2023年1月7日、茶々が蒼の元へ旅立った。茶々は蒼の分までしっかり生きた。
我が家の長命猫の記録は我々の生活の記録でもあるのだが、まずパピとともに過ごした日々はまだアパート暮らしで、パソコンもインターネットもなかった時代、その代わり我々もまだ若かった。そして、みゆと暮らした日々。すでに今の家で両親と同居していた。猫の家族はどんどん増え、人の行き来もにぎやかだった。それぞれ何年かのダブりはあるが、それに続く茶々と暮らした日々は、ちょうど私が1期3年通算3期務めた主任児童委員を始めた時、それまでと少し違った形で地域とのかかわりができてきた時だった。また、両親が弱り、亡くなりと生活の形が変わっていった時だった。
今回は、今残っている猫達、はな・ルナ・とら丸とともにこの時間をさかのぼっていきたい。
私ははな。私と茶々の出会いは、もちろん私がこの家にもらわれてきた時。
その話の前に、茶々の最近の様子を話すね。だって、後になると忘れちゃうもの…。
最近の茶々は思い切りDORAおばさんに甘ったれていたんだ。本当は私の定位置なのに、ソファではDORAおばさんにベッタリ。上手に食べられなくてご飯を残すと、「まだあるよ」とDORAおばさんが指でお残しを食器の真ん中に寄せて、ソファに上がっちゃった茶々の所に持ってきて食べさせていたんだよ。そうするとまた茶々も食べて、また散らかったのを集めてなんてやっていたんだ。ただ、食べ終わると茶々が苦しそうに咳き込んだりして、気の毒だったんだよ。それでもいつもは治まるとそのまま顔を洗ったり、ソファで寝ていたんだ。ソファにDORAおばさんが、おばあちゃんが使っていたレンジでチンする湯たんぽを温めておいていたから、だいたいそのあたりで寝ていたの。最期の頃はもう、丸まって寝るのは辛いらしくて、たいていライオン座りだったよね。
ちょっと前までは寝る時と朝DORAおばさんが起きる頃、DORAおばさんのお布団に潜り込んできたんだよ。私も一緒に寝ているのに。DORAおばさんが「茶々、足が冷たいね」って私とDORAおばさんの間に場所を作って茶々を入れていたんだ。茶々の涎や鼻水ですぐシーツやまくらカバーがベタベタになったけどね。最近は朝しか来なくって、死んだ日もちゃんと朝にはお布団に潜り込んできたんだよ。
前の日に獣医さんに行ったから元気で食欲もあって、朝ごはんも人間朝ご飯の残りのヨーグルトも、お昼ご飯も3時もお夕飯もしっかり食べたんだよ。その後で人間お夕飯の時、DORAおばさんに「肉も食べたい」って食べさせてもらっていたんだ。その後、顔を洗って落ち着こうとしていたんだけど、咳き込んじゃって、痙攣を起こして、慌ててDORAおばさんが抱き上げたけど、そのまま静かにDORAおばさんの膝で丸まっている内に蒼の所へ行っちゃったの。私は蒼とは会った事が無いけど…。
実は茶々とソファで一緒に居るようになったのはここ3年くらい、茶々がだいぶ弱ってきてからなんだ。初めはルナが付いている事が多かったんだけど、私はルナとは仲良しで一緒に居る事が多いから、いつの間にかね。
茶々は人間とは距離を置いていたけど、猫には優しいんだよ。あまりうるさい事は言わないで、くっつきあって気持ちの良い関係を作っていたんだ。ずいぶん痩せて弱ってきていたけど、それでも茶々は茶々、お茶目でマイペースなんだよ。テレビ好きで、動物や特に鳥が出てくると大喜びでテレビの前に居たりね。
私がこの家に来たのは2013年の8月。とら丸の予防注射の時に紹介されたの。獣医さんで保護されたんだけど、どこか良いお家にもらわれなくちゃと思っていたんだ。とら丸とはすぐに気が合ったけど、まだ治療中だったから、「治療が終わったらね」という事で約束ができたんだ。
DORAおばさん家にもらわれてきたのは8/23。その時は茶々もルナも「何、こいつ」って感じでおばあちゃんの方へ行っちゃったんだけどね。そして、来たばっかりの頃、やんちゃをし過ぎて茶々にすごく怒られたことがあるの。 とら丸やルナが唖然としていたらしいよ。でも、とら丸やルナに遊んでもらえたから、私は元気に大きくなったけどね。それに、茶々に怒られたのも多分その時くらいじゃないかな。ちゃんと猫族のルールを守りなさいよっていう事だったんだと思うよ。
この頃、DORAおばさんはまだ主任児童委員をして忙しかったし、TANUKIおじさんは身体を壊して休職した後でまだお薬を飲んでいた頃、それでも陸上の用事は一生懸命やっていたんだよね。そして、猫達皆が大好きだったおじいちゃんはもう亡くなっていて私は知らないけど、おばあちゃんはほとんどお布団の中だったけど、まだそれなりに元気だったんだ。
11月末でDORAおばさんの主任児童委員はお役終了。落ち着いたところで、12年度末で退職したTANUKIおじさんの退職金を使って家のリフォーム企画。色々な職人さんが入るし、家の中のあっちこちが工事に伴って通行止めになって大変だったんだよ。台所の工事もしたからしばらくは玄関が仮設台所。3月末までの長丁場の工事となったんだよ。茶々はおばあちゃんと一緒。私達はDORAおばさん達と一緒の部屋で過ごしてたの。
そんなバタバタだったんだけど、DORAおばさんは農大OB会の静岡OG会の立ち上げにかかわったり、志太常磐松会で港マラソン時に応援団も呼びたいという企画にかかわったり、『俳句でおしゃべり』のオフ会に誘われたりとより一層ドタバタ忙しくしていたんだね。
2014年の秋の終わりには歩くのがつらくなっていたTANUKIおじさんが脊椎管狭窄の手術をして2週間の入院。だけど、退院してすぐの2015年の2月には農大のオホーツクキャンパス見学の旅行に出かけたんだよ。おばあちゃんが心配でDORAおばさんは行けなかったのでTOPPOさんに介添えを頼んだんだって。
小さい時は好奇心満載で色々なものを食べたりドジもしたけど、この頃は私もおりこうさんになって、茶々と遊ぶこともあったんだよ。だけど茶々と一緒の写真ってあまりないんだ。背中とかならあるけど…。
2015年、この頃から茶々はDORAおばさんのそばに落ち着いて居るようになりました。「この頃は撫でても逃げないね」って言われていた頃。でもTANUKIおじさんの足音が聞こえるとスタコラと逃げ出していました。その癖って私にバトンタッチした?
