08/12/31
あっという間に1年が終わった気がする。
蒼の交通事故死から始まった今年、夏にはクロンも死んでしまった。人間の葬式も多い年で、従妹のお舅さん・岩手の叔父・焼津の叔父と親族だけでも3つもあった。『お付き合いメモ』を整理していてもずいぶん香典を出していた。
今年に入ってかなり足元が危なっかしくなった父の体調が夏あたりからはかなり悪化、11月に入ってTANUKIまで体調を崩してしまった。
書き出してみるとかなりひどい1年だったような気もするが、仕事がらみで飲み会や研修旅行にもずいぶんと出た1年だった。2期目に入った主任児童委員はいきなり部会長が振られ(その時点で1番時間の融通が付きそうだったので)、分からないなりにも一生懸命にやってきた。母子福祉協力員も3年目に入り、出来ないなりにも段取りが分かってきた。はだかっこの会がらみの人の輪も広がった。
ネット上でも『俳句でおしゃべり』も『農大リンク』も細々ながら人の輪を作って続いている。
さて来年は私にとってどんな年になるのだろうか。
08/12/20
志太常磐松会の大先輩のお誘いを受けてA先生の別荘での忘年会にお邪魔した。
メンバーはほぼ決まっているようで半年振りに皆さんにお会いした。M先生も足元は心もとないもののお元気そう。
広々とした室内にだるまストーブ、火鉢、囲炉裏と火を入れて、飲みかつ食べ、話し夜ふけまでにぎやかに続いた。
もちろん馬鹿話も出るのだが、事務方の方と授業料未納問題の話をしてしまった。今の経済状態の中では仕方のない部分もあるがきちんと話し合いが出来ずに除籍になってしまうと退学と違って復学が出来ないので気の毒だが、子供(学生)に知らせないままそこまで来てしまうこともあり問題があるようだった。入学はしたものの学校に出て来ない者もあるようだがそれについては外野からは「義務教育じゃないんだから」の声。
08/12/16
しばらくぶりで静岡の老舗デパートを歩いた。有体に言えば時間つぶしに1番近い喫茶店に入りたかったのと、駐車場の優待券が欲しかったのだが…。
地下以外は大丈夫だろうかというほどに空いていた。しかもほとんどが年配の女性か高齢のご夫婦。店員さん意外に若い人は見当たらない。
金額とみあった買いたい物は見当たらないし、いつの間にかデパートと自分の生活観が乖離してしまっていた。
08/12/15
不景気もきわまっているようだ。リストラ・派遣切りなど年の暮れに困難な状況に置かれている人も多いが、まず地元の民生委員さんに相談してほしい。あるいは地元市町村の福祉課や社会福祉協議会へ行ってみよう。相談窓口はしっかり活用してほしい。もちろんハローワークなどを通しての就職活動も平行しなければならないが、困っている状況によっては住む所の確保やとりあえずの生活の安定を考えなければならない。
上に居る人ほど不況だ不景気だと騒いでいながら実態に疎い反応しかない。下から困っている実情を突き上げていかなければ本当の対策は出てこない。組合を作るなどの動きも出てきているが、もっと大きなうねりが出てこなければ状況は動かないような気がする。
08/12/7
自治会の防災訓練。9時に地震という事で避難所までの避難訓練と講演会。
目の前が避難所のため、総代で途中で集まることもなく、組の待ち合わせ場所は避難所。他の総代の人達が家の前を通るのを合図に出て行くが、今日もなかなか組や総代の人が見つからなかった。始まる前に組の人達6〜7人の顔がそろう。今日は小・中・高校生(出席すると学校へ提出する出席証明が出る)を含め970名ほどが集まったそうだ。
今日の講演は県地震防災センターの所長さん。演題は『東海地震にどう備えるか』だったが、日本は地震国で何時何処で起きても不思議はないという話から入った。また、断層の沈み込んだ側ではなく乗り上げた側の被害が大きくなる事も覚えておくといい。
最近だけでも中越沖・能登・岩手宮城内陸と震度6以上の地震が起こっている。その度に原発の危機管理・企業防災などの課題がクローズアップされてくるが、根本は住宅の耐震化により被害を受けない・避難所に行かなくて済む事が1番大切になる。
四川大地震では10万人近くが死亡・行方不明となったが、これは耐震化の遅れによる圧死がほとんどで瓦礫を掘り起こすことも出来ずに行方不明と数えられている死者が多数ある。阪神淡路大地震でも初めの15分以内の死者が60パーセントを占めほとんどが圧死だった。建物や家具の倒壊などの時に隙間にうまく入り込めれば命が助かる事も可能だが『黄金の72時間』といわれる3日の間に助け出せるかがが勝負となる。また、建物の下敷きになって命が持っても2時間以上経つと助け出されてもクラッシュ症候群に陥って命を落とす事もある。
結局は家の耐震化と家具の固定などの自助努力で地震が来ても命が助かる準備をし、地域の協力で被災した人を助け出せる日頃のつながりや訓練が必要となる。
また地震が来たら水も止まるので、飲み水や食糧は1週間分の備蓄、トイレもほとんどが水洗で使えなくなるのでその対応など日頃から備えておく事が必要である。さらに、家族の中で地震が来た時の連絡方法の確保やすぐに家に帰れるのかそれとも職場での持ち場があるのかなども話し合っておくべきである、というような話だった。
08/12/2
叔父さんは昨夜10時過ぎに亡くなられたと朝マーミから連絡が入った。
昨日は皆が訪ねたので安心したのか、叔母さんと(叔父さんは親戚に養子に入っていたのでそちらの)妹さんに見守られて旅立ったそうだ。大変だったのは子供達で今日はまだ大丈夫かなと家に帰ったとたんに呼び返される事になったそうだ。
まだ現役で仕事もしていたので、すぐさま弔問のお客さんの応対や葬儀の打ち合わせで家族は忙しくなってしまっているが、葬祭場やお寺さんの都合などもありお葬式は週末になった。
今年は喪中の挨拶もずいぶん頂いたが、我が家でも昨年から親戚のお葬式が続いている。
08/12/1
朝、マーミから叔父さんが危ないという連絡が入って入院している静岡の病院へ見舞いに行った。
若い頃に結核で片肺を切除し、最近は心臓もあまり良くなくて薬を手放せないようだったが、夏過ぎから狭心症と肺炎で入院中だったが、肺炎の容態が思わしくなくてお見舞いはしていなかった。
良くなったかと思うと悪くなって、嚥下障害を起こすとそのまま肺炎が悪化するので、口から食べられるようになるのを楽しみに療養を続けていたようだが、その願いはちょっと厳しくなってきたかもしれない。体調も肺炎のサイクルで良くなったり悪くなったりを繰り返していたようだが、昨日まで話もできたそうだった。
無理な延命治療はしたくないと言っていたそうだが、まだまだ薬の注入や痰の吸引の後はバイタルサインが好転するのでもう少しがんばってくれるかもしれない。