13/11/30
シロアリ対策で今日は大工さんが壁と屋根裏、ついでに床下もチェックをしてくれて工法の検討。予想以上の大工事になりそうで、「住み着いたままの工事になるから」という所だけはきっちり言ったが、逆にゴール地点は予定より遅れるかもしれない。
屋根裏に上がった大工さんに「ネズミ出る?」と聞かれてまさかと思ったら、先日はながもぐりこんだ時にそこで吐いたらしい。
13/11/28
60年前の産院での赤ちゃん取り違え事件が裁判で確定してニュースになっている。
生活環境に差はあったものの、どちらの子どももそれぞれの家族に大切に育てられたわけだし、本人達も還暦を迎えてのこのニュース、何か割り切れないものが残る。特に取り違えられたもう一方の人は、これまでの人生をどう考えているのだろうかと思ってしまう。
13/11/27
白アリ防除の業者さんに床下を見てもらった。
我が家の床下は他所よりも少し高くはなっているのだが、洞窟探検なみの支度が居るようだ。明かりはともかく、マスクの上から防塵マスク、ツナギを羽織って長靴、頭はタオルで防護、トンカチとドライバーさらにデジカメを持っての調査。
結果的に「居ますね、それも大分やられています」となった。台所改修の一環だったのだが、脱衣場はもちろん、南角もとかなり広い範囲の補修が必要になった。
今時はメモ代わりにデジカメを使って「これを見て」となるので説明は分かりやすい。蟻道という白アリの通り道が4車線道路並みに広くなっていて「こんなに大きいのはめったにない」と言っていた。かじった木材の中にかなり大きなコロニーもあると言っていた。改修工事で傷んだ所を取り除いてから薬をかけましょうという話だった。
本来の目的の内部の改装にどれだけ予算がまわるか分からなくなった上、思いっきり華々しくアレルギー鼻炎発症。リフォーム業者さんの提案と見積もり待ちだが、しばらくまた忙しくなりそうだ。
13/11/24
外壁の塗り替えを考えているのならと外壁塗装教室に誘われた。
外壁の防水が建物を長く保つためのキモなのだそうだ。現在主に使われている外壁材はサイディングボードと言われているものでコンクリートに木や紙の繊維を混ぜて軽さと強度を出しているものなのだそうだ。その目地のシーリングが劣化しやすく、これが劣化をすると雨水が入ったり、建物がガタついた時にボード同士が当たって傷んだりして、やはり雨水が入る原因になるそうだ。日本家屋のほとんどは木材が使われているので、そこから木の腐食が始まると大事になるのだそうだ。また、やはり湿気が強くなると白アリの害も出る。湿気が入らないようにして腐食菌と白アリの2つを抑える事が建物を長く保つための大切な事だそうだ。
塗装を外見の色のためではなく防水の面から考えてほしいという事で、洗浄をし下地塗りの後、中塗り、上塗りと進むそうだが、これも塗装剤の溶き方にルールがあるようで、家は広い面積なのできちんと測らないと塗りムラも出るし防水機能も発揮できないとの事だった。
また建物の面積と壁の面積はデザインでも違うのでドンブリ勘定はいけないとも言っていた。そのためにはきちんと現場監督を置いてくれる業者を頼む事が大切だそうだ。また、ペンキ屋さんは塗るのが専門で大工仕事は別なので、塗り替えの場合は建物の傷みをチェックして補修のできる体制の方が良いそうだ。
13/11/21
駿府博物館の『没後80年 宮沢賢治 詩と絵の宇宙雨ニモマケズの心』を見に行った。
昔よく使われていた黒い表紙の小さな手帳に大きなカタカナ使いで縦書きされた自筆の雨ニモマケズの詩は何か感動的だった。ものすごく読みやすい字でさすが教師をしていた人だなぁとふと思った。
この詩は死後、たくさんの作品が収められたトランクの中に入っていたこの手帳によって初めて存在を知られたそうだが、多くの人達がこの詩を題材にして絵や書にしている。なかでも棟方志功の作品は経典のようで素晴らしかった。
他は絵本になっているものの原画が多かったが、時代による違いやそれぞれの作家の解釈の差、技巧など1つの作品からも色々なイメージが広がっていて楽しかった。
ところで宮沢賢治の肖像と言えばうつむいて田の中を歩いているものが教科書などにも載っていて印象に残っているが、実はベートーベンが散歩している様子の絵を真似て撮ったものだそうだ。なかなかお茶目な人でもあったようだ。
13/11/15
昨日の主任児童委員部会の送別会で、ほぼ9年間の主任児童委員生活も区切りがついた。今日はまだ民児協の冊子検討委員会があったし、12月に入ってから退任式や送別会が続くが、個別ケースで何か起こらなければ後は日が過ぎるのをカウントダウンすれば、めでたく退任となる。
