みゆの居た日々


   2012年10月5日にみゆが天国へ旅立ちました。家に来たのが94年の10月25日、すでに2ヵ月半位になっていたと思うので、18歳を超えていたはずです。歯も悪かったし病気もありましたが、今のネコの寿命としては大往生と言っても良いでしょう。
   みゆがパピと過ごしたのは3年余り、その続きの我が家の歴史の中に居続けたのがみゆでした。  


   みゆの登場はセンセーショナルだった。家の周りで一晩中大声で鳴き通した(らしい)。我が家を選んでやって来た2匹目の子だった。トトロの時はパピやチビとの関係作りで失敗をしてしまい、早死にをさせてしまった事がまだ心に痛い。しかし、みゆはタイミングが良かった。パピ・チビ・小慈郎・クー・クロン・ジライヤと6匹ものネコがゴロゴロしていればもう1匹増えても「居たっけ?」で済む。
   あまりの必死さにじいちゃんが家の中に保護してきた。後ろ足がおかしいのはすぐに気がついた。というわけで何よりもまず獣医さん。どうやら生まれた時に関節が外れてそのままになったらしく、もう元には戻らないとの事。「野良猫生活は無理でしょう」とのご託宣。美猫だし、あわよくば養子に出そうかと思っていたのだが、それはちょっと難しい、となるとパピが受け入れてくれるかどうかが気にかかる。
   幸いパピは同じ白黒の毛色のせいか文句を言わなかった。が、小慈郎とクロンは反発。しかし性格が丸くなったチビは面倒を見てくれる気になった。「小慈郎もクー・クロン・ジライヤの兄弟もネズミや小鳥くらい捕れなくちゃネコとは言えないからね」というチビ先生にみゆも早速弟子入り。身が軽いみゆはどこが野生じゃ暮らせないだ…、と思うほど元気はつらつ。しかし、クロンや小慈郎が捕らえた獲物にちょうだい攻撃をかけてもらう技の方が磨かれた感もあった。
   家に招き入れたのがじいちゃんだったのですっかりじいちゃんっ子のみゆだったが、人見知りはしない。しかもお煎餅が好物。人が食べていると自分も食べたいとやって来る。いつの間にか他の猫達の仲間に入っていた。
   しかし、実はチビ・小慈郎・クロンと女の子はみんなじいちゃんが大好き。その1角にみゆも参入、じいちゃんの側争奪戦は激しさを増した。じいちゃんも自分が拾ってきたという気があるからか、末っ子だからか特に可愛がっていた。実はこの頃じいちゃんは前立腺肥大の手術を終えたばかりの病みあがり、家族が交互に入退院を繰り返し、たくさんいるネコ達も代わる代わるケガや病気で獣医さんにかかったり、慌ただしい生活が続いていた。
   それでも家の周りは田畑が広がり交通量もさほどなく、ネコ達は外で遊びまわり、ネコにとっても人にとってもノンビリとした田舎の生活だった。スズメやネズミ、時にはトカゲやチョウチョ、さらにはヘビまでネコ達は色々なものを持ってきた。

