言いながら重たい米を配達してくれた。しかし、我が家はこれが今年の初新米。何しろ秋は1人暮らしで、米1合を2〜3日掛かりで食べていたのだから。
19/12/11
夜、日比の叔母から電話。
「元気そうだね」と応じたら「声だけね」と賑やかに色々な事を話してくれた。
金光へ行った時「なかなか知っている人に会わないな」と思っていたら田原本やら他の親類やらの何人かに会えた事とか。叔父さんがお風呂の中で立てなくなってしまい、大騒動で次男坊と一緒に引き上げたものの1時間近くかかってしまって疲れ果ててしまった事とか。幸い叔父さんは風邪も引かず、その後、特に体調の悪い所があるわけでもないらしく笑い話にさせてもらったが…。料理が得意な叔母だったが、次男坊に「もう少し美味しそうに盛らんかい」と言われるとか。幸い次男坊も料理は好きで自分の分は自分で作って「お裾分けもしてくれるんよ」との事だった。30分近く取り留めのない話をしてしまった。
もう90代と80代の叔母夫婦、次男坊(従弟)も60歳の大台に乗ったのだから、あれこれあるが、笑い話でいられる間はそれで良いと思う。
19/11/30
横浜の義姉から「焼津で何かあった?」と電話。こちらの義兄が電話をしたらしいのだが、用件がよく分からない電話だったらしい。
つい先日、「東京に行ってきた」と家にもふらりと寄ったので、その時の事かと思ったら「職場から」と言っていたという。
19/11/25
静岡の叔母はO家の父の遠縁なのだが、街の真ん中で昔ながらの駐車場をやっているので何かとお世話になっている。
先日、保福島の叔母と「元気かね」などと話していたので、TANUKIが日赤へ行ったついでに寄って来たそうだ。
もう良いお年なのだが、「しっかり喋り倒された…」と言いながらTANUKIが帰って来たのでお元気のようだ。
19/11/23
義兄が自転車でふらりと「トイレ貸して」とやって来た。この義兄の行動はなかなか読めないのだが、TANUKIの様子を心配して来てくれたらしい。
その割には何を話すでもなくしばらくしたらまたフラリと帰ってしまった。
そういえば今日はこの人の誕生日だった。
19/11/17
T家の祖父50年忌・祖母33回忌・母3回忌+叔母・父も含めてお年忌。もちろんお坊さんは修行明けで一皮むけた叔父の孫娘の婿殿。
まずは石屋さんへ集合。せっかちな家系(だと思う)のせいか皆さん早々と集まっている。お墓の麓の八王子の町がお祭で道路が混むらしいと地元組が早々と集まって来た事もあるらしい。家が1番遅かったが、一番距離があるし良いにしてもらう。それでも30分は早く集合。
50年忌なのでもちろん孫・曽孫たちには?の人、という事で叔父からちょっとお話。しばらく三鷹に寄宿していた(たぶん私たち親子が中野に居た頃)叔母の弟さんも来てくれていた。
まずは墓前祭。真昼で風もないのだが丁度日陰になっていて肌寒かった。それぞれのお年忌に合わせたお経を唱えてくれ、小さな子供達もしっかりとお焼香をして、結構な時間のお祭となった。終わって日向に出て皆でホッ。
その後は八王子の街に出て精進落としの食事。地元組が危惧していた通り、お祭の人出で道は大渋滞。クラッシックカーのパレードなのか懐かしいタイプの車がたくさん集まっていたりもした。
食事の前に言い出しっぺが乾杯の挨拶をしろと言うので、お祖父さんが亡くなって50年、それでも子・孫・曽孫・玄孫までが一堂に集まれるのは良い事だというような話を子供用語でした。
食事中の話題はもっぱら修行から無事帰って来たご本人の話。かなりハードなものだったらしい。
子供達は自分達の食事が終われば遊び始め、だんだん賑やかになっていった。
これでしばらくT家の全体での集まりはないだろうが、やって良かったと思った。
19/11/9
午後から、藤守とマーミ宅へ入院中世話になったお礼を言いに廻る。
