16/3/25
保育所問題は多少の定員緩和や保育士の賃上げなど、国会・マスコミなどから色々な工夫が語られるようになった。
もう1つ、頭に入れておいた方が良い問題が、まだ丸ごと置き去りにされている。それは保育困難児童に対する保育所の役割についてだ。
例えば1人親家庭、経済的に恵まれない家庭。さらに最近多いのが育児がうまくできない家庭。どれにも共通するのが虐待事例につながりかねないという事もあって、概ね優先的に受け入れられる。
そうなると、先に話題になったような、夫婦とも働いていて社会的にも安定している家庭の子供は後回しにされやすい。しかし、それに甘んじていると子育てリスクの高さを嫌う人々は子供を産む事にためらいを感じる。これをクリアしない限り安倍総理の女性が輝く社会は空想画でしかない。
16/3/22
母をショートスティに送り出した後で医者に行ったらものの見事に夫婦でインフルエンザに罹っていた。2時間以上も医者で待たされて、後はもう動けないよなと覚悟をして買い物もしてきたのでグッタリ疲れたが、仁義の問題もあるので母の施設に電話連絡を入れた。
「そういう場合はお預かりできません」とあっさり言われて「連れて帰ってくれても世話をする者がおりません」と切り返した。家庭状況は分かっているので先方も一瞬頭を抱えたようだが、対処案は持っていなかったようだ。
本来ショートスティのできた目的は家族に何かあって(冠婚葬祭や家族の体調不良・その他に主な介護者の休養目的もあったような気がする)世話ができなくなった時の緊急避難場所であった(少なくとも祖母の介護が必要だった30年近く前は)はずなのだが…。
今回は病院の持っている施設だったので、とりあえずインフルエンザ感染の恐れありという事で入院させてもらった。幸い母は予防接種も受けているし、今のところ陰性で特に変わった様子もないようだ。
16/3/21
子供もそうだが…、年寄りも考えてもらわねば…。
今回介護度5の母が自宅に帰ってきている間、私が体調を崩していた。母の介護計画は平日はショートスティを利用して金曜日の夕方から月曜日の朝までを自宅で過ごすようにしてある。もちろん事前にわかっていたら予定を変更してもらったりもできる。但し利用限度はあるのでそこを工夫してどこで預けなければならないから、どこは自宅で過ごすというような調整が必要になるのだが。
しかし、体調不良は誰にとっても突然来る。正直言ってかなり咳きこんでいるし風邪やインフルエンザなどうつるものだったらまずいなとは思ったものの、だからどうしましょうというものがない。
乳幼児期のお子さんを育てている人たちもそうだと思うが、世話をする側が体調がすぐれない時、どうするかのシミュレーションがないというのは現在のように人と人の距離が離れてしまった社会の中ではかなりの大問題なのではないだろうか。
16/3/18
しばらく前から話題になっている『保育園落ちた!日本死ね』はワイドショーから国会でまで話題になった。なかなか素晴らしいキャッチコピーで、内容もきちんと伝わるもので書いた人の頭の良さが分かる。もしも本当に育休中のママさんで、タイムオーバーで退職をすることになれば会社が良い人材をなくすことになると思う。
それはさておき、今朝テレビを見ていたら日本の子供の貧困率が6人に1人とかなりの高率になっているという事が話題になっていた。こうなると日本は子育ても満足にできない国、「死ね」ではなく、もう「死んだ」となりかねない。
人口だ労働力だという前に、子供が満足に暮らせない環境を何とかしなければ解決は遠い。
16/3/16
彼岸の入りには1日早いが、八王子まで墓参りに行った。今回は東名を使って海老名JCTから圏央道へ入って八王子西ICへ。しばらくぶりで足柄SAで一休み。10時過ぎには墓に到着。花と線香を買ってまず家の墓にお参り。1日早いのだが誰かがもうお参りに来ていたようで花が立っていた。そのまま親戚の墓にもちょっと寄ってお参り。
