ちょっとした感想   

10/10/30

   日本の外交的腕の無さにはほとほと心配になる。政治家はいくらパフォーマンスをしても個人のできる範囲なので、情報全体を評価してどう対処をするかは官僚というシンクタンクが担っていると思うのだが、とにかく知恵がない。
   中国にしてもロシアやアメリカにしても相手の行動をいちいち忖度して解説をする事など必要ない。我々が国家として相手に何を求めているのか、そのためにはどうアクションを起こしてどのようなアクションを引き出したいのか、1手で決まるものなどはなく、紆余曲折をへながら目的地にそれとなく相手をいざなう技術が必要なのだが、どうもギクシャクばかりが目につく。
   まず、中国は大国なのだからOADなど出す必要はない。元々同じ文化圏の中で何千年もやってきているのだから、その文化圏の中で、中国の周りの国々と何ができるかを建設的に考えた方が良い。国内の米軍基地にしてもいらないというのならば思いやり予算など付ける必要はない。逆に騒音被害などについて基地近隣への補償を求めるべきだ。あちらを見、そちらを見してキョトキョトとしているからロシアにまで足元を見られているのが現状ではないだろうか。
   COP10にも言いたい事はある。利益をいかに分けるかなどと言っている間に、世界各地にある有用な生物が乱獲や開発により無くなる恐れについてもっと話し合いをするべきだ。だからと言って生活のための乱獲を良い事に先進国が搾取をしているようでは状況は改善しない。人間お腹いっぱい食べられて安心して寝られれば楽天的になるもので、途上国・極貧国にそのような状況をどうやって担保するかが先進国の頭の使いようだと思われる。
   幸い日本ではコメが余っている。まず、農水省は前年度以前のコメを外務省に適正価格で売りつけて外務省はそれを飢餓状況にある地域から順に栄養士や保健師ついでに調理師も付けて配り歩く事からすれば良い。ご飯だけでなく粉食や麺にもなるのでその国の食文化に合わせた食べ方を考えれば良い。集落ごとに顔の見える援助になるはずだ。そうすれば休耕田などとのんきな事は行っていられない。作付け面積を増やし世界の人に食べさせるために米作りに励めばいい。日本という国は水田によって守られてきた。水田というダムが無くなれば水害も増えるし、近海の魚介類にも影響を与える。余っている労働人口も吸い上げる。一石何鳥にもなる布石である。

10/10/24

   ホームページは新居の方へほぼ無事におさまったと思う。さいわいな事に、1度ホームページビルダーに呼び出して保存をすると新しいサイトにつなぎ直しをしてくれるようで、せっせと端から処理をした。昨夜は途中でパソコンがもう嫌だと突如真っ黒になった時は慌てたが、再起動をして何とか最後まで終了。
   今日はテレビで大学女子駅伝を見ながら、自分の出先機関のブログやBBSで新URLのお披露目をした。
   駅伝の方は仏教大がぶっちぎりの2連覇。農大は今年も玉川大といい勝負となったが、順位はだいぶ落としてしまった。

10/10/22

   ホームページの移転作業中。何度目かの引っ越しなので、設定方法などは分かるのだが、それでアップされてくれなかった。
   よくよく見たらトップページをいままでの.htmから.htmlにしなければならないらしい。フォルダー内の小手先でできなかったので、とりあえずトップページを作り直したら、全部リンクを作り直さなければならないようだ。
   まだ、iswebも使えるのだが、このグチャグチャでは両方滅茶苦茶になりそうで躊躇している。
   近い内に何とかしようと思うが、さてうまくいきましたら拍手ご喝さい。1番初めも、そこが無くなって引き継がれた所に変えた時も、パソコンのバージョンが代わって、初めに使っていたソフトが無くなった時も、何とかなったのだから、きっと何とかなるでしょう。