藤守の義弟は薬が変わってからあまり体調が良くないようだ。しかし、TANUKIと2人お互いに自分の言いたい事を話していて、何となく話は通じているようだった。
マーミの所では退屈していたらしいマーミが待ってましたと色々話しだし、途中でTANUKIが寝たふり。TANUKIが内科で兄と会い、「俺が入院したという話をしたのに何も言ってくれなかった…」とぼやいていたが、やはり心配になったらしくて、こちらで様子を聞いたようだった。
19/11/8
田原本の従妹から電話。今年は大忙しで、今までなった事のない胃痛に悩まされているとか。その他親戚の情報も少しずつ。
十勝の従弟からはメール。いきなり氷点下の世界だそうだが、叔母さんはお元気。ご本人はインフルエンザ明けで仕事に追われているそうだ。
19/10/27
横浜の義姉から「静岡も台風の被害があったみたいだけど大丈夫だった」と電話。「本当に被害があれば電話どころじゃないから」と落ち付く頃を見計らってくれたらしい。
幸い義姉の所も雨風の音はものすごかったけど何事もなかったそうだ。
19/10/16
連島の娘からメール。叔父について『検査結果に沿って治療はしていて(手術はしない)、今は両親とも落ち着いて過ごしています』との事。市内に住んでいる次男の嫁さんがしょっちゅう様子を見に行ってくれているようだ。彼女も月1くらいで顔を出しているようだ。
19/9/21
日比の叔母から電話。先日、天王寺のお年忌があったそうだ。内輪でという事で日比と田原本がお参りをしたそうだ。
連島の叔父の話も出たが、あまり詳しい事は聞いていないらしく、声は元気そうだったとの事だった。連島の長男家族が暮れまでには何とか帰ってこようとしているようだ。
また、日比では最近イノシシが出るらしく、庭を荒らされたとか、次男坊が飲み会から帰って来る時に遭遇したとか大変なようだ。
19/9/20
十勝の叔母からの手紙で連島の叔父の体調が悪いらしい。
検査のためにしばらく入院をしたらしいが、連島は叔母さんの体調もあるので長くは入院していられなかったようだ。
十勝の叔母自身は車の免許の更新をしたそうだ。
19/9/19
彼岸の入りにはちょっと早いが、天気の良い内に八王子まで墓参り。しばらくぶりの1人旅だ。
珍しく東名がそこここで大幅な工事中。行き帰りともハザードを付けて止まってしまうほどの渋滞に、しばらくぶりでしかも何度かあった。それ以上に工事個所は多かったが…。そして御殿場も相変わらずどう繋がるのかよく分からないが、鋭意道路建設中だった。
9時過ぎに出たのだが、谷村PAで11時半のお昼。中央道はそれほどでもなかったが、今日は圏央道も混みあっていた。
12時半頃、お墓に到着。石屋さんに挨拶をして花と線香を買ってお墓へ。墓でたっぷりのクモの巣に迎えられた。簡単に掃除をして花と線香を供えてご挨拶。
そのまま一山超えた親戚のお墓へ。そこでバッタリ父の従弟家族と遭遇。お互いに顔を覚えておらずすれ違ったのだが、お墓参りをしたのが分かったようで、駐車場で「どなたでしたっけ?」とご挨拶されて、しばらく立ち話。叔父さんは「胃がんの手術をしたんだよ」との事でだいぶ細っそりとされていたがお元気そうだった。「娘の近所に引っ越したんだよ」との事だったが、父方の親戚は皆さん父と少し年が離れている事もあって私はあまり詳しくない。一緒に居た娘さんは瑞穂の従妹と子供の頃仲良しだったらしく、懐かしそうだった。
19/9/8
藤守の長女の結婚式。TANUKIが楽しみにしていたのだが退院が間に合わなかった。
新郎新婦による近い親戚だけのアットホームな式と食事会。
浜松の会場だったので藤守の次男坊夫婦が車に乗せて行ってくれた。
お式はキリスト教式、式の後は写真撮影会、といってもカメラマンが撮ってくれたのは全体写真だけで、後は「お好きにどうぞ」。