   翌1995年、春から具合が悪かったチビが7月11日に死亡。前年冬から青洟がひどかったのが、額にクレーターを作って膿が出てくるようになり、かなり壮絶な闘病だった。我が家のネコは体力が無くなるまで長命だと色々なものを食べられる。定番のマグロやカツオの刺身の切れ端に始まって、この頃は山にドライブに行く事が多かったので南信州で買い込んだ鹿や熊の肉などが冷凍ストックされており、チビは鹿刺しもずいぶん食べた。
   1996年早々にみゆの避妊手術。まだ小柄だったので心配だったが、小慈郎の時もまだまだと思っていたのがあっという間に子猫誕生だったし、これ以上我が家のネコの数が増えても困ってしまう。
   この年には相続の関係で我が家の裏にあった畑は手放した。早速に家が2軒も建ちはじめる。そう広い土地とも思っていなかったのでビックリ。この工事現場にみゆそっくりの白黒で尻尾が太くて長いネコがよく現れた。体つきはみゆの2倍近くあったが…。 しかし、兄妹とか知り合いとかの認識はないらしく、みゆは自分のテリトリーだと主張していた。
   これだけネコが居れば代わる代わるにケガや病気で獣医さんにもかかるが、逆にこれだけ大勢だとそう心配もされずに気楽な日々が続いていた。まだ外出もOK。しかし、予防注射の予定日にいくら探しても居ないなどという事もありがち。集団で居れば伝染病は何よりも怖いので、近日中に予防注射の予定は変わらないのだが…。
   実はこの頃、人間界でもOばあちゃんの体調が良くなく入退院を繰り返していた。それでも我が家のジジ&ババはまだ何とか元気でネコ達を置いて結婚式で遠出をしたり泊りがけのドライブもできた。逆に従妹の子供達が夏休みに1週間位泊まっていたりしたのもこの頃だった。
   1998年1月2日になったばかりの頃にパピが死亡。ここまでは以前に『パピのこと』で書いたのでこの程度で端折る事にする。そして『ジライヤの回想録』に話は続く。同じ話を何度も蒸し返すのは高齢化の現れ…、というよりそれ以上の記録も記憶もない…!
   みゆも皆と一緒になって良く食べよく遊びの日々を過ごしていた。ただ、家の中ではクロンは小慈郎ママニャンにくっ付いている事が多く、クーはジライヤにベッタリ、みゆは1匹オオカミならぬ1匹ネコで居る事が多かった。その分じいちゃんの愛情たっぷりで縁側で良くくっ付いていた。そして「昼にマグロ買ってこないか」と1人前の刺身や切り落としをおかずにして、その半分をネコにおすそ分けするのがじいちゃんの楽しみになっていたのも多分この頃。
   
 クーとジライヤ  クロンと小慈郎


   ピークまで増えた猫口だが、2000年11月7日に小慈郎が家の東側の道ではねられて死亡。
   今は昔、瀬戸川に架かる橋と東海道線を越す跨線橋の建設前はそこだけ狸に化かされたように田んぼの中の広い舗装道路で、乗れない自転車の練習に我々が汗を流した所も橋が出来てからは交通量が格段に増えた。夜遊び帰りだったらしい小慈郎はこちら側に渡ろうとした所ではねとばされたらしい。頭にぶつかってつぶれた後があったが身体はきれいだった。出勤途中のTANUKIが発見して持ち始めた携帯電話で電話をよこし、じいちゃんが迎えに行って庭にお墓を作った。
   翌年の3月8日にはその小慈郎を子猫の時に瀬戸川の土手から救出した慈郎も老衰のため死亡。こちらは自宅で飼い主のTOPPOさんの腕の中での大往生だった。
   その頃にはwin98が私のおもちゃになった。まだホームページを作るまでにはなっていなかったが、メールもインターネットも練習中。『ほぼ日刊イトイ新聞』は初めの頃からのおなじみページ。『牧太郎の二代目魁新聞社』に当時作られていたBBSではパソコン通信以来の猛者達にネチケットを教わりながらの挑戦だった。
   2001年5月末、いよいよ満を持してというよりは試行錯誤のまま『DORAおばさん家』を開設。日記ページの『DORAvsPC』は4匹ネコズ(ジライヤ・クロン・クー・みゆ)でスタートした。 亡くなられた『農大リンク』主催の風さんの『風の頁』にお世話になりながらホームページ作りのイロハや写真の加工などを行き当たりばったりで覚えていった。読み返すと冷や汗ものの試行錯誤の跡…。
   ホームページを始めて早々にジライヤが1週間行方不明。獣医さん・市役所・保健センター・警察と思い付く限りに捜索の手を伸ばしたのだが、本猫はケロリと勝手に帰って来た。どこで何をしていたのやら…。ジライヤが帰って来たのにホッとして学生時代の友人と北海道旅行へ。
   この時、飛行機の出発時間の関係で1日早く東京まで出て、風さんともご対面、その後、大学の先輩でもあった風さんとは『風の頁』で長いお付き合いとなった。その他にもこの頃のネット付き合いは、個人的な付き合いがインターネットの世界にも広がったものと、インターネットの世界から個人的な付き合いに深まったものと、ともに私の周りの新たな人の輪ができたような気がする。しかし、2チャンに近づかなかった事もあって、私のネット世界はかなり平均年齢の高い皆さんとのお付き合いで始まった。
   そしてこの11月、O家の母が亡くなった。自治会の総代(町内会長)もやっていて人間界では慌ただしかったがネコ達はノンビリと家の内外を気楽に出入りして過ごしていたようだ。
   そして私はパソコン操作の初めて物語が続く。デジカメも手に入れた。後ろの籐椅子のクッションではジライヤとクーが一緒に丸まり、クロンはばあちゃんに甘え、みゆはじいちゃんっ子をしていた。
   クロンとみゆはホームページの世界では喧嘩友達風に書いているが、実際にもこの頃にはあまり仲が良くなかった。クロンは女の子らしい意地悪をしかけ、みゆはヤンチャで返す。実際に喧嘩をしたり追いかけまわしたりはなかったが、微妙な関係だった。
ジライヤと一緒 クーと一緒