そして、縁側のカーテンの影は茶々の定位置。見張りもできるし、お日様が暖かだしね。
TOPPOさんもお仕事が一段落して予定が少し自由になっていたからか、この年は4月の焼津港マラソンの時、応援と後のOB会の懇親会の応援に来てくれています。この年は応援団もフルで来てくれて裏は大騒動だったからね。
5/19にはおばあちゃんが体調不良になってDORAおばさんが大慌てで救急車を呼びました。結果としては便秘だったらしいけど、その前から食べたり食べなかったりだったから、ひどい貧血もあって、そのまま入院。おばあちゃんのお布団か押し入れか縁側が住処だった茶々もDORAおばさんと同じくらい慌てていました。その時は押入れの奥に引っ込んじゃっていたけどね。
だけどその後、おばあちゃんの居ない内にと押入れを片付けたり、おばあちゃんの着る物を探したりでDORAおばさんがゴソゴソしたので茶々はしばらく不安定な気持ちでいたみたいでした。畳替えをしたり、おばあちゃんが帰ってきた後を考えて片付けもしたしね。そして、おばあちゃんのお見舞いでお客さんも多くなったし、茶々だけでなくルナもドロンを決め込んでいたよね。
実は人間に触られるのはルナも苦手で、この頃ようやく茶々を間に挟めばDORAおばさんが撫でても逃げなくなったんだ。茶々が居なくなったらルナはまたDORAおばさんから逃げています。
結局おばあちゃんは救急で入った市立病院と、その後リハビリで入った民間の病院で4月半ほど過ごしました。退院してもDORAおばさん1人では面倒を見切れないのでショートスティを使って土日だけ家に帰る計画。それでも退院に備えておばあちゃんのお部屋の大掃除をして借りた介護用のベットを入れたり色々な人がまた家に来ました。
DORAおばさんは借り物のベットを私たちが汚すんじゃないかと心配をしていたけど、そこは私達だってわきまえているから…。茶々よりも私の方がおばあちゃんのベットの上にはよく乗ったかなぁ…。
DORAおばさん、主任児童委員だったけど、これは民生委員・児童委員の中の子供に関する問題に特化したお仕事。だけど民生委員・児童委員協議会のメンバーとして、高齢者支援のお勉強もしてきたんだって。今まで聞いていただけだったのが、ここで実践に生かせたわけね。ショートスティやディサービスも利用してDORAおばさんがおばあちゃんの生活に寄り添うのに、TANUKIおじさんも私達も伴走してきたの。間でDORAおばさんとTANUKIおじさんが揃ってインフルエンザで討ち死にして、ケアマネージャーさんに泣きつくなんて事件もあったけどね。
そんな生活も2016年の11/8におばあちゃんが亡くなってピリオドが付きました。その後はお葬式だったり、おばあちゃんの部屋の片付けだったり、また茶々が押し入れの奥に籠城するような状況が続いたけど、DORAおばさん好みにきれいさっぱり片付いて、茶々が「居る所がない」と慌てる事に…。
マッサージ機が入ったり、DORAおばさんがパソコンを買い替えたり、年末まで忙しい1年でした。DORAおばさんのパソコンが玄関ホールから今の縁側に引っ越したのもこの時、茶々のテリトリーが変わってしまって、色々な意味で茶々には激動の時でした。
翌2017年、中学生プロ棋士・藤井聡太4段がさっそうと登場。
8月に茶々のチビタ兄ちゃんが死んじゃったんだね。チビタ兄ちゃんは茶々の故郷で飼われていた猫なんだけどね。TANUKIおじさんとTOPPOさんがDORAおばさんの従妹の子供から手足口病を移されたのもこの夏休み。何故かDORAおばさんは無事でした。
10月の末にはおばあちゃんの1周忌の偲ぶ会をして、またお客さん。人が来ると茶々だけでなく私達もかくれんぼ。
2018年はルナの歯の治療から…。ルナはこの年は2度も歯の治療に行ったんだ。DORAおばさんもおばあちゃんが亡くなった後からずいぶん歯医者さんに通い詰めているけどね。2月には茶々が体調不良ですごく吐いたことがあったんだね。後ろ足の調子も良くなかったんだよね。体調不良猫が2匹も居たのでDORAおばさんはチュ~ルとかカップの餌とか色々出してくれて、私達もお味見位分けてもらったよ。
6月にはDORAおばさんが白内障の手術。ついでにDORAおばさんのパソコン、割と新しい頃からトラブル続きだったみたい。それ以来DORAおばさんはこのメーカーの電気製品全部信頼していないものね。ホームページのプロバイダーの引っ越しもこの秋。
茶々がお尻の臭線を腫らして騒動になったのもこの頃、まだ元気だったからDORAおばさんにつかまって獣医さんへ行くこともなく、自分で治したんだよ。でも、この頃にはDORAおばさんの傍によって撫でてもらったりはしていたんだよね。
翌2019年はDORAおばさんにとって慌ただしかった年。2月に天王寺の叔母さんの1年祭、6月には田原本教会の布教100年祭にTANUKIおじさんと二人で出席。その前にもおばあちゃんの納骨で連島へ行った時にも4匹だけで1晩お留守番をしたけど立て続けだったんだよ。そして8月の終わりにはTANUKIおじさんが脳炎で救急車で市立病院に運ばれました。今思い返すと熱はそれほどでなかったけどコロナの症状みたいで、1年ずれてたら大変な事になっていたかも…。それでも11月末には復活して退院しました。12月には茶々をDORAおばさんの所に連れてきたOさんとMさんが茶々を連れてきて以来くらいで遊びに来てくれました。ちゃんと皆挨拶に出てきたのに茶々は後ろ姿だけ。ペッタンコの姿勢で走り去る茶々を見て「子猫の時と変わりない」って言われていたよ。
その翌年位からだよね、茶々の主食のカリカリを高齢猫用に切り替えたりちゅ~るを常備しだしたの。ここの頃は茶々がお残ししないとちゅ~るは私達まで回って来なかったよね。高齢猫用のカリカリになってから茶々はDORAおばさんの手からも食べられるようになったよね。でも2月・4月と絶不調の日があったんだ…。4月ころから茶々がソファ限定でTANUKIおじさんが居てもソファに行くようになったのは。
春頃からは新型コロナで人間たちは大騒ぎ。
猫トイレの砂の汚れが早くなったのもこの頃、茶々、だいぶ体調が悪くなっていたのかもね。
秋ごろから茶々は人間ご飯にも興味を持つようになったんだね。人間朝ご飯の後で器に付いたヨーグルトをなめるのも定番になったし。そして、DORAおばさんがソファに座っているとルナを誘ってくるようになったのもこの頃。私と茶々はいつもDORAおばさんの傍を取り合っていたけど、ルナはあまり来ないから心配だったのかな。
暮れにはTANUKIおじさんが眼瞼下垂の手術をしました。
茶々のクシャミ鼻水がひどくなったのは2021年の春頃から。猫はティシュを使わないから、床に点々と鼻水の汚れが落ちていたけど、まだ茶々はそれなりに元気で良く食べていたんだよね。時々不調で食べちゃ吐ちゃもしていたけど。人間ご飯にほとんど参加するようになったのもこの頃。私が「ご飯日記は茶々がやる?」って聞いたら、「僕は美味しいものがもらえれば良い」だって。22日の猫の日にTANUKIおじさんがマグロをくれるようになったのもこの頃じゃなかった?もっとも、とら丸も一緒になって食べ過ぎちゃ吐いてたみたい。
夜TANUKIおじさんがお布団を敷くと、気まぐれにTANUKIおじさんのお布団に居るようになったのもこの頃。たいていは人間が寝る頃にはソファに戻ってたけど。この頃には茶々はずいぶん痩せちゃって心配したんだよ。
肉球に爪の先が刺さって慌ててDORAおばさんが人間用の爪切りで爪を切ったり、ダマになった毛を梳いたり、ティッシュで鼻を拭いたりなんて事ができるほど茶々がトロくなった(気を許したの?)もこの頃だったかなぁ…。
そして、コロナ騒ぎで人間は身動き取れなくて、色々な行事が中止になったし、TOPPOさんも来られなくなっていたけどね。でも、11月にOさんとMさんがまた茶々のお見舞いに来てくれたんだよ。その時は茶々も皆と一緒にいて、「どうしたの?」とかえってビックリされたけどね。Mさんはゆっくり茶々を撫でてくれたよ。