10/10/20

   NHKの『ためしてガッテン!』を見た。本日のテーマは長引く咳。大人の喘息についてだった。
   症状は風邪の後で咳だけ残る。好酸球という白血球の一種が働き過ぎていたずらをするらしい。慢性剥離性好酸球性気管支炎という。まさに今の私の状況。
   咳が長引いたなぁと思ってもいつの間にか治ると治ったのだろうとそのままにしている内に気管支の動きをつかさどる平滑筋が厚みを増して気管支が狭くなったり、肺の中の血管が変化して悪化するらしい。
   アレルギー体質・明け方の咳や息切れなど・風邪の後3週間以上の長引く咳などが目安のようで、私の場合も大当りといったところだ。対策はステロイド剤の吸引という事だが、まさに今もらっている薬。そのための検査はしていないが内科は長い付き合いの医者なのでカルテのバックナンバーであたりを付けたのだろう。
   病原菌を振りまいている咳ではなく、内部因子の咳のようなのである意味で安心をしたが(咳が止まるまで何もできないのでは1年の1/3が無駄になる)、下手をすると窒息死しかねない病気のようなので気を付けようと思った。

10/10/17

   本日は社協のふれあい広場。こちらの担当については別に『今日のお仕事』で書くが、ここでは『やいづワンニャンの会』の活動に関して思った事を書いておきたい。
   この会は「不幸な野良猫を増やさないため」の活動をしている。子猫の里親探しなどもしているようだが、基本的に餌付けをした野良猫の避妊・去勢手術と、決まった場所での餌やりが活動の中心のようだ。
   しかし、猫にとってはありがたい活動だろうか?と私は幾重かの?を付けてこのような活動を見ている。様々な事情があって猫が好きだけど猫を飼えない人にとってはふれあいの良い機会になるだろう。けれども生物にとって子孫を残すことこそがその生きる目的であるとしたら、避妊・去勢手術は自然に逆行をした活動である。確かに飼い猫に比べれば外猫の寿命は短いし事故の危険も大きいが、自ら餌を取り成長して子育てをして命をつないでいく事こそが彼らが生きているという事ではないだろうか。
   私は本気で人の手から距離を置いき、獲物を取り子育てをする猫のDNAが消えてしまわないかと心配をしている。
   それでも写真の猫達がみな丸々としていて毛艶が良いのは海の街焼津の土地柄だろうか。

10/10/15

   車を修理に出したので代車を借りた。インサイトというハイブリット車。乗る時に注意を受けたが運転そのものに特に違和感はない。それよりもこのタイプの車はシートに座ると足が届かないか後ろが見えないかで今まで選択支に入っていなかったのだが、今時の車はちゃんとシートを合わせる事で無理なく扱える。ただし、乗り降りにはシートを思い切り前に出しているのでいささか足がつっかえて不便だが…。この車だけなのかそれ以外も今は考えられているのか、後ろの窓がかなり下まで取ってあって後方がきちんと見える上に、後方の車がちょうど良い車間距離にあるとライトがさえぎられるようにストップランプの骨組みがある。
   ちょこっと乗ってみて楽しかったし、燃費を考えると買い換えた方が長期的には良いかなとも思うが、まだ本気で考えているわけではない。

10/10/14

   鬼の撹乱?しばらくぶりで風邪をひいた。ただし、本格的風邪の割には熱が出ない。まず頭痛と喉の痛みと鼻詰まり。それが9日の土曜日だった事で、はだかっこの会はこの声で行ったら嫌がられるだろうと休み、1日ゴロゴロして退散を願う。
   しかし、あまり回復はせずしばらくぶりの市販の風薬はひたすら眠くなる。翌日曜日も布団の上でゴロゴロ。11日は洗濯物の山積を片付け買い出しに行くも、ご飯を作る気にはならない。とにかく咳が止まらず、しかも発作的に出るのがなんとも鬱陶しい。
   12日、ようやく平日になったので仕事を片付けて午後から医者へ行く。たっぷりと待たされて、注射を1本、薬を一山出してもらって帰ってきた。
   忙しいので、用事は片付けているが、後はゴロゴロ。咳こみで首のリンパと胸と背中が痛い。
   去痰剤のお陰で鼻詰まりは解消してきたが、喉の痛みはかなりひどい。今週末も忙しいのだが、早く退散してくれないものか…。