   そして2002年、またTOPPOさんが『しりとり俳句塾』で俳句を始めたのもこの頃。また、よそのネコがずいぶん庭に来ていた事も分かる。まだまだ猫にとっては自由に外を歩き回れる環境だったのだろう。
   北の窓の前にTANUKIをおだててデッキを作ってもらったのもこの年の春の連休だった。
   そして7月6日の夕方、ジライヤが小慈郎と同じ道路で車にはねられて死亡。ちょうど「お刺身がたくさんあるから、そろそろ帰って来い」とネコ達を呼び込んでいる所だった。この時は近所の人が見かけてすぐに知らせてくれたので、まだグッタリしているジライヤを連れて帰る事が出来た。
   ここからしばらくは『3匹ネコズルーム』がクーとクロンの黒ネコ2匹と黒白のみゆで黒っぽくなってしまう。
   また、風の頁のオフ会で尾瀬に行ったのがこの夏。ほとんどの方とはここで初めてお会いした。
   ネコ達に見守られてパソコンの操作も覚えていったが、ネット業界はジャンケンチャンピョンのように合流を繰り返していた。この時点でHPの大家さんが1度めの変更。カウンターやファイルの移動など大騒ぎだった。また、『風の頁』つながりの知り合いからネットを通しての買い物もこの頃初体験。しかし、おかしな事にまだ印刷物はワープロを使っていたらしい…。
   2003年、TANUKIの総代さんも任期満了で、4月までは残務もあったがめでたく解放。しかし、この年は静岡県で国体がありTANUKIは今度はこちらで忙しかった。
   夏にはパソコンがグロッキー。わざわざ修理にも出したらしいけど、設定は自分でやる事になったらしい。チェーンメールに振り回されたりもしたが、ネットつながりの皆さんとも色々な交流をしていたようだ。春には風の頁で知り合った農大の先輩のストーブ屋さんを長野に訪ねたり、夏には風の頁のオフ会をやはり長野でやっている。それこそ農大OB、風さんの山仲間や仕事仲間、さらにはそれぞれのホームページのネットつながりと色々な世代や立場の人間が入り混じっていて、「我々は何の団体だと見られているでしょうね」と話題になったほどだった。
   そしてクー・クロン・みゆの3匹は昼間はほとんど外遊びの毎日。みゆがハトを捕まえて持ちこんだり、クロンがお尻に噛み傷を作って医者通いをしたのもこの頃だった。
   もう1つの特記事項は阪神優勝♪暮には祝勝会でTANUKIと2人大阪へ食い倒れに行こうと出かけたのだが、天王寺の叔母にご馳走になって帰って来たのだった。
   2004年のお正月はTANUKIがクリスマスに買ってくれた携帯電話の設定と使い方を覚えるのに費やした。
   2月の末には本家のミミが死んでしまった。舌癌で口の周りを腫らしてからもずいぶんと頑張って生きていたのだが…。 
   そして3月には今度はクーがケンカ傷で通院。5月6日には我々の結婚25周年と相成った。そして6月の私の誕生日に義弟がネコポールを担いでやって来た。太い丸太部分は歴代猫が爪をといでもまだまだ細くはなっていない。1番下の土台の絨毯こそボロボロだがまだまだ現役、ネコ達が頂上を取り合っている。
   この年は6月に新津の伯母の3年祭があり、8月に岡山の祖父母のお年忌があったりで結構あちこちと出かけた年だった。そして岡山の祖父母のお年忌の年は和賀家の名簿の更新と皆に会えるので『和賀家の通信特集号』。その上、新津の伯父に『回想録』の原稿印刷まで頼まれていた。
   9月には車をCR-Vから今乗っているエディクスに乗り換え。これは主にじいちゃんがCR-Vの車高が高くて乗るのが大変になってしまったための乗り換えだった。浜名湖で花博をやっていたのがこの年、「せっかく券を買ってあったのに…」とTANUKIら言われて閉会間際の10月の寒い日にに父と見物に行った。
   そして10月20日、台風が来て天気の悪い中、外に出ていたクーが家に戻ってきて急死した。もしかしたらジライヤと同じ道で車に当たって惰性で帰って来たのかもしれないが原因は分からない。翌日、じいちゃんが庭にお墓をつくった。
   この直後10月23日、中越地震。そして12月からは私の主任児童委員生活がスタートする。
   ただし、その前に、11月にクロンがケンカ傷で結構長く医者通いをしたようだった。そしてみゆはちょっと不安定、家の中でおしっこをかけまくっていたらしい…。
   