2022年の年明けは私の風邪ひきから始まりました。茶々以上のクシャミ鼻水、子猫の時から目やにがひどかったからこういう時は目がふさがって辛いのよね。ルナにも風邪移しちゃったみたいね。茶々はもう体調の良くないのが普通。食事も水分の多いパウチが中心。皆がお残しすると1番にもらっていた茶々のご飯のお残しを皆が狙っていました。DORAおばさんが見張っているから横取りはできないけど…。
3月に縁側の修理をしたら、茶々があまり縁側まで出て来なくなりました。気に入らなかったのかなぁ…。
そしてこの春、TANUKIおじさんもDORAおばさんもパソコンの買い替え。今回は設定サポートの人に来てもらっていました。
茶々が抱えられるようになったこの頃、DORAおばさんは何度か茶々にリードを付けて庭の散歩をしました。茶々、そういう時は昔みたいにさっさと身ごなしも軽く動いていたよね。
8月に茶々は耳掃除に獣医さんに行きました。簡単に捕まってケージに入るまでは良いんだけど、道中ビビって大騒動だったんだって。でも獣医さんでは良い子で見耳掃除をしてさっぱりして帰ってきました。この後、何故か茶々はずいぶん調子が良くなったんだよね。
実は去年の夏よりよほど調子も良さそうだし身体も丸くなってきたように見えていた茶々、10月にはほとんど食べられなくなって、DORAおばさんが獣医さんへ連れて行きました。「だってまだ食べたそうなんだもの」だって。「命あるものはいつかゴールに着くし、それはしょうがないけど、餓死はあんまりじゃない」だって。輸液注射と抗生物質の目薬で茶々はだいぶ元気が出ました。それから茶々は週1で獣医さん通い。獣医さんは良いんだけど通院は苦手で、毎回いケージは吐いたり、うんちまでしたり、帰って来るとDORAおばさんはまずその後始末。でも茶々は元気にご飯が食べられるようになったものね。ただ、注射した輸液が吸収されないで前足に落ちるようになった12月にはDORAおばさんは心配そうだったよ。でも茶々は元気で良く食べていたものね。
そしてクリスマスにはTOPPOさんが来ました。茶々はTOPPOさんとも仲良くしていたね。
かなり弱っていたけど茶々もちゃんとお正月を迎えました。カリカリが食べにくくなっていて、パウチをレンジでチンして少し温めてもらっていたけど、年明けからまた食欲が出て、ちゃんと年明けにも獣医さんに行きました。ずいぶん体重は落ちていたけど元気だったんだよね。輸液もしてもらって、その翌日お夕飯を終わって顔を洗っている内に具合が悪くなって、とうとう蒼の所へ行ってしまいました。
ルナです。茶々が居なくてとても寂しいよ…。
私がこの家に来たのは2011年の秋。ウェルシップのふれあい広場の時に保護犬・猫の里親探しのブースがあってDORAおばさんが私を気に入ってくれたの。「とら丸のお友達になってほしいな」って誘われてもらわれてきたの。
私が来た時はまだみゆが居たんだよ。かなりのお年寄りになっていたけど、失礼な事をしたら叱られちゃった。私、基本人間は苦手だけど猫とは仲良くできるんだけどな。もちろんDORAおばさんに捕まらないように逃げ回っていました。でも、ご飯の時間にはちゃんと集まったよ。
とら丸とはすぐに仲良しになりました。茶々も初めからやさしかったよ。外に他所の猫が来ると「大丈夫だから」って守ってくれたし。でも、DORAおばさんに言わせると私がうるさくするので、茶々がDORAおばさんの傍に来て安心するようになったって。
この頃は猫じゃらしやボールをもらって、とら丸だけじゃなくて茶々ともたくさん遊びました。私が勢いよくおもちゃのネズミを齧って壊したら、茶々が「僕だって若い頃は庭石より高く飛び上がって本物のチョウチョや鳥を追いかけたよ」って自慢していました。
秋の終わりにとら丸が喉が痛くなったり耳ダニにやられたのは私がうつしたの。「健康診断して来たはずなのに…」ってDORAおばさんが言っていたけど…。それで私も獣医さんに連れていかれそうだったんだけど、この時は逃げ回って行きませんでした。でもお正月早々に獣医さんの先生が援軍に来て捕まっちゃったけどね。茶々なんか「僕は獣医さんは1回しか行った事がないけど、ひどい目にあった」って言ってた。私はその時は耳ダニの治療で何回か通いました。
この頃あった炬燵は大きくて皆で入ってもゆとりで、茶々もTANUKIおじさんがいなければ入りに来ていました。みゆはだいぶ弱って、こないだうちの茶々のように特別扱いされつつありました。夏を無事に越したみゆは2012年10月5日に死んでしまいました。
この頃ってまだ庭に他所の猫が結構来ていたのね。家でご飯を食べていく子も居ました。私達の食べ残しを外ニャさんのために出しておくと、カラスも食べに来たよね。
そういえばTANUKIおじさんが「生まれて初めて救急車に乗った」て言っていたのもこの年じゃなかったかな。陸上の大会で審判をしていてぶつかって目の上を切ったんだって。血はたくさん出て心配されたけど、大したケガではありませんでした。そんなTANUKIおじさんも2013年3月で退職、毎日が日曜日になりました。
そうこうしている内に、夏にははなが加わって、はなの話に続きます。
もう少し私ルナの付けたしね。
とら丸は気が良いし年も近くて仲良しだけど、本当は私、茶々のお嫁さんになりたかったな…。
私と茶々は外の暮らしを知っている保護猫同士。みゆさんもちょっとだけ外の暮らしを知っているし、みゆさんの若い頃は外遊びもできたから、ちゃんと猫の世界の生き方を知っているのよね。とら丸はずっとお坊ちゃんで気が良いけど、ちょっと甘いんだなぁ…。それははなにも言えるけど…。
私が来た頃、TANUKIおじさんもDORAおばさんはまだお仕事で忙しかったけど、 おばあちゃんも居たし、おばあちゃんの部屋は隠れ場所もいっぱいあったし、私達だけでも楽しく過ごしていたんだよ。茶々を筆頭に時々人間のお布団にお漏らしをして叱られたり、私達がみゆさんのご飯に興味津々でみゆさんがゆっくり食べられないからって、ご飯を食べる場所がバラバラになったり色々あったけどね。左の写真は茶々は居ないけど皆でご飯を食べていた時の。同じ頃の茶々に見守られて食べているのも見つけた。
ここからはぼく、とら丸です。それにしてもルナにはひどい言われようだなぁ…。
ぼくがここに来たのは獣医さんの紹介。ぼくは外で行き倒れて保護されたんだって。元の家は覚えていないなぁ…。ぼくがDORAおばさん家を紹介してもらったのは、多分その前の年にクロンが亡くなって猫が少なくなっているのを獣医さんが知っていたから。DORAおばさんもすぐに引き取る事に決めてくれたしね。だけど治療があったから、この家に来たのは2009年の6/26。みゆには早速指導されたけど、すぐに皆でご飯を食べられるようになったよ。
みゆよりも小さかったぼくは、いつの間にか尻尾を見ないとどっちか分からないくらい茶々と大きさが変わらなくなったけどね。
初めは弟分ができてビックリした茶々も「僕も兄ちゃんに面倒を見てもらったんだよ」と、すぐに相手をしてくれるようになりました。
夏休みに一瞬の震度6が焼津を襲ったのはぼくが来た年だったんだね。おじいちゃんの初盆だったから、色々な人も来たし。
まだ僕の若い頃だったと思うけど、TANUKIおじさんがまるごとの(小さい)マグロをさばいた事があったんだよ。もちろんぼく達もお刺身を食べたけど、夜中に捨ててあった頭を引っ張り出して3匹で大パーティをしたんだ。もちろん翌朝DORAおばさんに叱られたけどね。
そして、茶々のお腹から長~い虫が出てきたのは2011年の冬、ビックリしたDORAおばさんが茶々は捕まらないので、出てきた方を獣医さんに持って行って、虫下しをもらってきました。あれ、茶々はお薬飲んだんだっけ?しばらく大騒ぎをしたけど、その後、虫が出てくる事はなくなりました。