今回はここから八王子の町なかへ。駅でTOPPO氏と待ち合わせ。まずは駅ビルで腹ごしらえ。なぜか九州沖縄料理の店へ。TANUKIはここまで来て「刺身定食」我々はせっかくなので沖縄そば。
ここから商店街を通り越して八王子夢美術館へ。『ますむらひろしの北斎展』を見に行った。ますむらひろしは『アタゴール物語』などネコを主人公にした漫画や宮沢賢治の作品を猫の登場人物で漫画化したりしている人だ。そして北斎の浮世絵の人物を猫化した作品もあり、私もカレンダーを頂いたことがあるが、今回はこれがメインとなっていた。
この作品たちは『王様手帳』という情報誌の表紙絵として描かれたものだそうだ。それぞれの絵についているコラムによると、彼も絵を描く人だからこそ北斎の作品を解剖して「なんでこうなるの?」と多々疑問を持ったり、彩色役の方(奥さんか?)と色遣いについてのやり取りがあったり、浮世絵の側からの江戸の色遣いについての「そうなんだ」という納得があったり、かなりじっくりと格闘をされたようだがアタゴール物語の主役のヒデヨシ君に北斎が乗り移ったように縦横無尽に描かれている。復刻版の北斎の浮世絵と並べられているものもあり、並行した世界を比べるのも面白かった。
実はこの北斎、高橋克彦の小説作品の中で若き日の『春朗』の名前で登場するのだが、私の脳内ではその世界も含めて1つの世界になってしまうようで面白かった。
作品を堪能してコーヒーとケーキで一休み、勢いでTOPPO氏を送って車で横浜方面へと向かったが、ほぼR16を南下したのだろうが、カーナビ様の誘導で、話をしながらほとんど知らない街をトコトコと走っていった。
5時過ぎにTOPPO氏を送り届けて横浜ICから東名へ。勢いで足柄SAまで走ったあたりで足腰が疲れ切って一休み。TANUKIと思い切りすれ違いを演じてなお疲れ、走り出して気が付けば7時を回る頃、富士川SAで夕飯。お次は車が「腹減った」と騒ぎだし、騙し騙し静々と焼津ICを降りまずスーパーで買い物、そのままガソリンスタンドで給油、家に帰れば4匹ネコズがこれまた「腹減った」と出迎えてくれた。
16/3/11
東日本大震災から5年が経った。民児協の月例会議で防災センター(地区の集会所だが)の3Fに居た。震源地からはずいぶん離れた所ではあるがかなり揺れた。スペースの関係で皆が壁際ぎりぎりに座っていたが、それでもロッカーが倒れないかと怖かったし、建物自体は大丈夫かとドアを開け放した。窓の外の電線は思い切り揺れているし、そのうち人声が多くなってきたと思ったら港の方の会社から避難してきた人たちだった。会合を終わり1Fの事務室で小さなテレビを食い入るように見ていた人がいて、「何があったのですか」と聞いたら「東北の大津波の実際の映像だよ」と言うのでにわかにまた騒がしくなった。
我々にとってはそれだけのものだったが被災地はまだ、特に原発の被災地などは被災地そのもののままだし、その他の所でも復興道半ばだ。しかし、あの神戸の震災でさえ10年経ってようやくメドが立ったねと言ってそれからまた10年、震災を知らない大人が出てきたとはいっても、まだまだ心の奥に当時の傷を持っている人たちがおられることと思う。
それに比べれば広大な広さの被災地が生まれ、未曽有の原子力災害が起こったのだから、そう簡単に復興などと言ってほしくない気もする。しかし、年月は同じように過ぎて行くわけだし、今、家族を支えて働かなければいけない人々にとって復興を待ってなどとのんびりしたことは言ってられない。
地域の復興には100年の計を立ててじっくりと地域の発展を考えた再生をすれば良い。しかし、今現に生きて生活をしている人々を待たせるのではなく、その人々がより早く生活の再建を果たせるように、いつまでも仮住まいではなく、今と将来を見据えたそれぞれの生活の復興は一刻も早くすすめるられればと思う。それは政治の責任でもあるのではないだろうか。