 みゆとクー  クロン(後)とクー(前)


   さて、2004年の暮も押し詰まった12月27日、少し前からもらう段取りをしていた子猫2匹が到着。江戸っ子で尻尾が短いサバトラブチと茶トラの兄弟。蒼&茶々がやってきた顛末については『蒼へ』に書いた。
   子ネコ達が加わった事でまたにぎやかにはなったが、彼らが家に慣れるまでには1月以上かかった。そろそろロートルのクロンとみゆのコンビではテリトリーを守るのも大変で怪我をしてくる事も多かった。気が付くと大きく腫れてきていて獣医さんへ駆け込む事が続いた。
   2005年、2月に農大のオホーツク校舎と流氷を見に行こうという OB会の企画で年明けからバタバタしていた。さらに慣れない主任児童委員の仕事やはだかっこの会など慌ただしい時を過ごしていた。寒い時期に玄関に取り込んでいる鉢植えを掘り返したりひっくり返したりして子ネコ達が遊んでいた。そんな子ネコ達が人の居る前に出てくるようになったのは4月頃、その頃には小柄なみゆよりも大きくなっていた。4月からTANUKIが何度目かの補導員。
   そして子ネコ達が家になじんでくる頃から布団におしっこかけの事件が始まった。蒼があやしかったが便乗してみゆや茶々も現場を押さえられていたようだ。夏が過ぎ蒼&茶々のコンビも外遊びを覚えた。物好きな事にこの年の秋には私は国勢調査のお仕事までしていた。
   冬には子ネコ達の去勢手術も終了。クロンとみゆがケンカをしながらも私の布団にやってきて寝るようになったのもこの冬からだったろうか。ただし、どちらかを布団の中に入れるとどちらかが出て行く。たいてい頭の方に1匹、足元に1匹だったような気がする。夜中には蒼と茶々の運動会、茶々は今でも「にゃぁ〜」と鳴きながら走り回る事があるが、この頃はもう少し切羽詰まったような鳴き方をしていたように思う。そして、この頃から茶々は首輪が嫌い、取れるとなかなか付ける事が出来なかった。しかも外に遊びに行くと帰って来ないで茶々には本当にヒヤヒヤさせられた。それでも夏には家に居れば4匹で玄関の網戸越しの風に吹かれてのんびりしていた。
   この2005年の暮れ、『しりとり俳句塾』が終了になり一部のメンバーで『俳句でおしゃべり』を結成。第1回目の選句を年明け早々に行った。
   2年経って蒼&茶々もだいぶ家の普段の状況には慣れてきた。蒼は食事時にクロンやみゆと一緒に刺身をもらいに来たりもするようになった。ヘッピリ腰ではクロンやみゆの素早い食べっぷりにはまだまだ追いつけなかったが、じいちゃんがクロンやみゆを除けながら蒼にも食べさせていた。そして茶々もパソコン仕事中の足元をスリスリしながら通っていくようになり、捕まえなければ背中を触っても飛び上がって逃げなくなった。逆に蒼はちっとも触らせてくれなくなったが…。茶々も含めての布団へのおしっこかけが下火になったら今度は神棚の榊をひっくり返す事を覚えて、やはり水難の我が家は続く。
   この2006年春は3月にTOPPOさんのお父様が亡くなり、4月にはお母様も亡くなられた。お葬式の後、さすがに意気消沈しているTOPPOさんを当時住んでいた所から空き家になってしまった実家に引っ越しを敢行させた。そのあたりについては『TOPPOの引っ越し大作戦』で書いた。
   そして7月上旬に父が逆さまつ毛の手術でしばらく病院通い、下旬には主任児童委員1期生にもかかわらず「せっかくの機会だから」と部会長に勧められて越後湯沢で行われる全国主任児童委員研修会へ。
   夏には4匹ネコズは外遊びで時には帰って来ない事も、特に茶々は1度出ると数日庭に居座っていたが、この頃、悠々が茶々用に置いてある餌を狙ってやって来るようになった。当時はまだ細っこい子猫だった。
   蒼と茶々に虫下しを飲ませなくてはとなったのは10月、蒼は何とか父が捕まえて獣医さんに行ったが、TANUKIまで動員してもついに茶々は捕まらなかった。暮の予防注射も同様で茶々には逃げ切られた。結局、茶々は去勢手術の時以来、獣医さんには行っていない。
     