そして2011年3/11と言えば東日本大震災。大きな地震で日本中が大騒ぎになりました。それでもコロナと違ってこっちでは直接の被害は無かったので、DORAおばさんも学校行事などで飛び回っていました。春の高校野球もあったんだね。DORAおばさんが石巻の猫島(田代島)の『田代島にゃんこザ・プロジェクト!』の応援を始めたのもこの時。周りも巻き込んでしばらく交流が続きました。
夏にはみゆの体調が悪くなってDORAおばさんは心配したけど、みゆ本猫は案外ケロッと外に遊びに行ったりしてたんだ。
もちろん、みゆとぼくはDORAおばさんの膝の争奪戦、茶々とみゆもDORAおばさんの隣の席の争奪戦をしていたんだよ。やっぱりDORAおばさんの傍は安心できるからね。
そんなこんなの家に、秋にはルナがやって来ました。
茶々のお墓
ここからは人間の視点から2004年暮れ以降を振り返って見ようと思う。
2004年12月27日、友人のOさんの仲介で我が家に蒼と茶々がやってきた。
外ネコの母さんがしっかりしつけたとはいえ、Mさんの弟さんの家でほとんどご飯を食べさせてもらっていたらしい半家猫、たやすく家になじむだろうと思っていたのだが、そこでの騒動は『蒼へ』で書いたのでここでは端折る。
ただ、人間と出くわさなければ、その日の夜には家の中を探検し、食事もトイレもできるようになった。茶々はビビリが顔に出る方で、初めの頃の写真は完全にビビっている。ようやく落ち着いてきたのは4月頃か。
そういえば県の農大校友会で農大のオホーツクキャンパスを訪ねたのはこの2月だった。また、新米の主任児童委員として月に1度の地区民児協の定例会、別に主任児童委員部会の定例会、さらに何かの会合の人数揃えのためのお誘いと珍しさもあって走り回っていた。はだかっ子の会も地区の民児委員さんが会長、相棒の主任児童委員さんもボランティアをしているという事で初めから誘われて加わった。年度末・年度初めは各学校の卒業式、入学式への列席、その後のPTA総会や学校との意見交換会などで夏休み前まで、月に1度位はどこかの学校に出かけていた。
TANUKIもまだ現役で仕事をしていたので、過剰に構う私もTANUKIも家に居ないことが多く、じいちゃん・ばあちゃんと先輩猫のクロンとみゆに見守られて茶々も蒼も家になじんでいった。
それでも4月頃には蒼が猫じゃらしで遊ぶようになり、茶々も隠れて見物している事もあったが、なかなか乗ってはこなかった。そして夏、人の出入りも多くなって、いつの間にか子猫たちもお外デビュー。2匹連れ立って、まだ外は警戒していつの間にか帰ってきていた。この夏の大イベントは日比の一族が我が家に結集、1泊していった。
秋には頼まれてだが物好きにも国税調査の調査員をやった。
子猫達も大きくなって、秋には大捕り物の末の去勢手術。それ以来、蒼にも茶々にもより警戒されてしまった。しかしその当時は猫は外遊びが普通。あまり心配もせずに外に出していた。蒼は外に出てもちゃんと帰って来るが、茶々は早い時期から家出常習犯。それでも近くに居るらしく、猫達が呼びに行くと顔を見せた。
当時の写真を見ると、茶々と蒼が一緒に居る写真はいくらでもあるが、クロンやみゆと一緒の写真はあまりない。それでもみゆは何となく子猫達の近くに居るのだが、クロンはばあちゃんの傍に逃れていたらしい。
翌2006年は公民館の引っ越しから始まったようだ。年末にはだかっ子の会の備品類などを整理して、要らないものを捨て、必要なものをまとめて誰かが預かってくれたのか、1月半ばには新しい公民館へ引っ越し作業。
茶々も蒼も寒くても外遊び、夜になっても帰って来ないことも度々あったようだ。こちらも忙しかったせいかおおらかに見過ごし。
春にはTOPPOさんのご両親が相次いで亡くなられ、お葬式と無人になってしまう実家への引っ越しの手伝い。その時には買ったばかりで使い方もよく分からないプリンターを酷使して、TOPPOさんのお母様が亡くなられる前から企画していた絵と俳句の作品の小冊子を急遽完成させたりもした。
TOPPOさんの引っ越しの手伝いで10日近くも家を空けたのに、すぐ後で懲りずに『俳句でおしゃべり』仲間だったよっ子さんの畑でのイチゴ摘みのお誘いにもしっかりとのっている。
さすがに猫達がじれたのか、しばらく止まっていた布団へのおしっこ攻撃が再発。蒼は(多分他の子達も)流しの下の物入れの戸を開けて、その隣側に置いていた餌のストック場所でカリカリの袋を破ってつまみ食い。
6月には父が市立病院で逆まつ毛の手術。入院こそなかったもののそれやこれやで1月かかった。
7月には越後湯沢で全国主任児童委員研修(東日本)。
夏休み、家に居れば茶々はパソコン仕事をする私の足元でチョロチョロと甘えに来ていたようだ。捕まえようとすれば逃げるのだが…。
外ネコの悠々が庭に登場したのはこの頃。家猫にはなり切らなかったが、家にも出入りをして餌も食べていた。
記録を見ていくと函南の叔母も瑞穂の叔父も何かと父の所へ来てくれている。ありがたい事だった。
みゆ 茶々 蒼 クロン
2007年は『俳句でおしゃべり』メンバーの猫自慢からスタート。ガス灯さんのノンちゃん、弓人さんのもじゃちゃんなどそれぞれの愛猫の写真が集まった。
蒼も茶々も家の人にも慣れ家の中全体で遊べるようになった。もちろん何かあれば見つからない押し入れなどに飛び込むのだが…。うっかりすると悠々の方が人懐こく上手に甘えるのだが、家猫になる気はないようで、(しばしばの怪我の様子などからも多分飼い猫ではないと思う)どこか外にねぐらがあるようだった。この子を抱くとどうもアレルギー鼻炎がひどくなるので、本来の棲家に何かアレルゲンがあったのかもしれない。
茶々は隙あらばキャンプ生活。どこでどうしているのかトンと分からないものの、玄関前あたりに餌を置けば食べに来ることもあり、毛艶も良さそうなので猫達を迎えに出すほかは静観。こちらは心配をしているのだが、それは全く伝わらない。家に戻ればばあちゃんの布団だけでなく、こちらに来ることもあったようだ。(覚えていない)
春休みにはふたたびTOPPOさん家の片付けの手伝い。亡くなられたお母様の大量の衣類の整理。何しろこれで2Fの2部屋が片付いた。「着れるものがあったら使って」と言われてずいぶんたくさん頂いてきた。
茶々のお腹の虫はこの春にも登場。なかなか虫下しも飲ませられなかったから、出たのを観察しただけだったか…。
暖かくなってからは私が寝る頃まで、玄関の戸も開け放し。猫達は暗くなっても喜んで出入りしていたけど、肝心の茶々はまず入ってはこなかった。この頃『農大リンク』を風さんから引き継いだので、それなりに手を入れたり挨拶を送ったりバタバタして、夜遅くまでパソコンに取り付いていた。
5月の連休明けには1人で新津の伯母の5年祭のため車を走らせる。帰りには母のリクエストで岩手の叔父と一緒に焼津へ。叔父さんにとってはとんだ遠回りだが。
大忙しのはずなのに、この5月もよっこさんのイチゴ畑にお呼ばれしたようだ。この時は行きに集合した喫茶店で石寒太先生にもお会いした。このすぐ後には中学時代の友達と鳴沢の道の駅に集まって富士五湖付近をドライブ。私もまだまだ若かった。
その頃は昼間は天気さえ良ければ父が物置の戸を開けておくことが多かったので、蒼はよく閉じ込められていたが、茶々も閉じ込められたことがあったようだ。外に出ても家の中に戻っても数日は大興奮をして、ばあちゃんの押し入れの奥に飛び込む茶々もしばらく家の中に居れば落ち着いて暮らすようになる。
6月にはお風呂場に羽虫が湧いて大騒動になった。
8月早々に高柳の叔母が亡くなり、お葬儀が終わってお盆も過ぎたころに今度は小土の叔父が亡くなった。そして、10月には田原本の伯父が亡くなった。
そしてこの秋にはマーミ宅が建て替え。大きな農家の作りは税金が持ちこたえられず、建物を壊し土地を整理してその1部に新しい家を建てる事になった。我が家のインターネットと電話が光に変わったのもこの年。
11月に農大OB会静岡県支部を上げて静岡市で『東京農大「食と農とみどり」の祭典』を行ったのもこの年だった。