10/10/6

   昨晩は風さんのお別れの会に浅草まで出かけた。
   『浅草の風』のかかわりで浅草の観光関係者の皆さんが発起人になって下さり、地元の方だけでなく、高校・大学の仲間・昔勤めていた出版関係の仲間・山仲間とともにネット付き合いのメンバーにも声をかけて下さった。もっともネット付き合いのメンバーも風さんの場合はほとんど普段の生活でもどこかのお知り合いという方が多いので、純粋なネット付き合いは私だけだったと思う。(私も一応農大の後輩になるが)
   ともかく2時過ぎに家を出て東京へ向かう。のんびりとこだまの旅。ちょうど彼岸花・稲刈り・金木犀と秋の季語は車窓にゴロゴロあるのだが1句もできず。
   東京駅では神田までなので他にも選択肢があるのだが懐かしかったので中央線に乗りたいだけで駅の端から端まで歩いた。中央線も私が使っていた頃のオレンジ車体ではなく、オレンジのラインが入ったしゃれた車体に変わっていた。
   神田からは東京メトロ銀座線で田原町へ出る。出口を間違えなければ?今日の宿ホテルサンルート浅草が道路の向こう側に見えるはず。04年に風さんのグループのオフ会で泊まったのだが、何とか道は覚えていた通りだった。
   チェックインをして荷物を部屋に置いた後、時間はまだあるのでフロントで道を教えてもらって会場までの道をチェック。ついでに隣のコンビニで朝のコーヒーを入手。
   部屋に戻って支度をして改めて出直す。蜘蛛助さんの司会進行で6時半から始まった風さんのお別れの会はまず、ストーブ屋さんによる送る言葉。学生時代からの長い付き合いの中で、お互いに良い仲間だった事がしみじみと分かる。そして、私とは大学の中での居場所は全然違っていたはずなのだが農大は農大だという納得感があるのはなぜだろうか。その後はブルネイにおられる南の風さんからの弔電が読まれた。南の風さんは風さんの高校・大学の先輩に当たるそうで、ずいぶんと可愛がっておられたようだ。それにしても牛の頭の骨格標本を作るのだとマンホールに沈めて異臭騒ぎまで起こしたとは…。
   続いて浅草の観光関係者の代表の方の挨拶があった。『浅草の風』を企画するに当たってそれまでカメラなど扱った事のなかった風さんがあれだけの写真を撮りまくって腕慣らしをし、満を持して『浅草の風』を始めたようだ。ヒット数トップクラスのブログとして育てたのはさすがだと思う。多分その頃に「忙しくなるから」と『農大リンク』を譲ってもらったのではないかと思う。
   そして、皆で白のカーネーションの献花をして食事が始まった。私は風さんの最期に居合わせたMIEKOさんや、やまきちさんなど山の会の皆さんとご一緒した。ままねこさんや不良宮島さんの奥様も一緒で不良宮島家も風さん最期のプロジェクトでは重要なメンバーだったようだ。会員制の個人のブログでは結構ぶつくさと色々言っていた風さんだが口に出して「痛い」とは言わなかったそうで、「かなり辛かったと思うよ」と傍で見ていた人達は言っていた。
   また、以前に風さんの事務所で働いていたという方も見えて風さんの事務所に出入りしていた皆さんに懐かしがられていた。
   しかし、まるさんや津波さんなど何度かお会いしているのに私は思い出してくれなくて名のると「TANUKIさん元気?」「相変わらず料理している?」ときたものだ。
   ところで仲が良いけどどういうつながりなのだろうと思っていた風さん・蜘蛛助さん・不良宮島さんは、出版社に風さんがいた頃に紙を売り込みに行っていたのが蜘蛛助さん、風さんがその頃に採用したのが不良宮島さんだったようだ。3人ともそれからまたそれぞれ別の世界で仕事をしてきているのでよほど気の合った仲間なのだろうが「風さんの人たらしのせい」でもあるらしい。「色々と後を頼まれたのだが、これでようやく1つ果たせた」とホッとした顔の蜘蛛助さんを見ればとても仲が良いのがよく分かる。
   また、浅草のお歴々の1人として見えていた三遊亭あほまろさん(三遊亭圓歌師匠のお弟子だそうだ、何だかお顔も似ている気がしたが…)は風さん同様に浅草を撮り続けてブログにしているそうだが早朝に犬を連れて写真を撮りに行くそうだ。そして、風さんは猫派、ネコの写真を撮っては『浅草の風』に載せているので「この猫この前の写真の猫だ」と思って見ているうちに連れている犬の方がネコと仲良くなってしまったそうで、「その写真集がやっとできたのです」と風さんにお供えをしていた。『待っていたよ』(徳間書店)という写真集、焼津まで戻って谷島屋に行ったらあったので買ってきた。
   最後に風さんの息子さん(gusokuさん)が挨拶で「家にはあまり帰って来なかったけど、たくさんの人に囲まれて良い生涯だったと思う」と話された。
   洋食のフルコースもデザートまで来て時間も9時をだいぶ回り、最後は浅草らしく3本締めでお開きになった。
   今朝はのんびりと起きて、お店がそろそろ開き始める9時頃まで待って宿を発った。荷物を担いでそのまま浅草へ。
   浅草寺で風さんと父や祖父母の冥福を祈る。隣の浅草神社のお参りをしてその辺をフラフラとする。観光客の元気な声は中国語を始めほとんどが外国語。
   昨日の会にも見えていた和菓子屋の龍昇亭西むらで栗むし羊羹他のおみやげを買って目の前の東京メトロに乗って神田経由で東京駅へ。10時26分初のこだまに乗れて新幹線も含めてタイミングは良かったが、静岡駅に着いたのは12時。1度駅ビルに出てお昼を食べて帰ってきた。
   帰り道でおみやげを渡しにマーミ宅へ寄ったら「1人で泊まったの、ゆっくり眠れたでしょう、良いなぁ」と言われた…。

