16/11/28
母の部屋の片づけを継続中。着る物はほぼ片付いた。ある程度着れるものならば、リユース品として市が引き取ってくれるというのが有り難い。こちらとしては捨てるのだが、誰かが使ってくれるかもしれないというのは気持ちの上で抵抗が少なくなる。
他にもよくも取ってあるという物がゴソゴソと出てくる。しかもあちらこちらに分散して同じ物が収まっているので、やれやっと片付いたと思うと、又出てきてうんざりさせられる。
とりあえず、大事なものまで捨ててしまったり、重要書類をなくしても困るので、慎重にとは思っているのだが、気持ちの上では全部捨てても良いでしょう…に傾いている。
母の母(私の祖母)も物を書くのが好きだったが、母も昭和20年代からかなり最近までメモのようなものを残していた。読みだしたら切りがないし、実際に読んで何かになるという物でもないが、一族のDNAの中に記録したい遺伝子があるのだろう。
16/11/13
昨日の母の葬儀に付き合ってくれたO家の叔母たちやジャンちゃんのご両親に田原本の従妹がお供えしてくれた奈良漬けをおすそ分けに行った。田原本は慣れているらしくて、「大きいものは困るでしょ」と小箱に入ったものをたくさんくれたので昨日は組でお葬式の受付を引き受けた人達にも配れてありがたかった。
他にもチョコレートや義姉さんがお供えしてくれたフルーツを藤守やマーミにおすそ分け。
明日は預かり香典や郵送の香典をくれた人達に会葬お礼のお返しを送って、当面の一段落を付けそうだ。
16/11/12
母の葬儀、暖かな良い日になった。藤守の父さんが迎えに来てくれて、もしやと家の車も出して分乗して葬儀場に出発。
T家系はすでに早目に到着していて申し訳なかった。
O家の叔母さん達やジュンちゃんのご両親まで出席してくれて、賑やかなお葬式になった。
天王寺の従妹のお別れの言葉も家の両親との交流を語ってくれてとても良いものだった。それ以外に、メールでもらったお悔やみも司会の方に読んで頂き、母だけでなく来てくれた皆さんの胸にも届いたと思う。
皆遠いし、忙しいしで火葬場でお骨上げの後さっさと解散となったが母も喜んでくれたと思う。
16/11/11
夜、母のお通夜だった。我々も現役引退をしているし、母も高齢のため、ごく近い親族とご近所の一部だけの小さなものになるつもりだったが、民児協でご一緒した皆さんやはだかっこの会の皆さんなど、大勢見えてくれて、ほどほどのお通夜となりありがたかった。
夜は家にTOPPOさんや泊まってくれた和賀家系の叔母と従弟妹達としばらくぶりで長話。皆それぞれに忙しくて、こんな時でなければ寄れないのが残念だが、色々な話が出て懐かしかった。
しかし、お別れの言葉を頼んだ天王寺の従妹は間でかなり時間をかけて考えてくれていて、申し訳なかったが、下読みをした子達が「良い内容だ」と言っていたので明日の葬儀で聞くのを楽しみにしている。
16/11/9
父の時もそうだったが、母も宗教は置いておいて花を手向けてのお別れ会にする事にした。
こうなるとそれだけでは間が持たないので、母の生きてきた歴史などを紐解いて紹介することになる。(仏教や金光教が入れば祈りの中に取り込まれてくるのだが…)
母が生まれたのは大正14年、広島の街の真ん中あたりだったらしい。当時上には兄2人で初めての女の子だった。その後下に弟2人ができ男の子に囲まれたお姫様でいられたらしい。祖父は親戚と手広く工場(何を作っていたかは知らない)を経営していたらしいので、そのままずっと住んでいれば原爆の犠牲になったかもしれないのだが、軍用道路ができるという事で追立てをくって大阪へ移っている。
大阪時代から祖父は実家の宗教である金光教の布教を始めたようで、教会住まいになっているようだ。「家だけは大きかったけど貧しかった」と母は言っていた。それでも折々に家族写真を撮っては親戚に配っていたようで(祖父は10人兄妹)戦災で焼け出された後、親戚から「あなたの所の写真だから」と貰ってかなりの写真を持っていた。卒業後に弟妹を連れて金光のお祖母さんの下に疎開をしたために、大阪空襲も母は実体験がない。祖母と女学生だったすぐ下の叔母は空襲にあって大変な目にあったようだが。
金光で母は芸備銀行(後に広島銀行)の事務員として就職した。昭和22年、月給は112円だったようだ。(物持ちの良い母なのであるいはと思って探したら当時の辞令がスクラップされていた)翌年の月給が1141円だからすさまじいインフレだ。当時、兄2人は金光教の修行、弟2人は岩手の開拓団に加わったので母の給料が生活のかなりを支えていたのではないかと思う。仕事に出ているので食事の支度は他の家族(母親と妹が3人も居る)に任せて料理の腕はまるでなく、「でも皆が食べたまま積み上げていた食器の片づけはやったわよ」と言うとおり片付け物は得意だった。
そんな母が昭和27年、東京の従兄(母親の姉の息子)の親友の所に嫁ぐために東京にやって来た。翌年私が生まれたあたりまでは普通の暮らしだったようだが、その後に父が大病で離職をすることになる。そのリハビリのような形で当時としてはかなり遠方だった岡山まで、母の祖母が岩手から東京の娘の所まで出てきた後、次は岡山に行きたいというのに付き添って家族3人で旅に出た。私が3〜4歳の頃の事だった。汽車の硬い3等座席での長い長い旅の間、旅慣れた曾祖母の下で流れていく風景を眺めたり、座席にコロリと横になって休んだりした思い出は断片的に残っている。