寒くなる頃にじいちゃんが縁の下に作ってくれたスペースが茶々の家となっていた。家に入って来て落ち着くと蒼と一緒に炬燵の中。茶々も炬燵は気に入ったようだった。
暮れにはTOPPOさんと昼間の行灯さんと焼津で遊んだらしい。すっかり忘れていた。
2008年は波乱の幕開けだった。1/21に蒼がひかれて死んでしまった。家の東側の通りだったようだが、回収してくれていて、市の首輪のタグから市役所が連絡をくれて引き取りに行った。もちろん庭にお墓を作った。しばらく茶々が蒼を探していて可哀想だった。『魁掲示板』でつながった猫のクリちゃん(この子もトラネコ)からお悔やみをもらったという事はまだつながりがあったのだろうか。連れがなくなって茶々もようやく撫でろ以外の意思表示をするようになったのもこの頃だったかも。
じじ&ばばもさすがに体調が心配される年になり、父の足がだいぶ弱ってきたのもこの頃。母も体調の波がしばらくのハイの後、かなり長い充電期間が必要になってきた。
3月末から体調不良のクロンの通院が始まる。茶々と同様に腎機能が相当悪くなっていて輸液による治療。茶々と違って当初は毎日。しかも年度初め、時間調整が大変だった。連休頃には少し持ち直して、歯石も麻酔の要らない範囲でできるだけ取ってもらい、少しずつ食欲も出てきた。
この春には植木屋さんに入ってもらって、屋根に絡みついていた白藤を庭の真ん中に藤棚を作って移してもらった。
5月の連休明けにはクロンの注射が1日おきになったのにみゆが体調不良で獣医さん。どちらも高齢猫の部類だから仕方がなかったのだが。この頃まだ茶々もみゆも外遊びをしていたのでノミは必然。少しクロンの容態が安定したこの頃、何故か茶々がクロンに甘える事が多くなった。
6/22に岩手の叔父死去。翌日1日がかりで岩手まで車でお葬式に出かけた。帰りは日比の叔母を乗せてきた。
春のノミ騒動は夏にも続き、クロンの体調からあまり使いたくなかったのだが、ノミ取り薬登場。
外遊びに出ないと茶々は押し入れの奥におこもり。この時は体調が悪かったらしく数日間見つけられず、出てきたら縁側で粗相。かなり状況が悪そうでびっくりさせられたが、あまり痩せてはいなかったので無理には捕まえなかった。
そして8/7にクロンが死亡。猫の時間としてはずいぶん頑張った闘病生活だった。
11月末にしばらく体調不良だったTANUKIがダウン。お医者さんに診断書をもらってしばし休職。
12月に入ったとたんに港の伯父が死去。葬儀と法事の多い年だった。
悠々 蒼と茶々 茶々 クロンと茶々
2009年は前年を考えれば穏やかに始まった。昨年秋から休みを取っていたTANUKIは冬休み明けから出勤。まだ無理だろうとは思ったのだが、やはり無理で早々に4月までの休み延長の診断書をもらう。そちらは置いておいて、こちらは昨冬に亡くなった叔父の川柳の遺稿集『泡太郎笑話』を49日の法事に間に合わせようと 編集。だいぶガタのきたパソコンと格闘していた。
1月の末には茶々のお母さんののらこさんが死んでしまったという連絡。外ネコで過ごしていたが、獣医さんにも連れて行ってもらっていたそうだ。
包括支援センターに介護保険が使えるかどうかと相談をかけていた父が、2/3に食べる事が難しくなって入院。全体に衰弱気味なのだが、食べようという意思はあるらしいが喉を通らず、どこが悪いかはよく分からなかった。結局、3/20に亡くなった。
同じ頃、外ネコの悠々も大風邪を引いたらしく顔は見せたものの、食欲がなかった。それ以来姿を見ていない。
父のお葬式には確かに家に居た茶々(DORA姉さんのパジャマを借りたら茶々が寄ってきたと従妹が言っていたような…)が、気候が良くなってキャンプ生活。入学式に年度替わりの色々、港マラソンにOB会、それに加えて父が亡くなった後始末のお役所仕事やお支払いにバタバタで、茶々はその辺で元気なら宜しいというスタンスになっていた。1月近く庭や物置・車庫などで暮らしていた。帰って来れば気まぐれで私の布団にも潜り込んでくるし、ひと撫で程度のブラッシングもされるようになってきた。
ちょうどみゆが口の中の状態が悪化して獣医さん通いをしていた6/26にとら丸が我が家に登場。茶々もお兄ちゃんになった。初めはビックリして押し入れに立てこもった茶々もじきに慣れて面倒を見てくれるようになった。
8/11の早朝にドカンと突き上げるような地震。震度6だったらしい。民児協としては朝から安否確認やら被害調査やら。幸いこの地域では特に何もなかった。
国政の世界が民主党に政権交代をしたのが9月。期待ほどの成果は上がらなかったが…。
12月にとら丸にリードを付けて何度か庭に出したが、パニクッてしまって、それ以来とら丸は家の中専門になった。
この年の12月に藤守のお祖父さんが亡くなった。2009年も葬式に始まり葬式で終わった。
2010年春、たまたま藤守の父さんがとら丸を捕まえて外に連れ出したら、ビックリしたとら丸が逃げてしまった事があった。それ以来とら丸は藤守の父さんが苦手らしい。
3月には父の1年で偲ぶ会。ホテルで会食をした。日比の叔母や連島の叔父も来てくれたのだが、母はどうしてもホテルまで来なかった。
春には私のパソコンを新しくした。この頃は自分で設定をしていたので結構時間と手間をかけていた。結局途中でギブアップしてサポートをお願いしたらしい…。
6月にはみゆが体調不良。もう高齢なのでスープなど水分の多いものを食べさせて様子を見る。
そんな6月、民児協の他地域との交流で『学校との連携』というをテーマをもらって主任児童委員部会として発表をさせてもらった。
インターネットを始めた頃からお世話になった風さんが8月に死去、10月にはお別れ会があった。ホームページのサイトを引っ越したり、この年はホームページ上でも色々な事があった。
9月に築地の叔母が亡くなりお葬式。11月には我々の仲人をして下さった遠縁の伯父さんも亡くなられた。そして12月には築地の叔父が亡くなった。
2011年の冬は茶々の条虫騒動。検体の方を持って行って頭はないからキレ端だと言われ、虫下しを出してもらいしばらく茶々に飲ませようと駆け引きをしたのだが、何度か便とともに出たり吐いたりして、ともかくこれで条虫騒動は終わったので、退治したのだと思いたい。
こんな騒動の最中の2/11、世田谷で農大ローバークルー部50周年記念のOB会。私は14期、学生時代もずいぶんと遠くへ行ったものだ。
そして、3/11、東日本大震災。ちょうど古い建物の3Fで会議中でこちらでもかなり大きな揺れだった。その後も各地でかなりの地震が起こった。色々な行事が中止される中でやいづ港マラソンも中止、OB会も延期。しかし被災地には申し訳なかったが、日常生活は徐々に取り戻していった。5月には東京で大学の農学科同期会も行われた。その他にもこの頃、農大時代の友達と何度か集まって遊んでいる。
宮城県石巻市の猫島(田代島)が田代島にゃんこザ・プロジェクトで島の復興資金集めを始めたのは初夏の頃。もちろん1口加わって落ち着いたころに返礼の牡蠣が届いた。
そういえば、洗面台の前の廊下で蛇がとぐろを巻いているのを3匹で取り囲んでいたのはこの夏のこと。いまだにどこから入り込んだのかは不明のまま。
また、この頃から茶々の野外キャンプもとら丸の外嫌いが移ったのか無くなったようだ。
そして、10月末にはルナ登場。ルナはすんなりと3匹となじんだ。ただしとら丸に口内炎や耳ダニをうつしてくれたのは本当の話。とら丸は獣医通いをしたがルナは捕まらなかった。
2012年新年早々、獣医さんに援軍を頼んでルナを獣医さんへ。まずは耳ダニと喉の治療、さらに予防注射、2月早々に避妊手術と獣医さん通い。ルナの時に初めて保護猫の避妊手術という事で市の助成を申請した。
ルナが一段落した頃はみゆが体調不良。口の中が痛くて餌が食べられずに獣医さん通い。スープやマグロ・カツオ・ササミなど食べられそうなものを用意。残しても片付けてくれる口はいくつもあるが、猫のエンゲル系数は激上がり。
