ちょっとした感想   

23/5/31

   北朝鮮が朝っぱらからミサイルだか衛星だかを打ち上げ、テレビはJアラートを鳴らして大騒ぎをしていた。
   たまたま台風取材で沖縄に取材陣を置いていたのだろうが、各局、現場からの中継を入れていた。しかし、どうやらその前に不具合で墜落していたらしく、後から見ればただのから騒ぎだった。
   毎回思うのだが、関係のない地域まで巻き込むことにどんな意義があるのだろうか。
   朝のこの時間、それぞれの地元の気象情報や交通情報の方が、ずっと生活に密着した必要なニュースだと思うのだが…。

23/5/30

   スマホの機種変更をした。お店の人によると4年使ったそうだ。私の方は何度か取り落とし物理的にガタがきており、TANUKIの方は中身がパンパンになって動きが悪くなっていた。電池の持ちも悪くなってきたし替え時なのだろう。今回の本体のローンが、3年で下取りに出すと安くなりますというもので、多分3年後にはすっかり忘れているのだろうが、機械にとっては無茶な設定ではないのだろう。
   それにしても機種変更の度に戸惑うのが、IDとパスワード。色々なソフトに行き当たりばったりで入れているので、まったく思い出せない。もう1度ダウンロードする事はできるが、続きからという訳に行かなくなる。しばらく色々と戸惑いながら使う事になるだろう。

23/5/29

   この土・日に岡山まで出かけた。
   連島の叔父の3年祭が主要な用事だったが、その少し前に亡くなった日比の叔父も葬儀も50日祭も出られないままだったので気になっていた。この際なので一気にお参りを済ませて、自分の中の気持ちを一段落させたかった。
   細かい話は『我が家&和賀家』に回すが、とにかく座りっぱなしの道中に疲れた。午後からのお祭りという事で、当日の朝出発。それでも昼には着くというのはありがたいが、お祭り前にダウンしては困るので新幹線は座席指定を取った。単独なので通路側の席で、相席の人にも気を使わなければならないし、外を見て気分転換もできないし、3時間は結構長い。土曜日という事もあって姫路あたりまではかなりの混雑で、隣の席も途中で入れ替わりがあった。岡山からはマリンライナー。在来線は元々あったのかもしれないが初めて乗った。20分位で児島駅。日比の次男に迎えに来てもらい、天王寺の従妹ともここで合流。90才過ぎの日比の叔母も元気で、4人で連島に向かった。
   今回の叔父の3年祭はだいぶ代替わりをして、連島の子供家族、連島の叔母のお兄さんと長男の嫁さんのご両親、それに和賀家関係者、ご近所の信者さんも数名見えていた。どちらにしても誰かに教えてもらわないと数年来のご無沙汰で、誰が誰だか分からないのだが…。
   1時間ほどのお祭りの後、お墓参りは無しで親族で会食。この辺りでようやく人と名前が結びついた。連島の長男家は子供も小さいので、会食の後、すぐに散会。
   日比の車で天王寺の従妹を倉敷まで送った後、日比へ。岡山の道はどこも広くきれいになっていてビックリした。しかし、もっと海沿いの道の印象があったのだが、倉敷から日比へはほぼ山越え。港の周りもだいぶ変わったようだ。
   日比の家で一休みをして、日のある内に叔父さんのお墓参り。すぐ近所の丘の上。海が見えるのが気に入ったとの事だが、下に家ができて少し屋根で隠れてしまっていた。それでも気持ちよく近くの海まで見晴らせた。数基のお墓しかないのでお参りする人も少ないのか、時期が半端だったからか、最後の犬走の坂道は落ち葉と枯れ枝で埋もれていた。しばらくぶりだという叔母も杖と手すりを使ってしっかりと登ってきた。
   お参りから戻って、昼がゆっくりだったので夜もゆっくり目の9時頃に、戻ってきた長男も一緒に夕食。次男が腕を振るって「瀬戸内はタイと鰆だよ」と刺身やたたきを作ってふるまってくれた。高齢の叔母さんも一緒になって、夜中まで飲みながら語り合った。初めに片付けに動き出したのは翌日コンサートだという長男。皆で片付けて、それでも翌日になる頃にはそれぞれの部屋に引き取った。
   日比の家は改築をして、いつの間にやらシェアハウス風になっていた。叔母もベットの方が楽だろうという事で1部屋、次男は仕事部屋と居室、長男は奥さんの方のご両親の介護があるので奥さんはそちらに居り、家族の荷物とともに1部屋を確保している。人が来る事を考えてお広前の奥に和室が2間、私はそこに泊まらせてもらった。
   翌朝は長男が1時間位余裕があるからと近くにドライブに誘ってくれた。こちらは気軽な格好で、彼はこの後コンサートで第9の合唱を歌うとの事でネクタイを外した黒の正装。彼を送り出した後、日本の朝食で叔母とブランチ。
   お昼頃、早朝の仕事をした後又寝をして起きだしてきた次男に岡山駅まだ送ってもらった。
   少し時間の余裕があったので切符を買った後、駅の中で買い物。日曜日という事もあり、座席指定の席はまたも通路側。途中で相席の人が2人も代わった。静岡・焼津の電車のつながりは良かったが、荷物が大きくなってしまったので最後はタクシーで6時頃には家に帰りついた。