 茶々とクロン  茶々と蒼  みゆと蒼


   2007年は穏やかに開けた。4匹ネコズは元気に外遊び、茶々がひきつれてきた悠々も家に出入りをしていたらしい。戸締りをすると「出せ」とうるさいので家の子にはしていなかったが、準家の子になっていた。ヒョロリとした子猫もこの頃にはドッシリとした猫になった。茶々は相変わらず外へ出るとなかなか家に入らずにキャンプ生活、でもよくしたもので心配をしていると蒼やクロンがどこからともなく連れて来て顔は見せてくれた。玄関で餌を食べて「入れ」と戸を閉めようとすると大急ぎで逃げ出したが…。みゆはそれまで末っ子だったせいかあまり世話を焼かない。しかし、よそ猫が入って来ると勇んでテリトリーを守りに迎え撃つのはみゆだった。
   この頃、母はまだ躁状態の時は張り切って動き回っていた。ただ、だんだん感情の上り下りが激しくなって躁状態1に対して体力回復のためのうつ状態が2〜3の長さになっていた。
   そして風さんから他の事をやりたいので管理ができないからと『農大リンク』を頂いたのはこの夏だったようだ。
   また、O家の叔母・Y家の叔父・田原本の伯父と夏から秋に3つもお葬式が続いた。
   電話とテレビが光通信になったのはこの9月。そして、11月には農大校友会の静岡県支部で取り組んだ食と農の祭典が静岡市で行われた。同じく11月末には主任児童委員1期目が終了。いったい何をやるんだ?のまま、気がついてみたら時々は部会長の代理で理事会に顔を出すやら、2年目からは地区で母子福祉協力員は押しつけられるはと突っ走って3年が過ぎた。そして、どういうわけだか2期目には主任児童委員部会の部会長を引き受けていた。
   2008年は穏やかに始まった。箱根駅伝にしばらくぶりに農大が顔を出し、タスキを繋ぎきった。高校サッカーでは我が故郷の三鷹高校が活躍した。藤枝東とベスト8で当たったらしい。(覚えていなかった)
   しかし、正月早々茶々が脱走。寒いのにまたまたキャンプ生活を始めた。何とか食事に帰って来た時に家に入れようとするのだが、だんだん知恵がついてきて自分で戸も開けるようになり一筋縄ではいかない。そして、1月20日の夜、雨の中を苦労して茶々を家に閉じ込めたと思ったら蒼が脱走。翌朝、市役所から連絡があって蒼が轢かれて死んだ事を知った。回収してありますというのを市役所まで引き取りに出かけた。遠くに行ったわけではなく、家の東側の道路で轢かれたようだった。この前の年、蒼達の母さん猫に餌をやっていた友達の友達の弟さんも亡くなられたので、あの世での再会があったかもしれないと思いたい。
   この冬は雪が多く、なおかつ身の回りのお葬式の多い時だった。
   蒼が居なくなってしばらく落ち着かなかった茶々もだんだん度胸を付けて家の中のあちこちに出没するようになった。
   しかし、今度は3月の末からクロンの体調がおかしくなった。腎不全での通院記録は『クロンの闘病記』に書いた。クロンは一時は全く食べなくなったが、注射で持ち直してスープや缶詰フードも食べるようになり、8月まで良く頑張った。
   4月には植木屋さんが入って玄関前の白藤を庭の真ん中に藤棚を作ってもらって引っ越し。5月にはノミの発生があったりもしたが、この頃は茶々がクロンと一緒にいる事が多かった。6月には岩手の叔父が亡くなり、1人で車を走らせてお葬式に行った。
   そして7月にもノミの大発生で大騒ぎ。例年なら暑くなる前にノミ取り薬をかけるのだが、この年はクロンが弱っていたのでさんざん迷って、結局ノミ取り薬を使った。それならもっと早くに手を打つんだったと後から反省。この頃に茶々も体調が悪かったらしく押し入れに雲隠れ。夏休みの終わる頃にやっと復活して出てきた。この頃のみゆは手のかかる2匹のお陰でスポイル気味。時々吐いたり具合が悪い事はあっても元気に家の内外を走り回っていた。
   私は子育てサポーターリーダ講習会を受けたり、焼津・大井川合併の関係で民児協の合併や主任児童委員部会の合流など細々とバタバタを楽しんでいた。しかしこの頃には父もだいぶ弱ってきたようで、夏に来た介護の仕事をしていた瑞穂の従妹がベットの方が動くのが楽だとアドバイスをしてくれたので包括支援センターで業者を紹介してもらって借りたり、介護モードに入りつつあったが介護保険は使えなかった。一方で母がハイ。それで家族がいらだつ事も多かった。