10/10/4

   昨夜はNHK2でETV特集『なぜ希望は消えたのか』という戦後の日本農政史のような番組をやっていた。遅い時間だったので途中で寝ようかと思ったが結局最後まで見てしまった。
   戦後いち早く水田の整備を始めた山形県の村、しかし水田の整備が進み、大規模化に備えた農道を通し、水田の形を整えた頃には宅地開発の波が押し寄せ、その地域は宅地化をされて行った。さらに、様々な作物にもチャレンジをするが、海外との価格競争なども始まりなかなかペイしない。その内に土地を貸す事が現金収入の主となり、子供達は高等教育を受けるとともに土地を離れて行った。
   そして現在、農地は引き受け手のないままに耕作放棄地となって荒れ果ててきた。
   この間の様子を現場である村の農業と政策を立てる農林省(農水省)の担当者のインタビューでチェックをして行くのだが、どうも役人が何かを思いつけば思いつくほど悪くなっていったのがこの60年の日本の農業だったような気がした。
   日本は狭い国なのだから、大規模化より地域特性に合わせた土地の高度利用の方が理にかなっていると思うのだが、農政はひたすら単作・大規模化を進めてきた。
   この時代を農家として生きてきたかなり大規模な米農家の方が「3世代かかって離農のソフトランディングをしてきたようだ」と言っていたのが印象に残った。
   今、耕作放棄地として野や林に戻ってしまっている所はまた開墾をする事も出来るから良い。しかしコンクリートで固められたり危険物の廃棄場所になってしまったりしたら日本の食糧事情がこの10年先にはどうなるかと思うと心細い思いをする。

10/10/1

夕闇やサンマの煙が呼びに来る     DORA

   実際にはこの秋はまだ焼きサンマを食べていません。値段が高いのもありますが、母が1匹を食べきれなくなり、半端な残りをどうしましょうというのもあります。
   去年の旬の冷凍ものだと思うのですが、刺身は何度か食べました。保存技術の進歩に感謝です。

9月    11月