東日本大震災から1年過ぎたこの6月、地区民児協で石巻市へ視察に。日本の建造物は地震に強い、津波がさらった更地の先は一見何事もなく町が残っている。ただし、波に洗われた1Fはがらんどうのままという通りもあったが。
6月末に昨年暮れに倒れた義兄が亡くなった。
7月には浜松で全国主任児童委員研修会(東日本)。
母の寝ている布団が臭くてチェックをしたら、布団から畳までシロアリに食われていたのはこの夏の初めの騒ぎだったか。天気が良くなったら洗濯をすれば良いと思っていたのが大騒動になった。布団屋さんに布団の処分、畳屋さんに畳替えをお願いした。
10月には弱っていたみゆが死亡。
この頃にはルナも結構捕まってブラッシングされたり、とら丸と一緒に私の布団に入り込んで寝たりしていたようなのだが…。最近は全くダメ。そして、茶々もこの頃には私に付いてまわっていたようだ。それまでじいちゃんの方の炬燵があったのでそちらに居た茶々はそれが無くなって私達の方の炬燵に来るようになったが、TANUKIの来る気配を感じるとまだ逃げ出していたようだ。
キジトラの外ニャがしばらく餌をもらいにきたり、頭の良いカラスがゴミを道一杯に散らかしたり、家の猫が外に出ない余波が出たのはこの頃。
世田谷の伯母が亡くなったのが2013年の3月。伯母と言っても母の従兄の奥さんなのだが、父と伯父さんが仲良しで、家族でよく行き来していた。子供の頃よく遊んだまたいとこ達としばらくぶりで会った。
体調不良で仕事の合間はずっと医者通いだったTANUKIもこの3月末でようやく退職。
そして、この年辺りから茶々がルナにモーションをかけるようになっていた。ルナもまんざらでもないようで、2匹でくっ付いている事も多かった。
6月末には瑞穂の従弟の娘の結婚式で、マーミ(子供の頃たくさん遊んでもらったしとは招待者の弁)も一緒にはるばると埼玉まで。仏式の結婚式を初めて体験した。
7月早々には函南の叔母が亡くなった。
その7月で母は88歳の米寿。母の妹達がメッセージ集を作ってくれて母も大変喜んでいた。しかし、食欲も体調も安定しないまま。
実はこの夏は私も体調不良。今思えば咳喘息と慢性の蕁麻疹。どちらもストレスの影響が強いらしいので、ハードワークだったのだろう。そんな時に、はながやって来た。茶々は子守は面倒とばかりにばあちゃんの領土、一瞬面くらったルナも茶々の所に逃げていった。しかし、じきにルナとはなは遊び友達に、はなが起きているとドタバタと追いかけっこ。そのはなもこの頃はお腹の調子が悪くて、全猫分の虫下しを貰ったりしていた。
そして11月末で主任児童委員もようやく退任。送別会やら引継ぎやらで12月上旬まで何やらかやとあったが…。それに合わせて家のリフォームを考えていたので、ここから別の意味でのバタバタが始まった。クリスマスには1級建築士の従妹の旦那をアドバイザーに業者さんを決めた。
そして2014年は冬から春にかけて家のリフォーム。ほぼ父の部屋になっていた茶の間は畳から板の間に、シロアリ対策もあって台所や風呂トイレなどの水回りもきれいにした。猫達も工事で大きな音がしたり、あちこちが立ち入り禁止になったり、しばらくストレスがたまる日々だった。
その間、農大OB会として、2月には静岡県OG会立ち上げ、4月には焼津みなとマラソンに農大全学応援団が応援部のみだが来てくれ、志太常磐松会として対応に追われた。
勢いで車が今乗っているフィットに変わったのもこの春。
そして、ソファが気に入った茶々が私の隣に座って撫でろと言うようになったのも多分この頃。ただし6~7月は茶々がだいぶお腹を壊していたようだ。TANUKIは糖尿病の疑いで検査、私は腱鞘炎をひどくして医者通いと、みんな冬以来の疲れが出ていたようだ。
4月の港マラソンと6月の森町ドライブに登場したTOPPOさんが、夏は高校のハワイへの研修旅行の付き添いで珍しく来なかった年。
9月の末には御岳山が噴火。
11月にはTANUKIが脊椎管狭窄の手術をして2週間の入院。退院の頃には静岡の町のイルミネーションがきれいだった。TANUKIのお見舞いにTOPPOさんも登場。
縁側で ばあちゃんのベットの上のとら丸 はな&ルナ 茶々&はな
2015年はお葬式から。小土の叔母、農大時代の農学同期、組のご近所の方と1月だけでもお悔みが続いた。
ちょうど携帯からスマホへの切り替えをしたところで、2人して使いこなせずに右往左往していたのもこの頃。
2月には災害ボランティアコーディネーターの講習会。実は民児協に居た頃から誘われていたのだが忙しすぎて、一段落したところでようやく受講した。
3月早々にTANUKIは志太常磐松会のオホーツク旅行。TOPPOさんも一緒で当てにならない志太常磐松会のメンバーの旅の報告は彼女がしてくれた。第2回目の農大静岡OG会を清水の観光イチゴ農園のOBの畑で開いたのも同じ3月。校友会の活動支援金をもらう報告を出すまでに時間がなく、事務局はバタバタになった。
4月の焼津みなとマラソンには焼津市体協の招待で農大から応援団がフル(応援部・チアリーダー・吹奏楽部)で来てくれた。それに合わせて走る選手も大勢出してくれた。という分けでTOPPOさんも動員して志太常磐松会としてマラソン終了後の接待の対応。今回は人数が多いという事で、OB会メンバーの会社の会議室をお借りした。
冬からの忙しさに同情してくれたのか、ソファで茶々が甘えてくることが多くなった。
連休の頃からホームページの大幅リニューアルを計画。10年ぶり位だったろうか。
ところが5/19に母が体調を崩して入院。しばらく前から体調が心配だったのだが、どう説得して医者へ連れて行こうかと悩んでいたので、これ幸いと救急車をお願いした。
母の入院と前後して岡山の叔父と叔母、天王寺の叔母もそれぞれ体調不良で入院。そんな中、7/18には岡山の叔父が亡くなった。叔父のお葬式には行けなかったが、連島で行われた50日祭にはお参りに行った。
9月末に母は退院。ただしそのままショートスティへ。ようやく家にもどったのは10/2、週末だけ家で過ごして、月曜日からまたショートスティという日々が始まった。母が帰って来るのに合わせてケアマネージャーさんも来宅、情報交換とサポートをしてくれた。
11月には母が家に居る時に埼玉の従弟一家が初孫のお披露目に来た。
この頃、プロバイダーを変更。Yahoo!の無料サイトなどの閉鎖が迫っていた頃だったらしく、アルバムやブログをどうするかで悩んでいた頃だったらしい。
2016年のお正月、母はショートスティの施設で迎えた。「年末年始は何かと忙しいでしょうから」という ケアマネージャーさんの配慮。お陰様で大掃除・餅つき・年始回りと例年通りつつがなく済ませた。1月は比較的元気だった母は2月はやや食欲不振。ルナが突発性の膀胱炎をおこしたり、茶々が消化不良を起こしたり、細かな事は色々あったが、2月に農大校友会静岡県支部設立50周年記念総会。
3月には新津の伯父が亡くなった。お葬式は行けなかったが、4月の50日祭にはお参りをさせてもらった。
この春場所で農大OBの小柳(豊山)と近大OB石橋(朝乃山)が3段目付け出しでデビュー。
ついでながら、お彼岸のお参りがてら八王子の美術館に寄って2人揃ってインフルエンザでダウンしたのはこの時。
16年度からは母はショートスティとデイサービスをミックス。そうしないと年間利用量の容量を超えてしまうとの事だった。母が居たこともあって、この頃は猫達も季節ごとには捕まえて、しっかりブラッシング。もっともルナは大騒ぎで嫌がるし、茶々はブラシではだめで手櫛で梳いていたが…。しかし、父が居た頃は普通の人間ブラシで、茶々も蒼と一緒にブラッシングをしてもらっていたはずなのだが…。
家には隣のアパートの猫達(別々の家で飼われていたのだが)がしょっちゅう庭に遊びに来ていたようだ。さらに新しくした網戸がやわで、はなが破って何度も脱走をしていたらしい。茶々はこの頃には外出に飽きていたのか?