   
 クロンとみゆ  茶々


   11月になってまたまた茶々の大脱走につきあってほぼ2週間の根競べ。茶々が家に入って落ち着いた頃に今度はTANUKIが本格ダウン、休職させてもらう事になった。 その直前まで仕事と中老会・陸上で飛び回っていたのだが、さすがに充電が必要なほどのエネルギー切れ。
   12月に入った途端にO家の叔父が亡くなりお葬式。叔父の川柳の遺稿集『泡太郎笑話』をまとめたりした。
   TANUKIは2009年の正月休み明けから職場復帰という事になったが、どう見ても無理。それを承知でしばらく送り出したが、職場でもこれではだめだと追加の休みを認めてくれた。こちらが一段落をしたころに今度は父が食べる事が出来なくなって2月3日に入院。しばらく自力での通院もできずに医者との関係が切れていたので、相談した近所の病院に救急車で搬送された。そして3月20日に亡くなった。ものすごく慌ただしくなっていたこの頃、茶々はお利口に家で留守番をしていたようだが、一段落をした4月にはまた家出。4月末まで庭でキャンプ。そう言えば悠々は冬に大風邪をひいていた様子のまま顔を出さなくなってしまった。
   そして、6月に獣医さんから「トラネコの子供がいるんですが」と電話。早速見に行ってもらう事にしたが、まだ入院中。道路でへたっていてレスキューされた子だそうだ。獣医さんでは連れて来られれば治療をするが、飼い主や貰い手がないとそのまま結局は殺処分になるとの事で子猫なのでともらい手の心当たりを探したそうだ。とにかく、とら丸と名付けられて仲間入り。ヤンチャをするとさすがに最長老になったみゆがしつけ。ただし人間の都合の良いようにはしつけてくれない。しかも、みゆは口の中が腫れて体調不良でしばらく通院。小柄だが気は強いので普段はあまり気にならないのだが、食べられなくて大人しいとずいぶん小さく軽く感じて不安になる。
   茶々は初めうるさがっていたが、ネコ同士はさほど気にならないらしく直に一緒にいるようになった。この3匹グループは初めからほぼ3匹一緒に食事場所でご飯の時間に食べられるようになった。しかし、この頃からみゆの食欲が無くなると食べやすいようにとスープなどを買って来てみたが、クロンとはお好みが違いあまり好きではないようだった。しかし、他の2匹が興味津々に寄って来て食べてしまうので、先にみゆが食べられるように、この頃から食事場所が不定期になってしまったような気がする。
   とら丸は初めしばらくはリードを付けて外にも出ていたようだが、何かにパニクッて以来外が嫌いになった。みゆはだいぶ体重が軽くなっていたが、それでもまだ外遊びが続いていた。
   この年の夏に焼津で震度6の地震。明け方の一瞬の縦揺れだったが、所によっては建物にかなりの被害が出た。秋には川崎市の高津句会で俳句でおしゃべりメンバーでのオフ会。
   そして12月には藤守のおじいさんのお葬式。この数年で親類もずいぶん世代交代が進んだ。
   年が明けて2月に今度は藤守の次男坊の結婚式、去るものがあれば新しく来るものもあるのが世の習い。そして3月には父の一周忌。母の状態ではとてもお墓には行けないので事前に墓参りは済ませて焼津のホテルで近い親戚で偲ぶ会を行った。
   春にはパソコンが不安定に。思い切って新しく買い替えた。パソコンを買い替えると結局使いこなせなくて先生にSOS、しかし今までお世話になっていた先生が倒れられたそうで(私より若いのに)代わりに奥様が来てくれた。今は彼女が教室中心に教えているらしい。
   ネコからはどんどん話がそれて行くが、トラ丸が徐々に大きくなってついに後ろ姿で尻尾を確認しなくては茶々かトラ丸か分からなくなってきた。とら丸が天袋の位置にある高い神棚に登っていたのはこの頃だったか…。
   6月にはまたみゆの調子が悪くなり上手く食べられなくなったりおしっこの出が悪くなったりで獣医さんのお世話になった。それでもちょっと元気になると外出をするみゆ。しかし、この頃には自分が頑張らなくてはと思うようになったのか、よそ猫が庭に入って来ると茶々が率先して応対をするようになった。いささか腰が逃げ気味ではあるが、窓から呻り声を上げるようになってきた。
   そしてこの2010年8月、風さんが亡くなられた。そして風さんのグループ仲間で使っていたVOXのブログが無くなる事になってまた引っ越し…。新たに皆で登録したのが現在『DORAおばさんの住む所』で使っているものだが、元が外国にあるらしくて説明が分かりにくくて四苦八苦。しかも細々と設定の手直しがされているらしく、今でも時々振り回されている。しかし、当時のメンバーで今でもこのブログを続けているメンバーも減ってしまった。さらにはホームページを引っ越したのもこの秋。ブログ全盛になってホームページ用の無料サイトが減ってしまい苦労をした。
   さらに、車やガス給湯器・洗濯機がおかしくなったのもこの年、車はエアコンの修理をしてもらっていまだに乗っているが、給湯器と洗濯機は買い換えた。
   また、O家叔母とその連れ合いの叔父が相次いで亡くなり、一方ではO家の従弟の結婚式もあった。
   1年を過ぎたトラ丸の手術も暮に無事終了。もっとも麻酔から覚めた獣医さんの病室で逃げ回って大捕り物になったのだが…。
   さらには主任児童委員3期目のスタート。
     