23/5/24

   マイナンバーカードがグダグダになっている。金融機関との紐づけ・保険証との紐づけが他人のものとなってしまっている不具合が幾つも出てきているようだ。個人情報について極端に慎重になっている現代の我々にとって我慢できない状況だと思うのだが、クレームに対してお役所仕事(誰も親身にもならず、自分事と受け取らず、たらいまわしになっている)のままようだ。
   これでは大金をつぎ込んで、今までのカード以上の汚点とともに使われる事なくしまい込まれるのではないだろうか。
   政治家のアイデアを行政がきちんと設計をして使えるようにするという昭和の伝統が壊れたのならば、新しいシステムをどう構築して動かして行けば良いのか、国民全体で考えなくてはならないのではないだろうか。

23/5/22

   『牧太郎の二代目・日本魁新聞社』はインターネットを始めた頃からほぼ毎日読んでいる。意見が合う時ばかりではないが色々と刺激になる。
   本日の『NHKが大々的に伝えた「ゼレンスキーの来訪」。決して「褒められたこと」ではない。平和憲法を持つ日本が、戦争当事国の一方だけ招く。日本は「戦争の一方」に加担した。』の意見には反対だ。
   ロシアはウクライナにとっても隣国だが、日本にとっても隣国なのだ。その隣国が勝手な理由を付けて攻め込んできた。西に行くか東に行くか、それもロシアの勝手であって、東に攻め込んできても不思議ではない。国は引っ越しをして解決する事はできないのだから、この危険な隣人にどう対処するかは日本にとって自分事の問題なのだから。 

23/5/17

   私は昨日、TANUKIは今日、歯科検診に行ってきた。保健センターが行っている高齢者検診の1つで、5年に1度ある。
   先生に言わせると、きちんと来る人は少ないらしいが、口の中の健康は全身の健康状態に影響するそうだ。この年でとりあえず歯が全部揃っているのは大した事らしい。「極力、抜かないで済むように」との事だ。

23/5/5

   『水車小屋のネネ』(津村記久子著/毎日新聞出版)の続き。最後は2022年。コロナ禍の今。エピローグとして1つのエピソードが書かれている。
   視点人物は大学を卒業したばかりの美咲。10年前に心理的に不安定な中学生時代に律に話を聞いてもらっていた子だった。
   律の代わりに2人の子供を連れて東北から帰省した研二を駅に迎えに出る。まだ幼い子供達は『風まじり!雨ふる夜の雨まじり!』とネネお得意の貧窮問答歌を言いはじめる。これは研二が受験勉強で暗唱し、ネネが気に入って覚えてしまったものだ。実は美咲が面白がってSNSに投稿したものを子供達が覚えたようだ。
   子供達の姿が初めて姉に連れられて駅からの道をたどった小学生の律の姿に重なるのは私だけだろうか。
   富樫さんが店長をしているカフェはすっかり蕎麦が名物になっている。ドアにはネネをかたどった中野さんの木製プレートが掛けられている。
   食後、理佐と聡と再会、水車小屋で、だいぶ年を取ったネネがそれでも「ケンジクン」と研二の肩に飛んでくるのを子供達が「お父さん、すごい」と見ている。その奥から律も姿を見せて大円団となる。
   作者の意図がどこにあったのかは知らない。しかし『教育の毎日新聞』らしい物語だ。