『ほぼ日』の『どこのこ』ができたのがこの頃、スマホを持ちだしてずいぶん経つが全く使いこなせず、アプリを入れるのに大苦戦した。
この時使っていたパソコンはどれだったか、夏には大分夏バテして誤作動を繰り返していたようだが…。あきらめてパソコンを新しくしたのは暮れのこと。
そして、8月、十勝の叔父が亡くなった。
9月半ばに母が食べられなくなって入院。
TANUKIは夏から企画していた中学?の同窓会が秋に開けたようだ。11月には尿道結石でひと騒動したが…。
11/8に母が死亡。しかし、後から日記を見るとものすごいハードワークだったと思えるのに、その時はさほど予定に穴をあける事もなくスルスルと動いていたのだから、自分も大したものだ。ずいぶん頻繁に温泉に行ったりもしているが。
年末年始は母の色々な用事で過ぎて行った。お役所巡りや部屋の片付け、納骨(八王子だけでなく、その後、連島にも分骨をしたので2回)もあったし、春まで大忙しだった。しかし、市役所への用事で三鷹の実家があったあたりにも行けたし、八王子の納骨の折には埼玉へ家を買って引っ越した後、訪ねていなかった叔父の所へも行くとができたし、連島で和賀家系の親戚とも会う事が出来た。
その一方、港マラソンに昨年の記念大会だけの予定だった農大全学応援団が来てくれることになり、OB会としての応対に大わらわになった。うれしい事なのだが、走る陸上部の方がもう少し頑張ってくれるともっと嬉しいのだが…。
5月には2人で連島へ母の納骨。6月には1人で天王寺の叔母のお見舞い、叔母も入退院を繰り返していた頃だが、この時は調子が良さそうだった。ちょうどハワイに住んでいる天王寺の長女も帰ってきていて、さらに、近所に住んでいる十勝の従妹や田原本の従妹とも会う事が出来た。
夏はまだ新しいパソコンが絶不調。それでもだましだまし使っていたが…。私の方も特定検診で引っかかって保健センターからお呼びがかかって9月から特定保健指導に通ったのがこの秋。真面目に通ったが、果たして効果があったのかどうか…。
9月には『俳句でおしゃべり』の鎌倉オフ会。
10月末には母の1周忌の偲ぶ会。岩手からいとこ達4姉弟が来てくれ、函南の3兄妹と岩手時代を懐かしんでいた。(割と近くに住んでいて共通の知り合いも居るようだった)
2017年は猫達にずいぶん留守番をさせたが、お利口さんでいてくれた。
2018年もお葬式から始まった。1月早々だけでもOB会の先輩方2名とご近所の遠縁の方。皆さん年配の方なので仕方がない事だが、寂しくなった。1月末にはOG会。この時は大学から先生に来て頂いて講演をお願いしたので、何かと気を使った。
年末の餅つきの時から「体調が悪い」と言っていた藤守の父さんとTANUKIは市立病院で遭遇。
ルナは歯がボロボロになって治療、茶々もひどく吐いたり、踏ん張りがきかなかったりと心配な状況。 それでも茶々は捕まらない…。
2月には藤守の次男坊の結婚式。その後すぐ、天王寺の叔母が亡くなってお葬式。
買ったばかりでよく分からないままハードワークで使っているパソコンには、早々にトラブルに振り回されていた。
春にはまたまたプロを頼んで庭の大改造。だいぶ弱っている木を間引いた。
4月早々に保福島の叔父が亡くなり葬儀。この年の志太常磐松会の懇親会も港マラソン後に選手・応援団を迎えて。その後、天王寺の叔母の50日祭。
茶々がしょっちゅう吐くので、さすがに金のだしカップなど柔らかいものを加えるようになった。
私がけやきの会のボランティアに加わったのはこの年から。こちらも知り合いから頼まれて、行ってみれば会員さんもボランティアさんも知り合いがいて(地域の活動なので当たり前と言えば当たり前だが)断りにくくなってそのままズルズルと…。
6月には白内障の手術のため、その前に浜松方面にTANUKIと何も用のない1泊ドライブ旅行。4匹ネコズのお留守番。
そんな私の目の不調中に茶々がお尻に噴火口を開けた。家の誰かとのケンカ傷だったのか、とげでも刺したのか、後ろ足の踏ん張りがきかなくなっていた原因はこれだったようだ。膿が抜けて楽になったようだったが、その後でまた細菌が入ったのか腫れたりして、心配だった。ルナはまた口の中の手入れ。
夏にはマーミ&ジュンちゃんの間に不穏な空気が漂っていたが、秋にはそれも一段落。世の中も地震やら台風やら災害の多い年だった。
以前のホームページサイトが立て続けにトラブルを起こして、今のホームページサイトに引っ越したのはこの秋。
2019年は平穏に開けた。この1月から私は体調管理を考えて体操教室に通うようになった。
そんな頃、ペタペタと傍に寄ってきても両手を出すと逃げ出していた茶々を抱え上げるチャンスがあった。あまりに軽くなっているのにびっくり。
2月末にはまた4匹猫に留守番を頼んで天王寺の叔母の1年祭。この時はTANUKIも同行。
4月にケーブルテレビやインターネットがコミュファから元の東海へ変更。
そして5月からは令和元年。スマホを買い替えたのもこの頃。最近はほとんど入ってくるメールを見るだけで、いまだに使い方はよく分かっていない。
6月には田原本の布教100年祭に2人で出かけた。猫達はまたお留守番。この帰りに手帳を落とし、京都の警察の落し物係さんから「見つかりましたけどどうしますか?」と連絡が来て、かなりの手数をかけて送り届けてもらった。その後、焼津VCの視察研修で中越地震の被災地へ。この年はここまであまり忙しすぎたため、7月の連島の祖父の50年祭は残念だったが欠席。
ヤフーブログが無くなってしまうので8月には『農大リンクニュース』の引っ越し。この手の引っ越しはだいぶ楽になった。
国学院久我山の野球部に従弟の子供が居て甲子園に出場、スポーツ観戦好きの我が家で大いに盛り上がった。
その8月末、TANUKIがダウン。初めは熱中症かと思ったのだが、救急車に来てもらう大騒動、一時はかなり具合が悪くて心配したが、10/29に無事に退院。その間に楽しみにしていた藤守の娘の結婚式は終わってしまった。9月後半は私も喘息がひどくなって、内科へ行く時間もなく猫達が看病してくれた。
11月にはT家の祖父の50年忌。TANUKIは病後の初遠出。
この頃から茶々の体調を考えてドライフードを高齢猫用に、ちゅ~るもおやつに常備。
2020年2月にコロナ騒動が始まった。そんな中、高齢だった日比の叔父が亡くなった。まだ大きな規制はなく、家族はお葬式に集まれたようだが、私はいまだお参りもできず気になっている。
その後、2月に予定していたOG会は出来たが、だんだんに人が集まる色々な行事は全国的にストップ。 世界的なパンデミックになり、東京オリンピックも延期。
それよりも私は自分のパソコンの不調に振り回されていたが…。結局、5月に先生に来てもらって初期化からやり直し。それでも大して動きは良くならなかったが…。
そして、ついに茶々がTANUKIの傍でも大丈夫になった。猫柄が丸くなったのか、ものに動じなくなったのか…。