食事会は新郎新婦もしっかり食べながら、双方の親族の紹介を兼ねた挨拶。自分達の自己紹介から新郎新婦がそれぞれの親族を紹介しながら1言ずつ挨拶をもらう形にして進めていった。長男坊兄ちゃんの「小さい時は(上2人が男の子なのでそのまねをしていて)男の子みたいだったけど、綺麗になったよな…」の彼らしい感想がなかなか良かった。
先方のご両親は教員、叔父様に警察官OBもいらして、類は友を呼ぶといったところか…。
お互いに安らげる家庭を築いていってくれれば良いなと思った。
19/8/29
『小学生から続けていた野球ですが、まさか最後の夏に甲子園出場の夢が叶うとは…本人も家族にとっても最高の夏になりました。』と甲子園に出た子のママからメールが来た。
天王寺の家に泊まり込んで応援に通ったようだ。
さすがに親は良い写真を撮っている。
19/8/23
従弟の娘の婿殿、春から本山で修行中との事だったが、回峰行第初百日及び参篭を終了したという挨拶状が届いた。
衣をつけていなければ普通の穏やかな若者だが、色々と得るものの多い修行でまた成長をしたのだと思う。私は宗教は人を幸せにするものだと思うのだが、周りに幸せのお裾分けの出来るお坊さんになってほしい。
19/8/15
昨日よりも天気は危うげ。しかし台風本体は西寄りに進んだので直接の大きな影響はない。
従妹一族はもうちょっと子供達を遊ばせたいしお昼はお魚が食べたいと午前中に沼津方向へ。TOPPOさんもお昼を食べて早々に帰宅。
子供達の声が聞こえている間、隠れていた猫達がようやく出てきて、そこここでのびている。もっとも子供達は猫と遊びたいだけで今回は棚の上に居たはなが「遊ぼうよ」とさんざん声をかけられていただけなのだが…。長女家の長男はだいぶ落ち着いてきたので帰る前にこっそりネコのいる所へ連れて行って「皆いるよ」とそっと見ていった。
19/8/14
従妹一族(従妹夫婦・長女一家・長男一家・次女)は11過ぎに登場。しかし、残念ながら花火は台風の影響で中止となった。
長女の所の3人の子供達もずいぶん大きくなったし、昨年生まれた長男の所の子供もつかまり立ちをするようになっている。ジイジもパパ達も積極育児派なのであっという間に賑やかな子供部屋。長女家のパパは子供達が大きくなってきた事で甘いだけでなく「イケマセン」もきっちり指導するようになった。
台風の影響がとはいえ、空は晴れたり曇ったり時々雨が降ったり。お昼を食べた後、頭の上に屋根があればと子供達はディスカバリーパークへ。
夕方帰ってきてTANUKIおじさん誕生会パート2。ただし、まだ前祝。みんなで「ハッピーバースディ」を歌ってTANUKIの買ってきたモンブランを食べた。驚いたのは長女家の5歳の次男坊がかなり大きなモンブランを相当量食べた事。この子、お夕飯は早々に「ごちそうさま」だったが。
夕方には藤守の長女が父さんと「結婚の報告をしたい」とお線香をあげに来てくれた。今日は「猫は家でいじけて留守番している」そうだ。
夜にはマーミ&ジュンちゃんが遊びに来て、また賑やかになった。
19/8/13
国学院久我山高校、2回戦は敦賀気比高校戦。残念ながら打たれ負けして19-3で敗退。それでも従弟の次男坊は打点も取ったし、良い守備で頑張っていた。
19/8/8
高校野球は1回戦が続いている。昨日、静岡高校は負けてしまったが、本日は西東京代表(私の故郷)・国学院久我山高校が群馬の前橋育英と対戦した。従弟の次男坊はバリバリのレギュラー出場。特に特徴があるわけでもないが、和賀家系の団栗眼。
試合は取られては取り返すのハラハラした展開になったが、7回にひっくり返しての逆転勝ち。終わってみれば15安打で打ち勝っていたが、家の坊主はヒットなし。しかし、守備では良い動きをしてチームを盛り上げていた。
19/8/1
日比の叔母からも孫が甲子園に出ると楽しそうに電話が来た。