23/5/4

   『水車小屋のネネ』(津村記久子著/毎日新聞出版)の続き。時代は2011年に進む。2011年3月と言えば東日本大震災。物語もここから始まる。ただし、この物語の舞台ははっきり記されていないが、色々なエピソードから岐阜の美濃地方ではないかと私は思っている。ちょっと気象庁の当時の地震データーを調べてみたら、この辺りも所によって震度3~4あったらしい。
   今回の主役は律だと思う。彼女はまたまた転職をして、高校卒業後に就職した所でパートタイムで働いている。午後の早い時間はネネとの時間。水車は蕎麦屋が閉店した後、製薬会社に貸し出されて理佐夫婦が管理をしていたが、律にバトンタッチされたようだ。さらに夕方からは小中学生の放課後の自習室、居場所づくりをしている。ようやく律は子供の頃の親の虐待による心細さ、居場所のなさを意識し、同じような気持ちの子供達に少しでも落ち着いた場所を提供しようと考えたのだろう。
   この場所は元の蕎麦屋の建物で、夫が亡くなった後に高齢者施設に入った蕎麦屋の奥さんの共同経営者として、1Fのカフェと2Fの自習室を実質的に管理している。1Fのカフェは水車小屋のネネの所に遊びに来ていた子供達の1人だった、まだ若い富樫さんが切り盛りをしている。
   カフェで蕎麦粉のガレットを出している富樫さん、だんだん蕎麦粉に引かれていったのか、蕎麦掻にチャレンジしてみる。「せっかくだからお店で出す蕎麦粉を水車でひこう」という機運が生まれ、「聡が蕎麦を打てるよ」という理佐の言葉で、蕎麦屋の奥さんにも見てもらって富樫さんは蕎麦打ちを教わる。
   もう1つのこの年の大きな動きは、東日本大震災にショックを受けた研二が被災地への転勤を決める事だ。研二は高校を卒業して地元の電気工事会社に勤めていた。これについて博実の父親が「孫みたいに思うところもあったんだよね、とても寂しい」「でも誇らしい」と研二に伝えている。
   さらに若い画家の中野さんが、憧れの杉子さんが水車で絵の具を砕いていたエピソードを見て律を訪ねてきて、絵の具を砕いてもらう。
   律から次の若い世代のスタートの物語になっている。   

23/5/3

   『水車小屋のネネ』(津村記久子著/毎日新聞出版)の続き。時代は2001年に進む。蕎麦屋夫妻は70歳で引退をして、水車小屋で蕎麦粉を作る事も無くなった。理佐と聡は結婚し、元の杉子さんの家を買い取って住んでいる。そして律は初めの職場を退職した後、姉夫婦の支援も得て大学で学び、2度目の就職をして働いている。ネネは理佐・聡・律の世話を受けながら相変わらず水車小屋で暮らしている。
   今回の主人公は中学3年になったばかりの研二。離婚をした母親と暮らしているが、その母親が精神的に不安定になり、高校受験も考えられないほどのヤングケアラーとなっている。
   たまたま律と知り合った研二は律に勉強の手助けをしてもらい、さらにはネネと言葉遊びをしながらの学習でやる気を取り戻し、工業高校受験を決める。さらに退職した博実の父や蕎麦屋夫妻にも見守られながら、無事に高校に合格する。
   「どうして助けてくれるんですか」という研二に「私もいろんな人に良くしてもらったから」と律は答える。
   蕎麦粉をひく石臼を見張る仕事が無くなったネネにとっても、研二の受験勉強(ネネにとっては面白い言葉遊びにすぎないのだろうが)を手伝う事は新しい刺激になったらしい。何人かの子供達が水車小屋に出入りするようになり、理佐と聡や律以外にも水車小屋の隣に住んでいる蕎麦屋の夫妻や博実の父も、押しつけがましくなく、何となく子供達に温かいまなざしを送っている。さらには律の小学校時代の担任の先生も研二のお母さんの生活再建のサポートをしてくれる。
   物語のメリハリをつける事件については、個々には書かないが(それぞれにこの本を読んでもらえば良いと思う)、温かいまなざしが1つの家族の生活のつっかえ棒になったのが良いストーリーだと感じた。

