12/3/29
午後にはTOPPOさんも帰らなければなせらないので、午前中に裏の瀬戸川の土手を散歩。
穏やかに晴れて風もなく、絶好の散歩日和だった。ようやく桜がちらほらと開きはじめ、菜の花やタンポポの黄色、仏の座やカラスのエンドウのピンク、スミレやムスカリの紫、水仙の白や黄色と春らしい風情になった。
途中の水神社では日曜日のお祭りを前に近くの方が祠の前のスペースの草刈と地均しの最中だった。そして、4/8にはみなとマラソン、それの準備のためか老若男女ジョギング中の方も多かった。
おしゃべりをしながら花の写真を撮ったりして40分ほど歩いて春の空気を吸ってきた。
12/3/28
本日も朝からTOPPOさんとドライブ。昨日は山だったので今日は海へ。
R150をせっせと南下して御前崎へ。途中、相良の梅林に寄ろうかと思ったが、すでに花が終わったらしく臨時の看板がなくなっていて、道が良く分からなかったのであっさりパス。
早々と着いた御前崎は風が強い。砂とともに吹き飛ばされそうになりながら公園の緑地をふと見れば土筆、つい勢いで土筆摘みを始めた。採る人もないようで摘みごろの土筆がたくさんあってけっこうたくさん採ってしまった。ふきさらされて寒くなってねずみ塚公園の駐車場に河岸を変える。灯台の方までボツボツ遊歩道を散歩してお昼のお目当て紀行茶屋まで行ったが本日も休み。仕方なくなぶら市場まで戻ってお持ち帰りもできるお寿司屋さんへ。炙りマグロの入ったマグロ寿司をTOPPOさんにご馳走になった。
お腹一杯のまま高校野球の放送を聞きながら子生まれ温泉へ。さすがにここ何度か行ってようやく場所もうろ覚えに覚えた。
御前崎でたっぷりと砂浴びをしたので、頭も洗ってじっくりとお湯につかった。帰りには売店でミニトマトとミニキュウリを買った。キュウリは別にそういう品種ではなく、寒さのために長くならないそうだ。
さて、帰り道、買い物もあるのでR150のどこかに出たかったのだが、牧之原の茶畑の中を迷路のようにグルグルとまわってしまったらしい。さんざん走った後で、子生まれ温泉4kmの看板を見た時には脱力した。
何とかR150に迷い出て、それでも昨日よりは早く帰って来て、大収穫になった土筆の袴取りをして下ゆで、キンピラにしたら大鉢一杯あってまたびっくりした。
12/3/27
本日はTOPPOさんと2人で朝からドライブ。TANUKIは風邪ひきで家でダウン。
天気も良しと山の方へ。島田から大井川をさかのぼって笹間渡は通過、しばらくぶりに千頭まで。染井吉野はまだだが、街路樹の木蓮だったり、梅、桃、早咲きの桜などとりどりの花が咲き、川の柳も若葉色に芽吹いてきれいだった。
千頭の駐車場に車を入れてまず駅の隣のSL資料館へ。入口で\100を勝手に入れる。お客も受け付けの人も誰もなし。資料すら置いてなかったが、列車の資料や列車のマーク、SLの仕組みなどなかなかおもしろかった。
時間があったので観光協会で地図をもらい近くにあるらしい智者の丘公園に行こうとした。
とにかくメインストリート以外はみんな細い道。それらしい道に入りこんだが、ほとんど車は通らないのではないかと思うほど荒れている。脇を枯れ草がこするし、頭を枯枝で叩かれるし、車にとってはご難。しかし舗装はしてある(崩れている所もあるが)し、道路標識はあるしカーブミラーも付いている。しかし、結果として行きどまり。Uターンをして帰ってきた。
ここまで来ると意地になり、次の道にチャレンジ。これまた同じような道で、対向車には会いたくない道だが、こちらは2つの看板の案内で何とかたどり着いた。しかし、この公園が行きどまり。もちろん誰もいない。10台分位の駐車スペースの脇に三椏と水仙が満開だった。もっと広いのだが、とりあえず上り下りを歩きたくなくて見晴らしの良さそうな方に行く。下の千頭駅周辺がジオラマのように見えて、なかなか絶景だった。しかし、周りのオブジェは下の音戯の郷とタイアップされてた音をテーマとしているようなのだが、大型のプラスチックのおもちゃのようで、不思議なものだった。