16/3/9
今日が最終戦だがサッカー女子の代表はオリンピックを逃した。このチームを特に批判しようとは思わない。
それ以上に気になるのがマスコミの取り上げ方だからだ。フィギアスケートの浅田真央選手にしてもそうだが、いつまでも1人のヒロインを崇めて次の選手が台頭するのを嫌うのが日本のマスコミのような気がする。
スケートはマスコミが浅田選手を追いかけている間に次々と彼女に憧れてスケートを始めた若い選手たちが新たに躍り出てきた。卓球もそうで、いつの間にか福原愛選手が1番のお姉さんとしてチームを引っ張る立場になっていた。
スポーツに関してはマスコミは移り気で良いと思う。記録は抜かれてこそ競技力が上がるものだし、次々とニューヒーロー・ヒロインを探し出してこそ活性化する。
競技者としての1人の選手にテレビタレント並みの余分な注目まで集めてしまう今の日本のマスコミ全体の取り上げ方は、その競技も選手にとってもプラスとは言えないように思える。
この半年くらいNHKで夜遅く放送をしていた中・高生のトップ選手に元オリンピック選手が同じ種目をやる者同士の目で指導していた番組は、なかなか面白かった。選手個人を眺めて楽しむのではなく、スポーツそのもの、競技力や技術を伝えることで選手の内面に切り込むなどスポーツ報道らしくて好感も持てた。
16/3/5
サッカー女子のオリンピック予選はまだ続いているが、日本は負け・引き分け・負けで調子が出ていない。澤さんが抜けたからとは思いたくないが、男子の悪しき日本代表を思わせる前へのボール運びができないや得点機を作れない日本代表病にかかってしまったようだ。きれいにボールを回す事より、「点を取るんだ」というエネルギーの強さを感じさせていた以前のエネルギーはどこへ行ってしまったのか。
澤さんが抜けたことで「彼女よりずっと若い私たち」が皆「ベテラン」化してしまったのだろうか。
16/3/2
3/1に書いた裁判については各方面で注目がされていたようで、今日のニュースショーの類ではみんな取り上げていた。切り口は色々だったが、また1つ疑問に思ったことがある。
この電車にひかれた認知症のお年寄りは電車に乗ってきて駅のホームから線路に降りて電車にひかれたらしい。そうなるとこの場の管理者である駅員及び駅長が事故と運航障害の責任者になるのではないのか、ということだ。
本来、乗客の安全と電車の安全運航が職務であるのが駅員なのだから、それが認知症の方であれ、子供であれ、障碍者や外国人で常識が日本と違う人であれ、危険な行為は止めなければならないし、乗降客の安全に配慮しなければならない。職務として、普通の日本語で伝えるだけでなく、外国語・手話・子供や幼児に対する言葉遣い・認知症かもしれない人への言葉遣いなどスキルアップが企業側や地域の人々にも必要なのではないだろうか。
16/3/1
最高裁判所で認知症の高齢者が線路に入って電車にひかれ列車運行に支障をきたしたとするJR東海の損害賠償請求を棄却した。1審では妻と別居している息子、2審では妻に保護監督を怠ったとして損害賠償が認められていたので、最高裁で逆転されたわけだ。
しかし、情報がこちらに特化して見落としてしまっているが、事故で亡くなった側は危険が理解できない人なわけで、その人の安全を確保できなかったJR側の責任はどうなっているのかちょっと気にかかった。
この場合は高齢者だったが、2〜3歳の幼児も字はまだ読めないし、線路の危険も理解できているかどうかわからないが、行動は活発になる頃で、ちょっと目を離せば何が起こるかわからない。社会全体が他人とかかわりたがらない状況の中で、普通に危険な個所は「まさか」ではなく何か起こらないように完全に入り込まれないようにすることが必須ではないだろうか。