我が家&和賀家 20年
21/3/20
藤守の父さんがお彼岸のお参りに来てくれて孫話。
初節句の孫ちゃんがついに歩くようになったそうだ。良く食べるようになり、先日は持たせた焼き芋をペロリと食べてしまい、後でお腹がお祭り状態になったらしい。
21/2/12
夜、日比の叔母から電話。そろそろ叔父の1年祭だが、特に何も予定はないようだ。
昨年の葬儀の頃はまだコロナ騒動もそれほどでもなく、子供や孫も皆帰ってこれたようだが、かえって今の状況の方が動きづらいようで、「お父さんも良い時に亡くなった」としみじみしていた。もっとも「2人でしていた事を1人でしなくちゃならないので忙しくて…」と相変わらず元気に忙しくしているようだった。
21/2/10
岩手の従妹から叔母さんの米寿のお祝いの写真が届いた。
子・孫・曾孫に囲まれて良いお祝だったようだ。孫達が結婚して曾孫も生まれ、いつの間にかメンバーが大分増えているようだ。
21/1/11
しばらくぶりに天王寺の従妹からメールが来た。昨秋、長男が結婚式を挙げたそうだ。昨年早々家を出たと聞いたのは結婚の為だったらしい。
21/1/6
朝から高柳のお葬式。9時半頃に葬儀場に集まってお経。O家側は亡くなった彼からすれば母親方の親類なのだが、保福島の叔母、築地の従弟、家の3兄弟+私が参列。葬儀社の係りの方に「どういうつながりで…」と聞かれたが、「みんなおでこが同じでしょ」で大笑いになった。
その後、出棺の準備で、花や折り鶴、昨夜お友達が書いていったメッセージ、お気に入りの靴やシャツ、マスコット、何故かカップ麺や大袋のポテトチップまでおさめられて旅立ちの準備。火葬場に向かった。
お骨揚げをして葬儀場に戻ってからお葬式。多分ご近所の方達も見えてくれていた。
最後の喪主挨拶で弟さんが「最近はあまり話すこともなかったが、15年間も透析をしていて、つらいとか苦しいとかも言った事がなかった」「趣味もそれぞれだったが、もっといろいろ話しておけば…」と言っていた。
戒名は慈雲康道清信士。旅が好きで、寡黙で穏やかな彼らしいと思う。
21/1/5
高柳のお通夜。コロナ禍なので親族のみ。それでもお経の後、お別れに来てくれる方がいくらか見えた。
鉄道好きでお正月もたいていどこかに電車に乗りに行ったり写真を撮りに行ったりしていて、記念切符や鉄道写真、食べたもの、出会った人の写真などが残っていたようだ。
他にも「彼のボーリングのボールと靴だよ」と持ってきてくれた人が居たり、何かのキャラクター人形(誰かが持ってきてくれた)が飾られたり、兄弟達もあまり知らなかった普段の顔が垣間見えたお通夜となった。
21/1/2
例年通りにTANUKIの親戚を駆け足で年始回り。コロナ籠りで家族が離れている所はそれぞれに大変のようだ。
普段なら玄関口でちょっと話してどんどん進むのだが、先日親戚に訃報を回そうとして電話番号が分からないのに懲りたTANUKIは、あちこちで電話番号の交換をしていた。
藤守は昨年おばあさんが亡くなられて忌中だが、お参りをさせてもらった。夜勤明けの次男家族も来ていて、孫ちゃんを中心ににぎやかだった。
20/12/30
朝からマーミ宅で餅つき。コロナ禍でもさすがにお正月の餅くらい搗こうという事になった。ただし今回は藤守と家と兄弟だけ。男ばかりでも3人寄れば賑やかい。
せっせとのし餅を作る合間にお供え餅とおさんこち。少なめのはずが昼過ぎまでかかった。
終わる頃に藤守の次男坊一家が登場。孫ちゃんが大分大きくなって自己主張をするようになった。ただし今日は餅が広がっているし餅取り粉だらけで抱っこから解放されなかった。力持ちの次男坊のお陰でせっせと積み込みも済み藤守は撤収。
我々もお昼をご馳走になって撤収。
午後は、保福島を誘って高柳へお悔やみに。急逝だったのでやつれた様子もなく、今にも起きだして話に加わりそうな様子だった。それでも「ずいぶん体重が落ちていた」と弟さんが言っていた。お葬式は年が明けてから。
20/12/29
高柳の長男が亡くなった。TANUKIの従弟。
透析をしていたとはいえ、若いし元気でいたのだが、今朝起きて来ないのでどうしたのかと思ったら、亡くなっていたそうだ。本人にとっては眠っている内に逝くのは大往生かもしれないが、残された方は大変だ。
20/12/21
連島の従弟の嫁さんから電話。みんな元気でいるようで良かったが、この状況で姉弟がなかなか集まれないので50日祭はしたものの、叔父の納骨ができないままらしい。叔父さんも家の事はだいぶ心配をしていたので、まだ家にいて見守れているのはかえって幸せかもしれない。
20/12/7
埼玉の叔父から電話。コロナでずっと仕事もなかったのがここにきて忙しくなってきたとの事。まだやっているんだ!