千頭駅に降りてお昼。線路わきの食堂でとろろそば。\650の割にお蕎麦もおつゆも美味しかった。
昼日中の道を引き返し、途中茶茗館でお茶。ここは体験型で、お茶室でお茶の淹れ方を教えてくれ、自分で淹れて飲む。平日なのでお客も少なく、ゆっくりお茶を味わって、だいぶ落ち着いたお庭を散策、水琴窟の音を聞いたり巨大化した鯉を見たりして帰り道。
最後に島田市の伊太和里の湯へ。初めてなのでどこから入るのかよく分からなかったのだが、第2東名と接する新しい道をずんずん行って、大丈夫だろうかと心配になる頃ようやく到着。泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉だそうで、オキシフルのにおいが強いがよく温まった。
帰りは島田市民病院の脇の道に出てきたが、こちらもカーナビにはない道で、ものすごい勾配で温泉の前後にいくつ山を抜けたのだろうという感じだった。
後は夕方の道をせっせと家まで。それにしてもしばらくの間にずいぶんと日が伸びた。
12/3/24
今年の『文芸やいづ』が送られてきた。年1回教育委員会で出している市内関係者(在住・通勤・通学・出身者・市内サークル等所属など)を対象とした投稿誌だ。
3年前から参加してみる事に意義を見出して俳句の投稿をしている。撰者の先生の傾向など全く分からないまま、締め切り直前に句帳をひっくり返して句らしく見えるものを選抜して推敲する。
ところが何気なく出した1回目は5句とも残ったもののだんだん先細りしている。どうも下手に手を加えるとばれるようだ。それでいて、これはどうかと思ったものが残っていたり、他人に見てもらうのは難しい。
やはりテーマを決めたうえでそろえる位の手間は掛けなければ、人に見てもらうものとしては力が不足なのだろう。
12/3/20
お彼岸の中日、そして父と義父の祥月命日。O家のお墓参りは18日にしたので、本日は八王子のT家のお墓へお参り。
半端に早く出ると行楽の車とぶつかるので、のんびりとと思ったのだが、誰かが私の布団の上のビニールカバーにお漏らし、半分寝ボケて気が付かないまま動かして被害拡大、という訳で大洗濯をする事になってしまった。
天気が良いので仕方あるまいと外に布団も洗濯物も干して9時半スタート。(洗濯物を出してあるので、せめて暗くなる前に帰りたいと予定より早めのスタート)
東名は順調、第2東名が4/14に開通するのでその準備であちらこちらで工事中ではあるが道は混んでいない。御殿場からのR138も詰まる事はなく進んでくれた。そして東富士道路は路肩や脇の林の中はまだ雪が残っていた。外気温も7〜8℃。途中の谷村Pでお昼を食べる。前回も食べて「しまった!」と思ったのだが、お腹が空いていたのでまたも親子丼にしてしまった。美味しいのだが、玉ねぎの上にネギも入って汁だくの親切すぎ。気を取り直して中央道から圏央道へ。高速を出てからは墓参りロードと言いたいほど両側が墓地なので渋滞。お腹も一杯だし焦らない。
それでも1時頃には到着。石屋さんで挨拶をして花と線香を買ってお墓へ。見事に駐車場が満杯で、TANUKIと墓参りグッズを下ろして空いている駐車場に車を回す。先発したTANUKI、何をしているかと思えば墓の前に佇んで「今まで誰かお参りをしていたようだよ」線香がまだついていた。これ幸いと墓掃除はパスをしてお花をてんこ盛りに供えて、お線香を追加。しばらく三途の川の向こう側と交信。お線香の燃えカスをざっと流して、ひと山越えた親戚のお墓へ。いつもは歩くのだが、車を下に置いたのでそこまで戻って後は車で行った。こちらもタッチの差でお参りの後だったが誰が来ていたのか会えなかった。こちらのお参りも済ませて帰路。