あまり考えずに勢いで受けてしまい、走りながら考える泥縄で、言いたい放題をしてかきまわしたにもかかわらず、民児協の中では若い部類に入った事から、あまり咎められもせずに勤めさせてもらった。
子どもがいないと学校関係での付き合いもなく、なかなか地域の中に溶け込めないのだが、それもこの9年間でずいぶん解消した。役目を降りても同じ所に住み続けるわけで、これからもそれとなく子ども達を見守り続ける目を持ち続けたい。
13/11/12
白内障のために眼科に通うようになった。ただし、まだ手術するほどの事はないという事で経過観察だけ。しかし、順調に悪くなっているようだ。
今回事前の視力検査で「右の視力が落ちているね」と言われ、半月前に読書用の眼鏡を作った時にも言われたので、先生に言ったら、「鍼の先生に言われたの?」と来た。確かに前回ドライアイか視力の落ちが肩凝りに来ているのではないかとは言われたが、鍼で視力まで測らないけど…。というわけで先生の勘違いに大笑いしたけれど、メモしていたのか記憶力が良いのか…、楽しい先生だ。
13/11/10
サッカーJ1の磐田が今日の試合に負けてJ2落ちが決まった。中山ごんちゃんはじめ藤田俊哉・名波浩・福西崇史・服部年宏などなど日本を代表する選手達が黄金時代を築いたチームも世代交代が難しかったようだ。
現在も駒野や前田など日本代表選手を擁しているが、今期はW杯最終予選との2足のわらじで体力的にも大変だったのだろう。
スランプを通り抜けて人も組織も強くなる、そう信じてまたJ1で輝く日を待っている。
しかし、日本という国の規模や人口から考えて、下部組織まで含めたプロチームの数や選手数が適切かどうかも考える時期に来ているかもしれないし、女子も含めて子ども達から中高年までのサッカーを、プレーして楽しむ、見て楽しむをどうコーディネートするかもサッカー協会として考え直すところに来ているのではないだろうか。
13/11/7
静岡市美術館に『没後100年徳川慶喜』を見に行った。江戸幕府最後の将軍。ただし早々と大政奉還を果たし、静岡で隠居生活を送り、傍目には目一杯趣味人としての生活を楽しんだように見える。
(数え年)7歳の書(お習字)がすでに立派なもので、全体の構成でも書が多かったが、絵も描けば写真もたくさんとっている。ご自分が撮られるのも好きだったらしいが、写した写真も多く、ちょうどカメラや写真の黎明期でもあり、画像も鮮明になって行くし、今と同じ意味でのスナップ写真とは言えないだろうが、日常や風景を写したり、お子さん達を撮ったりと趣味としての写真を色々と楽しんでおられたようだ。
将軍時代にフランスとの交流があり国際情勢を知った上で、さらには自身の母も息子の嫁も皇室と縁のある所から来ているにもかかわらず、政治の表舞台からきれいに消えて日本という国を混乱・分裂させないという強い意志があっての上の選択だったのではないかとも思われた。
しかし、明治35年には公爵として徳川宗家とは別に一家をなし、明治44年に開通した日本橋の題字も揮毫している。
13/11/6
老舗と言われるデパートやそこに入っているレストランなどのメニュー偽装問題が次々と広がっている。私としてはメニュー偽装は詐欺だと思うのだが、料金と照らし合わせておかしいとも思わなかった消費者の感覚もまたおかしい気がする。
残念なのはバブル崩壊後、日本から本当にプライドを持ったビジネスマン(社長さんも株主さんも)が居なくなってしまったのではないかと思われる事だ。かつて江戸時代の大店以来、日本では連綿と仕事は自分達の儲けだけではなく社会のためにという意識を持ち続けていた。少なくとも大店として続いた店はそういう心意気を持ち続けてきた。
「儲かりまっせ」と言われても、店の信用や格式の上でその儲け話の是非は判断をする事だった。
もう1つ、この問題で少なくともマスコミの役目として、言われている高級食材がどの位日本にあるのか、正規ルートで幾ら位するものなのか、売ろうとしている販売ルートに乗せた場合にこの料金は適正なのか、原材料の数は手に入るのかなど、絵になる報道の仕方が色々あると思うのだが、どこも取り組んでいないのが物足りない。「美味しい!」「なめらか♪」などと叫ぶだけのグルメ番組よりも面白いものになると思うのだが…。
13/11/1
10月の30日に地区民児協の研修旅行で山中湖の方に行った。今月末で任期終了となる私にとっては最後の研修旅行、しかも旅行当番だった。