20/11/29
米を届けてくれた藤守の義弟が「もうつかまり立ちをするようになったよ」と孫話をしていった。
20/11/3
義兄から電話。特別養護老人ホームに入居したそうだ。
20/9/20
和賀家の本家のお姉さんからメールで孫ちゃんの写真が来た。そろそろ3月。コロナ足止めもあったようだが、そろそろパパの待つお家へ母子も戻る予定だそうだ。
20/8/22
午後から藤守のおばあさんのお葬式。お昼前に火葬されたからの告別式だった。
この時期なのでほとんど親族で、それでも中ホールがほぼ一杯の人だった。
いつもニコニコされていて畑仕事やお孫さん達の相手をしていたが、趣味も豊かな方であったらしい。
3人の娘さん、8人のお孫さん、6人のひ孫ちゃんに囲まれて幸せなお母さんだったと思う。
戒名は喜質貞幹大姉、享年88歳。おじいさんが天国で待ちくたびれておられたことだろう。
20/8/21
夕方、藤守のおばあさんのお通夜。コロナ禍なのでご親戚だけ。昨年の藤守の長女の結婚式でお会いした時とほとんど変わらないお顔だった。
小さなひ孫ちゃん達もいるのでお経に子供の声がかぶったりもして、おばあさんをお見送りをするのには良いお通夜だった。お坊さんがお帰りになり最後のお別れをしてこちらは帰ってきたが、お焼香に見えている方達がロビーに来ていた。
会場は2家のお通夜という忙しさだった。
20/8/17
藤守のおばあさんが亡くなられた。ついこの前「ちょっと弱ってきた」という話を聞いたばかりだったが、透析をされていたこともあり、最期は急だったようだ。
初めてお会いした時のお若くてきれいなというイメージがずっと残っているが、もう87歳になっておられた。
20/8/14
午後、藤守の義弟がお盆のお参りに来てくれた。
本人は元気そうだがおばあさんが大分弱って入院中だそうだ。
婿殿はコロナ対応に追われているようで、忙しそうだ。
20/8/13
お盆に入ったのでマーミの所へお参りに。今年は棚経のお坊さんも見えないので、こちらは朝早く行く必要はなくなったが、マーミの方は盆棚を作るのをパスしたようだ。お位牌は仏壇に鎮座しているのでお線香をあげてごあいさつ。
お墓のお花もこれからお供えに行くと玄関でスタンバイしていた。
20/7/20
大津の従妹から、「父の50日祭が無事に終わりました」と電話が来た。こんな時なので本家と日比、田原本、叔母さん方の京都と三重の親戚が集まったそうだ。
ついに和賀家系の9人も居た伯父さん叔母さんも叔母さん2人になってしまったねとしみじみしてしまった。
20/7/19
埼玉の叔父から電話。大雨は家が高台のため大丈夫のようだが、コロナには参っているようで「都会には出れない、車も卒業したし、退屈だ!」と宣っていた。
20/7/18
お米を持ってきてくれた藤守の義弟とアレルギー皮膚炎比べ。彼は薬の副作用らしく、手足にブヨにかまれたような発疹をたくさん出していた。「薬も良いけどステロイドの塗りすぎはねぇ…」とお互いにブツブツ。
夕方、横浜の義姉から電話。しっかりとステイホーム中らしく、予定は通院ばかりのようだ。
夕方、函南の従兄からも電話。この長雨で畑が水浸しだとボヤいていた。ようやく畑にかかる余裕が出たのではないらしく、仕事帰りにぼつぼつとの事だった。
20/7/12
藤守の次男坊一家が子供の出産内祝いを持ってきてくれた。
ヒロインは首も座って体つきもしっかりしてきたが、そろそろ人見知りスタート。それでも抱かさってくれた。
20/7/8
和賀家の本家のお姉さんから珍しい電話。長女に男の子が生まれたそうだ。
実はお姉さんは4人姉妹、そのお子さんも女の子2人、しばらくぶりの男の子登場だそうだ。
20/6/20
高柳の叔父さんが次男坊と一緒に家で採れたプラムを届けてくれた。細くなられたようだが、庭での立ち話でも平気で立っておられる。まだまだお元気そうでありがたい。
20/6/10
大津の従妹からメールが入った。
『5月30日に父が満81歳で逝去しました。最期は眠るように呼吸が停まり大変穏やかな顔でした。
6月1日に長浜教会の先生御祭主の元、葬儀も無事に終わりました。御礼申し上げます。