「応援に行きたいけど甲子園暑いよね」の話から叔父さんの話へ。「起きて、ご祈念して、ご飯食べてまた寝て…」と叔母の話は続いていくが、年齢から考えれば十分お元気。金光まで「バスと電車で」ご本人が出かけたいようだが、郵便局まで1人で出かけたら「やはりやめておこうか」になったようだ。この暑さの中では元気な年代にでも干からびかねないのに。
進学して名古屋へ行った孫が「夏休みだろうにまだ帰って来ない…」と寂しがってもいた。
19/7/28
高校野球の地方予選も佳境に入っている。
今年の西東京代表はしばらくぶりの国学院久我山。私の若い頃はスポーツ校で野球だけでなくサッカーやラグビーでもよく名前の挙がった、えらく懐かしい名前が出てきた。ここで書きだしたのは和賀家の従弟の次男坊が野球部に居るらしく、彼の伯父さんが甲子園出場の報を狂喜乱舞してメールをくれたためだ。
毎回、故郷の西東京のチームは応援しているが、今年は楽しみが増えた。
19/7/19
藤守の義弟が自分で車を運転してやって来た。見た目は前回会った時よりも元気そう。
体調が悪いなと思いつつ、娘達と旅行に行っていて具合が悪くなったらしい。帰ってきて「どうもこれはおかしいよ」という事で病院へ担ぎ込まれたようだが、途中から本人の記憶は飛んでいるらしい。幸いぶっ通しの点滴で無事に復活し、この際だからと色々検査をして、秋の終わり頃に体力のある内に手術をしようという運びになったようだ。
ついでにおもしろい話を聞いた。次男坊が結婚した時、嫁さんのお母さんがやはり体調を崩して手術後1月半くらいだったそうだ。彼らの新婚旅行はそれから少し先になったのだが、同じ飛行機で嫁さんのお母さんが前からの約束で友人との旅行に出かけたらしい。旅先のホテルも一緒で行動は別々でもお母さんにとっては心強かったようだ。
19/7/17
日比の従弟が和賀家の50年祭の写真を送ってくれた。実は無料お試しのファイル解凍ソフトが期限切れでオタオタしたが、無料版が手に入りホッとした。
前回までは母の世代が中心だったが、だいぶ代替わりをした。それでも連島の叔父・叔母も日比の叔母も十勝の叔母も健在で顔をそろえた。主力は連島の子供世代、田原本も家族でお参りをしたようだ。日比は3男一家以外は集合、天王寺は従妹が出たようだ。もちろん本家のお姉さん夫婦も来てくれたようだ。
連島のお年忌はいつの時も子供達がにぎやかな集合写真が残っている。世代は変わってもこうして小さな子供達がにぎやかにしているのが1番の供養のような気がする。
19/7/14
上皇陛下と同い年の埼玉の叔父がついに車の運転免許証を返上したようだ。昨年の秋には親戚の手伝いに自分で車を運転してホイホイと秋田まで行っていたのだが、そろそろやめようかとは考えていたようだ。
しかし、首都圏に近い埼玉とはいえ、住宅街のただ中の自宅から最寄りの商店や医療機関までの足が有るのだか無いのだか…。叔母も足に不安があるし、行動範囲が狭まってしまうのは気持ちの上で老け込まないかとかなり心配だ。
19/7/12
先日、脱水症で入院した藤守の義弟は何とか明日、退院の運びになったようだ。
体調を崩している中で急に意識不明になり救急搬送されたようだが、とりあえず大事にならないで良かった。
19/6/2
田原本教会の布教100年祭にTANUKIと共にお参りに行った。狭い町でだいぶ道に迷い、教会前の受付で伯母さんや受付担当の娘三姉妹の顔を見た時にはホッとした。本家のお姉さんと最近結婚してこの近所に住んでいるという長女、日比の叔母さん、連島の長男の嫁さんと子供もお参りのメンバーの中に居た。田原本の夫婦はゆっくり挨拶もできないほど忙しく飛びまわっていたが…。
教会の中だけでは入りきれず、外(普段は駐車場らしい)にもかなりの椅子席を出す盛況だったが、教会部外者は多分我々だけだったのではないだろうか。