23/5/2

   『水車小屋のネネ』(津村記久子著/毎日新聞出版)の続き。時代は1991年に進む。理佐は蕎麦屋で働き続けながら本来やりたかった洋裁の内職もしている。律は高校を卒業して地元で就職した。そして、高齢の杉子さんが亡くなった所から次のストーリーは始まる。
   今回の主役は学生時代にピアニストをめざしていた聡。
   杉子さんの家を借りて蕎麦屋近くの水力発電所で働き始めたが、午前中で終わる仕事に時間を持て余す。たまたま理佐がそれまで内職でしていた洋裁の仕事を正社員としてできるチャンスが来たために蕎麦屋を辞める事になった。蕎麦屋の仕事は夫婦でのんびりすれば良いという事で、蕎麦粉をひく仕事とネネの世話をしてくれる人をパートで募集する。時間を持て余していた聡がそれに応募し、同年代の理佐と聡はかなりぎくしゃくしながらも仕事の引継ぎを行う。
   それでもまだ時間を持て余している聡は蕎麦屋の厨房で洗い物を手伝ったり、近所の果樹農家へ収穫の手伝いに入ったりしている。聡がピアノを辞めた事情は律の親友の寛実が律に教えてくれるが、他の人には分からないままの設定だ。
   ネネの遊び相手をしながら世話をする律、忙しくて夕飯時には蕎麦屋を頼る理佐と律、結局生活の中心には蕎麦屋の夫妻とネネが居る。そこに聡も加わるような形で、物語は進んでいく。
   理佐も聡も親との関係に鬱屈を抱えながら、そこをどう乗り越え自分の人生を作っていくかの途中にある。そして、私の年齢になればかもしれないが蕎麦屋の夫妻のお互いを思いやる様子を間近に見られた事が、理佐や聡、さらには律にとっても良い道標になったのでしないだろうか。

23/5/1

   『水車小屋のネネ』(津村記久子著/毎日新聞出版)を読んだ。数年前の朝刊の連載小説がまとまったものだが、当時も毎日楽しみにして読んでいた。スタート前に作者が『朝刊なので毎日読んで元気が出るようなものを』と書いておられたと思う。
   表面は水車小屋で飼われているヨウムのネネと8歳から始まる視点人物の律、そしてその周りにいる人々の40年にわたる日常の物語だ。便宜上10年ごとに別の主役による物語がつながっていく。
   初めの物語は1981年、律の姉・理佐を中心に物語は始まる。
   母親が理沙の短大入学金を恋人のために使ってしまった事から物語が始まる。理佐は友人の手助けを借りて就職先を探し、独立をすることにする。そこで、妹の律も母の恋人に虐待をされている事に気づき、妹も連れて家を出る。
   その職場が隣県の蕎麦屋さん。水車で蕎麦粉をひき、蕎麦の実の減り具合の見張りをネネがしている。ネネは半年前に亡くなった店の奥さんのお父さんのペットで一緒に水車小屋で蕎麦粉をひいている内に覚えてしまったそうだ。お父さんが使っていたアパートの部屋が空いているからという事で、姉妹はそこに住みながら、理沙はお蕎麦屋さんの店の仕事と蕎麦粉をひく仕事とそれに伴うネネの世話をすることになった。もっとも律があっという間にネネと仲良しになる。蕎麦屋の夫妻、飼い主の亡くなった後にネネの世話を引き受けてくれていた画家のおばあさん、律の担任の先生や、友達の保護者など、初めは若すぎる姉妹の生活を不安に思っていた周りの人々も、いつの間にか2人を受け入れていくようになる。
   中でも後の章でも思い出として語られる画家の杉子さんとネネを介した姉妹の結びつきは、親からスポイルされた2人にとって暖かく大切な物だったのだろう。
   長い話なので明日に続く。

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