初めは遷宮でにぎわう伊勢なども候補に挙がったのだが、混雑と途中の東名高速の集中工事中という事で諦めた。当番の内3名がそろって年寄りの介護中とあってあまり遠出だと大変だという事もあったが…。しかもケガや体調不良、仕事の関係などで19名中4名が欠席だった。
そんな訳で集合もゆっくり、バスの1番早いお迎えが8時、第2東名の藤枝ICには8時40分頃入った。研修用に準備したDVDはテレビからの録画だったためバスの機械には認識してもらえず、ノンビリと音楽を聴きながらのドライブとなった。
道路の混雑もなく10時頃には御殿場IC。我が家の墓参りコースとは逆に左折して以前に行った秩父宮記念公園を通り過ぎてしばらく行くと東山旧岸邸がある。現在は羊羹が有名な虎屋が管理をしており、岸元総理が晩年を過ごしたお屋敷の1Fと庭園が公開されている。本来は隣の別荘の敷地という所には虎屋の工房と売店があり、喫茶ができるようになっていた。
敷地はこの奥にお屋敷があるのかと思うほどの竹林と木々に囲まれていて幽玄さを感じさせるが、建物のまわりは開けていて、水の流れと和室のまわりのあっさりとした庭、いくつかの窓に面した坪庭の他は大きな木が何本か配されているだけだった。
建物はある程度の来客に対応するためか玄関ホールや居間・食堂を洋室で広くとり、別荘地らしく窓も広く外とのつながりを意識した作りになっている。逆に和室は広さはないが、広く見せるように畳の縁や障子の桟などが細くなっており、欄間を吹き抜けにする工夫などがされていた。シンプルではあるがよく見ると凝った作りになっているようだ。うらやましかったのはキッチンで、明るくシンプルながら作業もしやすそうだった。お手伝いさんを3名使っていたそうだが、ちょうど働きやすそうな広さだった。
売店で1口羊羹のわりには高価な羊羹をお休みした人達へのおみやげに買ってバスへ。
お昼を食べに山中湖のホテルマウント富士へ。予定したよりも早く着いたようだったが、準備は整っていた。お昼のお客はもう1グループあるようだったが、まだ見えておらず偶然にも貸し切りになった。我々としては珍しくワインで軽く乾杯をしてからお魚料理の洋食。1人飲み過ぎて気分が悪くなりバスの中に残ったが、その分も皆でシェアして美味しく頂いた。サービスについたボーイさんの1人が焼津の人で、しかもメンバーの1人の元学校の先生の教え子さんだった。
お腹が一杯になったところでバスはまた山中湖のほとりへ。大昔ボーイスカウトのウッドバッチ研修所へ行った道を見つけ出し懐かしく、現役でボーイスカウトに関わっている人に聞いたら、山中湖は東京連盟のものらしく、あまりつながりはないようだった。
湖を半周位したところで、水陸両用バス・KABAに乗るためにお土産物屋さんで待機。酔っ払いもようやく目覚めたが、渡された切符「どこだっけ」と騒ぎだし、切符を取り上げて連行。車体の前でグループごとに写真を撮ってもらい(1枚\1.000)乗車。座席指定のためにここまで連れてきた酔っぱらい(冗談の多い人で悪い人ではないのですが…)は別の人に引き継ぎ。KABAはまず陸上を走り途中で水の中に入って行くコースで、30分ほど土地の自然や民話などの話をクイズ形式で聞かせてもらった。水の上はさすがに空気が冷たかった。
次は忍野にある絵手紙美術館へ。イベント用のホール、小池邦夫絵手紙美術館、岡田紅陽写真美術館の3つが1つの建物にあるようだが、入館料がみな別々になっているようだった。
まず予定の小池邦夫絵手紙美術館へ。この方が絵手紙の創始者だそうだが、独特の癖のある字と絵だが、不思議と読みやすい力のこもった作品が多かった。
真ん中のホールで白籏史朗の富士山の写真展をやっていたので\200追加してそちらも見た。窓からは本物の富士山も黒いシルエットを見せているのだが、四季のどれをとっても富士山は絵になる。しかしよく見ると微妙に前にある花にピントを合わせたり、富士山からピントを外したり、人の少ない所で近々とゆっくりと眺めたおかげでの発見があった。
外は公園のようになっていて、しばし散策。紅葉は始まったところだが柴栗やドングリがたくさん落ちていた。
これで今回の旅の予定はお終い。帰りは朝霧高原まわりで、薄暗くなった頃に朝霧高原道の駅についた。見た事がある人達が居るなぁと思ったら同じ焼津のK地区の民児協の皆さん。やはり研修旅行の帰り道だった。
富士ICからまた第2東名にのって焼津へ。秋の日のつるべ落としのお陰で暗くなってしまったが7時過ぎには帰ってくる事ができた。