圏央道の入口までの途中半分位は混んだが後は混雑もなく楽勝。だからと言って疲れないわけではない。ふいにチョコレートパフェが食べたくなって談合坂SAへ。リニューアルしてずいぶん変わっていた。チョコレートパフェにはお目に掛れなかったがアイスクリーム屋さんでチョコレート系のアイス。何やら色々練り込んで容れ物に入れてくれた。アイスを奢ったらTANUKIがコーヒーを買ってくれた。
東名に入って車が増えスピードも落ちて眠くなったので富士川SAで最後の休憩。富士山が雪でクッキリときれいだった。歩き回って眠気を覚まして最後の頑張り。何とか日の落ち切る前、6時前には家に着き、布団と洗濯物を取り込めた。
12/3/19
ガソリンが値上がりしている。我が家の車は結構大喰らいの上、今回は入れに行く間がなくてギリギリまで減っていたが、前回より1000円以上高くついた。ここは公共交通機関などあてにできない所だし、物流の面でも影響が出ているはずで死活問題となりかねない。
家のは違うが電気自動車と言ってもその電気を作るためのエネルギーが必要になるわけだし、原発問題だけでなく、エネルギーをどう得てどう使うかは、もっときちんと検討されて良い問題のはずだ。
12/3/12
同窓会は同窓会を呼び出すようだ。
今回の農大校友会静岡県支部の総会・懇親会でも女性部会を企画してくれと県の会長から言われて、東部の方から見えていた女性メンバーと顔合わせ、ただし、誰が何をやるかなどは決まらず、静岡市あたりでお食事でもの段階。ローバークルー部の先輩とは静岡・神奈川あたりのメンバーで飲もうという話があるからとお誘い。さらに、遠州常磐松会の方から志太常磐松会との合同懇親会のお誘いも受けた。
さて、どれから実現するのやら…。
12/3/11
東日本大震災から1年が経った。今日のテレビ番組はこちらではほとんどがそのテーマだ。
復興が進んでいる所もあれば全くの手つかずの所もある。笑顔は出てもその下の心はまだ嵐が吹き荒れている方も多いと思う。
しかし、千年に1度と言われる大災害。そう簡単に復興ができるはずがない。
10年・20年掛けるつもりで、しかし、その間に暮らしが成り立つように、未来と明日の両方にまず希望の種をまきたい。
遠くに居るから大した事は出来ない、現実に被災地に向かうだけの時間的余裕もない、しかし石巻のネコ島のにゃんこザプロジェクトを応援し、西会津のキノコハウスさんの活躍を信じている。農大リンクで繋がっている被災地の皆さんも応援している。
頑張り過ぎている皆さんに頑張れ!とは言いづらい。でも、つながっているから、何か出来る事があれば伝えてほしい。
12/3/10
午後から農大講演会と農大校友会静岡県支部の総会・懇親会があった。
ここでは、今回の講演会の報告を書きたい。今回は『食と食品の本質から食品の安全を考える』というタイトルで高野克己教授の講演だった。高野先生は農大の副学長でもあり、まず、農大の現状の説明から入られた。
さて本題の内容は、最近食品に関する様々な問題がクローズアップされた。BSEやO157・口蹄疫・鳥インフルエンザなど生物に関わるもの、食中毒、環境ホルモン(内分泌かく乱物質)、アレルギー、遺伝子組み換え食品、などなど…。さらに不当表示、無許可物質の混入、異物混入などかかわる人間の問題もあった。