 茶々とトラ丸  食事中  みゆとトラ丸


   そうこうしている内に2011年。年明け早々から茶々が吐いたり下したり。よくよく観察をすると糞の周りにゴムひも状のものを発見。獣医さんで検査をしてもらうと 条虫のたちの悪いものだそう。薬は出してもらったけど格闘技の結果どれだけ飲んだものやら…。しかし、自力でかなり出したのか体調は改善した。
   この冬も寒かったのだが台所と東側の部屋で使っていたエアコンが壊れて取り換え工事。大出費だった。国内では鳥インフルエンザや霧島の新燃岳の噴火など九州では大変な被害があった。そして大相撲の八百長事件。
   また、農大で入っていたローバークルー部の創部50年記念式典があったのは2月11日。何時の間にやら最古参の仲間入りをしているようだ。
   デジカメが壊れて買い変えたのもこの年の2月。以前に比べるとずいぶんよくなって安くなったが、広角と望遠がそこそこ効くものが欲しいので選択肢はいつも限られる。
   この年忘れて行けないのは2月22日のニュージーランドの地震と3月11日の東日本大震災。多くの犠牲者が出ただけでなく、東日本大震災では福島第1原発が大きな被害を受けて核物質を散ばすという不祥事が今に至っている。多分すっかり片付くのに100年単位の時間がかかるだろうが政治もマスコミも騒ぐだけで必要な事がなされていないように思えて仕方がない。
   さて、寒い冬だったせいかパソコンの前に座るとみゆが膝に上って来る、コタツに入ると茶々がよりかかって来る、ボンヤリしているとトラ丸がちょっかいをかけてくるとネコにモテモテの冬でもあった。
   初夏から夏にかけてキノコハウスのおかゆプロジェクトやネコ島の募金などに協力、さらには様々な形で動いているネットつながりの被災地応援プロジェクトを紹介してきた。もちろん民児協や自治会などからも募金の依頼がまわってきた。しかし台風や水害など東日本以外でも様々な災害のあった年だった。
   そして、10月23日、ルナが家にやって来た。この子はふれあい広場に来ていた犬猫の里親探しの会で気にいってもらった子。予防注射はまだとはいえ一応健康診断をして連れて来てくれたはずなのだが、すぐに仲良くなったトラ丸に喉風邪をうつし、耳ダニをうつし、私はルナに指の爪のきわを引っ掻かれて腫れあがって医者通い、茶々が来たばかりの時に噛まれて腫れあがった時以来の大騒ぎになった。
   ルナも人に捕まるのは嫌だがネコ社会にはすぐになじんだ。期待通りにトラ丸とはにぎやかに追いかけっこ。時には茶々も一緒に走り回る。ヤンチャなわりに慎重で、みゆでさえ登る整理ダンスに飛び乗るのに躊躇をしたかと思えばふろの湯船に落ちる。
   しかし、食べるものには執着が強く自分のものだけでは済まずに次々と他の子の食器に進出。特にやせてしまっているみゆが落ち着けないのは困るので、この頃からみゆはその時居る場所、茶々は茶の間、とら丸とルナは台所の今までの食事場所と分けた。そうなるとトラ丸が割りを食ってルナに取られてしまう。面白い事に茶々はちゃんと自分の分を守って悠々と食べていた。