5月末に連島の叔父が亡くなった。こちらもお葬式もその後のお参りもできないまま。
7月に多分茶々の初爪切り。本来自分で爪とぎをしてメンテナンスをしていたし、外遊びが好きだったから気にした事もなかったのだが、寄る年波で大人しくしている事が多くなって、爪が細くなって鞘も取れにくくなったようだ。
焼津VCのブログ管理を引き受けたのもこの年度から。ただし、自分が出ていないものについては会長が上げてくれるので気は楽だ。
お盆明けには藤守のおばあさんと、だいぶ前に倒れられた志太常磐松会の前会長が亡くなられた。
秋には茶々の傍ならルナも落ち着いてソファで撫でられるようになったようだ。茶々の人間ご飯チェックもこの頃から始まったらしい。もっとも体調はあまり良くなく、よく吐くので、ついにみゆ以来の介護用のドロドロご飯(高額!)も体調の悪い時に登場。乳酸菌入りのお腹の調子をよくするちゅ~る風おやつも時々全員に舐めさせた。
大相撲の正代関(農大OB)が優勝して大関昇進したのは9月場所後。
冬には毎朝我々が食べているプロテイン入りのヨーグルトに茶々が興味を持って、食べ終わった器をなめるようになった。
12月にはTANUKIが眼瞼下垂の手術。茶々のクシャミ鼻水が始まったのもこの頃。
暮れも押し詰まって高柳の長男(従弟)が急逝した。
2021年も高柳のお葬式から始まった。さらには志太常磐松会の会長の訃報。さらには『俳句でおしゃべり』の初めからのレギュラーメンバーのたまごさんも亡くなられた。この辺りから家族葬だからという事が多くなった。
さらにヤフーのアルバムが終了してしまい、フォト蔵に変更。しかし、いまだに使い勝手はいまいち。
茶々の体調は相変わらず。鼻水もひどいが、ちょっと食べると吐く方が心配で餌を色々と変えてみていたのだが…。
さらに、いよいよコロナ禍が県内にも影響を及ぼしてきた。農大でも校友会を通して学生へ食品や日用品の支援物資を集めた。
この4月からマーミの援軍をしに翌月のテニスコート取りの順番取りに月1回、体育館へ。
春はとら丸もお腹の不調。茶々と一緒に良く吐いていた。
炬燵が片付いた後、寒いと茶々も布団に寝に来ていたようだ。丸々肥えていたのが、ずいぶん細くなって、顔の大きさばかり目立つようになっていたし、寒さが堪えるようになったのだろう。
夏にはようやくコロナワクチンが打たれ始め、オリンピックも無観客で開催。しかし、コロナの感染者は人の出入りに比例して増えて行った。茶々の体調は良かったり悪かったり、連動してとら丸が吐いたり、ルナが毛玉を吐いたり。この頃から茶々が物おじしなくなり、人が来ると出てくるようになった。だけど動かないので爪が伸びすぎて肉球に突き刺さっているのを発見、猫用の爪切りでは上手くいかず、人間用の爪切りで刺さっている爪を切った。そして、顔は洗うが胴体は毛が絡まってダマになっているのをノミ取り櫛で梳いてやったりもできるようになった。
10月にTANUKIが日赤でやり直しの眼瞼下垂手術。
11月には茶々を見にOさんとMさんが来てくれた。前回は後ろ姿を見せただけだった茶々、今回は食卓で何か貰おうとウロウロしたり、Mさんにゆっくり撫でてもらったりができた。
クリスマスには2年ぶりでTOPPOさんも登場。多分初めて茶々が側によっておもてなし。
年明けから体調が悪くて、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸といつ蒼が迎えに来るかと心配だった茶々も無事に新しい年を迎えた。
2022年はみんな無事に年を越したことにまず感謝。はなもルナも風邪ひき、他にもよく吐く猫が居て、毎日汚れものの大洗濯だったが。ついでに私のパソコンも故障だらけ。早々にトンガで海底火山の爆発とかで焼津にも津波警報が出て騒がしかった。
2月に遠縁のお兄さんが亡くなられてお悔み。コロナ禍なのでお通夜のお焼香だけ。そう年齢差は無いと思っていたのだが、一回り年上だそうだ。
また、ウクライナにロシアが攻め込んだ。
3月末に仏間の前の縁側のリフォーム。床板がブカブカしていたのだが、父がやっていたように上から別の床板を張る事になった。物をどかせば半日仕事。
LINEをしようなどとソフトを入れたのは4月、とりあえず市のお知らせが入るようになった。この4月には2人揃ってパソコンがダメになりそれぞれ購入。
とら丸が追いかけっこをしようと誘ってくるようになったのはこの頃だったか、茶々に手がかかって、あまりかまってやれなくて寂しいのかもしれない。
気候の良い時に茶々にリードを付けて庭の散歩。出てしばらく警戒した後は、昔のように背をかがめて早足で動いていく。
『俳句でおしゃべり』のレギュラーメンバーでLINEを使ってリモート句会。1度やっただけでその後こちらから積極的にLINEを使う機会もないままになっている。
7月には安倍元総理の射殺事件。世の中がだんだんきな臭くなってきた。
こんどは『俳句でおしゃべり』を置いていたteacapの掲示板が終了になるので引っ越し。
夏にはまたコロナ感染者が激増して色々な行事がお休みに。
8月、とら丸の予防注射に行って、茶々の真っ黒になった耳の中を診てもらう段取り。翌日連れて行った。簡単に捕まるようになったしケージにも素直に入るのだが、思いっきりビビッて吐くは漏らすはで大騒動。耳はきれいに耳掃除をしてもらって本猫もさっぱりとしたようだった。
9月にはイギリスのエリザベス女王が崩御した。
耳掃除以来、茶々の調子もまあまあ、1日パウチ2袋+15歳以上高齢猫用のカリカリ少々、ちゅ~るを他の子に少し分けながら1~2本。元気よくご飯の催促もする。吐くし、鼻水やら涎やらで毛皮もベトベト。ただ、ノミ取り櫛で梳いたりブラッシングをしても、すたこらと逃げ出さなくなった。
しかし、10月末には茶々がまた食事がうまく食べられなくなった。前回の経験があるので獣医さんへ。年も年なので静かに見守りたいところだが、本猫が生きる気満々なら、手を貸してやりたい。抗生物質の目薬で鼻水は劇的に改善。輸液のおかげで食べられるようになった。
クリスマス前にまた茶々が食べられなくなったが、ステロイドの痛み止めで小康状態に。とりあえずトロトロの介護食やレンチンしたパウチを少量食べられるようになった。ちょうど来ていたTOPPOさんに見守られて食事。今までほとんど食事時に他人が居ると隠れてしまってうのでTOPPOさんも茶々の食事時には気を利かせて姿を見せなかったのだが。
2023年は岩手の叔母さんの訃報から始まった。年末の12/26に亡くなられたそうだ。
しかし、茶々も元気に年を越した。カリカリを入れると具合が悪くなる茶々はパウチを少しずつだが1日に3つも食べた。6日には獣医さんで輸液。体重は減っていたが、毛艶も悪くはなかった。しかし、その翌日、朝から普通に過ごしていた茶々は夕食後、人間の夕食にも参加して豚肉を食べて満足して顔を洗っている内に一瞬の痙攣の後、蒼の所へ逝ってしまった。
TOPPOさんが撮ってくれた茶々
2015年暮