昨年の夏、連島の祖父母50年と45年祭を仕えさせて頂いてから、病院を受診し、病気が分かりました。抗がん剤の治療を続けながら、教会の御用に使って頂き、長男夫婦、次男夫婦の助けもありながら母と最後まで、自宅で生活する事が出来て、父もきっと幸せだったと思います。父の病気を心配して下さり、また父のことを愛して下さったみなさんに心より御礼申し上げます。
これより父は神様のお側で、御霊としていつも見守ってくれている事と思います。
教会は長男夫婦が継いでくれます。父の最期の言葉「みんな仲良うせえよ」を胸にみんなで仲良く生きていきたいと思います。』
20/6/5
連島の長男から電話。
叔父さん、「まだもうしばらく頑張りたかったようだった」そうだが、「最後は満足して亡くなったのでは」とのことだった。
20/6/1
夜、大津の従妹から「無事に父のお葬式が終わりました」と連絡がきた。
姉弟家族皆で見守りながら看取れたそうで、「穏やかに眠るように亡くなりました」とのことだった。
こんな時期なので、日比と田原本が駆けつけた位で内輪のお葬式になったようだ。
叔母さんも自分の事はまだ自分でできるそうだが、感情の波が大きかったり、台所仕事などが見ていないと怖かったりと心配なようで、叔父さんも最後まで心配していたそうだ。
20/5/30
今朝、10時過ぎに連島の叔父が亡くなった。昨年の夏からここまでよく頑張ってきたし、朝、日比の叔母から「危ない」と連絡が来ていたので覚悟をしていたが残念だった。
この叔父は母の末弟で、大学卒業後数年間、東京の会社に勤めていたので、三鷹の家にも来ていたし、年末には帰省時に連島に連れて行ってもらっていたりした。小学校の半ばの頃で、大家族で育っていた叔父だからこそ、子供連れでの満員の帰省列車の長距離移動も面倒がらずに連れて行ってくれていたのだろう。ずいぶん後になって「満員電車でつぶされやしないとハラハラした」と言っていたのを聞いたが、こちらは記憶もないのだが結構気を張って面倒を見てくれていのかもしれない。1度岡山からの帰りに叔父の会社の寮に寄ったことがあった。食堂の叔母さんとおしゃべりをして何か食べた(お正月だったしお雑煮か何かか?)記憶があるのだが、高層ビルからの眺めに気を取られてはっきりとは覚えていない。普段はにかみ屋の叔父が妙に張り切って「姪なんです」と紹介してくれたことが忘れられない。
写真は叔父が就職のために出てきた頃、という事は私は小2位だったはず。井の頭公園の温室前。
20/5/20
日比では2人の孫が大学生に。
叔父さんの亡くなられた2月の末はまだ移動の自粛などがなかったので、関東に居る子供達もお葬式には帰れたようだが、その後は近くに居る親族でひっそりとしたお祭になったようだ。
叔父さんが亡くなられた後ようやく一段落ができたようだが、「お父さん任せだった早起きが大変」と叔母さん。
20/5/19
滋賀の従妹から手紙が来た。
今年は長女が専門学校を出て、仕事を開始。次女は大学へ。
実家に弟一家が入ってくれて、少しホッとしているようだった。
20/5/18
十勝の従弟からメール。北海道も札幌以外の営業自粛は解除になっているそうだ。しかし、子供達の学校も孫の保育園もお休み。
「こちらはほぼいつも通り忙しいのに…」と言いつつ、山歩き中に肉離れを起こして2kmばかりを足を引きずりながら帰って来たらしい。
長女は職場の施設は休業中でオンラインショップの担当をしているそうだ。 いけだ・オンラインマルシェ
20/5/15
横浜の義姉から電話。病院以外に出かける先がないとぼやいていた。買い物は少し多めに注文をして配達をしてもらっているとか。趣味のコーラスは会場ごと閉鎖でいつ再開するのやららしい。
長女の作品が入賞したそうで喜んでいた。次女の方は都会の仕事先に出られずステイホームだったようだが、家の片付けをしてくれたり、ご飯を作ってくれたり、良くやってくれると喜んでいた。
20/4/19
十勝教会が今年で100周年だったのだが、予定が立たなくなったと記念祭は来年に延期としたそうだ。
20/4/3
昨夜、マーミから「今年は餅つきはやめておこう」と連絡。新型コロナ禍でだいぶ悩んだようだったが、今日会ったらホッとした顔をしていた。
20/4/1
日比から叔父の50日祭の連絡が来た。ただし、この新型コロナ禍の事で、家族だけで行いますのでご遥拝頂ければとの事だった。