その後に父は時計屋を始めるのだが、手先は器用でも商売気はまるでなく、母は外に仕事に出るようになる。保険の外交などをやっていたが2年ほどで店をたたんでまた三鷹の実家に戻ったのだが、この辺りがかなりの危機だったらしい。母に連れられて半年位を岡山で過ごした。どういう解決をしたのか私の小学校入学に合わせてまた三鷹に戻った。その後も母は外での仕事を色々とさがして、最後は前のオリンピック景気の頃に東京都のアルバイトから臨時職員、いつの間にか正職員となって定年まで勤めることになった。最後は体調を崩して「でも恩給が付くまで」としがみついていたのだが、そのファイトでここまで生活の心配もなく長生ができたのだと思う。井の頭公園や緑地事務所、多磨霊園の管理事務所などに勤めたが、この頃のメンバーとはお茶を習ったり、和裁を習ったり、俳句の会に入ったり、踊りを始めたりと仲間に合わせて趣味を楽しんでいた時でもあった。
退職前は祖母が10年近く寝ついていたし、自分も大病をしたりで大変ではあったろうが、本人にとっては1番生き生きと楽しかった日々ではないだろうか。
祖母が亡くなった後、こちらに家を建てて引っ越してきたが、すっかりご隠居さん化し、父とともに岡山や大阪の兄弟を訪ねるのを楽しみにしていたし、実際にジパングクラブの会費が無駄にならないほど出かけていた。
また、人が訪ねてくれるのも好きで、友人や叔母たちを遠くからよく呼び集めていた。
父が亡くなってからはだんだんに活動的でなくなったが、本気で心配しだしたのはこの2年くらい。昨年、お腹を壊して救急で入院してくれた時は本当にほっとした。それでもそこからかなり元気になって退院し、ショートスティやディケアを使って1年も頑張ってくれたのはうれしかった。
16/11/8
7年前、父が亡くなった時も書いたが、葬儀は予定の範疇から外れてやってくる。
母が食事が喉を通らなくなって入院したのが9/17、この時点では体調さえ戻ればしばらく大丈夫ではないかと思っていた。しかし、主治医の先生は「食べられなくなるというより本人にもう食べる意思がないのかもしれません」とソフトランディングでの終末を考えていたのかもしれない。軽い肺炎もあったので抗生物質を使って肺炎の退治の後は最低限の点滴だけで、口腔ケアや痰の吸引、手足のマッサージ、食べるリハビリなども組み合わせながら様子を見てきた。
相変わらず、あちこちにクッションをかまされて褥瘡にならないようにしながら、点滴針や酸素の管を取っしまうので手にはミトンでおとなしく寝ていたが、分かっているのかいないのかも以前と同じで、数日前からは冷えてきた事もあってか足元や手元に湯たんぽを入れてもらっていた。それでも手足や顔など見えるところにゲッソリとしたやつれがあるわけでもなく、痰の吸引や口腔ケアなどの時には嫌がって手を振り回して結構強い力も出るので、まさかすぐにという思いはなかった。
病院側でいよいよいけないかもと電話をくれたのが11/7、しかし、その日も見た目からは「そうかな」というほど変わらなかった。この時に居た看護師さんに「父の時は春のお彼岸で墓参りに行ってきたよって報告をして帰ったら亡くなっちゃっていた」と話したのだが、ここにきて当時の記録を読み返してみると、墓参りの2日後に肺炎で亡くなったようだ。危ないかもしれないと泊まり込もうと準備をしに帰宅したところで亡くなったようだ。記憶とはあいまいになるものだが、適当に良い記憶に編集された方が残る者にとってはありがたいかもしれない。
数日は大丈夫だろうから、部屋を片付けて、できれば鍼の先生に行って体のメンテナンスをしておこうかと思った明け方、「危ないから」と病院から電話をもらった。起き抜けなのですぐにと言ってもある程度の時間はかかったが、駆け付けた時にはまだ体は暖かかったが、息は止まっていた。その後から当直の先生が見えて死亡を確認してくれた。
結局、母を連れて帰るまでに葬儀社を決めてしまわなくてはならないので、父の時とと同じ会社に連絡を取った。今回の担当さんは若い方で、「父の時もお宅でお世話になりました」と言ったら、当時の記録なども調べてくれたようだった。市役所へのお使いや葬儀場の手配などもさっさとしてくれて、午後、ご近所の長老に近所への訃報の連絡をお願いして本日のお仕事は終了。
16/11/1
今年は夏が長かった。10月半ばまで半そでのTシャツで過ごせたほどだ。
そして、10月も後半に入ったとたんに冬隣りの様相を示してきた。秋晴れもあまりなかったし、秋らしい秋はほとんどないままもう冬に突入しそうだ。
実は富士山の初冠雪もついこの前だったが、今日はこちらからも頭だけ見えている富士山のてっぺんが白くなっているのが見えた。
11月とともに年賀はがきも発売を開始したし、来年の家計簿や手帳も売り出されている。年々商戦が早くなるようで、しかし、あまり早すぎるのも気が抜けるというか季節感が狂う気がする。
富士山の頂白し冬隣り DORA