しかし、食品というものは水と塩以外は元々命ある生き物であり絶対の安全などあり得ない。また、今不安視されている放射能についても、危険なレベルの食品は市場に出て来ないし、元々人間は7000ベクレル(体重60kgとして)程度を自然に発しているもので、神経質になり過ぎても仕方がない。都会の人の中には安全で当たり前との意識があるが、食品とはそういうものではない。食品は時間とともに腐敗していくものであり、加工技術の高まった事でそれを我々は忘れているのではないだろうか。たとえばカレーでもカレーの中のハーブは過熱する事で腐敗を抑えるというハーブの役割はなくなっている。しかし過熱を繰り返すことで腐敗菌を殺しその増加を抑えて食中毒にかからずに済んでいる。
日本では室町時代に酒や醤油に火入れをする事で発酵のストップと殺菌を行う技術を確立した。これは世界でも早い時期に獲得した技術だそうだ。
ところで日本では毎年30.000件程度の食中毒患者が出るが、最近は発生件数は増えているが患者数は以前と変わらない。これは大きな施設(学校や食堂など)では減っているが家庭での食中毒が増えているからだそうだ。
食材を洗う・調理器具を清潔に保つ・低温で保存する・火を通すなど食中毒防止のための知恵を家庭教育の中で体験として覚えていないからだ。
食の本質は生きるために他の命を食べるという事である。
たとえばニワトリは10〜30年の寿命があるが、ブロイラーは30〜60日で食肉処理される。豚も20年位は生きるものだが6カ月位で、牛についても20カ月位で食肉になる。産業としての経済性を考えると寿命にかかわらず食べられてしまう訳だ。今の人はスーパーに並んだ段階から後のことしか考えられないので、命を取って食べているという意識がないようだ。
ただし、食べられる物の方にも戦略はある。果物は種の熟するまでは渋味(ポリフェノール)で身を守るが、種が完熟すると甘くなって他の生物に食べてもらって種を運んでもらっている。
野生種が作物化される事で美味しく(甘味・うま味)なる。また人間は渋味は毒の危険を、酸味は腐敗を知らせるセンサーとして持っているが、今、口に入れているそのような味覚のものは先人が経験してたしかめてきたものという事になる。感覚(味覚・嗅覚・視覚など)を鋭敏に経験値で安全を確かめる事が大切となる。
また、色々なものを食べる事で少々危険なものが含まれていてもリスクを分散する事になる。肝臓はそのための臓器であり解毒してくれる。皮をむく・水に浸す・茹でる・加熱するなど加工・調理する事によっても毒物や細菌を除去出来て安全な食物となる。結局法律ではなく、人が努力をしなければ食の安全は守られない。なぜならば生物は人間のために存在をしているのではないのだから。
そして、日本食は食材も多く米を主食としてバランスのとれた世界でも有数の健康食だと結ばれた。
(かなり睡眠学習になってしまったので間違えや理論の飛びがあったらごめんなさい。)
12/3/9
あの大津波から1年が経とうとしている。しかし、津波にさらわれ打ち上げられた瓦礫の山はそれ以上の処理ができないまま被災地のあちらこちらにそびえ立っているようだ。
引き受けようという他地域の動きがなかなかない。福島については実際に放射能の影響などを心配してのためらいもあるだろうが、かなり離れた宮城や岩手の瓦礫も同じように片付かない。以前にも書いたが、岩手と静岡と事故を起こした原発との位置関係を考えれば、放射能の心配などあまり根拠がない。
しかし、心理的問題ではなく現実的な問題として引き受けにくい事情が他にもある。それが最終処分場の問題だ。日本各地ではどうなるのか分からないが、私の住む志太地区のゴミ焼却場は最終処分場を他県に頼っている。放射能のゴミだけでなく、我々が普段出すごみさえも大きなレベルでは片付かない段階になっている。この問題を国全体としてクリアしない限り先に進まないのではないだろうか。
