16/12/12
新幹線に乗って三鷹まで、TANUKIと一緒にちょっと出かけてきた。目的は母の戸籍謄本の除籍票を取りに行くこと。用事自体は10分もあれば終わるし、申込用紙を送ってもらって郵送してもらう事も出来るのだが、もう用事もないだろうからともの好きに出かけてみる事にした。
10時過ぎのコダマに乗るために、TANUKIの歩行速度も考えて9時過ぎに出発。案の定すぐに「足が痛い」と騒ぎだしたが、「私の用事だし、無理しなくて良いよ」と言うのにしっかりと駅まで歩いた。コダマなら楽に座れるかと思ったのだが、平日の昼間でも結構人が乗っていた。ちょうど昼頃に東京駅着。中央線で三鷹まで出て、ドロンと化けた三鷹駅にビックリ。バス乗り場も当然変わっていて、止まっていたバスの運転手さんに教えてもらって、「あの止まっている仙川行きで」と言われて、歩道橋を上り直してバスへ。ルートはほぼ変わっていないようだが、八幡様も立派になっていたし、途中にある高校もきれいになっていた。しかし、道路の狭さだけはどうにもならないらしくて、昔以上に混んでいた。
市役所も位置は変わらずにあったが、すこし奥に広がっているようだった。隣の郵便局もほぼ同じように残っていた。
用事は多少待たされたが、スムーズに終了。
すぐそばに昔家があったのでそちらの方に歩いてみる。驚いたことに舗装されただけで昔のままの路地が残されていた。しかも、入り口の自動車修理工場は昔のままあるし、お向かいの建具屋さんも健在だった。ぐるっと回って行くと父のご贔屓のお蕎麦屋さんも少し広く小ぎれいになって健在だった。ここで2時近くのお昼。ごま油の効いた天ぷらの乗ったおそばを食べた。そのお向かいは小学校の同級生の実家なのだが、昔のまま土建屋さんをされているようだった。
中学の同級生の家は昔酒屋さんだったのがコンビニになっていた。ここの隣から中学の敷地で、門に回るより早かったので金網の隙間を乗り越えて通学をしていたのだが、デンと教育委員会の看板がかかっている。その奥に中学そのものは存在しているようだったが…。
帰りは吉祥寺に出て、北口側の商店街を少しぶらつく。隣で「足が…」とうるさいのであまり歩けなかったが、最中屋さんやおでん種屋さん、お肉屋さんと結構行列のできるお店があちこちにあった。
三鷹も吉祥寺もお店の入れ替わりはあっても道そのものはあまり変わっていないようだったが、これらの町を歩く事ももうないかもしれないと思うとちょっと寂しい気がする。
16/12/8
母の部屋の片づけをしていると、色々な所からがま口と小銭が出てきた。とにかく上着のポケットからは小銭、ハンドバックや袋からはがま口に小銭、たぶん大きなお金は札入れに入れて入れ替えて持っていたのだろうが、小銭はバックのサイズに合わせてがま口を替えていたのだろう。中身はともかく財布を買うのが好きな人だったから、それぞれちゃんと使われて物も満足だったと思う。
父の時もそうだったが、晩年は小銭の計算が面倒になったのか、小引き出しからは1円玉や10円玉が一山出てきた。
今日の午後は母の年金の手続きで年金事務所に行ったのだが、いささか気疲れしてグッタリしたので、「お夕飯おごってね」と母の置き土産でお夕飯を食べに行った。
16/12/1
母の俳句が出てきた。昭和52年からの数年間、多磨霊園の事務所に居た頃に俳句グループに加わっていた頃のものだ。思いっきり初心者だがこの頃は趣味に生きていたらしく、溌剌とした句が多い。
きちんと句会の会報も出ていて、それなりにされていた方が先生だったようだ。
それにしてもこの当時の母は今の私よりも若い…。
我よりも若き母あり帰り花 DORA