   すくすくと育ったルナだが、何しろ捕まらない。とら丸の通院時に獣医さんにお願いをして1度家に来て捕まえてもらう事にした。1月に重装備でお姉さん先生が登場。そのわりにはあっけなく捕まって健康診断と予防注射、そして耳ダニの治療。
   我が家ではチビ・小慈郎・みゆ・とら丸と市内で保護したネコ(パピは藤枝生まれ、クー・ジライヤ・クロンは家生まれ、蒼&茶々は江戸っ子)の避妊去勢手術もしてきたがルナにして初めて市内で保護された猫の避妊去勢手術助成の申請に市役所に行った。全額ではないがいささかの補助が出たので2月にルナの手術。1週間ほど不満そうにエリザベスカラーを振り回していた。
   ルナが一段落をした頃にまたみゆの口の中が荒れてきた。麻酔は使えないのでそれなりに歯の汚れを取ってメンテナンス。すでに体重が2kgを切っているので少しでも食べられるように持って行くしかない。毎晩のように風呂の湯を飲みに来るみゆが足を滑らせて湯船に転落したのもこの頃だった。
   クロンの最後の頃もそうだったが、みゆもトイレが大変になって来た。とりあえず砂場には入るのだが外に向かってしていたり、とにかく砂場のまわりの方が汚れる。色々試した結果、防水シートや犬用のトイレシートなどを砂場の周りに敷き詰める。しかし、何故かそれから外れる境界線がお好みのようで毎日の掃除が大変になった。量も多くなっているようですぐにトイレの砂がベチャベチャになる。
   みゆの食欲も時々落ちて、この頃はスープ状の柔らかいものもネコ缶も、もちろんドライフードも食べにくくなって、マグロ・カツオ・鶏のささ身を蒸したものなどをちまちまと食べさせていたが、横から出る口の分も必要なのでネコの食費がかなり大きくなっていた。
   そんな4月に第2東名高速道路が開通。東名の焼津ICの方が近いので興味はあったがなかなか通る機会はなかった。また、春から初夏にかけて金環日食(ここからは曇っていて見えなかったけど)や金星の太陽面通過でTOPPOさんがしばらくぶりに太陽観測で張り切っていた。
   6月末に昨年末に倒れた義兄が亡くなってお葬式。みゆの調子も良くなったり悪くなったりの繰り返しで、感染症で目も口の周りもベトベトになったのを消炎剤の注射と目薬で数日で持ち直し、またドライフードが食べられるほどの回復力を見せた。
   ネット上ではYahoo!のアルバムが今の形に変わりまた使い方で試行錯誤の日が続いた。
   夏の初め、ばあちゃんの部屋がどうも臭いと掃除をしようとしたら、布団から畳まで白アリに食われて大変な事になっていた。布団屋さんに頼んでダメになった布団を処分してもらい、畳屋さんを呼んでダメになった畳を取り替えてもらいの大騒動。
   暑い夏だったがみゆも何とか夏を乗り切った。寂しがり屋になって夜私がパソコンの前に来ると必ず一緒に足元に居るのだが、私が寝に行くと自分は食器戸棚とテレビ台の間の狭い所にもぐってしまう。しかし、10月5日の朝、いつもの場所に居ないと思ったら水を飲みたかったかトイレに行きたかったか、猫トイレの前に敷き詰めたトイレシートの上で長くなって逝ってしまっていた。頑張りやのみゆらしい最後だった。   


2012年夏の日に   
       
 とら丸  ルナ  みゆ  茶々