ヘドロについては埋め立て材として利用できるかもしれないという研究がされているそうだ。瓦礫も焼却施設での焼却処分以外の処分法の研究を進めるべきではないだろうか。たとえば木質の物も多いようだし微生物の働きを応用できないだろうか。その一方で鉄製品を磁石で集める事を考えれば、ずいぶん瓦礫山の標高も減るのではないだろうか。
さて、江戸時代にはごみらしいごみはなかった。し尿や野菜くずなどの食べ残りは農村へと還元されて肥料になったし、布も雑巾になるまで徹底的にリサイクルされた。紙も何度も漉き直されたそうだし、垂れたロウなども集められてまた蝋燭となった。かまどの灰も肥料やアクとして引き取り先があったそうだ。
ここまで徹底的な事は出来ないにしても、一段落したら我々の身の回りの生活を見直すべきなのではないだろうか。
12/3/8
見逃せないほど孤立死がニュースに出てくる。昨日の民児協理事会でも厚労省からのお触れがまわった。
北海道では姉妹が、埼玉では30代の息子と両親が、東京では母親と4歳の子供、そして今日もまた東京で90代の親と60代の子が、亡くなった。北海道のケースでは妹さんに障害があり、しかも生活保護の相談がされていたし、東京の母子も母子家庭で子供に障害があればそれなりの相談機関で見守りはできったはずだ。困るのは埼玉のケースと東京の高齢親子、壮年の人がいると見守りの色々な網から外れてしまう。
埼玉のケースは報道では事情が良く分からないが、それ以外の3件は世話をしていた人の突然の死で世話を受けられなくなって亡くなったケースで、発見さえ早ければ助ける事ができた命だった。
無縁社会とも言われる現代、福祉関係者や民児委員も歓迎されないケースは多々ある。人付き合いの煩わしさを振り飛ばした結果の今ではあるが、もう少し何とかならないものか。
一方で問題のある家庭への訪問時、玄関が足の踏み場もないというのは多々あるケースだそうだ。片付けられないなどの前に、1つの心のバリケードであるのかもしれない。
留守宅も多い今の時代、郵便も電気やガスの検針票もポストに入れてお終い、集金も銀行振り込みと人と会わずに済むシステムだが、配達や集金などで日に1人でも2人でも人が現れれば、このような事はずいぶんと回避されるのではないだろうか。
また、被災地の仮設住宅で高齢者の無事を確認するために朝タオルを外に出してもらおうかというアイデアがあったそうだが、かえって高齢者がいると分かって悪徳商法などの被害に遭いかねないとアイデアのまま終わったそうだ。しかし、仮設住宅全体で行えばどこが高齢者宅という事は分からないし、高齢というほどでない1人住まいの人が体調を崩しても分かるので、やってみれば良いのにと思う。
どちらにしろ、自分の住んでいる所にどんな人がいるのかを日頃の付き合いで知っておく事が何かあった時の命綱になる事を自覚するしかない。家庭や地域で教えられなくなってしまったものならば、学校教育の中で次の世代に伝えていくべき大切な問題だと思う。
12/3/6
円高が続いているはずなのにガソリンが値上がりしている。
また中東がきな臭くなっている事もあり、原油価格の上がり方の方が大きいのだろう。
マスコミは円高は悪い事だとばかりに報道をする。しかし、福島の原発事故以来、発電施設で大量の原油が必要になっているのではないだろうか。今や生活にも産業にも電気は欠かせない。この分野では円高のお陰で多少の差益はあるのではないか。
政治がこれ以上不安定にならず、世界に信頼してもらえる事で円が高くなるのならば、これは良いニュースなのではないだろうか。
12/3/1
タンポポのひとつはなれて日をあつめ DORA