お祭りを行う祭員はほぼ和賀家系。本家のお兄さん・日比の長男・天王寺の娘・連島は長男の他に十勝のピンチヒッターで長女も参加、もちろん田原本の旦那も。
お祭は定刻の11時から祭主である親教会に当たる難波教会の先生のもと厳かに始まった。
100年前、難波教会で修行をした初代が、今とは少し違う所らしいが家を借りて布教して以来、2代目の伯父、3代目の今の教会長と続いて来ているそうだ。これからも次につながるようにという祈りが皆さんの中に込められていたのだと思う。親族の代表(関係あるのか?)の1人として我々も玉串を奉てんした。「家の親戚関係に男性が居てくれて助かった」とTANUKIが従妹に言われていた。
祭典後の難波教会の先生のお話によると、田原本の良さは手作りで神様に喜んで頂ける活動をしようという事で、祈りの折り鶴を今回の幕に使ったり、ここに至るまでに10000回神前拝詞奉納(達成)を行ったり、皆でお広前の天井を張り替えたりと頭を使い身体を使って実践をしている事が良いと仰っていた。
祝宴(直会)は教会の駐車場にテントを張って机を出して行われた。教会の若い人達がそろいのTシャツでキビキビと動いて準備をしてくれた。ただし途中から雨。「2代の先生は雨男だったからなぁ、雨と一緒に仲間入りしているんじゃないか」とどなたかが茶々を入れていた。
食事や様々な出し物、ビンゴゲームも終わり散会する頃には雨も上がって来たので、伯父も仲間入りをしていたのかもしれない。
19/5/30
藤守の姪の結婚式の日取りが9月に決まったようだ。ごく内輪でのお披露目という事だが、転勤と共に彼氏はハードワークに入ってしまって1人で段取りをしているらしい。
双方のお父さんに彼女のお祖母さんと体調を心配しながらの人が多いだけに早めに日取りだけでも決まって良かった。皆さん、それに向けて体調を整えられれば良いのだが…。
19/5/29
田原本教会が布教100年になり、100年祭を行うそうだ。
初代の女の先生は私は知らない。母の古いアルバムを見ていたら、大阪時代に行き来はあったようで、ご飯を呼ばれたり一緒にお風呂へ行ったりしたらしい。
母の次兄が2代目、現在の従妹の旦那が3代目でめでたく100年を迎えた。
私にとってはここの伯父が神様との縁をつないでくれたという意味では1番縁が深い一方、実際の行き来はあまりなかったので、親戚としての縁は1番薄いかもしれない。結婚以来何を言うでもなく田原本教会の機関紙『いのち』を毎月送ってくれていた。母がやらなくなってから6月と12月の祓いのお願いはずっと田原本に送ってきた。神様と私の距離はよく分からないが、お蔭で山あり谷ありの人生をここまで無事に過ごしてきた。
19/4/17
結婚して浜松に住み始めた姪っ子から電話。結婚式がなかなか決まらないようだが、入籍して2人で暮らし始めたので、ちょいとご飯でも食べに行けるくらいのお祝いを送ったのが届いたらしい。
仕事もちょっと切って、家でネコを構いながらお料理の研究中らしい。
19/4/3
焼津は今日がひな祭り。数日前お餅をもらった答礼にマーミの所にちらし寿司を届ける。
山ほどもらった餅はあちこちに配るほどだが、寿司は最近4人前3合分しか作らない。具の関係であまり少ないと作りにくいのだが…。ベースが岡山の祭り寿司なので、牛蒡・人参・竹の子・干しシイタケ・かんぴょう・高野豆腐・桜エビ・酢蓮・鶏肉・イカ・海老・アナゴ・さや・ゴマを混ぜ込み、錦糸卵とイクラ・海苔・紅生姜を飾る。
送った餅はそれぞれ「届いたよ〜」の連絡が入り、喜んでもらえたようで「マーミによろしく」の伝言付き。義姉からは「この前ケンカして仲直りしてないのよ」と言ってきたが、マーミの方は「なんだっけ?」状態だった。
まだ春休み中でマーミ宅の前は今日も子供達の遊び場になっていた。